ローマ史クラブ

  都市国家ローマの興りから、王政、共和政、元首政を経て帝政に至るローマの歴史、その後の中世暗黒時代、ルネサンスを経過して現在までのイタリア史を、世界史等と対比しながら綴り、本当のローマ史(イタリア史)解明を目指します。

元老院での対決

フォロロマーノ
      (ローマの政治の舞台、フォロ=ロマーノ)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリアに行き、兄との合流を果たそうとしたが、ローマ軍との激闘の末、戦死。スペインは概ねローマ領となった。

 

【 本 編 】

スペインの解放者として迎えられたスピキオだったが、元老院議員の圧力は相当なものだった。

スピキオは次の赴任先として北アフリカを要望したが、元老院議員らの回答はノーの一言。最も頑迷に反対したのは、ローマの盾とも称されたファビウスだった。

スペインのカルタゴ軍団は無くなったとは言え、イタリア半島のカラーブリア地方に居座るハンニバルは健在で、ローマ軍は歯が立たない。まずは国の守りを固めて、ハンニバルを地中海に追い落とした後に北アフリカでカルタゴとの雌雄を決するべきとの主張である。

これに対し、スピキオはハンニバルの事例を挙げ、敵地で暴れまわることが、いかに精神的に敵を参らせるかを強調。加えて、北アフリカで一回でも勝利すれば、絶対にハンニバルはイタリア半島から離れることも付け加えた。

結局は、スピキオの意見が通り、スピキオとその配下は北アフリカに上陸することになる。

 

 

≪アレクサンダーの戦術書を公開?≫

 

スピキオは、カルタヘナの城塞を陥落させた時に、何らかの戦術指南書なるものを手に入れた可能性は否定できない。それは、カルタヘナ攻略時を境にして、ローマ軍団の戦い方に、変化がみられるためである。

それまでのローマ軍団は、或る意味、マニュアルに従った戦い方をするという軍団だった。マニュアルの存在は、どんな無能な司令官でも一定した戦果を挙げることに期待が持てるというメリットがある。

だが、逆の見方をすれば、戦い方がワンパターンであるため、敵軍に優れた司令官がいれば、立ちどころに見抜いてしまわれ、裏をかかれる恐れがあるといったデメリットをも併せ持つ。

ハンニバルは多分に後者のタイプであったのだろう。イタリア半島の爪先に追いやられても、未だローマに対峙し、しかも勝ち戦ばかりであったのだから。

スピキオは、ハンニバルといかに戦うか、そのグランドデザインをローマ元老院内で披露したのだろう。北アフリカに上陸し、強力な騎兵軍団を味方に付け、その騎兵力をもってしてカルタゴ軍団に打ち勝つ、しかし手柄は重装歩兵に譲るといった形で。

当時のローマ元老院を牛耳っていたのは、あのファビウスである。持久戦論者を論破するには、敵軍の持つアレクサンダー大王(ハンニバルが尊敬する)の戦術指南書を手に入れたことと、この戦術指南書に書かれてあることを基に作戦を立案して披露するしか、論破する方法は無い。

渋々ながらファビウスが応じたのは、もしかしたらそんな背景があったのかも知れない。

重要な部分については、案外、歴史書に残らないものである。

 

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バルカ家のスペイン放棄

セビリア (2)

(スペイン・セビリア-この近辺でイリパの戦闘が行われた-)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリアに行き、兄との合流を果たそうとしたが、ローマ軍との激闘の末、戦死した。

 

【 本 編 】

スピキオに粉砕されたかに見えたスペインでのバルカ家の勢力だが、未だ7万の軍団を保有していた。対するスピキオは4万程度である。

バルカ家の総指揮権はジスコーネに託された。マゴーネは4千の騎兵を率いていた。現在のセビリア近くの平原イリパでローマ軍を迎え撃つ作戦を取った。

 

対するスピキオは、現住部族の味方を加えても48千。74千のカルタゴ軍とは倍の開きがあった。スピキオはゆっくりと前進し、カルタゴ軍と対峙した。

 

カルタゴ軍は戦闘に挑もうと、ローマ軍陣営目指して前進してくるものの、両軍とも睨み合いのまま自陣へ帰還するといった日々が数日間続き、遂にカルタゴ軍は、太陽が昇り切って、始めて布陣するといった軍紀の緩みが見え始めた。

 

