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六曜社珈琲店-セカンドライン-

カテゴリ: 思考

夏の暑さが見え隠れしながら、梅雨入りもして、いよいよ蒸し暑さがまとわりつく時期が訪れようとしています。

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何だか自身の周りでいろんな事が起きていて、それに対応したり追われていたり、少々弱音を吐きたくなる自分がいるのですが…。


こんな時こそ、謙虚に、感謝を忘れず、言い訳をしないこと。

誰かのせいにしないこと、相手を想うこと。

不安や問題といった重荷に感じてしまうモノコトを背負うのではなく、抱えて大事に運ぶ感じ。

そうすれば、自ずと解決への道が切り開けると思っています。

そしたら挑む気持ちも出てくるし、新たな視野も生まれて広がって、また違う境地に立てると信じている…。


世界や世の中に視野を広げてみれば、自分だけが大変な思いをしているわけじゃないことに気付く。
もっと言えば、身のまわりに目を向けてみるだけでも、もっと頑張っている人はいるのかもしれない。
そうすると、自分だけが苦しいんじゃないと、少し気持ちも軽くなる。

そう、こんな時ばかりは、助けよりも共感がほしいのかもしれない…。

そしたら、そして諦めなければ、一日は24時間あるというゆとりを感じる。
そして、日はまた昇り明日が来てくれる喜びを知る。
そうすると、以外と早くモノコトは晴れやかになったり、気付いたら解決に向いたり、したりする。


付き合いたくない梅雨の時期も終わりは来る。
そしたらまた次の季節はやってくる。
それと同じように、自身にもまた次の楽しみが生まれてくると思う。

今みたいな時こそ、乗り越えようと強い気持ちを持つならば、そこには何より優しさを持つ必要がある。

鬱陶しく感じてしまう雨にさえ、傘を差す人達を見て、恵みの雨に花が咲いていると感じれば、それにさえ笑顔も溢れるのである。

そうすれば、何事も嫌にはならない…。

それでも、身体だけは資本。
それだけは自身で守らないといけない。
ただ、無理をすることも人によって価値は違う。
そこも重要。

「定年を迎えて故郷に帰ることになったので…。」

今まで、特に言葉を交わしたことのないスーツ姿が素敵なおじさまが、帰り際に声をかけて下さった。

「いつも美味しいコーヒーをありがとうございました。」

店主とはいえ、若輩者の私にさえ敬語で投げかけてくれた感謝に、ハッと驚かされた。

家族も京都に居られたのか、単身赴任だったのかの素性も分からない。
ただ、砂糖は1つ。お菓子を頼まれる時は日替わりのパウンドケーキをいつも選択されていた。
そんな好みしか知ることの出来なかったお客様との時間、そして月日の連続は、僕からすれば唐突に幕が切れた。

扉に向かい背中を向けられる前に「今までお疲れ様でした。」そして「また京都にお越しの際は是非お待ちしております。」そう繋ぎ合わせることしか出来ない別れに、最後は微笑んでうなずいて下さった後姿…。
自動扉が閉まってお互いの居場所が変わったと同時に、こちらもまた感謝することしか出来ない感情が込み上げるのでした。

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常日頃、扉の向こうには無数のお客様となるかもしれない人々が行き交う。
その中で言えば、店内に訪れて下さる方というのはごくわずかだ。
だからこそその視点で言えば、そんなお客様を大切に繋ぎ続け、そこから広がる“和”を大事にしないといけない。

六曜社に携わり、10年が過ぎた。
図らずとも、その時間の蓄積はお客様との関係も結ぶ。

今の六曜社は、今までお越し下さっていた年配のお客様も、年齢や体調には勝てず、遠のいてしまった方々も多い。
それと同時にお客様の世代交代も、お陰様もあって継がれていると実感している。

カフェブームやチェーン店、そしてセルフサービスがもたらした店内の時間軸や価値は、確実にそれらによって変わった。
しかし、一昔前とされる喫茶文化のように、この六曜社では、若者でさえ“待ち合わせ”や“暇つぶし”そして“一人時間”や“誰かとの時間”と「人」や「ハコ」を共にする価値と、デジタルに頼らない「アナログ」の重要性を醍醐味に感じて下さる方が多い。

あそこに行けば誰かに会える。
あそこに行けば見知らぬ人と何かを共有出来る。

そんな安心感や共通認識が、1つの店の中で“色”を放たせてもらっているように感じる。

誰かの人となりや、見知らぬ人の素性なんて知るよしもれないけれど“人”や“相手”を想う仲間意識が、老若男女問わずこの六曜社という空間には存在すると思っている。

私達は、そんな時間を崩さないように見守るだけ、そんな空間を紡ぐために作り上げていくだけ。

だからこその信用と信頼関係が生まれ、それがあるからこその人間模様が生まれるのだと思う。

誰かの生活の一部の時間、人生で言えばその人の一瞬でしかない一時が入り混じり交差する「場所」

それだから、知らぬ間に見なくなる人もいれば、知らぬ間に常連になっている方もいる。

そんな連続と月日の経過。
そして、その年月の積み重ねから誰かにとっては思い出になっている。

正直、全てのお客様と関係性を構築することは出来ない。
でも、そんな現実があるからこそ、言葉を交わしたり関係性が築けた時の喜びは大きい。
そしてそんな毎日が続いていくから、店側にもお客様にも、映画やドラマのような感情を揺さぶられる光景や日常も生まれていくのだと思う。

何より、それが“ノンフィクション”だからこそ、或いはかけがえのない“リアル”だからこそ刺激的なんだと思う。

喫茶店とは、六曜社とはそういう存在であるべきだと歩み続けたい。

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昨日から雨が降り、ゴールデンウィークスタートだとされる土日は少しどんよりしていた。

今朝も雨降りは続いていたが、何だか雲の向こうからは光が差してくるようで明るく、日中に向けて天候も良くなりそうで気分も少し上向いてきた。
そしてなぜか頭の中にはPUSHIMのa song dedicatedが流れだしていて、そんな中この投稿に手を伸ばしてみるのである。

そう、日本は5/8(月)からコロナウイルスの分類を第5類へと移行する事を正式に決定したからだ。

ただ勿論無くなった訳ではないし、その感染症を楽観視して良い訳でもない。

だけど…、長かった…。
そしてそう思う事が出来ている今と自分は、何だか本当の笑顔を取り戻してきているのかもしれない。

何故かといえば、それはずっとどこか悔しさがあったからだ。
店を何とか維持して、続けることが出来ている事には誇りは持てても、漠然としていて満足は出来ていなかったように思う。

それは僕が六曜社の1階店で大事にしたかったモノコトを省かずにはいられない日々になったからだろう。


コロナの流行が始まりだし、日本も時短要請などの制限を設けだした当初は、それらを受け止めずに、それが店やお客様のタメだと思って一人通常営業を続けた。
それでも猛威は止まらず、感染者が増え続ける波を繰り返すと同時に、私も様々な意味での維持と理解のために、行政の指示や要請にやむなく従い、そして何より協力金という救済策である資金の確保のタメに従う事を決めた…。

それは確実に正しい選択だったと思っている。
微々たる功績かもしれないけれど、それが従業員も守り、そんな飲食店の行動が集まっていく事で人々の不安を少しでも拭っていくタメには必要だったという事を今でも自信を持って言えるし、そんな団結の連続で世の中が明けていくことを信じるしか術がなかったのも事実。
だけどそんな日々の帰り道、それでも営業しているお店を見て、そんな店内に広がる光景を横切る中で、何だか負けたような、羨ましかったような感情や感覚を抱いていた事を情けないが確かに覚えている。

何故かと言えば、それは何よりも、六曜社がずっと築き上げてきた「相席文化」を一旦止める事しか出来ず、あの賑やかで華やいだ時間とはまた違う、ある意味本来の姿ではない場所を守ろうとしていたからなのだろう…。


