鳥龍茶(にゃおろん茶)

一連の刀による映像に疑問がある人は達人+名刀でどうぞお試しください。誰が怪我するわけでもありません。

体重調整の要、いかにして美味しく高タンパク低脂肪なものを摂取するか、そんなわけでいつでも家でバーベキューをできるようにしている。DSC01492

 これを書いた西川一三は日本軍のスパイでモンゴル人ラマに成りすまし、チベットに潜入、チベット仏教を学びチベットで日本敗戦の知らせを聞いている。1950年帰国。つまり当時中国に敵意を持ち、ましてや中国共産党になどなんら好意も持っていない日本人の証言である。     

 
夕暮れ時の環状路はラマ、尼の読経の声で沸き立ち、ラサはラマ教徒のメッカ、聖地としての雰囲気を十分に漂わせている。入蔵困難な神秘境として、紀行文などからも。ラサが極楽浄土のような聖地、そこに住んでいる人々も、さぞ仏のような心境を持った心根を持った人々だろうと、想像することだろう。確かにこの絢爛たる寺、狂信的な人々の姿は、いとおうが意見だけは聖地らしい印象を人々に与えている。
 
 しかし私はこの外見だけは仏教都らしい信仰に満ちあふれていることを肯定するが、その内容、中身は、悲しいことにそのまま肯定することはできないのである。ラサほど道徳が乱れ、風紀が紊乱し、ただれきった汚い街は、世界にもないだろう。聖地どころか、泥沼のような街であるといいたい。
 
 チベットの一般の国民は、ラマ教、すなわち仏教を信ずることによって生きている。こうのにおいはあ終日部屋に満ち、朝夕諸仏諸菩薩の前に額ずき、すべて仏教に関係を持たぬ話は一つもない家庭に育った彼らは幼いときから何事も、自業自得、自分のした悪事は、自分で苦しい思いをして償わなくてはならぬ。また自分のなした善事の結果、すなわち快楽幸福も、また自分が受けられ、そしてこの因果応報は未来永劫続くものであり、私たちの心もまた死んだからといって決して滅するものではない。再びこの世に生まれ変わって来るものであることをお伽噺として父母から聞かされている。
 
 こうしてラマ教を信仰することによって、自分の犯した罪は償なわれ、快楽幸福は取得せられ、寺、僧侶に供養すること、着飾って灯明鉢を手にして仏殿にぬかづくこと、あるいは米搗きバッタの用に這いつくばって右繞、叩頭を続けることが最高の振興の表現だと教えられ、信じられている。彼らの仏教の信仰は、ただ形式的信仰にほかならないのである。仏教の根本原理である人としての行い、進まなければならぬ道への修養、自己を磨こうなどということは微塵もない。だから彼らの間には道徳などひとかけらもない。
 
 政府の首脳部は、小作人、民衆の利益のために働くということより、どうして彼らから少しでも多く搾取するか、ということしか考えない。また世襲制度で貴族出身であればどんなぼんくらでも高官に就ける彼らは、一般民衆やラマの中に自分より学問、思想方面に傑物が出れば、不法、不道義でも、理由もなく権力を持って圧迫し、葬ろうと勤める。
 
 私の在蔵中、一番恐れたのはこの不法を不法としない、不道義を不道義としない、封建的なチベット政府の政治であった。最初、シナ官憲にとらわれるよりは、チベット官憲にとらわれた方が安全だと気安い考えを持っていた。それもしだいに、いくらこちらが道理を通しても受け入れられず、またこちらが正しいことでも、それを受け入れようとしない無法者のようなチベット官憲は、シナ官憲に捕らわれる以上に危険であることを、感ぜずにはいられなくなってきたのだ。これは政府だけではなく、民間でも徳より金で、シナ社会のほうがよほど住みよいということに気づかされた。またどこの国でも同じであるが政府内の貴族、高僧の指導者間にも派閥があり、相互に時の権力によって相手方を闇から闇へ葬る、醜い闘争も常に繰り返されてきたのである。

 

 この政府の高官たちとともに、民衆を護ってくれるべき兵隊も、民衆にとっては恐ろしい存在であった。一度チベットに暴動が起これば、民衆は暴動より、これを鎮圧に出動した国の兵隊から受ける被害が大であることを昔から知っている。兵隊たちは暴動の鎮圧はどうでもよく、どうにかしてこの際自分の私服を肥やそうということに汲々としているからで、民主は養っている兵隊が見方であるのか、敵であるのかわからない有様なのである。

漫画「慈悲と修羅」 

 チベット人の性関係は一婦多夫、一夫多妻、婿一人が姉妹を共有したりしている。一人の男が後妻はもちろんのことであるが、後妻の連れ子にあの方が使用可能の娘がいればその娘まで独占したりして、私たちのとうてい想像のできないことである。ラサの裏の裏では、一体どのような無茶苦茶な性関係が展開しているのであろうか、紹介してみよう。


