ローマ史クラブ

  都市国家ローマの興りから、王政、共和政、元首政を経て帝政に至るローマの歴史、その後の中世暗黒時代、ルネサンスを経過して現在までのイタリア史を、世界史等と対比しながら綴り、本当のローマ史(イタリア史)解明を目指します。

日本と韓国

東京
 日本が7月に「韓国をホワイト国から外す」と宣言。8月2日をもって、ホワイト国対象外としたところ、韓国は、「GSOMIAを破棄する!」と宣言。日韓の政治・経済の叩き合いに、アメリカですら辟易としているようだ。今回は、本件について、私見を述べたい。

 そもそも、日本が「ホワイト国から除外する」とした件の発端は、韓国側の「徴用工問題」にあるとされる。そもそも、従軍慰安婦も徴用工も存在しなかったと言われる(全く無かったかどうかは疑わしいが、組織的かつ大々的には無かったということだと考える。当時は戦争中。戦争中は、何でもありといった感じ。だが、何でもありの欧米に比べ、日本は社会的規律が盤石だった)。
 良い事例がインパール作戦である。最後の詰めで敗北した日本陸軍は、撤退する時、多くの兵が飢えで倒れた。通常、付近の村々を襲って、食べ物を強奪するものだが、大日本帝国陸軍の兵は、「盗む位なら、飢え死にする方」を選んだようだ(頭を下げて食糧を恵んで貰う方法もあったとは思うのだが・・・・・・)。

 この様な事例を見ても、従軍慰安婦や徴用工等は無かったのは明らかだ。慰安婦や徴用工は、民間業者がやっていたらしいが、しっかり金を払っていたのである。
 ウソ情報を垂れ流しされ続ければ、「いい加減にしろ!」と言いたくもなる。加えて、シンガポールや台湾ですらホワイト国ではないのに、韓国がホワイト国というのは、日本側が片目を瞑ってくれていた賜物と考えて差し支えない(ギリシアがホワイト国というのは、未だに解せないのだが・・・・・・)。そんなにウソ情報を垂れ流すなら、ホワイト国を本当に外して、普通の関係にしましょう、というのが日本側の考えなようだ。
 これに対し、韓国側はGSOMIA破棄といった荒い対応に出た。アメリカが絡んでいるのに、それを破棄とは・・・・・・。正直、驚きを隠せない。韓国は、北朝鮮にでも擦寄る気なのだろうか?

 だが、少し考えて貰いたい。普通の日本人や普通の韓国人は、民間レベルだと通常の良い関係を望んでいることは確かだ。歩んで来た歴史は、通常では考えられない程違う(土台、隣国同士なのに宗教が違うというのは、有り得ない)のだが、お互い隣同士の国である。肌の色も同じ人種同士ならば、表情を読み取ることも可能だ(これ、意外と重要。我々に白人の細かい表情を読み取れと言われても少し難しい!)。要するに、民間レベルでは今まで通り仲よくしていたいというのが、両国民の本音ではないdしょうか?

 世のニュースは、例外を、さも本流であるかの如く報道します。では、韓国でのデモに参加しているのは極少数です。大多数がそうであるかの様に報道してますが、カメラワークでどうにでも撮影できるものです(全てのデモ映像がローアングル。ドローン等でハイアングルで撮影した映像は一切ナシ)。
 デモそのものが、ヤラセの可能性も否定できません。

 韓国政府並びに、反日の方々には、少し冷静になってほしいものです。傍から見て、韓国はクラフト産業国家でしかありません。ホワイト国規制を外されて、驚天動地の大騒ぎをする位なのですから。
 これを機に、部品からマザーマシンまで製造できる国家に生まれ変わるよう、努力すべきと考えます。近隣で、そうなった国があります。完璧ではないでしょうが、台湾です。鉄道等の一部の技術は、全て輸入に頼っていますが、半導体等は、シェアを下げているとは言え、部品から何から自前で調達できるのではないでしょうか?
 かく言う日本も、航空機産業等、弱い部分は存在します。が、全て国産化する努力は怠っていないと信じます。韓国も、これを機に、不満もあるでしょうが、奮起して頂ければと思います。それができれば、台頭な関係を築くことができると私は思います。
 本ブログの読者の方々、どう考えますでしょうか?