私は普段カウンターの中に立つと、背筋が伸びる思いを感じている。
それは家族が築いた六曜社という歴史と、70年以上の皆様の思い出を大切にするため、そして一番は、今そこに訪れているお客様の人生の中で考えればほんの一瞬かもしれないヒトトキが交差する空間を、素敵なものに繋げるために保とうと心掛けているからである。

暇つぶし、待ち合わせ、本を読み音楽を聴き、人と話して時を過ごす。
六曜社という場所には、一つの空間にいろんな時間軸が混じり合っていて、それらを共有しながら、コーヒーを傍らに皆が共存している。
一つ前の時代は、政治的な要素を加えながら、右やら左やらの思想や個人の主張が入り交じり、少々刺激的な論争さえ繰り広げられていたけれど、個人の時間にも目を向けられるようになった現代は、そんな個々の尊重を加えながら今も若者によって、一堂を会する光景が保たれている。

私が眺める景色からは、客観的に見ても、この場所には肌感や質感といった直接触れ合う事や体験することへの価値を分かり合っている方々で形成されているのだと感謝している。
そしてそんな連続で、勿論年配の方を含めた老若男女問わない間柄が今日もテーブルやコーヒーを介して自身の居場所として居心地を求めて足を向けて下さっているのだと信じている。

ここ数年のそれらが省かれた月日が何も悪かったとは思わない。
そこから得た価値観や、それから経た経験があり、それらを蓄えてもなお、やはり揺るがなかったこのスタイルに対して、私はこれからも時代を紡いでいきたい…。

学問においては正解が問われますが、人生においては正解は無く、自分の中での答えに導き出すかの連続です。
そしてその答えにさえ誰からも回答は無く、他の人の人生は参考書にはなるかもしれませんが、やはり何よりも自分で築く方程式が掛け替えのない鍵で、その答え合わせはきっと人生の最期にでしか気付けないのでしょう…。
要するに正しい選択が出来ていくかが重要で、道をもし外したり外れたりしたとしても、それが目指す先に前を向いて進んでいれば遠回りとして、栄光に近道はなしになるのです。


さぁ、六曜社はここから、相席の制限を緩めて本来の姿を取り戻していきます。
そして賛否両論、新しい時代にそぐうかは未知数ですが、取り返す事の出来ない日々を、あんな日やこんな事があったと笑える昨今に出来るように、これからも時を重ね続けていきたいと思います。

同じくして、地下店のような個人の時間や一つのテーブルというセカイを大事にする“オアシス”と、1階店という一つのハコを共にする“サロン”としての役割を担いながら、それぞれの意義や意味がお客様にとってこれからも時代に関係なく求められ輝いていけるように、様々な人達の日常に寄り添っていければ本望です。


『君一人 この僕は 安らぎさえも 手渡せないかもしれないけど 力の限り この場所で コーヒーを淹れ続け 君に届け』

そこで過ごした時間で、微笑みを持ち帰ってもらって、それらがその人を介して、何処か風にのって、皆を笑顔に結び付けてくれると願っています。

奥野 薫平

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10月の下旬、京都は一足早く飲食店や様々な施設・会場への制限や要請を解除し、緩和へと向かいました。
11月に入れば全国的にも動向は緩み始め、人々は不自由から自由を取り戻したかのように、警戒は必要あれど、鳥籠から解き放たれ自由を空へと羽ばたかせるように、自らの足で思い思いの感情の中、何処かへと向かう喜びを感じているように思いました。

振り返れば約二年、私達は本当にコロナウィルスに振り回されてきたのだと思います。
そして、今回は少しばかり変化のある波の傾向に、まだまだ気は緩めきれずも、小さな感染状況の数値には安堵している方々も多い事でしょう。
そして、この二年間で抱いた顧みるという足跡を経験という財産にして次への時代、月日へと結び付けていくのだと思います。

また財産と言えど、経済の影響や資本力といった財政面では、区切りを付けた経営陣も少なくないのが事実。
そして、意欲や活力という姿勢を行動に移せずその道のりを絶たれてしまった人達も存在するのが今の現状です。

給付金や補助金等、対策や政策における実行がスムーズに成されていればという観点も無くはないですが、それでも振り返ってみれば、予期せぬ事態に様々な援助を、国や地方自治体は掲げてくれていたのかもしれません。
こんな事が起きなければと悔やみ切れない現実も、起きなかった今はもう戻りません。
それならば、こんな事が起きたからこその今を取り返していくしかないのです。

計り知れないほどの影響を受けたこの喫茶飲食のセカイ、これから続く未来は何処に向かうのか?なんて思いつつも、先日京都の夜の街を歩いてみるだけで、希望を抱いたのも事実です。
様々な価値観が生まれ、また変化したこの二年間でも、何よりも人々はまだ以前や従来といった日常を求めているんだな、と。

それでも世間の足並みは携わる場所や過ごす価値観によって未だ揃っている訳ではありません。
我慢を解消する人、まだ我慢をする人、ワクチン接種への行動や抵抗。
街を歩くたくさんの人を眺めて見ても、その人混みの中の一人一人に目を向けて見れば、この光景への感情はそれぞれ様々な事でしょう。

だけど森を見て木を見ず、木を見て森を見ずではありませんが、森の景色は変わってきているのだと思います。

晴れだした世の中に、兆しが見えた光に向かうごとく、老若男女様々な人々の笑顔が未だマスク越しの表情から笑顔を覗かせます。
そして何より国民性におけるこのマスク着用や、手洗いうがいといった生活習慣こそが、医療機関の奮闘やワクチン接種の動向と共に今の日本のコロナウィルス感染拡大防止の大きな歯止めを作り上げているのではないでしょうか。

12月、京都はさらに活気を取り戻しているように感じます。
それと同時に皆様の瞳の奥の輝きも変わってきているように見受けます。

しかしながら国や地方自治体、そして医療関係の方々はそれを野放しにしている訳ではありません。
社会や経済といった止め続けてはいけないモノコトを動かしながら、見守りながら、第6波は来るものと想定して、準備や体制を整えているそうです。
今はそれぞれ国民の気持ちに寄り添い、閉ざされた壁があった扉を開け、通りたい人が通れる道を作り出してもらっているのだと思います。
何よりも重要なのはこの局面に置いても収束や終息へ向かうことなのだと思います。

もう一昔前と感じるような明けない夜はない毎日の繰り返しに、また朝が来た、今日も悲しい苦しい一日が始まるのかという感情を抱いた飲食店の皆様も多いと思います。
それでも広がる空席の店内に一組やお一人のお客様が来店して頂いてるだけで、私達の価値を見出し、この先の未来へ向かい続けた人がほとんどだと思います。

来年に向けて、これがコロナウィルスと向き合う最終局面になってほしい。
そして現状の2類からインフルエンザのような5類感染症と位置付く認識に分類されるよう願いたい。

今まで閉ざされていた夜への扉も開きだしました。
これで全ての時間がまた動き出したのだと思います。

繰り返していたのではなく積み重ねていた今までの我慢や辛抱、そしてそれぞれの理解や努力の痕跡が今日に結び付いているのならば、これからも今を大事にして、さらに将来を大切にしていける未来を皆様と共に作り上げていきたいものです。

まずは国民の中で、国内の中で、それぞれの地方の町や街に人の波が向かえばと強く思いますし、この二年間があったからこそ感じる日常という中で拾い集める事の出来る身近な幸せの数々を噛み締め握りしめていける明日へと繋いでいけたらなと思います。

京都の商いにまた「おこしやす」から「おおきに」に繋げる“おもてなし”が広がる事を願って。

そして皆さんの素顔から伺える笑顔に出会える日に向かって。

10月に入り、朝晩は涼しく、そしてまた日の出日の入りの時間も変わり始め、日中は夏のような暑さと季節の移り変わりなのかなんなのかよ~分からん時期を過ごしている今日この頃です。

