December 18, 2006
母校にて
先日(12月16日)母校でもある横浜某大学にて、暴力温泉芸者などの活動で知られる中原昌也のライブを見た。正確には、中原昌也と自分も学生時代、主に現代音楽について師事していたO氏とのセッションだったわけだが。
ざっとその様子について書き留めておくと、サンプラー、テルミン、ギター等々、様々な電子楽器から発せられる、所謂"ノイズ音"の連鎖が中心であった。不均衡と不協和音。決して一定ではないマテリアルをコントロールすることによって構成される音楽。人によっては、それは「騒音に過ぎない」と言うかもしれない。
そして、そういった類の音楽を人は『前衛音楽』と呼ぶ。一般的にバッハやモーツァルトなどの音楽を"古典・クラシック"と呼ぶのに対し、付けられた総称である。
確かに実験的であり、それは最先端、つまり前衛と呼ばれるのに相応しいのかもしれない。
しかし、ここで表されている『不均衡』は、果たして最先端なのであろうか。
人が"音楽"というものを認識し始めてから20世紀初頭まで生み出されてきたものと比較すると、それまでの音楽的手法とは全く異なることは言うまでもない。しかし、音そのものについて言えば、逆にそれは非常に"プリミティブなもの"と言えるのではないか。
有史以前、太古の地球において当然"音楽"という概念は誕生していなかった。その時代、地球上に響いていた音と言えば、雨音、水の流れる音、波音、風の音やそれによって揺れる木々の音など、自然界に存在する音そのものであった。それは、決して整理されたものではなく、偶然がない限り均整のとれたものではなかった。この原始の時代に生み出された音とは、ほぼ全てが『不均衡』によって構成されていた。人類誕生後、人類が言葉を手に入れ、そして宗教という概念を生み出し、ようやく音楽というものを生み出すまでは、この『不均衡』が地球上に存在する音を征服していたというわけだ。
そもそも現代の音楽を構成する"拍"や"テンポ"という概念は、混沌を避けるため人間が生み出したものである。その根源となっているのが、"時間の概念"である。この時間の概念とは、地球の公転・自転の速度を元にして人工的に作られたものだ。こうやって生み出された"時間"により拍、テンポ、章節など音楽を均整化させる概念が生み出されたのだ。
また、現代の一般的な音楽の根底にある機能和声や平均律の音階などが生み出されたのがバッハの時代だ。先に紹介したO氏曰く「ロックもバッハもやってることは一緒なんだ」と。このように時間を重ねる毎に音はより均整化を図られきたわけだ。そして、それを人は『音楽/music』と呼び、それ以外のものを『音/sound』と呼ぶようになったわけだ。
この差別化に一石を投じたのが、ジョン・ケージだ。彼が、「この世の全ての音は、音楽である」と論じたことは有名である。そして、音のない状態、すなわち『無音/silent』でさえ音楽だと説いたのだ。しかし、これは決して混沌を生み出したのではないように思われる。むしろ、純粋な意味で整理したのだと言えないだろうか。つまり、地球上で発せられたモノといえば、元々は所謂『音』によって構成されていたのだが、それを『音楽』というカテゴライズによって、人工的に均整化したに過ぎなかったからだ。ケージは、世のあらゆる"音"に耳を傾けるよう示唆したのである。
このように人間によって均整化を図られてきた音は、やがて音楽を呼ばれるようになった。そして、中原氏が見せたライブのような類のものを一般的にある種の異端として捉える。それを"前衛"という言葉で片付ける。しかし、この不均衡こそ最もプリミティブな次元で音と向き合ったものだと言えるだろう。自然界に存在する音についてそれを体現化したというわけだ。一般的に言われる"音楽"の成り立ちは、そこにあった。この世に潜在的に存在する音を再生しようとする作業、それが音楽の起源である。そして、中原氏の音楽とは、そこに近似しているように考えられる。実際、彼自身音楽の身体性を重要視する傾向にあると語っていた。身体とは、自然の産物であり完全に均整のとれたものでは決してない。楽器と向き合う身体、発せられる音と向き合う身体、彼の言葉からは、この関係を放棄することは出来ないように思われた。
