「この前、還暦を過ぎたなぁ思てたら、もう喜寿になってたわ」そう笑顔で話すのは、昨年会社としても120周年を迎えた『一澤信三郎帆布』の4代目信三郎さん。今や「一番リストラに近い男やしなぁ」と冗談交じりに話しながら、自身の目で見る現在の景色、そして地域を大事にする日々を送りながら過ごす喫茶店での時間について伺ってみた。
創業は1905年、前身となる『一澤帆布』は曾祖父から始まり、祖父の2代目、3代目の父へと受け継がれていきます。そのような系譜の中で、大学卒業後は新聞社で10年ほど勤めていた信三郎さんが、幼い頃から手伝っていた馴染みのある家業に転身することにしたのが1980年。職人の丁寧な手仕事の本質は揺るがさず、新しいデザインやユニークな発想で帆布製品の時代を作り上げていき、代表取締役に着いたのが1988年のこととなります。その揺るぎない信念と地道な努力の積み重ねは、紆余曲折を迎えながらも着実に成長を遂げていきます。信三郎さんの真摯な物作り、そして真面目な仕事への取り組み方は、自身の感性と職人の技によってお客様の心を離すことなく現在に至っているのです。
「もうウチは時代に遅れ続けてるからなぁ」と微笑みながらも、その核心は、私達にも強く響きます。それは喫茶店や個人店の取り巻く環境や継承の在り方にも通じることです。それでも店舗の拡大ではなく、心の豊かさを大事にする経営の手腕を、当たり前のように笑顔で取り組む姿勢は現在でも実店舗一軒のみで、そこに人の足を向ける魅力を作る。利便性や効率を求めない販売の方法は、商品力にも繋がっています。そして、ずっと使い続けてもらうためにも、顔を合わせて話しをして、エピソードなども含めて修理もする。「この前も、外国人のお客さんが2日くらいしか京都におらんって言わはるから、すぐに直してあげたわ」と、京都や日本が生活圏ではない方々にも、日常使いのためやその人の愛着のためのおもてなしをする。そうして、長い間使い込んでいくことが、その人にとってのヴィンテージのような価値を生むのです。
その視点はお客様側だけではない、工場で汗を流す職人達にも目を向けていて「作り手がチームを作ってなぁ、あぁやこぅや1つ1つのパターン作りやプランを立ててるんやけど、人によって作業の順や作り方も違うし、何でそんなんしてんのって思う時もあるんやど(笑)」と、システムやマニュアルではない、その人の技や人間力が現れる物作りが、一澤信三郎帆布としての商品を皆で作り上げるブランドとなっていて、それが製品に味わいを感じさせ、お客様が何処か愛情を注いでしまうのではないでしょうか。そして大量生産を行わないのもそれらに通ずる。機械や工場を自動化して、デジタルを加えればいくらでも作業効率は上がるけれども、人の手の技術が向上せず、身に付かず、製品の質にある意味繋がらないと感じておられ「ウチのミシンはなぁ、古いしずっとアナログ、なんてったて昔のものはシンプルで丈夫やし壊れへんからずっと使い続けてるし、第一に汎用性がある」だからこそ、パートナーとなる機械や物作りにも、そして人と向き合うことにも努力を惜しまないのかもしれないし、一澤信三郎帆布が時代に振り回されることなく歩み続けることが出来ている所以なのかもしれません。
そのような話が、現在の喫茶飲食業の取り巻く環境にも、痛いほど核心を突いてるなぁと思うのが、画面越しの注文やキャッシュレス決算、そしてセルフとなるサービス。私が日々職人という観点で取り組む焙煎としても、同じようにデジタル化やシステムを加えたマニュアル化は止まらず、作り手としての想いや腕を磨く意図、そして経験なる物事の価値が反映せれづらくなっている。一見似て非なるものになってしまっているからこそのもどかしさと、何でもAIに頼りつつある現代に、人を介することや無駄と思うような遠回りにこそ、心を蓄える重要性があることを伝えていきたいと思っていただけに、人生の先輩になる方のお言葉は多大だと共感していると…。「ほんであんたぁ、今日は何の話しをしに来たんやったけ?(笑)」と本題に移るが、信三郎さんがコーヒーに馴染みを持ち始めたのは小学生の頃、友人の牛乳屋さんや銭湯で飲むコーヒー牛乳から。その後、高校や大学に進学しても、その当時の喫茶店は不良のたまり場のようなものだったので、そこまで嗜むことはなかったという。