元老院での対決.2

スピキオ
      (ローマの英雄・プブリウス=コルネリウス=スピキオ)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリアに行き、兄との合流を果たそうとしたが、ローマ軍との激闘の末、戦死。スペインは概ねローマ領となった。

 

【 本 編 】

スペインの解放者として迎えられたスピキオだったが、元老院議員の圧力は相当なものだった。

スピキオは次の赴任先として北アフリカを要望したが、元老院議員らの回答はノーの一言。最も頑迷に反対したのは、ローマの盾とも称されたファビウスだった。

スペインのカルタゴ軍団は無くなったとは言え、イタリア半島のカラーブリア地方に居座るハンニバルは健在で、ローマ軍は歯が立たない。まずは国の守りを固めて、ハンニバルを地中海に追い落とした後に北アフリカでカルタゴとの雌雄を決するべきとの主張である。

これに対し、スピキオはハンニバルの事例を挙げ、敵地で暴れまわることが、いかに精神的に敵を参らせるかを強調。加えて、北アフリカで一回でも勝利すれば、絶対にハンニバルはイタリア半島から離れることも付け加えた。

結局は、スピキオの意見が通り、スピキオとその配下は北アフリカに上陸することになる。

 

 

≪武器の改良も?≫

 

スピキオは、カルタヘナの城塞を陥落させた時に、何らかの戦術指南書を入手したと考えられるが、それに加え、剣の改良も行っている。この剣は、後に『グラディウス・ヒスパニエンシス』と称されるようになる。

具体的には、柄の部分が太く、切っ先に近づくに連れて次第に細くなるもので、刃渡りは60㎝程と言われる。実際、現代では見る機会は少ない。観光地の土産物屋で販売されているものは、「グラディウス・ポンペイ型」と称されるもので、カルタゴ陥落後に創造された新しいタイプのもの。

古代ローマ関係の映画等で拝見するタイプは、全てこのポンペイ型であると言っても差し支えないと思われる。

連戦連敗を続けていれば、その相手と再び対峙することについては、どれほどの楽観論者でも、深く考え込むもの。そんな時に、スピキオはハンニバルの戦術指南書に加え、ハンニバルが使用した武器についても、その製造方法等について、スペイン原住民から情報を集めたのではないかと想定される。無論、良質な鉄が手に入ったことは言うまでもない。

武器の性能の向上、そして、相手の出方によって自軍を自由自在に変える変幻自在の戦術指南書を手に入れたお陰で、スピキオは、元老院を説き伏せ、新たな戦い方を披露できたのではないかと想定される。

カンネーで、ローマ軍がボロボロに負けた後も、ハンニバルはイタリア半島に居続けた。そして、イタリア半島の爪先に追いやられても、未だローマに対峙し、確かに先が見えない状況ではあったが、戦闘では負け知らずであった。

これに対し、当時の最高司令官ファビウスの戦術は、ハンニバル軍団にピタッと張りつき、チラチラッとゲリラ戦を仕掛けるだけで、根本的な解決策とは言い難い戦略であった。いずれいつかは、誰かが大会戦に訴えなければならない時、スピキオが元老院に「敵の戦術・戦略で敵を倒すべき!」と熱弁をふるったのだろう。

渋々ながらファビウスが応じたのは、もしかしたらそんな背景があったのかも知れない。


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元老院での対決

フォロロマーノ
      (ローマの政治の舞台、フォロ=ロマーノ)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリアに行き、兄との合流を果たそうとしたが、ローマ軍との激闘の末、戦死。スペインは概ねローマ領となった。

 

【 本 編 】

スペインの解放者として迎えられたスピキオだったが、元老院議員の圧力は相当なものだった。

スピキオは次の赴任先として北アフリカを要望したが、元老院議員らの回答はノーの一言。最も頑迷に反対したのは、ローマの盾とも称されたファビウスだった。

スペインのカルタゴ軍団は無くなったとは言え、イタリア半島のカラーブリア地方に居座るハンニバルは健在で、ローマ軍は歯が立たない。まずは国の守りを固めて、ハンニバルを地中海に追い落とした後に北アフリカでカルタゴとの雌雄を決するべきとの主張である。

これに対し、スピキオはハンニバルの事例を挙げ、敵地で暴れまわることが、いかに精神的に敵を参らせるかを強調。加えて、北アフリカで一回でも勝利すれば、絶対にハンニバルはイタリア半島から離れることも付け加えた。

結局は、スピキオの意見が通り、スピキオとその配下は北アフリカに上陸することになる。

 

 

≪アレクサンダーの戦術書を公開?≫

 

スピキオは、カルタヘナの城塞を陥落させた時に、何らかの戦術指南書なるものを手に入れた可能性は否定できない。それは、カルタヘナ攻略時を境にして、ローマ軍団の戦い方に、変化がみられるためである。

