私が大学院を中退するからといって、読者諸氏にまったく関係ないし、なにしろどう頑張っても位辛気臭い話にしかならないのだが、奇特な人は経緯が気になるかもしれない。とはいえ、退屈な話ではあるから、別にいいやと思う賢明なる御仁は現時点でブラウザバックし、ニコニコ動画にでもアクセスし、愉快な動画で笑ったほうが良かろう。「腹筋崩壊」とかそういうタグがいい。それから、ぐっすり寝るのだ。

 かなり長くなる。
 大学院修士過程を修了するいくらか前、私は就職活動に入るか博士課程に進むかで迷った。ふつうに考えるなら、博士卒は就職には不利に働き、よほど研究が好きでないと選ばない道である。少なくともそういう通説になっているし、それで正しいと思う。しかし、私の所属する研究室では、博士課程に進学する先輩方も多く、また就職に困ってもいなかった。どころか、修士卒の先輩よりも、大手企業に内定が出る率が高いくらいだった。教授が業界に通じるたいへん強い権力を持っていたためである。―――たしかにこの研究室は激務で、ちょっとしたブラック企業ごとき相手にならないくらいだ。学生なので労働者ではないが、平日8時間労働を基準に考えるなら、みな月150-200時間は残業する。帰れない日もしばしばだった。

 とはいえ見返りはある。指導は叱責が厳しくきつかったが、無能な上司が八つ当たり気味に罵倒してくるのとは違う。間違いの指摘は的確で、こちらの手抜かりを見破る目は本物だった。それだけに実力はついた。学部4年時に過ごした研究室(私は大学院進学時に研究室を変更している)ではなかったことだ。論文が前よりずっと読めるようになったし、各種測定機器の原理や使い方に関する知識も増えた。測定結果を解釈して文章にする技術もあがった。実験計画の効率を上げることも学んだ。拙いながらに英文で報告書を作成できるようになった。覚えの悪い私に、よく教えてくれたと思う。

 自分は大手指向ではないと思っていたが、給料の額面と肩書の良さはやはり魅力的だ。そして私はともあれ2年は堪えたという自信もあった。その時点でも同期が1人、先輩で2人、『脱落』していたが、私は残ったと思った。残れるタイプだと信じた。
 かなり考えた末、博士課程に進学すると私は宣言した。まずは親に電話した。「進学してもいいか」と尋ね、「わかったよ」と言ってくれたことを覚えている。そしてその日のうちに、震えながら教授室のドアを叩いた。上ずった声で「ドクターに進学させてください」と頼んだことも覚えている。

 しかし、きっかり1年後に思い知ることになる。人体は消耗品だ。2年耐えられたということは、追加で3年耐えられる証明にはならない。馬鹿馬鹿しいほど当たり前の理屈で、使っているパソコンが2年壊れなかった、だから3年後も大丈夫だと推論するようなものだ。残業換算200時間という確実に心身を消耗する習慣の蓄積的影響が、私にはからきし読めていなかった。

 まずは消耗する。するとミスが増える。些細な伝達ミスや物忘れ、ちょっとした実験操作を間違えて一回分すべてを台無しにする。研究進捗が悪くなる。失敗しすぎる、遅い、と叱責される。それを補うために深夜まで実験する。今度は論文を読んだり、報告書を書いたりする時間がなくなる。「分かりにくい、工夫のないグラフにやっつけの考察、これでよく持ってくる気になったね」「論文の内容を十分理解してないのに紹介するな」と言われる。その通りなので、すみませんと頭を下げるしかない。

 明らかに悪循環に陥っていた。学習性無力感を生むのに十分すぎるくらいだった。自分はもうまったくの無能で、それだけならまだしも、教授、同期、先輩、後輩に迷惑をかけていると思うようになった。いや迷惑をかけているのは思い込みではなく、端的に事実だった。順番にまわってくる色々な当番を忘れたり、遅刻して予約していた機材を使わない「空予約」をやってしまったりしていた。もちろん私が当番を忘れれば、誰かが代わりにやることになるし、空予約で専有された機材はその時間無意味に誰も使えない。大迷惑だ。

 そんな悪循環にさらに決定打が入った。企業との共同研究と学会発表資料作成が重なった。さんざん叱責されては帰って寝て、起きたら慌てて研究室に走るという生活のさなかだ。「明日は朝9時にミーティングをする」と言われた。大事なミーティングだというのは分かっていた。私は寝過ごした。目が覚めてみれば11時、携帯の着信履歴に教授の名前が並んでいる。つけっぱなしのパソコンのメーラーを見ると、「いい加減にしろ」「これ以上かばいきれない」というメールが入っていた。