とにもかくにも世の中や、そして日本はコロナウィルスからなる制限の緩和に向けての視野に比重が傾いてきました。

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通勤途中に自転車を走らせ、焙煎に向かう町並みには修学旅行生だろう学生達がマスク越しの笑顔を覗かせ楽しい表情を見せています。
そして帰宅途中の街並み、いや鴨川には路上飲みを楽しむ若者の姿。
加えて高揚した気分と身を持ち帰りながら家路を辿る人達の姿も伺えます。

社会人は別として、そんな若い世代の人達の姿をみると「確かにそりゃそうなるよな」という共感というか同情に似た感情は抱かないでもないですが、そこら辺にはやはり若い世代の人達の配慮も今後さらに必要とされ、それが無いと理解しあえる世代構想は生まれないのかもしれません。

しかしながら、学生という諸君に、または時間に焦点を当てれば、やり直しがきく事の多い社会生活と違い、学生生活というのは期限というか限りがあり、やり直す期間、取り戻す時間というのも限られているのが現実で、そこで過ごす日常には奪われてはいけないものもあるように感じます。

この二年間で、修学旅行や入学や卒業式、そして季節に欠かせない思い出となる催しや式典が削られた学生や新社会人の方々に目を向ければ、感情移入せずにはいられないし、今後の緩和に向けても、将来のタメに特に学生達への経験の配慮は施してほしいと個人的には強く思っています。

その他にも、やはり奪われるべきでないモノコトはたくさん存在するとは思いますし、それらを含めバランスを取っていくのは非常に難しい事態だとは思いますので、今回はそういったモノコトに向けるワクチンパスポートや感染に関する検査証明などの政策や対策などへの持論はひとまず置いといて(というかそんな立場でもない…)世間の風景を眺めながら感じたモノコトを記せたらと思います。


現状コロナウィルスの勢力が弱まり始め感染力を失ってきているのか、第六波への懸念が今も拭えないのかは時が過ぎていかないと分かりません。
季節的なものもあるだろうし、ワクチン接種の広がりもまた同時に判断材料になっていくのは確かだと思いますが、変異種にも視野を向けないといけないし、私達飲食店には未だ取り返せなくても、取り戻せぬ状況が続いています。

学生のように限られた時間ではなく、今後この非常事態において、どのようにこれまでや今までを取り戻していけるのかという無期限な将来構想ではありますが、本来の姿ではないこの状況に憤りを感じながら我慢をして、今を懸命に進んでいる人がほとんどなのだと思います。

守るべきものを守り歩んでいる人、また試行錯誤して発展を遂げながら進んでいる人も様々な飲食店。

さらには見切りや区切りを付けた人…など選択肢は様々ですが、一生懸命な方々がほとんどなのだと思います。

そして本来や将来像を保つには「こんなことではなかった」「こんなはずではなかった」という予想も付かない現実を目の当たりにして、光を見出す事に必死な人達は生活においても計り知れない数なのでしょう。

商いとして社会に属している以上、今後は資本主義なる“資金”について安泰という重きはより変わっていくのでしょう。
でも国民として民主主義における一人の人間の“価値”とは相反してきて、貧困の差に加えて、今後は価値観の差がより明白になり、国民一人一人の生活スタイルもがらりと認識の違いや格差や差別が生まれそうで怖いです…。

入り乱れたり、混合していきそうなこれからの世の中で、一人一人の価値や価値観が共有や共存していくタメには今後本当にどのように一人一人が“今”や“先”に希望を持つかが大切だと思うし、時事的に言えばワクチン論争含め、政治の在り方や有り様についても、今まさに選挙によるターニングポイントとなる投票さえ重要でもあります。

何よりも業種問わず様々な枠組みで若い世代の方々が真剣に何を志すかが求められる世の中になっているし、その若い世代に向けて、後世を残す世代もまた何をしていくかが非常に大事な局面なのだと感じています。

私個人的には今の状況に置かれて『財産』というものにはやはり資金力という価値がある事は拭えないけど、稼ぐ事以上の人生という価値が存在するなと強く思ったし、その天秤をかけられた時にやはり“経験”というものはかけがえのない、何ものにも代え難いプライスレスな価値観として、目指したいものに向かい諦めず続ける中で出していく選択肢を、その人にしか得る事の出来ない素晴らしい資本なんだと思うし、はたまた体が資本の中それを培う月日や時間が一番重みがあり、それらで傾ける力を養っていく世の中が広がれば嬉しいなぁなんて思うのでした。

攻撃の対象の話しではなく、何に矢の先を向け狙いを定める事が出来るのか、何の矢に射止められ胸を熱くする事が出来るのか、そういった橋渡しにしっかりと矛先を向けていろんな人が理解しあい、幸せを分かち合うことの出来る時代に向かっていってほしいです。

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夜更けの早さに気づきだし

朝の訪れの穏やかさに一日が短く感じるようになる

そんな秋の始まり

人は皆少し寂しさや黄昏といった不安に似た感情を抱いたりしないでしょうか?

そんな時

上着を羽織って包まれる暖かさだけで何か優しさに包まれたような…

電車やバスに本屋や飲食店と生活の道のりで足を止めてみる場所の温かさだけで気持ちが和むような…


そんなこの時期の喫茶店には一人のお客様も多い


社会や生活は今何処に向かっているのでしょうか?
きっと今も尚コロナ禍において目指す矛先は様々なことでしょう

回復や進歩を目指して前に進んでいる人

維持や後退しないことを目論み我慢をしている人

静観といったような様子を伺っている人などなど

人々の見解においても行動においても千差万別
だけどその軸に今あるのは“従来”といったところでしょうか?


こんなはずじゃなかった… 本当なら…

きっと今年は様々な人がいろんなモノコトを奪われたはず

そして無情(無常)や非情(非常)といった局面に立ち
その行く末が思うようにいったり思いもよらぬ方に向かったりとその結末や途中経過も様々

以前までは当たり前だったことがそうじゃなくなり
新たな価値観が芽生えていたり生まれていたり…

だけど今は本来あるべき姿ではないんだと訴えてみたりもがいてみたり…

ここから顧みる(省みる)ことって何なんでしょうね?


また主権はすぐ代わるんだろうけど
政治は今は菅さんでいろんな意味で無難かもしれないし
少しは国民の声が届いたりはする人なのかな?

でも今は様々な角度で見ても荒れ動く時じゃないし
着々と進むべき段階というか一歩一歩階段を上る時期だと思うと丁度良い


政治だけじゃなく自分達が生きていく道のりを考えるすべを立ち止まるべきなのは今に始まったことじゃない

僕がつとめる喫茶の話しの観点からすればいかにも…


いつからか経済が崩れ(バブルが弾け)社会はシャープさやコンパクトさといった利便性を求めた

それでも逆風にさらされ時間に追われる世の中の“食”も早い安い旨いが主導を握り向き合う時間の使い方が変わった

というより大事にすべき時間を省きだした

資本で溢れたチェーンやフランチャイズが数を増やし
誰でも何処でも同じものを身近に共有することの無個性が当たり前になった

外資も蔓延りカフェで言えばスタバが日本に来てまだ30年も経ちやしないのにそのコーヒーを取り巻く環境は発展と共に介す時間の意味が以前とはき違われ自由の意味が激変した

便利な世の中…か…

食券で物事を動かせばセルフでお客様に委ねる
テイクアウトでさようなら


そんな「商品」や「お金」といった文字が見え隠れする形態に“人肌”や“人間味”は奪われた気がする

「真心」や「丹精」を込めた時間をかけるものに皆は意味を問わなくなり“無感情”になってきたようにも思う

そんなお店の『いらっしゃいませ』や『ありがとうございます』の間の時間には何が生まれているかといえばほとんどが消化といった使い方ではないでしょうか?
もっと言えばそのいらっしゃいませやありがとうございますの声を感じますか?