スピキオは、そうなって初めて、全軍に払暁の布陣と戦闘の触れを全軍に前夜の内に言い渡した。次の日、日が昇る前に、ローマ軍はカルタゴ軍に戦闘を仕掛けた。

カルタゴ軍は、朝食も取らずに、陣形もバラバラのまま戦闘に参戦することになった。敗れ去ったことは言うまでも無い。

この戦闘で、ジスコーネ、マゴーネ共に大西洋からカルタゴに逃げ帰った。これで、概ねスペインはローマのものとなったと言われる。

 

 

≪市民兵と傭兵の違いを見抜いていたスピキオ?≫

 

この戦闘は、5万の兵士が7.5万の軍団を打ち破ったことで、評価はできる。

だが、カンネーの戦闘程の評価はされていないのには理由があるのだろう。

 

その理由の一つに、市民兵中心の5万の軍団が、傭兵中心の7.5万の兵団を破ったことにある。傭兵は、命を懸けるのが司令官から支払われる金以外に無い。片や市民兵は、自己の祖国の防衛意識から戦闘に参加している訳で、その意識の違いは明白である。

 

傭兵は、若干でも負けが込んで来れば、自分の命欲しさに我先に退却を始める。踏み止まって戦闘をする者等、いよう筈が無い。だが、市民兵は負けが込んでもかなりの時間、踏み止まって戦う持久力を保持している。

 

イリパの戦闘で、1日目に両軍睨み合いに終始し、戦端が切り開かれなかったことで、スピキオは勝利を確信したのかも知れない。それは、傭兵という軍団が、どの様な構成になっているかを熟知していたからこそであろう。この“傭兵”の出自や扱い方についても、『ハンニバルの戦略書』で概ねスピキオは熟知していたことであろう。

 

但し、1日目にいきなり戦端が開かれていれば、このイリパの戦闘は、カルタゴ側の勝利で終了した可能性もある。それは、「傭兵とは勝ち戦となれば、ことの他強いから」である。手柄を認められたいがために、勝ち戦と分かれば、その破壊力は計り知れない。

スピキオも初日の陣地では、もしかしたら、気が気では無かったかも知れない。下手に敵側が戦闘を仕掛けてこようものなら、どう対応すれば良いか・・・、“退却”の二文字が頭を過ったこともあったであろう。

 

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ハスドゥルバル=バルカの死

リミニ

(リミニの地図-この付近でメタウロの決戦が行われた-)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリア行を決定した。

 

【 本 編 】

エブロ川を渡ったハスドゥルバル=バルカは、フランスに入り、ハンニバルと同様のルートを辿ってイタリアに入った。アルプスを越えたのだ。しかし、アルプス山脈に割拠するガリア人らは、ハンニバルの噂を聞いていたため、妨害をするどころか、むしろ支援する部族まで現れる程だったらしい。

難なくアルプス山脈を越えたハスドゥルバル=バルカは、イタリアに入り、ハンニバルに自軍のルートを伝える伝令を派遣する。しかし、伝令は全てローマ軍に捕らえられ、スペインからのカルタゴ軍増援部隊のルートを掴むことができた。

これに対し、共和制ローマ側は、執政官リヴィウスを筆頭に3万の軍勢で迎え撃った。だが、途中のガリア部族の応援でカルタゴ増援部隊は5.5万に増強。この状況を知ったハンニバル軍の動きを阻止する部隊の司令官クラウディウス=ネロは、7,000名の精鋭部隊を率いて、南伊から北伊までの800キロを強行軍。

4万のローマ軍と、5.5万のハスドゥルバル軍とは、リミニ付近で戦闘が開始された。最初は互角だったが、勝敗のつかない状況にイラついたクラウディウス=ネロが自らの精鋭を右に廻り込ませ、半ばカルタゴ軍を包囲する形になった時、勝負がついた。

ハスドゥルバルは、敵のローマ軍に突入し斃れた。ハンニバルがハスドゥルバルのイタリア到着を知ったのは、南伊のハンニバル陣営にハスドゥルバルの首が投げ込まれた時だったと言う。

 

 

≪一子相伝の戦闘参考書?≫

 

ハスドゥルバルのイタリア侵攻を見ると、妙に脇の甘さが目立つ。

これは、オリエントの軍団司令官特有の大軍で押し潰すという、余りにも芸の無い戦法で、“これがハンニバルの弟か?”と疑いたくなる下記の様な行動からも明らかだ。

 

