読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行したものです。 現在は“新・読後充実度 84ppm のお話”としてちょくちょく更新しています。右下の入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

August 2007

ラインスドルフのマーラー/第1

 マーラーの交響曲第1番の演奏は数多くのCDが出ているが、私がお薦めするのはラインスドルフ/ボストン響による1966年録音の演奏。録音は古くなったが、十分に鑑賞に耐えうる。

 私が薦める理由は、この曲を知ったLPがこの演奏で、何回も聴き返して私の心に刷り込まれているということが一つ。と言っても、こんなことは推薦理由にならない。この演奏、強弱のつけかたが実にユニーク。特に他で聴かれないのが、第4楽章の主要動機の扱い方。

 タ、ター、ター、ターーという4つの音から成るこの動機は、第4楽章第1主題の前半部を構成する要素であるが、これが296小節で再現されたとき、他の演奏では第4音目(298小節目)は、音が上がるトランペットを浮き立たせるのだが、ラインスドルフは音が下がるトロンボーンの方を強調している。そして、これがなかなかいい。同様に、コーダに入った630小節目でこの動機が高らかに吹奏されるときも、第4音(632小節目)は、下降するトロンボーンを強調。これが、重量感を醸し出している。

 ちょっと違和感があるかも知れないが、慣れると「うん、君の気持ちわかったよ」って感じである。私が持っているCDは輸入版でRCA-R09026 63469 2だが、現在は国内版も出ているようだ(RCA-TWCL2007。タワーレコードのみでの扱いのよう↓)。2枚組でカップリングはお得なことに(?)マーラーの第3番!

 マーラー:交響曲第1、3番/ラインスドルフ

ゴルフィったら……

a09da6c8.jpg  前回、クラシック音楽ファンなら猫でも知っている「レコード芸術」誌について触れた(あつ、誰でも、です)。未だに「レコード」という語句を使い続けているのが、いかにもこだわりがありそうで素晴らしい(改名することに躊躇しているだけのような気もしないではないが)。

 そのレコ芸誌、今から10年ほど前に、大誤植をやらかした。クラシック音楽業界版VOWネタの最高峰である。

 正確に言うと、レコ芸誌が悪いのではない。なぜならCDの広告における誤植なのだから。やってくれました、徳間ジャパン、である。

 見づらいかも知れないが、写真はそのときの広告ページのコピー。

 お気づき?右下のモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風、風、風……」。いやいや、誰がこんな誤植をしたのか?欲求不満の広告担当者の無意識下のミスか?あるいは、ここいらで世の中をあっと言わせるような悪戯をしてやれという確信犯的行為か?

 でも、この頃には「トルコ○○」というのは禁止用語になっていたはず。となると、かなり老練な印刷技術師―そんなんが居ればの話だけど―のいい加減な仕事の結果か?

 これだけの大ミスなのに、この話題はNHKニュースでも取り上げられなかったし、誰も喜び勇んだ騒ぎを起こしもしなかった。

 のちにこのミスを指摘したのは、鈴木淳史氏だけ(洋泉社新書「クラシック悪魔の辞典」完全版)。私と同世代。喜びのツボは共通しているのか?(しかし完全版と銘打った同書には、初出のハードカバーにあったある記述が消え去っている。日本の女流ヴァイオリニストに関する記述。圧力がかかったのか、筆者が読み返して下品だと反省したのか?)

 こんなタイトルの曲を書いたなら、モーツァルトの妻・コンスタンツェは「ゴルフィ、また仕事もしないで女遊びばっかりして!」とヒステリーを起こすこと間違いなしだ(そんな彼女は、夫以外の男の子供を産んだという説があるが)。

 一応申し上げておくならば、彼のヴァイオリン協奏曲第5番が「トルコ風」という名で呼ばれているのは、終楽章のロンドにトルコ風の楽想が用いられているためで、Hな意味では決してありません。

大・勘違い

 メレディス・モンク(1943- )という女性作曲家がいる。

 その人の作品に「Our Lady of Late」(1973)というのがある。曲はヴォーカルとグラス・ハーモニカとパーカッションによる、何ともヘンテコなもので、ヴォーカルが泣き叫んだり、語ったり、絶叫したりする。まあ、何かを切々と音楽で表現しているんだけど、実に非音楽的な、聴いていると世間に申し訳なくなるような「音響」である(CDはWergo-SM1058-50)。