チベットには蒙古、タングートと同様、日本、シナのような公娼私娼というものは見られない。これは、主に遊牧社会のため、人家が点在して街というものが、構成されないからであろう。しかし例外ではあるがラサの街には私娼が街の副産物的な職業となっていた。この私娼も日本の私娼を想像されては間違いである。女に抱え主というものがあるではなく、借金で身を縛られているのでもない。もちろんやり手婆さえもいない。ただ部屋を借りていてそこで客を取る。いわゆる戦後日本で流行したパンパンの類である。

しかしラサの市民はこの私娼を利用する必要はないのである。女であればそれが貴族の奥さんであろうと、人妻であろうと、処女であろうと、彼女らは男たちの求めに応じてくれるからである。この場合男たちは幾ばくかの金は用意しなければならないが必要としない女もいる。
 男が道ばたで歌を歌うと家の中庭から歌が返ってくる。これで約束がつく。歌のわからないものでもポン引きがいるので心配ない。代わりに話をつけてきてくれる。

 このように、全く無茶苦茶な腐りきった、動物的な性関係が繰り広げられていることは、いかにチベットの女が貞操などは問題としていないかを示している。それもチベット人の間だけではなく、在ラサのシナ、ネパール、回教徒、蒙古人などの他民族の妻になっているものも多く、これらの血が多量に混血しているのである。

奔放なチベットの女性は一家の長男の嫁としての子供、シナ人や回教徒との間にできた子供、夫の弟との間にできた子供と、多種多様な子供を産んでいる。夫もそれを知っていてそのまま自分の子供同様に育てるが時々虫の居所が悪いと容貌が明らかに違う子供に「お前は俺の子じゃないんだから出て行け。」と怒鳴る。ひどい女になると夫のいないときに自分の産んだ男の子を相手として使用している女もあるのだから全くお話にならない。聖地ラサも、その裏は以上のような性道徳のかけらもない、ただれきった街なのである。

 

以上の文章は西川一三というチベットに潜入した日本人が書き記したものです。
西川は戦前にチベットに潜入しておりチベットで日本敗戦の知らせを聞いています。
この文章を見れば漫画「慈悲と修羅」が如何に嘘くさいかわかるでしょう。

チベット暴動および長野のでもなど関連の問題で日本からの中国旅行が減ったそうである。
不思議なことにこの時期欧米からの旅行者は減っていない。
もちろん旅行会社は打撃を受けた。
それにつながるいろんな人が経済的打撃を受けた。
もちろん打撃を受けたのは旅行会社だけではない。
さまざまな業界が打撃を受けた。
WHOの基準から判断すれば日本人の自殺者は年間12万人程度。
一日あたり400人ぐらい自殺している。
もちろん今回のチベット関連の問題でぎりぎりのところにいた人最低でも数百人が地獄に突き落とされたことになる。
かれらを殺したのはだれか?
たくさんいる。
一部のマスコミ、デモの参加者等等。
なんともうそ臭いチベット亡命側の主張を垂れ流す。
ペマ・ギャルポなんて堂々と自分の後見人であった木村肥佐夫の記録と矛盾した発言を繰り返している。
毒ギョーザの件も同様である。
実際毒ギョーザで死んだ人間は一人もいない。
しかし度重なる偏向報道で経済的に打撃を受けぎりぎりのところにいた人が少なくとも何百人と地獄に落ちたことだろう。
騒ぎたてる人間のせいでたくさんの人間が地獄に落ちた。
もしあの報道がなければ彼らの命は助かっていた。
どうしても報道しなければいけないというのなら公平に報道すべきである。
あの事件は傷害事件で、決して保健、衛生の問題ではない。
きちんと調べれば農薬の危険性が低いこと、中国食品が欧米より安全なことはすぐにわかるはずである。
これから一部のマスコミ、騒ぎ立てる人間によってどれだけの人間が地獄に落ちるのだろう。