  現地で偵察行為を行っていない

  ハンニバルとのパイプが全く繋がっていない

  メタウロでの戦闘も、軍陣に工夫が無く、既存の踏襲・・・等々

 

この事実は、多分、ハミルカルが編み出し、ハスドゥルバル(娘婿)、そしてハンニバルと書き加えられていった戦略が、カルタゴ領スペイン領主にしか伝えられなかったことを示している。

所謂、一子相伝の“カルタゴ戦略書”なるものが存在した可能性は否定できない。

この中には、歩兵中心の古代の軍隊の中での決戦兵力としての騎兵の活用や、軍事スパイの利用の仕方、異なる民族を組み入れた際の戦闘組織の作り方から作戦展開の方法等、あらゆることが記されていた可能性が強い。

しかし、ハンニバルの弟と言う割には、余りにも平凡な軍事司令官ハスドゥルバル=バルカは、イタリア侵攻後、直ぐに大会戦で敗死してしまった。

このことから、ハミルカルの軍事思想(カルタゴ戦略書)は、一子相伝で伝えられた可能性が強い。そして、ハンニバルはイタリア侵攻の際に、時の首都、カルタゴ=ノヴァに、その写しを置いてきた可能性は否定できない。

 

では、その様な“カルタゴ戦略書”なるものが、本当にあったのだろうか?

その回答は、「多分、存在した!」というのが著者の見解である。

異民族の傭兵を取り纏め、軍陣を組ませ、戦闘に臨まなければならず、司令官はその時々の戦闘で選任されるカルタゴ人となれば、軍団指揮に当たって、一定の基準が求められることは言うまでも無い。

それらは、口頭で伝えるには、余りにも分量が多過ぎるため、マニュアル書として纏められることが多いためである。

 

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ザマのプロローグ

エブロ川

(スペイン・エブロ川-ハスドゥルバルもここを渡りイタリア入りした)

 

都市国家として出発した王政ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化したローマは、北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。

一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、イタリア半島への侵入を許す。ローマとの戦闘では全てハンニバルに凱歌が上がったが、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。ローマ側はハンニバルを南伊に閉じ込めることに成功していた。また、敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功した。

 

【 本 編 】

スペインに留まったスピキオ=アフリカヌスは、カルタヘナの守備を住民に全面的に依頼し、自身は内陸に入っていった。

カルタヘナから10日の所に、ハンニバルの弟、ハスドゥルバル=バルカが陣を敷いていた。ハスドゥルバルは、このベクラという街の前面に陣を敷き、友軍マゴーネの到着を待っていた。

 

しかし、先に到着したのは、スピキオ率いるローマ軍団であった。

ここでスピキオは、手早く陣形を整えて、有利な位置を占めるハルドゥルバルの陣を無理やり正面から攻撃。

その後、未だ布陣最中の右翼と左翼も同時に攻撃したため、ハスドゥルバル=バルカ軍団は潰走。

スピキオ率いるローマ軍に凱歌が上がった。

 

その後、ハスドゥルバルは、マゴーネの軍勢と合流。マゴーネ、ジスコーネと相談の上、精鋭3万だけをハスドゥルバルが引き連れて、イタリアを目指し、ハンニバル軍団と合流する計画を立て、その実行に動く。

 

 

≪スピキオの作戦研究≫ 

スピキオは、カルタヘナ滞在中に、グラディウス・ヒスパニエンシスという、後のローマ軍団兵の主力兵器を開発すると共に、布陣と戦闘展開の研究や、細かい兵士一人一人の動きまで研究していた可能性がある。多分、ハンニバルの様な、天才的な軍才には恵まれていなかったかも知れないが、ハンニバルが居館にそのまま置いていった、“戦闘参考書”を熟読することは可能であったと想定できる。

 

このベクラでの戦闘で、兵士一人一人の動きを確認し、増援部隊投入のタイミングも概ね掴めたのかも知れない。

スピキオは、既にこの時点から、来るべき“Xデー”には、自分自らがローマ軍団兵の指揮を執り、ハンニバルとの直接対決に臨まなければならないとの、ある意味悲壮とも言える決断をしたのであろう。

 

スピキオの対戦相手のハスドゥルバルは、弱い印象を受ける。兵力の多寡で勝敗が決定する訳では無いにせよ、寡兵で自らの陣が突破されたのは、正直、ショックだったかもしれない。