 全身から血の気が引いた。その後に私がやったのは、すぐに研究室に向かうことではなく、蒲団をかぶり直して震えるということだった。もう絶対に行けないと思った。涙があふれてきた。もう謝罪でどうにかなる問題ではない。

 すぐ行けば良かったのに、と思われるかもしれない。私も今ならそう思う。ただ、3年、36ヵ月間、激務で過ごし続けた後、そしてその月は平均睡眠時間が4時間を割るようになっていたという条件を加えてほしい。この条件下で、やはり研究室に直行でき、謝罪し、やるべき次の仕事に迅速に頭を切り替えて取り掛かれる、というのなら、私はあなたを猛烈に尊敬しよう。
 
 私はこの後少しの間を置いて――不登校を挟んで――若干の気力を戻してから研究室に向かい、大学院は中退する、と告げた。しかし教授はこの決断に慌てたようで、まずは休養を、休学してから、と勧めた。私は半年間の休学に入る。精神科に通うようになった。最終的な診断結果は、統合失調症、不安障害、不眠、うつ、の4つになった。

 だがいずれにせよ休養期間がとれたことで、頭はゆっくりと合理的な思考に戻りつつあった。たしかに中退というのは性急だった。復帰に向けて休養期間にやるべきは、万全の体調に戻すことだ。考えてみれば、睡眠の問題だけではなく、栄養バランスを無視した食事、慢性的な運動不足といった問題もあった。

 私は理系だ。理系教育を大学4年間、大学院3年間、合計7年受けている。人体とは有機物で出来た機械だ。実験で扱う化合物と違うのは、複雑性とスケールだけだとあえて乱暴に考えた。アプローチの仕方は同じ。理論を学んで、現在の問題を明確化し、改善に使えそうな方法を試しては結果を出す、そして悪い結果にしろ良い結果にせよ、どうしてそうなったのかを考察する。精神の問題? 違う、脳の問題だ。そして肉体の問題だ。

 ツイッターのタイムラインで『脳を鍛えるには運動しかない』という書籍名が目に入った。うさんくさいタイトルだ、と思ったが、著者を調べてみるとハーバード大医学部の准教授で、インパクトファクターからみる論文実績も質・量ともにまったく申し分なかった。同じような理由で『脳科学は人格を変えられるか?』も同時に購入した。こういう検索で単なる扇動屋なのか本物の研究者なのかを大まかにでも見分けられるのは、大学教育の賜物だ。

 栄養学の教科書も3冊買った。食事メニューを完全に変えて、さらに食事でまかない切れない分を補うプロテインと各種サプリメントを摂ることにした。また当然運動をするようにした。当時の体重は90キロもあり、私はウォーキングから始めざるを得なかった。走るとあっという間にダメになってしまうのだ。そして本で推奨されていたのは有酸素運動だったが、ついでなのでダンベルを買ってウエイトトレーニングも加えた。理性を取り戻すのに1ヵ月、運動習慣を導入して5ヵ月、体重は77キロまで落ちた(現在は85kgでかなり増えてしまったが)。

 休学期間の6ヵ月、追求できる中で理想的な体調を作り上げた。精神科で受けた血液検査の結果は全項目正常値。最初のほうで受けた血液検査がズタボロであったことを考えると、自分でも信じられないくらいだった。理論と実践は完璧に一致した。私は合理的な計画を立て、たゆまず実践し、結果を出せる人間なのだ。血液検査の紙はいまでも誇らしくて、恥ずかしながら今でも取っておいてある。変な話だが、それは私にとって、努力と結果が結びついた証明書なのだ。

 そうして復帰した。教授はもう厳しい叱責をやめていた。どうも休学期間中にさらに3名の『脱落』を出してしまったことで、かなり反省したらしい。おそらく大学の上の方からも問題になったのだと思う。精神疾患を理由にした休学・退学が私を含めて4人だ。研究室の規模を考えれば多すぎる。

 よし、もう大丈夫だと私は思った。もう何の問題もありはしない。私の体調は改善され、今後どう気をつけていけばいいかも理解している。研究室の環境も良くなった。さあ、研究に戻ろう。

 これで戻れていれば、見事な成功体験として偉そうに人にも語れたかもしれないが、残念ながら、私はまたあっけなく敗北した。もう問題はなにもないのに、ただひたすら怖いのだ。不安なのだ。研究室に向かおうとすると震える。研究室のドアをあけて、後輩に(この時点で私は最上級生になっていた)挨拶するのが怖い。パソコンを使って作業している間、後ろを人が通ると怖い。論文を読んでいて、少しでも理解できない箇所が出てくると、もう全くダメだ、難しすぎて手に負えないと感じる。

