2015年02月

冬安居の間の唯一の楽しみが、海外ドラマ「ニキータ:season1」を見ることです。

毎週土曜日は、主人公のニキータ(マギーQ)の活躍にドキドキ、ワクワクして何も手に付きません。

こんなドギツイ女性は友達にはなりたくありませんが、彼女だったら最高だな〜


こんにちは、アーナンダでございます。

最近、ちょっとした気づきのおかげで、自分自身が大きく変わり始めた事に気付いてきました。

この間、自分の輪講(仏典を各々が自分なりの解釈をして発表する時間)の模様を動画で見ていたのですが、まあ相変わらずのバカバカしい内容で、こんなにくだらなくて、何一つ役に立たない輪講も何だかいいんじゃないか?と感心していたのですが、自分の姿を見てあることに気づきました。


姿勢が悪い


昔からそんなに礼儀や作法で注意される事はなかったし、姿勢が悪いと言われる事もなかったのですが

改めて、動画に映る自分を見てみると、少し猫背気味でくだらない話をしている様は、売れない落語家のようではないですか
(落語家は、ワザと姿勢を悪くしてカッコ悪く見せている)

何だか、猫背って本当にカッコ悪いんですね。。。。

それから、わたくしは背筋を常に真っ直ぐする事を意識して生活することにしてみました。

歩く時、食事するとき、トイレの時(大の時も)、みんなでおしゃべりする時、勉強する時。

すると、どうでしょう。。。。

いきなり四六時中、背筋を緊張状態にしていたせいか、頚椎ヘルニアが悪化して、視力がガクンと落ちてしまいました。
(視力の低下は首や肩の痛みからくることが多いのでご注意)

これは、少し困った事になりましたが、背筋を伸ばして生活する事で頚椎ヘルニア以外にも身体に変化がおこりました。


①今まで普段からすぐに睡魔に襲われてしまい、ボーっとする事(頭に霧がかかる感じ?)がおおかったのですが、それがなくなりました。

②そのお陰かどうか、人の話や、考え事、坐禅なんかに集中できる時間が増えました。

③背筋を伸ばす事が影響しているのかどうかは不明ですが、今まで長時間の結跏趺坐(両足を両膝の上に乗せての坐禅)が苦手でしたが、なぜか急に苦もなくできるようになりました。

④背筋を伸ばしてると、何だか諸々の事もちゃんとしないといけない。って勝手に思えてきたりして「ニキータ」を部屋でコッソリと見る前に、部屋を綺麗に掃除してPC画面の前で結跏趺坐を組んで静かに背筋を伸ばした姿勢で見ていたりします。


背筋を伸ばしてからというもの、万事がこの調子の生活スタイルに変化しています。

そして2週間も経った頃には、背筋を伸ばそうと意識していた事が当たり前のようになり、特に意識せずとも背筋を伸ばした状態を維持できるようになり自然と背中の痛みも消えていきました(まだ視力は回復してませんが)

諸悪莫作(しょあくまくさ)という言葉がありますが

善い事をしようしようと意識していると、自然と善い事をする事が当たり前になり、悪さもしなくなるという事ですが、これと同じように背筋を伸ばそうと意識した結果、諸々のポジティブな事が増え、そのうち意識せずとも当たり前になったという話です。


脳みそフニャフニャで背筋を真っ直ぐで、次のPHASEに進んでいきたいと思います。


女性も堅そうに見えて、実は股がゆるくて背筋が真っ直ぐな女性だと最高ですよね。

(今回の放送で、ニキータは過去に潜入捜査の為に、身体を使って捜査対象の人間に近づいた事が判明しました。誰かmeを捜査してくれないかな〜)







雑阿含経典に四種の馬の話があります。

卓越した馬(鞭の音が聞こえる前に、騎手の意思に従って、早足や並足、あるいは左右に走る)

優秀な馬(鞭がちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに卓越した馬と同じように走る)

普通の馬(身体に鞭の痛みを感じた時に走る)

劣った馬(痛みが骨の髄まで達した時に走る)

今晩は、駄馬です。


 ご無沙汰しておりましたが、とくに、忙しい。寝てない。TV見てない。といった事はなく、楽しく修行しております。
(最近のお気に入りドラマは「ゴーストライターです」)

(中谷美紀さんが大好きです)