朝青龍「ダライ・ラマは師」謹慎中、チベット高僧が激励

っておいおい・・・

かつて清朝はモンゴルの勢力を疎ましく思いとある政策を進行していた。
その政策とは「チベット仏教推進」である。
実はこのチベット仏教はセックス教団である。
そしてラマ僧を媒介して梅毒が広まり、モンゴル人の数は激減していったという。一方満州族は自分たちは基本的に儒教の倫理にのっとって生活していたのでこのようなことはおきなかった。
体を洗うこともしなかったラマ僧(特に高僧)は初夜権なるものを持っていた。
モンゴル人も強大のうち何人かはラマ僧にならなければならなかった。
こうしてモンゴル社会に梅毒が広まり人口が激減していったのである。
軍閥の馮玉祥によれば最盛時1200万人いたモンゴル人は最も少ないときには50万人程度になっていたという。
もちろんこの数字を鵜呑みにするわけにはいかないが激減したことに間違いはない。
ほっておいたらモンゴル族はこの世から消えてなくなる可能性があったのである。
そして革命後チベット仏教が弾圧され再び人口が増えることとなった。
清朝と最も関係が深かったのはもちろんダライ・ラマ率いるゲルク派である。
一説にゲルク派は実際のタントラ(性交)を否定し、イメージによる修行に移ったと言われているがこれは誤りである。
実際は「民衆が勝手にタントラを行う」のを禁止したのである。
つまり高僧やその支持に従うのならばOKなのである。
戦前モンゴルに潜入していた日本人も証言を残している。
「モンゴルのラマ寺は大変に不潔で皿や服を洗うこともない。文化を持ったところからきたものならば食欲すらなくすだろう。そして大半の人が生まれたときから梅毒に犯されているのです。」
「特にラマ僧の梅毒にかかっているものははなはだ多い。」等。
ようは清朝は意図的にチベット仏教のラマ僧を送り込みチベット仏教を広め人口削減を行っていたのである。

ダライ・ラマは家族とは中国語を話していた
ダライ・ラマ十三世が死去したあとレティン・ラマは14世を探していた。
ダライ・ラマの幼名はLhamo Dhondup
これは実は女の子の名前で密教の理想像陰陽人になるという願いが込められていたという。
オフィシャルには
「捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧をチベット語ラサ方言で「セラ・ラマ」と呼んだ、という。また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという」
と書いてあるがこれはもちろん嘘である。
ダライ・ラマは小さいころそもそもチベット語が喋れなかった。
ダライ・ラマの故郷青海省・平安県は海抜が低く農業が主で漢民族同様の暮らしを送っていた。
ダライ・ラマも小さいころは漢語を喋っていたのだ。
ドイツのチベット密教研究家マッティアス・ハーマンズはこのダライ・ラマの家庭と顔見知りであった。
幼少のダライ・ラマに名前を聞くと「祁」と答えたそうである(中国名は祁福全)。
そもそもダライ・ラマの父親もチベット語が下手で普段(ポタラ宮殿内だろうが)漢民族と同じ服を着ていた。
またポタラ宮殿の中でもダライ・ラマ一家は漢語で話していた。
ラマパパはチベット料理が嫌いでポタラ宮殿でも漢料理で客をもてなしていたという。
何故かダライ・ラマの兄のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として修行していたという。
ものすごい確率である。
チベットに滞在していた日本の僧河口慧海曰く、

 

法王が死なれて今度生まれ変わってくるのをどうやって知るのかと申しますと、法王政府は
法王がおかくれになって後1年も経たぬ中にその4つの寺に命令を下し、どこへ生まれ変わったか こちらへ来てよく判断しろとこういうてやると、その4カ寺の神下しの坊さんは皆出てくるの
法王に生まれた化身の候補者というのをごく秘密に取り調べてみると、3人あるいは4人の子供を得ることになる、で5歳位になりますと、いよいよその子供をラサの政府へ 迎えますが、その取り決め方はシナの欽差駐蔵大臣と、それから法王がおかくれになった後の政治を 司っているところの代理の法王とが立会い、総理大臣および大蔵、陸軍、宮内、教務等の大臣たちと その次官のごとき者が皆集まるのです。
僧侶の方でも最も重い高等僧侶などは皆そこへ立ち会いまして、まず黄金の甕のような物に
その子供が3人であれば3人の名、4人であれば4人の名を書いて入れる。で、ちゃんと
封をしてそれから7日間大いに祈祷をなし経を読む。つまりこの中で真実の化身を得るようにといって、そういう大祈祷会を開きます。祈祷が終わる前に高位高官の人々が立会いの上で、封の してある甕をよく検めその封を切って蓋を開けると、シナの欽差駐蔵大臣が象牙の箸を持って、 眼をふさぎながら甕の中に突っ込んで1つだけつまみ出すのです。そのつまんだ名が誰に当たって いるか、その当たった子供が法王になるのです。
こういう風にするのですからあまり弊害もないようですけれども、私が駐蔵大臣の秘書官のマツェン という人から聞くところによると、随分弊害のあったこともあるようです。それは自分の子供が法王に なれば、自分らは法王の王族としてシナ政府から公爵を受けることが出来るのみならず、財産も沢山 得られて、実にこの世における円満な幸福を受けることが出来るというので、大いに賄賂を使って奔走 する奴がいるそうです。で、それらはまず駐蔵大臣に金を沢山やり、それからチベットの高等僧官にも 賄賂を沢山やる。