雨音、水の流れる音、波音、風の音など自然に存在する不均衡な音の数々、それらと近似した特性を持つ中原氏の音楽は(そのようなモノは)、単に前衛というものではなく、原始の頃から受け継がれてきた"音楽"を体現していると言えないだろうか。
ざっとその様子について書き留めておくと、サンプラー、テルミン、ギター等々、様々な電子楽器から発せられる、所謂"ノイズ音"の連鎖が中心であった。不均衡と不協和音。決して一定ではないマテリアルをコントロールすることによって構成される音楽。人によっては、それは「騒音に過ぎない」と言うかもしれない。
そして、そういった類の音楽を人は『前衛音楽』と呼ぶ。一般的にバッハやモーツァルトなどの音楽を"古典・クラシック"と呼ぶのに対し、付けられた総称である。
確かに実験的であり、それは最先端、つまり前衛と呼ばれるのに相応しいのかもしれない。
しかし、ここで表されている『不均衡』は、果たして最先端なのであろうか。
人が"音楽"というものを認識し始めてから20世紀初頭まで生み出されてきたものと比較すると、それまでの音楽的手法とは全く異なることは言うまでもない。しかし、音そのものについて言えば、逆にそれは非常に"プリミティブなもの"と言えるのではないか。
有史以前、太古の地球において当然"音楽"という概念は誕生していなかった。その時代、地球上に響いていた音と言えば、雨音、水の流れる音、波音、風の音やそれによって揺れる木々の音など、自然界に存在する音そのものであった。それは、決して整理されたものではなく、偶然がない限り均整のとれたものではなかった。この原始の時代に生み出された音とは、ほぼ全てが『不均衡』によって構成されていた。人類誕生後、人類が言葉を手に入れ、そして宗教という概念を生み出し、ようやく音楽というものを生み出すまでは、この『不均衡』が地球上に存在する音を征服していたというわけだ。
そもそも現代の音楽を構成する"拍"や"テンポ"という概念は、混沌を避けるため人間が生み出したものである。その根源となっているのが、"時間の概念"である。この時間の概念とは、地球の公転・自転の速度を元にして人工的に作られたものだ。こうやって生み出された"時間"により拍、テンポ、章節など音楽を均整化させる概念が生み出されたのだ。
また、現代の一般的な音楽の根底にある機能和声や平均律の音階などが生み出されたのがバッハの時代だ。先に紹介したO氏曰く「ロックもバッハもやってることは一緒なんだ」と。このように時間を重ねる毎に音はより均整化を図られきたわけだ。そして、それを人は『音楽/music』と呼び、それ以外のものを『音/sound』と呼ぶようになったわけだ。
この差別化に一石を投じたのが、ジョン・ケージだ。彼が、「この世の全ての音は、音楽である」と論じたことは有名である。そして、音のない状態、すなわち『無音/silent』でさえ音楽だと説いたのだ。しかし、これは決して混沌を生み出したのではないように思われる。むしろ、純粋な意味で整理したのだと言えないだろうか。つまり、地球上で発せられたモノといえば、元々は所謂『音』によって構成されていたのだが、それを『音楽』というカテゴライズによって、人工的に均整化したに過ぎなかったからだ。ケージは、世のあらゆる"音"に耳を傾けるよう示唆したのである。
このように人間によって均整化を図られてきた音は、やがて音楽を呼ばれるようになった。そして、中原氏が見せたライブのような類のものを一般的にある種の異端として捉える。それを"前衛"という言葉で片付ける。しかし、この不均衡こそ最もプリミティブな次元で音と向き合ったものだと言えるだろう。自然界に存在する音についてそれを体現化したというわけだ。一般的に言われる"音楽"の成り立ちは、そこにあった。この世に潜在的に存在する音を再生しようとする作業、それが音楽の起源である。そして、中原氏の音楽とは、そこに近似しているように考えられる。実際、彼自身音楽の身体性を重要視する傾向にあると語っていた。身体とは、自然の産物であり完全に均整のとれたものでは決してない。楽器と向き合う身体、発せられる音と向き合う身体、彼の言葉からは、この関係を放棄することは出来ないように思われた。
雨音、水の流れる音、波音、風の音など自然に存在する不均衡な音の数々、それらと近似した特性を持つ中原氏の音楽は(そのようなモノは)、単に前衛というものではなく、原始の頃から受け継がれてきた"音楽"を体現していると言えないだろうか。