それまでのローマ軍団は、或る意味、マニュアルに従った戦い方をするという軍団だった。マニュアルの存在は、どんな無能な司令官でも一定した戦果を挙げることに期待が持てるというメリットがある。

だが、逆の見方をすれば、戦い方がワンパターンであるため、敵軍に優れた司令官がいれば、立ちどころに見抜いてしまわれ、裏をかかれる恐れがあるといったデメリットをも併せ持つ。

ハンニバルは多分に後者のタイプであったのだろう。イタリア半島の爪先に追いやられても、未だローマに対峙し、しかも勝ち戦ばかりであったのだから。

スピキオは、ハンニバルといかに戦うか、そのグランドデザインをローマ元老院内で披露したのだろう。北アフリカに上陸し、強力な騎兵軍団を味方に付け、その騎兵力をもってしてカルタゴ軍団に打ち勝つ、しかし手柄は重装歩兵に譲るといった形で。

当時のローマ元老院を牛耳っていたのは、あのファビウスである。持久戦論者を論破するには、敵軍の持つアレクサンダー大王(ハンニバルが尊敬する)の戦術指南書を手に入れたことと、この戦術指南書に書かれてあることを基に作戦を立案して披露するしか、論破する方法は無い。

渋々ながらファビウスが応じたのは、もしかしたらそんな背景があったのかも知れない。

重要な部分については、案外、歴史書に残らないものである。

 

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バルカ家のスペイン放棄

セビリア (2)

(スペイン・セビリア-この近辺でイリパの戦闘が行われた-)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリアに行き、兄との合流を果たそうとしたが、ローマ軍との激闘の末、戦死した。

 

【 本 編 】

スピキオに粉砕されたかに見えたスペインでのバルカ家の勢力だが、未だ7万の軍団を保有していた。対するスピキオは4万程度である。

バルカ家の総指揮権はジスコーネに託された。マゴーネは4千の騎兵を率いていた。現在のセビリア近くの平原イリパでローマ軍を迎え撃つ作戦を取った。

 

対するスピキオは、現住部族の味方を加えても48千。74千のカルタゴ軍とは倍の開きがあった。スピキオはゆっくりと前進し、カルタゴ軍と対峙した。

 

カルタゴ軍は戦闘に挑もうと、ローマ軍陣営目指して前進してくるものの、両軍とも睨み合いのまま自陣へ帰還するといった日々が数日間続き、遂にカルタゴ軍は、太陽が昇り切って、始めて布陣するといった軍紀の緩みが見え始めた。

 

スピキオは、そうなって初めて、全軍に払暁の布陣と戦闘の触れを全軍に前夜の内に言い渡した。次の日、日が昇る前に、ローマ軍はカルタゴ軍に戦闘を仕掛けた。

カルタゴ軍は、朝食も取らずに、陣形もバラバラのまま戦闘に参戦することになった。敗れ去ったことは言うまでも無い。

この戦闘で、ジスコーネ、マゴーネ共に大西洋からカルタゴに逃げ帰った。これで、概ねスペインはローマのものとなったと言われる。

 

 

≪市民兵と傭兵の違いを見抜いていたスピキオ?≫

 

この戦闘は、5万の兵士が7.5万の軍団を打ち破ったことで、評価はできる。

だが、カンネーの戦闘程の評価はされていないのには理由があるのだろう。

 

その理由の一つに、市民兵中心の5万の軍団が、傭兵中心の7.5万の兵団を破ったことにある。傭兵は、命を懸けるのが司令官から支払われる金以外に無い。片や市民兵は、自己の祖国の防衛意識から戦闘に参加している訳で、その意識の違いは明白である。

 

傭兵は、若干でも負けが込んで来れば、自分の命欲しさに我先に退却を始める。踏み止まって戦闘をする者等、いよう筈が無い。だが、市民兵は負けが込んでもかなりの時間、踏み止まって戦う持久力を保持している。

 

イリパの戦闘で、1日目に両軍睨み合いに終始し、戦端が切り開かれなかったことで、スピキオは勝利を確信したのかも知れない。それは、傭兵という軍団が、どの様な構成になっているかを熟知していたからこそであろう。この“傭兵”の出自や扱い方についても、『ハンニバルの戦略書』で概ねスピキオは熟知していたことであろう。

 

但し、1日目にいきなり戦端が開かれていれば、このイリパの戦闘は、カルタゴ側の勝利で終了した可能性もある。それは、「傭兵とは勝ち戦となれば、ことの他強いから」である。手柄を認められたいがために、勝ち戦と分かれば、その破壊力は計り知れない。