社会人になってからは「そういえば先斗町で、西洋のお好み焼きを食わしてくれる喫茶店を聞いて、行って食べたけど、あれがいわゆるピザやったんやろなぁ」「連れとグループで喫茶店に入った時に、ある一人がブルーマウンテンって言いよって、みんなキョトンとしたのも覚えてるし、そんな格好付けんでも…と思ってなぁ」と、普段コーヒーを飲むようになっていた信三郎さんも、そこまで専門的に味わいを深掘りする訳ではなく、やはり今でも、ナポリタンやサンドウィッチなどの食事と一緒に、新聞や本などの読書の傍ら、そして考え事の時間に利用するために喫茶に足を運ぶことが多い。勿論、交友の広い信三郎さんは、食の楽しみにも時間も設けて、いろんな方々との交流や関係構築の場を大事にし馴染みの店など行きつけも作る。私自身も、2013年から3年半ほどは、信三郎さんの店の近くの古川町商店街の脇で独立したての喫茶店を営んでいて、信三郎さんをはじめとするスタッフの方々には大変お世話になっていた時期がある。その当時より前には、東の錦と言われていた古川町商店街や、職人の町として栄えていた東山の風景は大分と変わっていて、今では昔から住む人の数も減っていて寂しさを覚えるという。「昔は職住同居やんか」そうやって家に帰れば親の仕事をしてる姿が見れて、そうやって自然と触れていることで親しみや誇りも持つ。当時何でもそろうデパートも良かったけど、そうやって専門店で励む店が京都には沢山あったから、近隣ごとの横の繋がりを持ちながら活気があったように思う、とも。今は「地域貢献言うんかなぁ」近くの店に順番というか定期的に足を運ぶことで、東山の地を何となく客観的に眺めることも忘れない。
そんなお話しを聞く中で伺える信三郎さんの言葉や表情は、何に対しても決して悲観することなく受け入れる懐の広さや深さを感じさせる。「ミシンの音や帆布の匂いに包まれるのもええやろ、だからここ(工場)で作ってここ(店)で売る」そうやって地域に根付いて歩みを止めず、一澤信三郎帆布は今日も東山の地に、日本中から、いや世界中から足を向かせる意味を作りながら未来に向かう。
【プロフィール】
一澤 信三郎
昭和24年生まれ。京都東山の地に男三人兄弟の次男として誕生。小さい頃から住まいが仕事場だったため、学生時代から家業を手伝うことも多かった。
★一澤信三郎帆布ホームページ↓
https://www.ichizawa.co.jp/
創業は1905年、前身となる『一澤帆布』は曾祖父から始まり、祖父の2代目、3代目の父へと受け継がれていきます。そのような系譜の中で、大学卒業後は新聞社で10年ほど勤めていた信三郎さんが、幼い頃から手伝っていた馴染みのある家業に転身することにしたのが1980年。職人の丁寧な手仕事の本質は揺るがさず、新しいデザインやユニークな発想で帆布製品の時代を作り上げていき、代表取締役に着いたのが1988年のこととなります。その揺るぎない信念と地道な努力の積み重ねは、紆余曲折を迎えながらも着実に成長を遂げていきます。信三郎さんの真摯な物作り、そして真面目な仕事への取り組み方は、自身の感性と職人の技によってお客様の心を離すことなく現在に至っているのです。
「もうウチは時代に遅れ続けてるからなぁ」と微笑みながらも、その核心は、私達にも強く響きます。それは喫茶店や個人店の取り巻く環境や継承の在り方にも通じることです。それでも店舗の拡大ではなく、心の豊かさを大事にする経営の手腕を、当たり前のように笑顔で取り組む姿勢は現在でも実店舗一軒のみで、そこに人の足を向ける魅力を作る。利便性や効率を求めない販売の方法は、商品力にも繋がっています。そして、ずっと使い続けてもらうためにも、顔を合わせて話しをして、エピソードなども含めて修理もする。「この前も、外国人のお客さんが2日くらいしか京都におらんって言わはるから、すぐに直してあげたわ」と、京都や日本が生活圏ではない方々にも、日常使いのためやその人の愛着のためのおもてなしをする。そうして、長い間使い込んでいくことが、その人にとってのヴィンテージのような価値を生むのです。