さて唐突ですが、寺で修行する人間は、おおまかに2通りのパターンの人間に分類されます。

何不自由なく育ちエリート街道をひた走る途中に、何をトチ狂ったか仏教に目覚めてしまった人間。

勢いだけで飛び込んでくるただの馬鹿野郎。


もちろん、わたくしアーナンダは後者の人間に分類されております。

 エリート雲水達は、何事も生真面目に行います。輪講(仏典を各々の解釈で読み込み、皆の前で発表する)でもアカデミックかつ自身の内面の苦しみなどを言葉巧みに表現されていて、聴いていて非常にタメになります。

 一方、わたくしはというと、良く言えば、大雑把。悪く言えば、雑。輪講でも下ネタ6割サブカルチャーネタ3割(ほぼ下ネタ)アカデミックな内容1割(コピペ)と、要するに、ほぼ9割下ネタと仏典を無理くりに繋げて、エリート雲水達を凍りつかせてしまう始末であります。

 俗世で、あれだけ皆をドン引きさせていた仏教の知識もエリート雲水達に囲まれてしまえば、露と消えてしまい、1日100mも歩かない生活を続けていたおかげで、皆が1時間で登れる山を1人だけ2時間かけて登ったりする。(でも決して急がず休憩を頻繁にとったりする)


今じゃすっかり、いつも愉快なバカ雲水であります。


 修行者としてこのままでいいのだろうか?(修行しているというのか?)

 禅的には、それでもいいんじゃない?と言う人もいるだろうが(me)そういうわけにはいかない。

 今のわたくしは、寺の住職曰く「worst」らしい(異論の余地なし)


だけど、住職はおっしゃいました。

もし優秀な奴が悟ったとしても、優秀な奴が優秀な人間になるだけで、何の代わり映えもない面白くもなんともない奴になるだけ。

それよりもバカや悪い奴が優秀になるほうが幅広くて奥行きのある人間になれるし、そっちの方が面白い。


名指しこそされはしなかったけど、この寺で1番、馬鹿で悪い奴というのは、わたくししかいないと自他共に認めます。

骨の髄まで痛みが走っても、まだ死にはしないと走らない駄馬のアーナンダです。

未だに座禅してる意味がよくわからないまま毎日座っております。作務もさぼります。提唱(住職の話)も寝てます。すぐ浮気します。お酒もよく飲みます。真面目な話が嫌いです。くだらない話が好きです。

そして、この寺でNo.1の馬鹿です



 白隠禅師という高僧が仰いました。

馬鹿になるとはどういうことか?

それは生きることを学び、死ぬことを学ぶということだ。

生きているうちに一度死ねば、真に生きることができ、ふたたび死ぬことはないのだ。

この意味は、死ぬというのは馬鹿になる事。

それは知性を諦めることではなく、抵抗をやめ、諸々のジャッジをやめ、差別をやめるこである。そして自分自身の批評や判断や非難や疑問を加えず生きる。


少し、馬鹿には難しいかも知れませんが、要するにアレヤコレヤと、自分の考えを張り巡らせて自分の視野を自ずと狭くしてしまうより、いっその事、自分のそういった考えを抜きにして物事を見てみると、新しく生まれ変わっちゃうかもよ?的なことです(たぶん)

 まあ、そんな馬鹿なわたくしだから、エリート雲水達の話に疑問の余地もなければ、住職の何気ない話も、住職が言ってる事だから素晴らしいはずだとタンポンよりもよく吸収(寝てるけど)。禅寺での非生産的に見える生活も、きっと何か意味があるのだろう?と思えてしまうのですから有り難いものです。


とりあえず、わたくしアーナンダは、鞭で叩かれた痛みが骨まで達して(頚椎ヘルニア)ようやく、ケツに火がつき、今この瞬間、禅寺競馬場の並み居るサラブレットを押し退けて、断トツでキングオブ馬鹿の栄光に一番近いところを走っているのです。



背筋を伸ばして見つめる視界は今日も良好であります!