スピキオも初日の陣地では、もしかしたら、気が気では無かったかも知れない。下手に敵側が戦闘を仕掛けてこようものなら、どう対応すれば良いか・・・、“退却”の二文字が頭を過ったこともあったであろう。

 

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ハスドゥルバル=バルカの死

リミニ

(リミニの地図-この付近でメタウロの決戦が行われた-)

 

ローマは、戦争や交易を通じて近隣の民族を同化。政体を共和政に変え、イタリア半島の最大勢力エトルリア民族をも同化。北アフリカを拠点に地中海世界を支配していたカルタゴと対峙。一度はカルタゴを撃破したものの、名将ハンニバル=バルカの奇略により、戦闘では全て全敗。しかし、ローマ軍の領内の封じ込め戦略が功を奏し、次第にハンニバル側は不利になっていく。敵地スペインのカルタヘナ攻略にも成功し、弟、ハスドゥルバルはイタリア行を決定した。

 

【 本 編 】

エブロ川を渡ったハスドゥルバル=バルカは、フランスに入り、ハンニバルと同様のルートを辿ってイタリアに入った。アルプスを越えたのだ。しかし、アルプス山脈に割拠するガリア人らは、ハンニバルの噂を聞いていたため、妨害をするどころか、むしろ支援する部族まで現れる程だったらしい。

難なくアルプス山脈を越えたハスドゥルバル=バルカは、イタリアに入り、ハンニバルに自軍のルートを伝える伝令を派遣する。しかし、伝令は全てローマ軍に捕らえられ、スペインからのカルタゴ軍増援部隊のルートを掴むことができた。

これに対し、共和制ローマ側は、執政官リヴィウスを筆頭に3万の軍勢で迎え撃った。だが、途中のガリア部族の応援でカルタゴ増援部隊は5.5万に増強。この状況を知ったハンニバル軍の動きを阻止する部隊の司令官クラウディウス=ネロは、7,000名の精鋭部隊を率いて、南伊から北伊までの800キロを強行軍。

4万のローマ軍と、5.5万のハスドゥルバル軍とは、リミニ付近で戦闘が開始された。最初は互角だったが、勝敗のつかない状況にイラついたクラウディウス=ネロが自らの精鋭を右に廻り込ませ、半ばカルタゴ軍を包囲する形になった時、勝負がついた。

ハスドゥルバルは、敵のローマ軍に突入し斃れた。ハンニバルがハスドゥルバルのイタリア到着を知ったのは、南伊のハンニバル陣営にハスドゥルバルの首が投げ込まれた時だったと言う。

 

 

≪一子相伝の戦闘参考書?≫

 

ハスドゥルバルのイタリア侵攻を見ると、妙に脇の甘さが目立つ。

これは、オリエントの軍団司令官特有の大軍で押し潰すという、余りにも芸の無い戦法で、“これがハンニバルの弟か?”と疑いたくなる下記の様な行動からも明らかだ。

 

  現地で偵察行為を行っていない

  ハンニバルとのパイプが全く繋がっていない

  メタウロでの戦闘も、軍陣に工夫が無く、既存の踏襲・・・等々

 

この事実は、多分、ハミルカルが編み出し、ハスドゥルバル(娘婿)、そしてハンニバルと書き加えられていった戦略が、カルタゴ領スペイン領主にしか伝えられなかったことを示している。

所謂、一子相伝の“カルタゴ戦略書”なるものが存在した可能性は否定できない。

この中には、歩兵中心の古代の軍隊の中での決戦兵力としての騎兵の活用や、軍事スパイの利用の仕方、異なる民族を組み入れた際の戦闘組織の作り方から作戦展開の方法等、あらゆることが記されていた可能性が強い。

しかし、ハンニバルの弟と言う割には、余りにも平凡な軍事司令官ハスドゥルバル=バルカは、イタリア侵攻後、直ぐに大会戦で敗死してしまった。

このことから、ハミルカルの軍事思想(カルタゴ戦略書)は、一子相伝で伝えられた可能性が強い。そして、ハンニバルはイタリア侵攻の際に、時の首都、カルタゴ=ノヴァに、その写しを置いてきた可能性は否定できない。

 

では、その様な“カルタゴ戦略書”なるものが、本当にあったのだろうか?

その回答は、「多分、存在した!」というのが著者の見解である。

異民族の傭兵を取り纏め、軍陣を組ませ、戦闘に臨まなければならず、司令官はその時々の戦闘で選任されるカルタゴ人となれば、軍団指揮に当たって、一定の基準が求められることは言うまでも無い。

それらは、口頭で伝えるには、余りにも分量が多過ぎるため、マニュアル書として纏められることが多いためである。

 

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