決してそれが悪いわけではない
肯定はしていないけど否定もしない
僕だって日常の中で正直お世話になっている

だけどそれが当たり前になり時間の使い方や過ごす意味に
忘れてはいけないことがあるというのが本音


先日長く続いている個人店を題材に卒論を書いている大学生が六曜社のことを何も知らず来店し尋ねてくれました

その中の質問の一つ
『大きなチェーン店やファミレスなどの大塔で個人店が傾いていったと思うのですが、そこに憤りなどはありませんか?』

答え
『僕は正直その傾き始めた時間にいた訳ではないですが、傾いた後の中心の時間にはいると思います。そこで思うのは個性がなかなか尊重されなくなったこと。ある意味今は生活のタメの仕事をしている人、または仕事選びをしている人が多いと思うけど、昔は人生かけて生きるために仕事をしている人が多かったし、その賭けをする人も多かった。その分だからどれだけ長続きするかも重要だったように思います。』
補足して
『だけどそれは続けていく側の実力でもあるし、きっと最後まで完全燃焼と悔いを残している人は少ないんではないでしょうか?また、本当にそれは社会や経済に生活を含め時代によって様々だと思うので受け止めながら生き延びていくかも考えないといけない。だから僕は続けないといけないと思っているんじゃなくて、続けたいと思って守っているし、それは自発的で堅苦しいわけじゃないし、後継者問題も取りだたされてはいるけど、その店の主は自分の時間は全うしてはいるけれど、その後も続いてくれと思っているかと言えば、少なからず僕はそれは自分の背中を見て感じる人の志が全てであって、決して続かなくてはいけないと思ってる人は少ないと思うし、僕も続けろ!と言われたことはないですよ。』
と応じました。


“本来”いや“従来”を

このコロナ禍が起きなくても考えさせられることが多かったこの喫茶という存在価値

それは同時に今のカフェと呼ばれる場所でもこの先に問われるものは多いと思います

だけど僕が身を置く喫茶なら
昔は未成年で煙草を吸っても怒られず注意はされれど社会勉強としての暗黙の了解みたいなものがあった

マスターやお客さんにウエイトレスとお客さんといった店側と客側の立ち位置がしっかりとした交流があり

知った人や見知らぬ人との論争で持論を構築させていく強さを持てた

店は生き様と個性を光らせ
オリジナルなカラーを放つこともお客様を出迎える上で重要な選択肢にもなっていたし
そこには何よりマナーがあった


今はルールに縛られそれを外れれば叩く人も多い
誹謗中傷など誰も知らない人に何も知らない言葉を文字で浴びせられる

規制みたいなものは必要だと思う
だけど緩和を交えることが何よりも人間らしく保っていける理性じゃないんでしょうか?
真似事だけじゃない独自性にも向き合いたい

何より“めりはり”や“強弱”があっていいと思う


人間は働かなくていい何もしなくていいとラクを覚えることが少しばかり尊重されてきています
テクノロジーの進化に人間が人間らしくならずロボットに支配されていいのかと思います

少なからず苦楽や喜怒哀楽
様々な感情や経験を持つことの人間らしさに価値を置きたい
強く生きていたい

ネットワークというツールではなく
見えない糸や心と心のコミュニケーションといった少々キザなもので繫がっていたい


今の六曜社の店内は
勿論この店だけではないと思うけど

おそらく人と人とが直に向き合うことの重要性
混じり合うことの必要性を感じさせるそんな時間が続いている

少し前
本当に一日にご来店いただくお客様が少なかった時間にも感じたお客様とのある意味密な時間も今は尊い

本当なら六曜社らしい相席文化だってすぐにでも戻したい
あの会話で溢れお客様の横顔で満ちた独特の空気感

新聞をめくる音や食器が重なりあう音
そしてトースターのチンッという音やふぅと息つくため息にでさえ音を感じ全てが奏合う最高のBGMにまた埋もれてみたい…

今後もどうなるかは分からない
生活様式や営業形態にさえ変化は生まれるのか?

だけど
僕もそれなりに六曜社という場所に身を委ね
それと共に過ごしたお客様の時間も増えた

前田珈琲や喫茶feカフェっさから続くお客様も居て下さる

そんなお客様がフラッとまた
「お久しぶりです」や「久々京都に来ました」
とトキを交えることもある

さらに言えばこの空間を求めに
「学生時代はなぁ」とか「何十年ぶりに」
と懐かしくタイムスリップしに来る方もいる


その人の人生の中で考えれば本当にほんの一瞬かもしれないコーヒーを介す時間をやはりこれからも預かったつもりで
そして時にはかけがえのない思い出にもなれるよう
一杯のコーヒーでいっぱいのお客様に微笑みを提供したい…


今は息苦しい世の中も
時代はまわる
明けない夜もない

辛抱…辛抱…
地道の積み重ね
何でもなかったことを抱きしめて離さないように
こんなことが起きた世界を噛み締めるように

僕は喫茶文化をこれこらもこよなく愛したい

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作られた時間の中で、図られたような日々と、そして取り戻すかのように追いかけるように過ごす月日に、未だ先も見えず不安と向き合いながらの今日。

前に進まねばと行動に移す人もいれば、まだ立ち止まらねばと静観を貫く人もいる。

日本にコロナウィルスというものが目立ち始めてから早半年という月日が経ち、向き合い始めた月日を受け止めながらも、こんなことが起きていなければという日常もやはり想像してしまいたいほどの望みが2020年の日本にはあったことも忘れられない。

人権や愛国心もろもろ、そして発展や進化などに対してもう一度顧みないといけないことがあるんじゃないかと改める人が増えたことには不幸中の幸いなんじゃないかという感覚があるのは、僕みたいな何とか何事もなく耐えられている現状がある人間の浅はかさなのだろうか…。

今一番僕の目の前にあることは、社会という経済再生に向けて取り分け喫茶店に身を置く者としての飲食店の今後と、娯楽という観点から生み出される経済の活性化について人々の楽しみというのは何処にあるべきなのかということである。

売り上げとか利益とか商売人の話しをするのはあまり好きではないけれど、お客様が来てくれなければどうにもならないんだと痛感した現実と、そんなことは別として安心安全と共に人々の安らぎは何処にあるべきかと自問自答しながら大事にしたお客様との時間と空間の意味への大切さ。

お金では買えない価値、お金では解決出来ない価値観がそこにはあることもまた実感した緊急事態宣言最中だったと思えます。


自粛期間中、行き場を失ったり、帰る場所に戻るだけの生活では事足りない人達と、それは不要不急ではないんだと想い願いながら過ごしたのも懐かしいくらいに感じる今日この頃と、第二波への懸念はあれど、欲や心を少しばかりでも満たしたく、六曜社を選び目指してくれる人達が集まる場所が今は繰り広げられているのが現状で、それはまだ1階の相席文化としては制限をしていることもあり、また地下が終日禁煙になったことも日は浅いので、どこか今までとは少し違う雰囲気の中、“らしさ”を取り戻していってるのかな?というレールは見えてきています。

ただ冒頭のように、本当は流れてなんかいない時間の中で、僕たちは共通認識のタメに時を刻み物差しなどを計っている訳なのに、それでも事態は見えず、先行きも不透明なこの日本や世の中になってしまっていることには、やはりどうにもこうにも明るい未来だけを想像することは出来ないし、その両極端を様々なモノコトに抱かないといけない現状はやはり望みとは言い難いのかもしれません…。


今、仕事とは別に県を跨ぎ楽しみを求める人もいます。
今、不自由な生活に少しの自由を求め欲を満たす人もいます。
今、もはや楽をすることに慣れてしまった人も…。

“旅行”や“娯楽”は少し前まで本当に何気ないモノコトだった。
“業務”や“努力”をすることは目標に向かうタメだった。

はずの「普通」や「特別」な事に今、価値観が混合し、ねじれ、叩く事が常態化しかけている批判的な思考に、やはり今一度気持ちだけでも状態を戻していきませんか?

