6448COFFEE+ESSENCE

六曜社珈琲店-セカンドライン-

カテゴリ: 組合

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薫風vol.2

【逆光】
《「逆光線」の略》写真などで、対象物の背後からさす光。

これは国語辞典を開ければ調べる事の出来る言葉の意味です。

だけど文字や言葉で表現は出来ても“カタチ”の無いモノコトが世の中には存在する。

それは「愛」とか「恋」とか「心」とか「苦楽」など“喜怒哀楽”を含む全ての『感情』をはじめ「感謝」や「姿勢」に「情熱」といった“想い”の部分にそれは兼ね揃っているように思う。

だから人はそれらに馳せ、それらを探ることに迷い悩み、そして何処にあるのかと掴み取りたいがために迷走する。

そしてきっとそこには漠然とした答えはなく、その人なりの探求により辿り着く回答というのが『価値観』として導かれるのであり、それによって人それぞれというものが付随し共存するのが世の中なのだと思う。

私は最近、※1[須藤 蓮]という俳優を知りました。
そして[逆光]という映画を引っ提げて歩き始めた監督としての彼に出会いました。

彼は“工業的”や“商業的”に織りなされる作品やアートとしての立ち位置に疑問を抱いています。

勿論私達の“商い”としてもそれらは切っても切れない関係性ではあるのは確かですが、それらを中心に回り巡る社会的意義にも葛藤を持っているのです。

認知や知名度、そして影響力といった大きさが本当に評価されるものではないはず…と。

そんな名声が得られる事に超したこともないとは思いますが、大きすぎる空を見上げれば、計り知れないほどの宇宙を想像すれば、世界やましては日本は小さくて、私達がそれぞれ生活する地域というの想像する以上にちっぽけなのかもしれません。

だけど、だから尊くてそんな身近なネットワークが何よりも大事なのです。

彼は今、自身の映画作品を通して配給という作業と普及という活動を、カルチャーとしても最先端や話題性で渦巻いている東京を中心とした飛躍に疑問を称えて、あえて渦の外である地方から自分の足で、そして携わったキャストと共に、さらには仲間の輪を広げて“行動力”と“求心力”と共に力強さと心強さといった渦に負けない土台や芯といった自分なりの柱を構築させようと突き進んでいます。

そしてこの映画逆光においては、脚本家 渡辺 あやさんという経験者の視点とそれを見守る視野が支えになっているのも確かで、各世代を通して共存する意味、継続していくという価値と関係性というものも改めて考えさせてくれるのです。

そして、そんなもしかしたらちっぽけかもしれないセカイやセカイ感が何よりも重要で世間や世の中に広がって大きく繫がる事を信じているのです。

私達喫茶や飲食店というのは、スポーツや音楽、そして舞台や映画といった一堂に沢山のお客様を歓喜または感動させるものでは正直ありません。
ただ、一組一組や一人一人の時間に寄り添い小さな喜びと幸せを持ち帰ってもらう連続で少しずつ地道にその価値を高め広げているのです。

その人の人生の中で考えればほんの一瞬かもしれない時間に重きを置き、たった一杯のコーヒーでいっぱいのお客様に笑顔と満足を持ち帰ってもらう事で、止まり木のような時間にさえも大切なモノコトが転がっている事に気付き拾い集めてほしいのです。

そしてそんな「特別」と「日常」が交差する日が4月13日(水)に※2三条河原町の六曜社にて繰り広げられました。

“昭和喫茶へ行こう”と銘打たれたそのイベントには若者が集まり、携帯を忘れ、本やレコード、そして見知らぬ人とを交えた対話や交流が生まれたのです。

令和の時代にはもしかしたら珍しいかもしれないその光景には、あの昭和の時代のような体験と体感が入り混じり、何より従来“外”で過ごすべき社交性を兼ね揃えた『サロン』としての役割が確かに存在していました。

主役であるべきはコーヒーでもなく、映画でもなく、店主や出演者のものでもなくなり、その“時間”と“場”といったそこに集まった人達の“居心地”と“居場所”になっていたことを肌で感じれたのです。

そうやって一昔前は喫茶店という存在はいろんな意義が混合し共存し、それぞれが互いに評価され、価値観や世代観の違いに対して分別する事を今よりしなかったように思えば、社会においてももっと混同していたように感じてしまうのです。