商業と貿易の民カルタゴ人は、戦争自体を好まず、それがため、ハスドゥルバルも、戦闘が何年も無い年月を過ごし、それがために、軍隊の教練や新たな布陣の研究、戦略立案等を行わず、ただ無為に過ごした、通常のカルタゴの将軍、と言い切ることができるだろう。

 

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ヒスパニアでのスピキオ

ハンニバルアルプス超え

(ハンニバルのアルプス越え-武器職人も一緒に越えたであろうが、何人が生き残ったのだろうか?-)

 

都市国家として出発した王政ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化したローマは、北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。

一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、イタリア半島への侵入を許す。ローマとの戦闘では全てハンニバルに凱歌が上がったが、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。ローマ側はハンニバルを南伊に閉じ込めることに成功していた。また、敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功した。

 

【 本 編 】

スペインの現カルタヘナ(古代名・カルタゴ=ノヴァ)攻略に成功したスピキオだったが、未だにスペインには優に10万を超えるカルタゴ軍が居座っていた。

このカルタゴ軍に対処するために、カルタヘナを留守にすることが敵わず、カルタヘナ市内で市民からの協力者を募ったりしつつ、敵地で内政を司るという、通常の考え方からすれば、イカレていることを実施した。

 

内政の第一は、海軍の増強である。現地のカルタゴ総司令官と違い、温情路線を採用したスピキオは、ガレー船の建造と、漕ぎ手の募集を行い、戦争終結の際には、絶対に解放するとの約束まで取り付けた。

 

内政の第二は、自軍ローマ軍と、現地志願兵の歩兵部隊の猛特訓である。行列から始まって、集団での正確な布陣と、変形の団体訓練、加えてマラソン等である。これも、戦争終結に際し、解放を約束したため、現地スペイン人は協力的だったと言われる。

 

内政の第三は、ハンニバルの資産の徹底運用である。民政にも力を尽くしたであろうが(民政をしっかりしないと、これ程纏め上げることは不可能)、武器の改良も実施した。これまで、長くて細い刀身のスパタという剣を使用していたが、これを、その後長くローマ軍団兵の主要兵器となるグラディウス=ヒスパニエンシスを開発。軍団兵全員に持参させた。

 

スピキオが敵地で内政充実を図っている時、ハスドゥルバル=バルカは、カルタヘナ攻略を断念し、抑えとして、マゴーネ等の2軍団に任せ、自らは兄のハンニバルに合流すべく国境を越え、イタリアを目指した。

 

 

≪首府カルタヘナでスピキオは何を見たのか?≫ 

カルタヘナを攻略したコルネリウス=スピキオは、多分、このままスペイン全土を制圧する前に、武器の改良や、組織だった訓練等やるべきことが多いことに気付いたのではないだろうか。

まず、多分、街の造り自体がまったく違い、カルタヘナは、かなり機能的な街づくりがされていたのかも知れない。

そして、攻略後、時雄置かずにできたカルタヘナのパトロンから、色々とハンニバルの統治方法や軍団訓練等を極短期間の内に聞き出した可能性は強い。

また、武器職人も数千人もいること等も手伝って、自軍以上の軍事力を誇る危ないカルタゴ軍との戦闘といった賭けに出るより、自軍の充実強化が重要と判断を下したのだろう。この様な状況下にある場合、有能な司令官は、通常は元老院に対し、戦勝報告と同時に、未だ敵に囲まれている予断の許さない状況にあるため、首都を動かない旨を伝えるもの。スピキオもその道を選んだ可能性は残る。

 

スピキオは、この地で新兵器グラディウスを採用するが、この採用自体も、これまでのスパタと比較し乱戦に威力を発揮するという理由と、折れ難く頑丈であったとの理由からであったのかも知れない。

後のザマの戦いで、スピキオはハンニバルの戦略をそのまま使用して、カルタゴ軍に勝利したが、ハンニバルの城館に、もしかしたらギリシア語か何かで、記録が残されており、それらを参考にしつつ兵士訓練や、布陣の訓練、更なる作戦研究を実施したのであろう。また、兵器の再生産には膨大な数の職人が必要で、このカルタヘナの職人を全て共和政ローマの手中にできたことは大きい。

さも無くば、そうそう直ぐにハンニバルに勝利すること等出来なかった筈である。

共和政ローマが大躍進を遂げるのは、将にこの頃からである。

ローマの大躍進は、ハンニバルの頭脳が果たしたと言っても過言では無いだろう。

 

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