勿論見逃してはいけないことも沢山あるのだけれど、忘れてはいけないことも山ほどあるわけで…。
そこら辺のバランスを崩さず、今は一喜一憂してもいいかもしれないし、また何の疑いもなく一喜一憂出来るような日が来るように団結していくべきではないんでしょうか?

皆が平等に同じ矛先を持てるように気持ちを補うための我慢もあるんじゃないでしょうか?

楽しむことさえ、笑うことさえ何だか後ろめたくなってしまっているけど、その人を知らない限り全ては分からないし、その人の笑顔の理由なんて計り知れません。
笑顔で溢れることはむしろ良いことのはずです。

全ては一人一人、そして自分自身の認識だと思います。

冬に向かって、そして場合によっては目の前に、第二波というものは迫って来ているのだと思います。
その拡大が少しでも少なく、そして狭い範囲で収まっていけるよう、ワクチンが確保出来るまではやはり向き合っていかないといけない、さらには寄り添うつもりでいないといけない日々なのかと思います。

私個人的意見としましては、賛否両論出ると思いますが、住めば都のそれぞれの生活圏で今は何とか居心地を求めていく日々を模索していければいいんじゃないかと思いますし、どうか東京に住む人は特に、今は、今だけはもう少しその都に留まって周りを見渡してほしいと願ってしまいます…。


大気もおかしく、梅雨らしいだけで収まらない大変な地域も出てしまいました…。

もうこんなに心の雨も降らせ続けないでほしいです。

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私はね

「優しさ」が一番大切で強く逞しいものだと思う

そして

「感謝」が大事なことで配慮や謙虚さも生むと思う

それを

ずっと維持出来なかったとしても

忘れないモノコトの受け止め方や進め方が必要なんだと思っている

後は

相手がいる時はその人の立場や気持ちになって顧みることが出来たら尚のこと良いのかも…

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自分で命を絶つこと

そして他人の命を奪うこと


それさえしなければ極論、本当に極論の話しで、もしかしたらそれ以外は何でもありなのがこのセカイなのかなと思う自分がいます。

その中で起きる事態や現実は“生”ある以上その先に続き、当事者の中で解釈や理解を巡らせ、自分の人生を歩んでいく糧に出来るかが重要になってくるんだと思うし、その経験でその人の“幸せ”の価値観や生きた心地が様々に変化し芽生え“喜怒哀楽”“感覚感情”全てが生きることの意味なんだと感じれるんじゃないかというのが僕の考えだったりするわけです。

もし「死んだら楽になるかも」と自分の命を絶つことを考えたりそこに答えを出そうとしている人がいるならば、それは絶対違うし、死んだらその楽という気持ちも芽生えず、やはり喜怒哀楽全ての感情とこれから生きていたらもしかしたら変わるかもしれない人生さえ見つけられない無のまた無になり全てが絶たれることも想像してほしいし、それが起きた時に残された周りの人や友達、特に家族や親族、その両者がもし居ない人でも産んでくれた人がいることを想像すれば「人間は生を受けたら必ずいつかは死ぬ」ってことだけは儚くも決まっていて、その楽になるかもしれない思いはいつか必ず叶ってしまうんだから、それまでを生きてみてはどうだろう…?苦しいことも生きている自分の価値なんじゃないだろうか…?と気付いてほしいと思ってしまうし、人の命を奪おうとする人がもしいるならばそれは言語道断、それでも犯罪に手を染めようとする人がいるならば、前者と同じで近くに居てくれる人や、家族や親族に産まれてきたことの価値に身を置いて、周りに迷惑をかけるかもしれない現実と理性を保ってほしいと願うばかりでしかない想いです。

そしてそれが人生で、その一人一人の行き方や生き様が交差する世の中に僕たちは約77億分の1という価値ある者として毎日を歩んでいるんだと思うし、今もこうやって歴史を残していってるんだと思います。


今起こってしまっているコロナウィルスの現実は、いろんな角度やいろんな視野があり、その中で最前線で動いてくれている人、そして後を追うよにその中で働き生活している人達の思考や実情が入り混じって様々な混雑や困惑を生んでいます…。

視点を僕の目線から話させてもらうと、やはり国や府や市の救済策はいろんな意味で生き延びることには事足りない…。
僕の店が資金力に乏しいのも実力が無い上の話しではありますが、それでも70年細々と地道に重ねてきた時間や残した足跡は今日まで続いている証だし、そこには支え続けて下さるお客様や関わってくれた人達がいるからこその話しで、時代で考えれば一瞬一瞬かもしれない数々の思い出がたくさん詰まった場所を僕は失わせたくないと強く思って今もお店に立っています。

要は非常事態宣言、自粛や休業又は時短要請のある中で営業を続けています。

改めて最前線で働きかけている方、医療現場やその関係の人、そして感染された方や恐れている方から見れば御法度かもしれないし、理解を得れない判断というか決断レベルかもしれません…。

本当に申し訳ない気持ちです。
すみません。

冒頭の命の話しにも照らし合わせれば、後者にも成りかねない状況です…。

しかし要請レベルでとどめてしまうこと、そして僕が生活している京都や地域の状況に視野と把握を特に広めながらの現実の中で、やはり府や市は、さらに日本のトップはこの業種に関しては守ることに関して比重は軽いし、そもそもこんなことが起きるなんて想像もしてなかっただろうし、そしてそれは僕もそうだし、国も京都も誰も責めることなんか出来ないことなのであれば、僕たちの納めている税金や財源の使い道はどうであれ、店や自分、そして近くの人達を守っていくのは自分達なんだと思ってしまいます。

そう、誰も頼りにしてはいられないのかも…ということです。

となると、冒頭の前者がこれから増え続けてしまうかもしれない近い将来を想像すると、僕や店が出来ることというのは人の命よりも、命ある中で生じる生活に重きを置き、それを大事にしてみることなんじゃないかと今考えています。

もう以前のような京都は戻ってこないでしょう。
人々の価値観や意識が世界レベルで変わる事態が起こっている訳なんですから、国の経済も社会も生活も幸せの価値観や様々な比重のバランスがきっと変わるんだと思うし、戻るとしても数年後や数十年後かもしれない話しで、いろんなことが進化したり、進み過ぎてるモノコトに、もしかしたら前に進めるべきバランスと位置付けを見直す時間になるかもしれません。

僕は今、店の存続にある意味大袈裟かもしれないけど命懸けです。

それは自分だけのことじゃなく、家族や雇用者、そして何よりお客様の求める時間がお店にあるのであれば、今の状況で感染に関して無意識な人は居ないと思うし、お店もお客さんも、そしてそれぞれが、皆が対策や対応に意識を図っていれば防げる率も高いはずと信じたいですし、でも周りの状況を見ればこれも浅はかな認識なのだと重々承知だし…。

けど、こと店の存続を賭け、今お店に足を運んで下さる方の行為は喫茶店の位置付けとして不要不急でない生活の一部になるのであれば、不安や不満しかない今の生活の中に、中には家に閉じこもり過ぎて生きた心地もしないという声に耳を傾けれる“場”になる必要もあるんじゃないかと迷いながら日々を送っています。