今は時代の流れが早過ぎてほとんど誰も追いついてないような感覚で、何かが先行し過ぎてしまっている。

若者よどうした!ではない
大人よしっかりしろ!でもない

それぞれを切り分けるのではなく、切り離すわけでもない、お互いの尊重と共存。
それらが、もしかしたら継承され続いていく何よりの近道なのだと実感したようにも思います。

モノの価値は大きさや重さでもなく、そこにある人達にとって、何でもない事でさえも何かの時に思い返せる事というのが大小問わず『宝物』になるのだと痛感したのでした。

そしてそれをしまう宝箱もまた“形”はなく何処に置かれているのか分からいほどに尊いのです。

何かを目指す先には光が差していて、そのモノコトが影になって見えないならば、その影の姿が見える所までまずは目指し続け、そして辿り着いた人達にだけその光の先が見えるのかもしれません。

そしてその先から後ろを振り返った時に残っている足跡の数が、何よりもあなたの支えと強さになり『自分』で居続ける事が出来るような色を放てるのでしょう。

新年度の4月となり、組合新聞の刷新を行いました。

喫茶組合としての新たなステージにも向かうべく、広報(新聞担当)にも属し、改めて組合の価値を高めていく活動と、認知度を更に広めていくタメにも、新聞としての役割を再確認して発行に至っております。

そんな中、自身のコーナーも設けさせてもらい、いろんな観点からの思想や情報もお届け出来たらと思っておりますので、こちらのページ(ブログ)では毎月一回の私の担当記事のご紹介をしていきたいと思います。

どうぞ宜しくお願いします。

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私達は“食”という文化を産業として商いを営んでいます。
また、それらに“存在意義”を高めていくことを念頭に日常に寄り添う手段を見出そうともしているのだと思います。

そんな中、ここ数年のコロナウィルスの猛威に私達のみならず生活や社会といった全体が規制や制限をかけられ、本来や従来といった理想を奪われている現実が大多数を占め、私達は特にその“存在価値”を省かれているような位置付けに立ってしまいました。

それでもそんな逆境に立たされる事で、顧みるという時間を経た人もいるでしょう。

思えば真逆のインバウンドの時期、京都は誰のためのモノ?になっていたように思います。
観光地化が進み、異様なまでに人で溢れかえっていた街や町には生活の不自由も生じ、私達飲食店にも良し悪し含め多大な影響が出始めていて、迷走を究めている人も多かったのではないでしょうか?

そんな極端な両極を経て、今私達に芽生えているもの、又は構築されているものというのは何なのでしょう…。

時代はデジタルや情報化社会へと発展を遂げ、「ネットワーク」や「グローバル」といった規模が膨張しスピード感が増しています。
「システム」や「データ」という数値化が進み、マニュアルを招いたロボットのような思考が感性を支配しています。
「便利」や「利便性」は効率を生み、手間を省く最短で進むような距離感を求めるようにもなっています。

知識や答えを求めるものは画面上になっていて、沢山並んでいたり、整理されているようで混沌としていて、知れたようで身にならない。
人と繫がる手段はツールが主体となり、対面や対話を望んでいたはずの現実からは目を背けてしまい、眼差しさえ衰えてしまう。
それは目標や夢といった希望とするモノコトにもそうなってしまっているのかもしれないし、臆病だったり繊細になりすぎているのかもしれません。

以前はそういったきっかけや得たいものを手にするまでにも時間がかかった。
何より相手に対してやモノコトに対して慎重だったし敏感だったことを含め思いやりが今より多く必要で大事だったように感じれば大胆だったようにも思うのです。

あぁアナログだったあの頃の懐かしさ…
固定電話や手紙にフィルムカメラの緊張感、本やカセットやレコードに触れて感じる質感、待ち合わせ場所に向かう行為や駅の掲示(伝言)板に時計の針の動きに抱く時間の大切さ。
そうやって社会ではない生活の中でも失敗や体験が付随していて、そこから得る感情が何よりも豊かになって強くなっていったのだと思うと、今はいろんな「ルール」や「規則」に守られているようで縛られているだけにしか思えません。

決して今の時代を否定している訳ではありません。
生きやすくなったとさえ感じます。

だけど、なのに息苦しい…
溢れているようでありふれていて、自由なようで窮屈で、世界は広がっているようで狭く感じ、そんな葛藤が歯痒いです。
「共有」や「共通」を求め、同調を得る事でしか存在価値を高めれないような人間関係さえ増え始め、「個人」や「個性」といった一つの小さな光さえ輝けなくなってきているように思うのは私だけでしょうか?