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木村と西川が泊められた宿では、夜になると主人が毛皮の夜具をかついで出ていく。その後に兵隊の班長がやってきて、女房と寝る。木村は翌朝戻ってきた主人に「お前は何ともないのか」と尋ねる。主人は「相手が兵隊じゃどうにもならない、へたすると土地におれなくなる、この土地では政府の兵隊といえば神様みたいなものだ、ほしい物はなんでもとる、したいことはなんでもできる、兵隊の馬の鈴の音(首の回りに小鈴をたくさんつけている)遠くから聞こえてくると、泣く子も黙り、女はかくれる」という。

この辺の者は皆、中国領土へ移住したがっている。チベット政府はむやみに税金を取り立てる。その税金も本当に政府へ届いているか、だれにもわからない。オラー(賦役)といっては家畜や物をとられ、人をかり出して労働させ、食料は自分持ちで賃金は一銭もくれない。それに比べると川向こうの中国領の同じ東チベット人は、はるかに楽な暮らしをしている。毎年税金はきまっているし、賦役には賃金が払われる。(『潜行』p206)

これが主人の話だった。木村は「チベットの封建制度の腐敗、末期的症状を、まざまざと見せつけられる思いがした。」と述べている。
木村がチベット追放された1年後、1950年10月にに中国軍のチベット侵攻がある。東チベットから侵入するわけだが、当初、中国軍に対するチベット人の一定の支持があったことは木村のこのようなレポートからも肯かれる。木村は、「(インドの)刑務所に入れられた間に、チベット人の囚人仲間から、人民解放軍がついにカム地方を通過して(多くのカムパがそれに協力したのは疑うべくもない)中央チベットに入ったことを知った」と書いている。しかし、中国支配が本格化するにしたがって、宗教的自由・政治的自由を求めるチベット人の不満が高まり、東チベットや南チベットで民衆蜂起が起こるのは1957年からである。

チベット密教では活佛の糞尿は万能薬だと考えられている。
活佛の糞尿は今でも丸薬にされ高額で取引されチベット亡命政権の重要な収入源になっている。
もっとも価値があるのはもちろんダライ・ラマの糞尿で1954年に北京に滞在したときは彼の糞尿はすべて金の盆にいれラサに送り返され丸薬にされていた。
ちなみにこれらの内容は日本でも本が出ているようである。
http://www.seikyusha.co.jp/books/ISBN4-7872-3111-1.html
まあ利くのかどうかわからないがこういうものは信仰の問題で利く人には利くのでしょう。
もちろんリチャード・ギアや石原慎太郎とかオリンピックの聖火消したがる人にはには効果抜群の万能薬なんだろうなあ。

ついでになんだかんだいってるけど中国政府って結局マインドコントロールの基本中の基本「服のコントロール」をやっていない。
文化を崩壊させて同化させるのに一番有効な「全員に同じ服を着せる」をやっていない。
「あなたの思想は自由だけどこれは社会の礼儀だからね」とかいって革靴とか履かせると走れなくなって暴動どころじゃなくなるのにそんなことしていない。
だからとても文化を壊そうとしてる状態からはほど遠いとしか思えない。

すげえ。


それはまだ夏の暑さが残る夕方だった。
知り合いから電話がかかってくる。
映画のオーディションに出ないかという誘いだった。
なんとその会場は俺の部屋から徒歩五分。
別に業界の仕事なら何でも請ける方針なのでもちろん行く。

渋滞で遅れてくる監督をしばらく待つ。
その映画はハリウッド映画でユンファ映画だ。
会場で悪役を募集していると始めて聞かされた。
今までの経験、会場にいた助監督の言葉から可能性が薄いを知っていた。
「悪役にするには格好よすぎる。」
やっぱりベタな悪役顔は得である。
業界に美男美女はいくらでもいる。
有名な俳優大学を出た中でも、美男美女よりフラワーな奴の方が正直役が回ってくる可能性そのものは高い。
監督の部屋に通される。
監督はとりあえずやらせてみるかといった態度で俺に脅すような口調で台詞を言ってみてくれと指示した。
さてここで何が起こったら監督はびびるか。
1、誰かが突然襲撃してくる。
2、震度7の自身が怒る。
もちろんどちらも起こっていない。
俺は丹田に意識を集め台詞とともに軽く獅吼功を放った。
全力でやり最新鋭の機器にハウリングを起こさせたこともある。
監督の体が一瞬びくつく。
監督「長い間監督をやっていて脅す演技をしろといって本当に驚いたのは初めてだ。」
どうやら決定である。
監督「馬には乗れるか?」
俺「競馬でもなければ。」
監督「じゃあ今日から撮影の日まで髭を伸ばしておいてくれ。君の顔は若すぎる。」
俺の役はラスボスだった。
そしてそれはおそらくチョウ・ユンファ映画史上最強となるだろう役であった。
というわけでハリウッド・デビューしました。
またやるかわからんけどね。

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