僕はいち喫茶店のマスターにしか過ぎません。
だけどそれと同時に経営者です。
会社という括りでいえば最高責任者ではありますが、僕は人の上に立とうとは思っていません。
肩書きとして立場はあれど、店を守っていく者としては僕は立ち位置は皆と一緒だと思うし、どれだけ先頭に立てるかが重要とされるだけで、この考えが店の中でも紆余曲折するのであれば柔軟でいたいと思っています。
さらにはお店は僕の「物」ですが、お店事態はお客様や働き手の「場」です。
それが著しく傾き、僕のエゴでしか感じれなくなった時も早急に適切な対応を取らせてもらいます。

近くの店も、そして知った店も本当に数多くが苦境に立たされ、その判断を仰がれ、そしてもう次々と閉店(廃業)の選択に追い込まれている所もあります…。

そうなりたくはない、そしてそうさせたくはないという想いが自分目線でもお客様目線でも、そして保身と言われても現時点最良の手であると信じるしかないですし、命に矛先を向けた時にも、ある意味店が無くなっても自分の命は守られますが、それでも比重は様々なモノコトを積み重ねてきたこの場所の『六曜社』を守り続けていくことに重きが向きます…。

後は本当にお客様のことを考えた時に、命があるからこその一人一人の生活の一部の場として喫茶店があるべきなのか、命に替えられるものはないと、起こることも分からない最悪の事態を想像した時に、個々としても店としても感染予防をする中でも営業することのリスクが布石と受け止めた時は、要請など様々な発令に対応していきたいと思います。


さぁ明日から5月です…。

時間や月日の区切りとして切り替えれる時に、延長確実な宣言も一つの目安まで後1週間。
そしてまた時間や月日の進み方が今までと何も変わらないはずなのにゆるやかに感じてしまう日々にさらなる先を見据えないといけない時間も間近かと…。
ふと我に返ってみて、不安やナーバスに押し潰されそうになり、目の前の様々なモノコトの大事さや、明日や先があることの大切さに視野を向け忘れている人はいませんか?

どこかに出てリフレッシュしていきましょう!とは到底言えませんが、笑顔を忘れないこと、笑顔までは言わぬとも微笑みを探すことや体を動かすことを家の中でも忘れないでほしいなと勝手ながらに思ってしまいます。

僕自身このような場を使って、こんなことを語っている時点で同情を売ったり、弱音や弱気を見せているにしか過ぎませんが、少なからずどうか、どうかこの先の未来が少しでも早く明るくなる日が来ることを願っております。

そしてどんなカタチであれ、僕としては『喫茶&カフェ魂』で同業者がそれぞれでも、お客様にこんな時だからこその力を発揮していけることを信じて努めていきたいと思います。


※いろんな情報も頭に入れて、この投稿をしても正直コロナウィルスがつきまとう限りは葛藤の中にいると思います。
共感も有難くは思いますが、様々な角度からもしご意見が在られる方はコメント宜しくお願いします。
返答は差し支えるかもしれませんが、必ず参考にさせてもらい判断していきたいと思います。

どうぞ宜しくお願いします。

あぁ

あの時あぁしていればこうなっていればと思ってしまう気持ちや後悔の時間は戻ってくることはないんだから
思い通りにいったはずの時間さえ想像しても仕方ない

それなら

そうならない選択をしていくか
あの時あんなことがあったからこんなことが起きたからと思える心と経験を募らせて取り返していくことしかできない

むしろ何かが起こってしまうっていう時もある


だから

昨日も今日も明日も大事にして
今ある一瞬一瞬と向き合って大切なものを拾い集めるだけ

そして

そうやって足跡ができる未来を受け止めること

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昨日は四年に一度の閏年、午後からは雨とともに僕は15時からお店に立った。
世間の話題はコロナウィルスへと移り変わり、モーニングの時間は閑散としていたと伝え聞く。
それでも打って変わってティータイムと言える時間からは本日老若男女が入り混じり、一つのハコの中でトキを共にし、それぞれのテーブルの時間、そしてその人一人一人の人生が交差するひとときが見事に交錯し相俟って、僕たち働き手と共にいろんな会話や表情と全ての音が本当に一つの空間として広がりナガレていると感じるセカイへと繋がった。

それを僕は“喫茶的オーケストラ”と呼び、時には“喫茶ロック”と化す姿もある。

そしてそんな光景や風景をカウンターの中からの視点や肌で感じれた時に、僕はこの仕事の醍醐味を痛感し、鳥肌と共に少しの涙をこぼしそうになる時がある。

「これを待っていた!」

いつ訪れるか分からないその感覚や感性の中で想いふけりながら、やりがいと幸せを感じれる時があり、その感情がいつまで続くかは分からない。
そしてそれは薄いガラスで守られいるかのように繊細で、何か一つ少しでも何らかのズレが生じてしまえば脆くもヒビが入り、瞬く間に現実へと突き戻されてしまう。

そして今度は「いつ会えるかな」

と次の一瞬一瞬へと我に返るのである…。



名前の知らないお客様の注文を聞き、それを提供し見守るひとときを経て、お客様を送り出すだけのこと。

そんな連続に、「毎度!」と声をかける人が出来れば、一言二言言葉を交わす間柄を築き上げる人もいる。
何年ぶり、いや何十年ぶりに訪れたという方の思い出を共にすることもあれば、今日だけになるお客様とだって時間を共にすることを積み重ねていく毎日。

それが“一期∞会”と繋がってほしいと願う日々。

いつからか時代背景と共に“早い安い旨い”が求められ時間を消化する感覚に奪われてきて、経済の在り方と共に資本力のある店や外資系も増え、食券やセルフ式が増えたと思えば“ほったらかし”を自由と感じるようになってしまった飲食の時間。
そして今はお客さん自体がどう感じるかが全てになってしまっているのがほとんどで人任せ。

更には簡素化が生み出された社会。

でも本来は空腹を和らげることに、外で時間を過ごすことに、何らかを満たす“豊かさ”を求めていたはずであって、そこにはそこで過ごす時間でさえも充実が図られるはずだったと思う。
そして作り手にも手間があり、愛情や想いを込めるような個性が放たれ、いろんな意味で時間をかけることにも抵抗がなかったようにも思う。

これもまた便利や利便性を求めすぎて出来た価値観の違いなんだろう…。

だから何も悪いわけじゃない、相手がそれが良い、それでいいと思っているのであれば尚更。
だけど期待を裏切ってはいけないよなと思う今日この頃。

僕が本当に良いと感じる場所には“機微”という絶妙の距離感でその時間を一緒に過ごせる感覚があるし、その時間がほったらかしではなく見守られているようで心地良いし、それがお客さんという立場でもある意味マナーを問われる背筋が伸びるものにもなる。

それがお客様と働き手の尊敬心で、それらが双方の求める信頼関係の構築になるはずではないだろうかと強く思う。

確かに時代や社会は時間に追われるような、様々な現実問題として余裕のない日常と化してしまっているのかもしれない。
けど、本来喫茶店やカフェという場所の時間は止まり木のようなリセットやリフレッシュといった何かを蓄える場所で、ただ消化するものではない。
その人の人生の中で考えればほんの一瞬かもしれないコーヒーを傍らにする時間を預かったつもりで外に出るまでの時間に結びつけないといけないし、外に出てからの充実に繫げれる場所でありたいと僕は思う。

それはもしかしたら一緒に時間を共にする働き手にだって目を向ける必要があるかもしれない。

腰を掛け、コーヒーにホッとひといき息つくため息が何かを吐き出し小さな幸せを再度吸い込む空間でいたい。
そしてそんな一人一人のお客様の時間が満足となり一つ一つの積み重ねとして、その人にもお店にも次に繋がっていけばいいのだと思うし、そういったモノコトの本質を説いていく連続にもアンテナを張っていきたいと思う。

喫茶店やカフェとは何ぞや?と問われても今も答えは出ないし、答えのない正解を追い求める日々を過ごして何かしらに行き着くことが大事なんだと思うけど、あなたにとってコーヒーという存在は何?と問われれば迷いなく僕は“飲む音楽”と答え続けていくと思う。