その視点はお客様側だけではない、工場で汗を流す職人達にも目を向けていて「作り手がチームを作ってなぁ、あぁやこぅや1つ1つのパターン作りやプランを立ててるんやけど、人によって作業の順や作り方も違うし、何でそんなんしてんのって思う時もあるんやど(笑)」と、システムやマニュアルではない、その人の技や人間力が現れる物作りが、一澤信三郎帆布としての商品を皆で作り上げるブランドとなっていて、それが製品に味わいを感じさせ、お客様が何処か愛情を注いでしまうのではないでしょうか。そして大量生産を行わないのもそれらに通ずる。機械や工場を自動化して、デジタルを加えればいくらでも作業効率は上がるけれども、人の手の技術が向上せず、身に付かず、製品の質にある意味繋がらないと感じておられ「ウチのミシンはなぁ、古いしずっとアナログ、なんてったて昔のものはシンプルで丈夫やし壊れへんからずっと使い続けてるし、第一に汎用性がある」だからこそ、パートナーとなる機械や物作りにも、そして人と向き合うことにも努力を惜しまないのかもしれないし、一澤信三郎帆布が時代に振り回されることなく歩み続けることが出来ている所以なのかもしれません。
そのような話が、現在の喫茶飲食業の取り巻く環境にも、痛いほど核心を突いてるなぁと思うのが、画面越しの注文やキャッシュレス決算、そしてセルフとなるサービス。私が日々職人という観点で取り組む焙煎としても、同じようにデジタル化やシステムを加えたマニュアル化は止まらず、作り手としての想いや腕を磨く意図、そして経験なる物事の価値が反映せれづらくなっている。一見似て非なるものになってしまっているからこそのもどかしさと、何でもAIに頼りつつある現代に、人を介することや無駄と思うような遠回りにこそ、心を蓄える重要性があることを伝えていきたいと思っていただけに、人生の先輩になる方のお言葉は多大だと共感していると…。「ほんであんたぁ、今日は何の話しをしに来たんやったけ?(笑)」と本題に移るが、信三郎さんがコーヒーに馴染みを持ち始めたのは小学生の頃、友人の牛乳屋さんや銭湯で飲むコーヒー牛乳から。その後、高校や大学に進学しても、その当時の喫茶店は不良のたまり場のようなものだったので、そこまで嗜むことはなかったという。社会人になってからは「そういえば先斗町で、西洋のお好み焼きを食わしてくれる喫茶店を聞いて、行って食べたけど、あれがいわゆるピザやったんやろなぁ」「連れとグループで喫茶店に入った時に、ある一人がブルーマウンテンって言いよって、みんなキョトンとしたのも覚えてるし、そんな格好付けんでも…と思ってなぁ」と、普段コーヒーを飲むようになっていた信三郎さんも、そこまで専門的に味わいを深掘りする訳ではなく、やはり今でも、ナポリタンやサンドウィッチなどの食事と一緒に、新聞や本などの読書の傍ら、そして考え事の時間に利用するために喫茶に足を運ぶことが多い。勿論、交友の広い信三郎さんは、食の楽しみにも時間も設けて、いろんな方々との交流や関係構築の場を大事にし馴染みの店など行きつけも作る。私自身も、2013年から3年半ほどは、信三郎さんの店の近くの古川町商店街の脇で独立したての喫茶店を営んでいて、信三郎さんをはじめとするスタッフの方々には大変お世話になっていた時期がある。その当時より前には、東の錦と言われていた古川町商店街や、職人の町として栄えていた東山の風景は大分と変わっていて、今では昔から住む人の数も減っていて寂しさを覚えるという。「昔は職住同居やんか」そうやって家に帰れば親の仕事をしてる姿が見れて、そうやって自然と触れていることで親しみや誇りも持つ。当時何でもそろうデパートも良かったけど、そうやって専門店で励む店が京都には沢山あったから、近隣ごとの横の繋がりを持ちながら活気があったように思う、とも。今は「地域貢献言うんかなぁ」近くの店に順番というか定期的に足を運ぶことで、東山の地を何となく客観的に眺めることも忘れない。
そんなお話しを聞く中で伺える信三郎さんの言葉や表情は、何に対しても決して悲観することなく受け入れる懐の広さや深さを感じさせる。「ミシンの音や帆布の匂いに包まれるのもええやろ、だからここ(工場)で作ってここ(店)で売る」そうやって地域に根付いて歩みを止めず、一澤信三郎帆布は今日も東山の地に、日本中から、いや世界中から足を向かせる意味を作りながら未来に向かう。
【プロフィール】
一澤 信三郎
昭和24年生まれ。京都東山の地に男三人兄弟の次男として誕生。小さい頃から住まいが仕事場だったため、学生時代から家業を手伝うことも多かった。
★一澤信三郎帆布ホームページ↓
https://www.ichizawa.co.jp/





































































































