あ〜馬鹿でよかった〜










外は大雪。。。。

同部屋のラトビア人は「チョット、サムイデスネイ」と言って押入れの中で寝ております。

暖かい毛布にくるまって寝るわたしくしには寒さなんて気にならないです。


今晩はアーナンダでございます。

最近はブログも中々進みません(読んでる人もあまりいないと思いますが)、何故なら、典座に輪講、法戦式に接心と朝から晩まで大忙しであります。

そして、人間忙しいと諸々の事を疎かにしてしまいがちになります。

 わたくしは、今週のサイクルでは典座をしているのですが、未だに慣れない釜戸にテンヤワンヤ、台所を煙でモクモクにしたり、お好み焼きを真っ黒に焦がしたり(美味しかったけど)、オカズの量が少なすぎて皆からの冷たい視線が突き刺さったりと、毎日バッタバッタしております。

 そうなってくると、細かいところにまで目が届かなくなり、料理以外の掃除や掃除や掃除などにアラが出て来始めます。

 その度に兄弟子(アメリカ人)に優しく注意を受けますが、兄弟子の目は「何でこんなことも出来ないんだ?この馬鹿は」と思っている目に見えてしまい、わたくしはその度に小さな心を痛めてしまいます。。。。

 アメリカ人の兄弟子は誰に対しても笑顔で話し、そして心優しくおまけにカッコイイのです。

 紫色のシャツの胸をはだけて着ている人であんなに色気のある男は世界広しといえども、この山寺にしかいません。

 そんな兄弟子も出来の悪いわたくしにはホトホト手を焼いておられます。一つの問題を修正すると次から次へと新たな問題を巻き起こすわたくし、今ではすっかり寺の問題児というか問題中年雲水です。。。。

 それでも兄弟子はわたくしの為にあれやこれや指導してくれるので、本当に申し訳なく思っております。

 兄弟子はわたくしに注意するときは、決して人前では注意せず離れたところで優しく丁寧に注意をしてくれます。そして必ず、「これはアーナンダさんだけの問題じゃなくて、みんなに言えることだからね。だから皆んなで気をつけてレベルアップしていけばいいね」と流暢な日本語でわたくしに語りかけてくれるのです。

わたくしは、申し訳ないやら情けないやらで下を向いてしまいました。

「気にすることないよ。皆んな同じだよ」

「いいえ、こんな初歩的な問題をおこすのは。。。。」

「そうじゃないよ!気にしない!LETS TRY!」

兄弟子の青い瞳が物悲しそうな目でわたくしを見つめるもんですから余計に辛くて仕方がありませんでした。



 そして今日のディナーの後のティーミーティングで事件が起こりました。

兄弟子が突然「今日のミーティングの後で、典座さんみんなで集まってミーティングを行います」

わたくしは、その瞬間全てを悟りました、そしてそれがどういう結果を招くかという事も。。。

兄弟子は、きっと注意されて落ち込んでいるであろう、わたくしに気を使って「皆んなに注意してるんだよ」と言った事を言葉だけではなく実践して示してくれたのです。兄弟子はそういう人なのです。

けど。。。そんな事をしたら。。。。

「何?今の典座はアーナンダ君?何か問題でもおこしたのか?」

やっぱり。。。。。

住職が訝しげにわたくしの方を見ています。そして、 他の雲水達も「なんだよ、またアーナンダかよ!」と思ったに違いありません。

それからの事は、あまり覚えていません。台所にみんなで集まり、アレをしたらいけない、これをしたらいけない、全てわたくしが一通り注意されたことであり、他の雲水達は「まだ、こんな失敗してんのかよ」的な態度で話を聞いております。

わたくしは、ただただ赤面した顔をさとられないように視線を落とし、この場から消えたいと願うだけでありました。

皆の前での公開処刑が終わり、兄弟子はわたくしに「気にしなくていいからね」とウインクしてくれました。


先ほど、きっちりと掃除と明日の朝(銀杏の炊き込み玄米 白菜と里芋のピリ辛味噌炒め サツマイモの煮物 味噌汁 焼きリンゴ)夜(カレー サラダ)の準備をして参りました。


しっかりと掃除ができる人間は美味しい料理を作れる!掃除のできない人間はマズイ料理しかできない!


確かにそうですね。


明日は1日接心(朝5時〜昼の3時)です、しっかり座って寝てここのところの疲れを取りたいと思います。

おやすみなさい。



ちなみに兄弟子はパスタを作ってる時に、何故か固さをチェックしたパスタの麺を「イェーイ!」と言いながら、近くの壁に投げつける癖があります。これはきっとアメリカ人の風習かなんかなんでしょうかね?