こんにちの世間や世論の真っ只中で、お店としても、お客様が外に出ることにさえもお互いが注意をはらわないといけない中で、それでも今お客様がお店を目指してくれること、今ならそれは予定も崩れて行き場を失ったり時間を持て余してる人だっているかもしれない。
そんな時でさえ、どんな時でさえ、この喫茶店やカフェという場所は人々にこれからも飲食として満たすだけでなく、時間も心も満たしていける空間としても日常に寄り添う身近だけど特別な矛盾を一環出来る居場所や異空間として在り続けたい。

2020年が始まり早1ヶ月が過ぎようとしています。

令和になって初めての新年、そして干支も子(ねずみ)と始まりの年で、何かと新たな気持ちになると同時に、加えて激動の1年になりそうな気配を感じます。

新年早々、海外ではアメリカとイランの政治的な問題や、オーストラリアの自然災害、イギリス王室やEU離脱の動向に、社会的な事件といえばゴーン氏などなど重要な話題が後を絶ちません。
ここに来てウイルスや地震までも…。

目の前の日本に目を向ければ、芸能界や政治の部分の話題も多く、もうお腹いっぱいな2020年のスタートです。

それでもまだまだ続きます…。

京都はもうすぐ市長選、4月からは近年話題となっている受動喫煙の問題も一気に条例として取り締まりが強化されます。

そしてオリンピックのビッグイベント!

これに向けてはHACCPやJGAPなどの食品管理や工程、ハラールやビーガンなどの宗教的なことも含めた食に対する認識、さらにはアレルギーなども含めた食品表示に関しても一気に理解や対策が必要となってきました。

そしてその先にはさぁ次の日本、安倍さんや政権はどうなるの?に続いていくのがもう分かっていて、デジタルやテクノロジーだけではなく時代がもう次へ次へと進みそうで着いていけるか分かりません…。

オリンピック以降に日本はどこまで止まることなく発展を遂げようとするのか、それとも落ち着こうとするのか、はたまた衰退していくのか、大阪万博もまだ先にあるし予想がつきません!

日本も世界に向けて、いろんなモノコトが国際基準、世界視野になっていくし、そうやって京都はあれよあれよと観光公害が問題になってくる始末。
主要都市はそうなのかな?
オランダも観光公害がひどくて、Holland表記を無くす?みたいなNetherlandsとして国をアピールするみたいなことを摸索してるとかしないとか…。

消費税が上がれば、雇用に関しても最低賃金は上がるし、原材料や資源の原価が上がれば、京都は土地や物価の高騰で訳分からないし(笑)
そういったお金のことも含め、様々な税やそれを使う政策に対してもありふれた問題にだけ視野を向けるのではなく、それをすることによってという負担する側にも細やかな視点を持って幅広く、そして問題になる前に対応してもらいたいです。

ほんと一人一人に目を向けてほしい。
そういった感じ。

もうホンマに資本主義社会で、大企業しか生き残っていけない世の中になるんでしょうか…?
中小企業や個人経営に一個人に対しても、ある部分に目を向ければどうやって生きる幸せを見つけたらいいのでしょうか?っていうくらい貧困問題も加速しそうだし、政治や社会、何より経済に対して目を向ける所を間違ってほしくないっていうのが、僕みたいな知識レベルの人間でも不安や心配になる今日この頃。

市民とは何かみたいな?

良いこともあれば悪いこともある。
正解や答えのない問題はあるけれど、それならば尚更多くの人が納得のいく理解できる、支持のできる国になってほしいものです。

やはり選挙は大事なんですね…。

加速するだけでなく、何かを競ってるわけではないはずだから、何とか立ち止まって時代背景や文化と共に発展するだけが全てではなく足並みを揃えていくことも一人一人の笑顔や幸せが広がる選択肢なんじゃないかな?って思ってしまいます。


『さぁそんなこんなで今年で六曜社は70年の節目の年を迎えます』


何だか偉そうな発言から始まり熱を帯びて僕が加速してしまいましたが、僕は知識人でもなければ常識人でもないと思うし、学力も低い方だと思います(笑)
そう、何も知らない、全てを知らない中での発言なので薄っぺらさ爆発です(苦笑)

とはいえ、自分の仕事には真摯に向き合ってるとは思うし、何より感性で生きてきた人間ではあるので、そうやってここまでの道のりを歩き、今ここまで来れたことには少なからず自信には繋がってきています。

そんな専門分野から言えば、喫茶店と呼べるお店は全国で4
万件を下回ったとか…。
全盛期から比べると3分の1になってきたようです。

それでも昔はお酒も飲める場所だったカフェと呼べた場所が時代背景と共に今はコーヒーを飲む場所として確立され、根ざし、そのブームと勢いは今だ加速しているので、コーヒー業界としては生活の中の飲み物として、その存在意義や価値、そして生活の一部に加わる必需品になってきてるようには思えます。

問題なのはその業態。

ジャンルはあくまでジャンルにしか過ぎないのですが、喫茶店と呼べた、脱サラをして人生を賭けたような、一個人が個性を放ち、人も店もメニューもオリジナルなカラーを発揮しようとしてきたセンス的な部分、何より生きるために仕事をし、家族を守るというパッション的な部分から言えば、今はこの仕事はファッションでしかなく、この仕事に限らず働き方は生活のための一部分にしか過ぎず生き様ではありません。

だから続いていく店も人も少ないんだと思います。

それは僕も偉そうなことを言える立場ではないしどうなるかも分からないし、今生きてる時代があるのですから逆らう必要もなければそこに良さはあるけれど、物や知識も情報も簡単に画面を通して手に入れることが出来るようになり、何でも揃っていて何でもあることが幸せなような世の中で、けど何かを欠いてきてるような…。

そう感情の部分。

便利や利便性を求めていろんなことが簡素化されていることも問題じゃないのかな?とも思います。

豊かさの認識が少しズレてきていて、人生感で言えば、何かを手に入れてるようでも、実は自分の足跡を振り返ってみた時に何も残っていなかった?みたいな、本当の意味で自分が強くたくましく生きていける支えてくれる苦境とか挫折とか、喜怒哀楽全てを含め自分が自分であるルーツに、先を見る夢や目標といった希望にさえ出会える豊かさが狭まってきて、安心安全であることに守られすぎていることも増え過ぎたような、いや縛られ過ぎてきているようにも思ってしまうのは僕だけでしょうか?

本当の意味で今の時代は有り溢れてはいるけど、ありふれていて何もないのかもしれません。

生きるって何?人生って何?くらいのレベルの話しなのかも…。

だけどそんな世の中だからこそ、今そこに疑問を持ってる人が多ければこれからの未来も明るいかもしれません。

時代はまわる。

後戻りすることも出来なければ、無情でも非情でも、今を生きて「あぁあんなこともあったな、こんなこともあったな」と笑える自分や時代になる、努力をする、ことでしか報われません。

栄光に近道なしと言うように、遠回りすることも大事だったりすること、その遠回りから自分の歩きたい道に戻れた時の喜びが大切だったりすることもあると思います。

そうなることが全てではないし、人生色々かと思いますが、後悔を後に立たない選択をその時その時選んで、今と先を見据えながら自分なりの満足や充実を求めていく連続なんだと思います。
それは自分の中の責任感が重要です。

仕方がないこともたくさんあるとは思うけど、どうしていきたいか、どうなりたいかの土台作りや視野はやはり大事なんだと思います。

話しがあちらこちらに飛んでややこしくなってきてますが(笑)

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京都の喫茶店は進々堂の百万遍のカフェが一番古く、次にスマートコーヒー、そしてフランソワやソワレに築地に静香、大きい所はイノダコーヒーとそこら辺の順番はちょっと把握していませんが、その歴史あるお店と共に『六曜社』も同じく身を置いています。

オシャレで心地良いけど、オリジナリティとは違うような最近のカフェとは違って、勿論良い店もたくさんあると思っていますが、喫茶店と呼べる場所にはおおよそ個性と居心地がついてくると思っています。

何より自分たちが営んでいる地域や人に、生活や商いを共にするかもしない拠点を大事にしているからこそ、外からと言える人が来た時に、その場所・空間のトキとを感じれることが醍醐味にもなっているのではないでしょうか?