 不登校になった。最初は報告会の日だけ不登校を起こした。もう教授は私が無断で欠席しようが何も言わなかった。出席した日には温かく迎えてくれた。問題はない、問題はない、明らかに問題はない。私の見える範囲に、考えられる範囲に、明確化できる問題が存在しない。どれも解決済みの判子を自分で捺したはずなのだ。なのに、どうしようもなく不安だけが強くて、不登校の日が増えていった。

 不登校の頻度はあがっていき、精神科に相談すると、薬が強化された。つまるところ、首から下は健康になったが、根本的には――脳は――治っていないのだ。治っているなら医師は治ったと言う。あるいは「薬を徐々に減らしていきましょう」という展開になるだろう。ならなかった。状況を正直に述べれば、薬は強化される一方だった。
 また血液検査を受けた。全項目正常値。――ああ、何の意味もない。確かによくやったが、解決するのに充分ではなかった。

 自分は甘えていると責めて、無理やりに登校してみたりもした。翌日、動けなかった。寝たきりようになって(しかし不眠なので眠れず)、数日を過ごす。また登校する。頻繁に離席して、どこかで一人で深呼吸する時間をとらないといられない。研究はまるで進まない。誰も私のことを叱りつけはしないし、怖いことなどなにもないのだと自分で自分に言い聞かせても、私は研究室が、研究室のメンバーが、研究室にある器具のいちいちが、研究室に向かうエレベーターの扉が、怖かった。

 正直にいうと今も怖い。不安がどうしようもなく広がる。PTSDという単語がとっさに思い浮かぶが、勝手な診断は慎むべきだと思い、打ち消した。というより、名前をどうつけようが本質的に問題ではないと思った。私の原始的な脳は冷徹に判断しているのだ。ここは危ない。人生最大の危険を味わった場所だ。生きてきた中で最も劣悪な環境だ。一秒だっていてはいけない。劣悪な環境であることを示す証拠は、原始的な脳にしてみれば周囲に山程あって簡単に見つけられた。それは自動ドアの形であり、廊下の色であり、壁の棚にならんだガラス器具であり、自分の席の様子であり、周囲にいる人々すべてだ。全部が全部、「危険」とラベリングされていた。「これがあったら逃げなければならない」――――そう逃走を促すシグナルに満ちていた。

 暴露療法(危険だと思い込んでいるものに、積極的に近づくことで、安全だと再学習する心理療法)を自分で試した。自由意志の存在を完全に棄却する科学観からすれば、これは実験といえた。合理的な脳と原始的な脳の勝負だ。理性は登校して、普通に研究のための勉強を進め、どうしても分からないことがあったら教授に相談すればいい――もうきっと優しく乗ってくれる、と理解している。妥当な考え方だ。一方で原始的な脳は危ないと言っている。そいつは「なぜ危ないか」を周囲のどうでもいい物品で説明してくる。
 結果。登校は勝利、不登校は敗北として、結果のリストをみると、明らかに敗北回数が多く、しかも増えてきていた。

 一方、合理的な脳が「高いリスク」と評価する「大学院中退」については、原始的な脳は一切文句を言わないのだった。せいぜい行ったことのない都道府県に出かける程度にしか危険性を評価していない。原始的な脳にとって、「大学院中退」というのは単にものすごくたくさんある「経験のない行動」の一種に過ぎず、そんなものにまで扁桃体を使って警報機を鳴らすことはない。むしろ新規開拓には前向きなようですらある。

 そうして私は結論を出すために最後の実験を実施した。勝てる戦いならいいが、勝てないなら学費と生活費がかさむだけだ。どこかで区切りは必要で、それは来年度に入る前でなくてはならない。限界までと考えたたところ、そこまで1ヵ月だった。1ヵ月以内なら、奨学金の余り金が充分残る。それより先になって学費の振り込みが終われば、一気に生活は苦しくなる。あらゆる可能性の中で最悪なのは、来年度の学費を振り込んだ上に精神疾患に勝てないことだ。卒業が見込めるなら払ってもいい。見込めないなら「浪費」という言葉がしっくりくる。――全力で挑むけれど、敗北回数が超過すればもう諦めよう。

 ここでようやくタイトルに戻れる。

 私は中退を決意し、事務まで退学届をもらいにいった。そして教授に提出した。
 3月31日まで一応学籍は残ることになるが、中退は確定したのだ。

 以上が経緯であり、私なりの拙い分析である。




脳科学は人格を変えられるか?
エレーヌ フォックス
文藝春秋
2014-07-25