それは“飲食店”といった商いでも同様の事態を招いているように思います。

一昔前、バブルが弾けて資本力や外資系がより姿を現し、資本主義がさらに格差を生み始めました。
そこには“資金”に換えることの重要性が特出し、経済や社会が“人”をある意味全体で見なくなっていったようにも思います。

食券やセルフサービスが増加し人を介す事が減り始めれば、客席で感じる開放感は一方で不必要な自由になってしまったとも言える。
カードや電子マネーが人の目を見るやり取りやお金の重みを感じる体感を簡素化し、さらに言えば作り上げるものさえ機械に頼り、安定や量産に導いたものにはぬくもりが欠けるのです。
接客はサービスと化しているものの、そこにはあるべきはずのおもてなしの“心”は欠け、単なる仕事になっていて、やはりそんな“時間”や“場所”には“尊敬心”や“信頼関係”というものは生まれにくくなっているのではないでしょうか?

それの何が問題なのかと思う人も居るのかもしれませんが、私には少し前にはまだたくさんあった人肌を感じるお店が感慨深いし、そんなお店に“居心地”や“安心感”を抱いていたと同時にこれからも増えていってほしいと強く願っています。
そしてそんなお店達が頭や心の片隅にで残り、また訪れたいとお店を後にするのです。

それは母の味のように求めてしまい、それらは実家に帰るような感覚で店主や従業員に会いにいく。
そこは自分を快く受け入れてくれて自身の部屋のように過ごしやすいのだけど、外に足を運んでいるという感覚はマナーが生じ背筋が伸びる程良い緊張感と相まって心地良い。
今ではお店探しは片手で繋ぐ画面越しに行き場を知る事も出来れば、選ぶ事さえ簡単になったけど、少し前は本当の口コミや雑誌を片手に時に彷徨う時間さえ楽しみになった。
記録されるタメに作られるのではなく、綺麗を纏うだけではない料理には、旨さ以上の美味しさがあり、飾らなくても記憶に残る肌感がそこには確かに存在していた。
勿論そうやって足を運ぶことで、その人なりの正解や不正確、失敗や成功といった結果に繫がるのだけど、それらが体験や経験となりお店選びやお店を知る醍醐味として価値になっていたのも確か。

それは学問ではない漠然としたセカイに置いては答えを知る事よりも、その方程式を重ね選択していく作業が何よりも重要で、そこには遠回りがあっても導き出す自分なりの“やりがい”や“幸せ”に結び付ける事が何よりも自身を強くする土台作りや回答に繫がるのだとも信じたいです。


『早い・安い・旨い』もあれば『手間暇かけた熟練の技』もある飲食店のセカイ。
その中間もあれば、何処にニーズを合わせるかはお店側の信念。

だけどそこにはお客様のタメがあって生まれる意義があり、想う気持ちが無ければ続いていくことさえ難しいのだと思います。

等組合は主に個人店さんを支える役目を担っています。

脱サラして人生を賭け、生きるタメに飲食のセカイに飛び込んだ人。
自身の経験を生かし、その技術や感性を惜しみなくお店という舞台で披露して来た人達の歴史も積み重なっています。

時代背景は変わっていき、現代は生活のタメという感覚で仕事や商いに向き合う人達も少なくありません。
だけどファッションではなくパッションを持って、着飾るのではなく自分のスタイルでお客様に愛される店を作り上げ、継続されるお店さんを支え応援したいと切に思いますし、何よりも良きライバルとしても切磋琢磨していける京都の食文化や喫茶文化の継承を担いたいと思っております。

受け継ぐ事と発展する事の両方を掛け合わせ、変えない(守る)事と変える(新しくする)事の矛盾も一環出来る仲間として手を取り合っていければそれほど心強いことはないはずです。

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