この寺で誰が一番HOTかと問われたら?それは間違いなくわたくしアーナンダでありましょう。

極暖ヒートテックを上下3枚づつ重ね着、その上にダウンジャケットを着て、更にその上に裏起毛のスエットを3枚、それからネックウォーマーにホッカイロ3個。

今回の接心ではストーブの前で座禅という絶好のポジションということもありまして、終始のぼせっぱなしで接心をなんとか終えることができました。


今晩は、アーナンダでございます。接心終わった瞬間に典座(料理番)がスタートという苦行に耐えながらなんとか生きております。

 わたくし頚椎ヘルニアという持病がありまして(なった原因は運動不足)、疲れがピークに達してくると左肩甲骨付近に激痛が走り、その痛さはやがて頭にも目にも来てしまい、しまいにはどこが痛いのかよくわからないくらい痛くなり、痛くて痛くていつの間にか目が三重、四重瞼になってしまうのです。

 今回の接心も3日目にそれを発症してしまい、その後は痛さと眠さの狭間で一人格闘を続けていました。

 5日間も座禅していると、普通はあれやこれやと雑念が出てきます。それら雑念を手放すことができてこそ修行の成果というものですが、今回のわたくしは背中が痛すぎて雑念どころの騒ぎではありません。

 とにかく、この背中の痛さから逃れたい一心でしたが、いかんせ、ただ座っているだけの状態なのでバンテリンを塗ることも痛み止めをのむこともできません(どうせ効かないのですが)

 腹式呼吸をし続けて、吐き出す呼吸と共にほんの少しだけ痛さが緩和する事がわかるり、一生懸命腹式呼吸をしていると今度は、息の吸い方が悪いのか腸の運動が活発になるのか何かで、すぐに屁が出そうになるのです。

 静まりかえった神聖な僧堂の中で屁ができるほど、わたくしの心はストロングではありません(気にせずブリブリしてる人もいますが)屁を我慢すると、背中に力が入ってしまい、より一層痛みは激しさを増していくばかり。

 このままあと二日もつのか?それともこのまま痛さで死んでしまうのか?(大袈裟でなく本当に)

そんな事を考えれば考えるほど、時計の針はスローモーション。一分一秒が気の遠くなるほど長く、ましてやあと二日なんて。。。。

 住職は、「ここで死んでもいいと思えば、座禅も自ずと楽になる」と仰いますが、わたくしは、こんな山の中で死にたくありません。

 屁を我慢、痛さも我慢、3日目にして体力の限界。

夜9時にようやくその日の座禅が終わると、いつもなら、わたくしは部屋の布団にくるまり一瞬で眠りに落ちていたのですが、同じ事を繰り返していたのでは、また明日から地獄の苦しみが待っていると思うと何だか眠れなくなってきました。

わたくしは、ない頭を振り絞り痛みから逃れる為のあらゆる方法をかんがえました。そしてようやく一つの答えに辿り着きました。

そうだ!寝ないでおこう!

そして座禅中に寝よう!

横になれば、幾分か背中の痛みも和らぐし起きていてもそれほど苦ではない、しかし座禅をしていると姿勢を保とうとする事で背中に負担がかかり、激痛が走り、屁も止まらない。

ならば、朝まで起きていて、座禅中に寝てしまえば、痛さも忘れるんじゃなかろうか?

幸い今回のわたくしの座禅のポジションはストーブの前。寝るにはうってつけの場所です。

その日の夜から本来ならインターネットは禁止のはずですが、朝まで映画をみて過ごしておりました(ギルバートグレープ。ニキータ。キックアス。猿の惑星。ユージュアルサスペクツ。凶悪。そして父になる。ぐるりのことetc)

 この作戦が功を奏し、朝5時、座禅の始まりの合図の鐘と共に眠りにつき、夜の9時終わりの鐘が鳴るとゆっくりと瞼を開く。そして痛さは何処へやら。。。。

我らが宗派の開祖、道元禅師も正法眼蔵の現成公案の中でこうおっしゃておられます

 仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。

 自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである。

わたくしは、座禅の中で自己の痛さを問い、そして座禅中の深い眠りの中で自己を忘れ痛さを忘れる事が出来たのです。

今日も夜空に輝く月を掴むために、また一歩、前進できたと思います。


さて明日は、朝5時から朝食を作らなければいけませんが、昼間に寝すぎたので全然眠れる予感がしません。

明日も苦行が待ち受けていますが、精進していきたいと思います。

おやすみなさい











 







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