カルタゴ
(
「カルタゴを建設するディド」(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画)-ウィキペディアより-)

  

 中東のレバノンとイスラエルの間に連なる都市国家群、その中のテュロスの一植民市としての起源を持つカルタゴ。

では、その植民の実態はどんなものだったのか?テュロスの歴代王の伝承を書き留めたギリシア語の書物は、以下の様に語る。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~【カルタゴの起源】~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 カルタゴの建国は、紀元前800年頃とされている。

 当時のテュロス王ムットは、美貌の娘エリッサとまだ幼い息子ピュグマリオンを死後の相続人として指名。

 しかし、家臣団は幼い息子ピュグマリオンを王として選出した。エリッサは神官の叔父でテュロス№2の権力者アケルバスと結婚した。

 ある日、王ピュグマリオンは、アケルバスの持つ財宝に嫉妬して殺害する。

 夫を失い、自らの身も危険にさらされることになったエリッサは、彼女と同様に王を憎む家臣団を引き連れて、テュロスを出帆。

 途中立ち寄ったキプロス島では、この島の神官がエリッサに同行を申し出、彼の協力のもと、約80名のキプロス人の娘らを、彼女の部下の妻として連れ去った。

 

 そして船旅を続けている内、現在のチュニス付近を通りかかった。

 この付近は、海に突き出た岬があり、周囲を海と湖に囲まれていた。そして大陸につながる地峡には、屏風の様な峠が連なっていた。

 これを見たエリッサは、ここに街を建設する決意を固めた。

 

 適当な土地を見つけて上陸した一行は、土地の売買交渉を現地人と行った。「ただ一頭の牛の皮で覆えるだけの土地が欲しい。そこで部下を休ませた後、再度、出航したいから・・・」と。

 快諾した現地人。エリッサの部下らは牛の皮を持ち出し、細く細かく切り、長い紐を作り、それで丘を囲った。

 この丘は、後に「ビュルサの丘」と呼ばれることになる。ビュルサとはフェニキア語で“皮”を意味する。“皮の丘”というわけだ。

 こうして始まったカルタゴの建国。

 だが、ある時、原住民のマウレタニア人の王、ヒアルバスから結婚を強要された。エリッサの部下らは、のらりくらりと時間稼ぎに走ったのだろう。

 どうしても無理と分かると、エリッサは「カルタゴのために」と、自ら自殺した。

 エリッサは、ディドーとも称される。その意味は「さすらう者」である。

 

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≪実の所は?・・・

 この世で一度でも世界でも最先端の文明、固有の文化を誇った国家の起源は、概ね美しい伝承に彩られている。古代ローマのアイネイアスの伝説、日本の天照大神の伝承等も同様だ。

 だが、これらの伝説の多くは、現実的ではないことでも同様である。

 カルタゴのエリッサ王女伝説も、非現実的である。

 単純に考えて、下記の疑問が湧き上がる。

  カルタゴの都市名は“新しい町”という意味のフェニキア語。亡命者にそんな都市名を付けることを、本国テュロスは許すだろうか?

  紀元前800年代は、アッシリアの属国が長かった時代。属国の王、若しくは貢納国の王に、同族の暗殺等といったことができるのだろうか?

 この疑問に対する回答は多分、誰も出せないだろう。ということは、ギリシア語で書かれたものは、想像力旺盛な古代人の優れた文学作品である可能性が強い。

 

 カルタゴ建国の真相は、下記の方がより現実的ではないだろうか?

 

【カルタゴの建国の真相(多分・・・)

 アッシリアの属国となっていたテュロス。名君であった王には息子と娘とがいた。

 王は、このままいけば、フェニキア民族がアッシリアに呑込まれ、独自の文化・文明、そして財産さえ守れないと感じていた。

 そこで、王は、息子にテュロス本国を相続させた。

また、王は貿易船の船乗りらから、西方の北アフリカに、都市建設に絶好の土地があることを聞いていたのだろう。娘には信頼のおける部下を付けて、“カルタゴ”を建設させた。

 テュロス王は、アッシリア帝国によって、テュロスの富が奪われ、都市としてローカル化していく前に、カルタゴに、財産と文化の移行を画策した。

 その後のカルタゴの繁栄は、時のテュロス王の炯眼ではあったものの、それは、後のテュロスの斜陽化、そして没落へと至る過程の引き金を引いたことにもなったと言えよう。

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