だから長く続いていれば、続いているだけの思い出やエピソードがお店という箱の中一つに詰まっている。

それが目に見えないカラーであり、僕たち人間が心揺さぶられる感情を刺激するものだと思うし、その感情や感動というのはやはり、直接的でも間接的にでも“ぬくもり”があることのように思います。

喫茶店は特別ではありません、イタリアンやフレンチに会席や本格中華のような高級品でもありません。
勿論誰かにとっては特別な思い出はあると思いますが…。

実家に帰ったような、母校にタイムスリップしたような、旨くても不味くても家のご飯を食べてるような(笑)いつでもどこにでもある小さな幸せを拾い集めたような、それぞれの思い出と共にトキを刻める第二の家、いや、泊まれないから第二の部屋みたいな存在価値があるとも思っています。

そしてそこにはお店自体なのか、店主なのか、はたまた従業員なのか、そのテーブル一つ一つを見守り見届け、お客さんの時間の使い方に寄り添うニーズがあるからこそ、これからも残り続けてほしい文化の一つなのです。

だからこれからも喫茶店としての意義を問い、コーヒーの可能性も求め・広げ、時代にナガされるのではなく、それでも時代と共に残し、守り続け、文化を築き上げる場所と時間を繰り広げていきたいと強く思っています。

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ちょっと音楽やりたいなって思って

触ったくらいで終わって

なんだかんだ生きてるけど

夢みたこともあって

いろんなものこと考えるようにもなって

結局僕は

何かを記す感じじゃなくて

何かを伝えていきたいなっていう思いは

コーヒー屋さんをしながらも持っている気がする…

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金木犀がどこからか薫って夏の終わりを知らされて

肌寒くなってきて秋が始まることに身構えて

何だかその陽気に想いふけって

まちなみの景色に

人の歩く姿に

誰かの横顔に

人生はドラマなんだなって思わされる

いろんなモノコトがスマートに

そしてシャープになっていく世の中に

安心安全になっていく時代に

悪いなんて思わないけど

省いてはけないものもあるんだって

遠回りする必要があることだってあるんだって…

ひとりひとりが足並みを揃えても交差するノスタルジア

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もし

真っ暗闇に迷い込んだとしても

光が放たれている場所を探し求めること

それを諦めないこと

怖くても

辛くても

その人なりに光が差す場所は必ずあるはず

それを信じて

ゆっくりでも気をつけて

少しずつでも確実に

何処かへ向かおうとすることが

その人が一番早く輝くことの鍵になると僕は思う

自分が希望の光になることだって出来るんだ

そこで初めてセカイは広がる

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「昭和の時代は良かった」

と言いたくなるのは喫茶店を営んでいるからなんでしょうか…。

古くさい価値観になってしまってるのでしょうか…。

平成も過ぎ、令和になったからと言うわけではありませんが、時代が進むというか進歩していくことが止まらない昨今に僕は何だか戸惑いを感じてしまいます。

特に便利や利便性を求め、モノゴトに簡素化が図られることがあまり好ましいとは思えない性格。

勿論技術の進化というのは助かることがいっぱいあって、ありがたいことも多いのは確かなのですが、“技能”みたいなものが奪われ、“会話”を省かれ、何より“人”という存在が必要なく、システム化やグローバル化が進み、アナログではなくデジタルな部分を大半が必要としているこの世の中と繋がり方にある意味怖さを感じています。

小さな話しかもしれませんが始まりはきっと、
固定電話やフィルムカメラに手紙etc…。

イコール、
スマートフォン、デジカメ、パソコンetc…。

そんな感じ。

不手際でもたどり着くことに意味があって、そこには失敗や成功という結果よりも、それぞれのゴールがあって、そこまでに行き着く過程で様々なことを学び感じれて、何より相手がいることに対して距離では測れない繋がりを感じ、もっと大事に思えたことがたくさんあったと思う。

完璧を求めることは素晴らしいけど、でもそうでなくても素敵なことはいっぱいあって、正しいことだけや、正解ばかりを求めない、もう少し大雑把で良くて、愛嬌や無礼講みたいなことで許された“人間味”みたいなもので溢れてたように感じる。

決して否定ばかりではありませんが、IT関係の社会が広がり始め、ツールみたいなものがコンピューターに支配され始めてから、いつの日か“人間はもう頑張らなくていいんだ”という思考が増えてきたと思う。
そしてスマートに、結果的に迷わないルールを作りすぎてはいないだろうか?と疑問に思う。
勿論そこにも答えや正解はないから、全てに間違いなんてものも存在しないと思うけど、でもいつも思うのは、何かが削ぎ落とされていて、何かが奪われていて、人間が人間じゃなくなっていくような時代が来てしまいそうで不安だということ…。
それを作り出していってるのが人間かもしれないなら尚更…。

ダイアモンドの原石は初めから綺麗ではなくて、何かにぶつかり磨かれ、時を経て光を放ち、そして形を成して輝くように、綺麗という言葉では語れない、泥臭くても美しいと思える世界観や道のりがそこにはあって、矛盾を一環出来る色の放ち方があって、形を整えることが全てではない人間性や個性がもっと大切だったようにたかが珈琲屋の僕は思うんです。

感情のないぬいぐるみにさえ愛着を抱き、システムやマニュアルで作られたロボットにさえ情を抱ける僕たちの、まだ今の時代は進み過ぎてはいけない、止めないといけない「何か」があるように思うし、進歩に対して問い、その技術の使い道を選択し、人の技能を守っていく、感性を残していく、人間の生き方までを考えるターニングポイントに立ってはいないだろうかと真剣に考えてしまう自分がいます。

生身である事というか、源というか、レコードやカセットもそうだし、ラジオだってそう、今も根強くそのアナログが人の心を刺激しているのは、そこに直接あるモノコトが想像でき、目には映らなくても元ある姿が想像出来るからじゃないでしょうか?

何にも加工されない本質みたいなものの大切さ。
それは食材にだって言えることだと思うし…。

どうなっていくんだろう…、世界は地球は時代は…。
野球の球数制限は…(また野球 笑 )
でも後先ではない、もう戻ることの出来ないその一瞬に賭ける情熱だってありなのが人間だと僕は思う。

AIに支配されてはいけないと思うけど、ロボットが涙するそんな時代が来たら確かに人間はラクして幸せに長生きできる平和は訪れるかもしれないけど…、果たしてそれで良いのかな?って思う人はどれだけいるんでしょうか?

少なからず僕は自分の喫茶店という仕事を通して、大それた考えかもしれないけど、そういうことを皆さんに感じてもらえる空間を作り続けたいと思う…。

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僕はね、商いっていうのは店主がこだわりを持ち続けること、働いてる人がやりがいを持てること、そしてお客さんがそれを感じれて、互いに皆が少しでも笑顔を持ち帰ることが出来たらそれだけで良い場所になっていくんだと思う。

後はそこに居場所や居心地という良い時間がうまれるかで続いていけるんだと思う。

お店のカタチは様々だけど、そこにはやっぱり主役は“人”なんだっていう感覚がある。

悲しいことも嬉しいことも

大事なことも大切なことも

後悔なことや無情だとしても

そして子供でも大人でも

なぜ絵本は心の扉を素直に開いて開放してくれるのだろう。

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