 ところで、このCDを紹介した記事が、クラシック界のシンボル的雑誌である「レコード芸術」誌に載ったことがある。記事はこのCDについてというよりは、このCDのレーベルであるWergoの紹介だった。執筆者は覚えていない。

 この執筆者がこのCDについて「モンクのCDで『遅れて来た我らがお嬢さん』という曲がある」と書いていた。へぇ、何だか楽しそうなタイトルと思ったのだが……はいはい、大誤訳!穴があったら入りなさい!

 これは「近頃の婦人」と訳すのが妥当!(私がこんなに自信を持って言うのは、別なカタログでこの邦訳を見たからである。でなきゃ、いまだに「そっかぁ、遅れて来た我らがお嬢さんって、どんな感じの女性かな」と思い続けているに違いない。デートの待ち合わせ時間に遅れてしまって、忠犬ハチ公像の前で待っている彼のところに、汗だくで走ってくる女性とかのイメージで)。きっと、執筆者は、その後ひどく後悔しているんだろうな……

 時代とともに作曲者の呼び方や曲名の呼び方が変わることはある。大昔、ワーグナーやブルックナーは、ワグネル、ブルックネルだったらしい。モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」は「木星交響曲」と呼ばれていたらしい。

 「『木星交響曲』は巨大な木星ヲ壮大に描ひたすばらしい作品であると、我は思ふ」という評論があったかどうかは知らないが、「遅れて来た我らがお嬢さん」はかなり赤面ものだ。遅刻したOLを描いたコミカルな小曲集みたいじゃないか。

 邦訳が定まっていない曲を紹介するときには、ヘタに訳さない方が身のためである。

 

タクシー運転手が語る「核酸効果」

 数ヶ月前のこと。“すすきの”で飲んだ帰りに乗車したタクシーでの話。

 運転手は60才を越えたくらいの、真面目そうな人物。ダンプカーの運転手あがりには到底見えない。むしろ、路線バスで毎日毎日同じ道を忍耐強く往復していたような人物である。

 とりとめのない話をしていたのだが、彼は何かを話したそうにしているのが感じられた。「おしっこがしたいんで、一回停めていいですか?」とか、そういうことを言いたそうな気配である(もしそうならば、「私もご一緒しますよ。こういう連れションなんて、なかなかできない経験ですからね」と快く応じただろう)。

 そして、やはり彼は言いづらそうにしながらも話し始めた。

 「お客さん、パーキンソン病って知ってますか?」

 ぼそぼそとした声だ。ちょっと聞き取りにくい。これまで、世の中で散々いじめられてきたような話し方だ。

 「名前は聞いたことがありますけど」

 「難病なんですよ。不思議なことに、私の従兄弟が2人、この病気に罹ってしまいましてね。足とかが動かなくなっていくんですよ」

 「はあ、それは大変ですね。手は動くんでしょ?(とは聞かなかった)」

 「それで、うちの奴が、あるところで色んな病気に効くって噂のドリンク剤を買って来たんですよ」

 「へぇ~。チオビタとか?(とも聞けなかった)」

 「ところが、勧めても、そんなの効くわけないって、従兄弟たちは飲もうとしないんですよ。まあ、そうですよね。そんな得体の知れないものですから」

 (そうか、得体が知れないということは、チオビタとかエスカップとか、C1000タケダじゃないな……)

 「そんなある日、うちの奴が階段から落ちてしまってね。足の骨を折ったんです。でも、骨は治っても、なんぼリハビリしても歩けないんです。痛い、痛いって言ってね」

 「そりゃ、大変ですね」

 「で、どうしたと思います?お客さん」

 「皆目見当がつきません」

 「うちの奴、あのドリンクを飲んだんですよ。毎日1本。そしたらね、3日で歩けるようになったんですよ。痛みもすっかり取れて。3日ですよ、3日!」(アクセルを踏む足にも力が入るのが解る)

 「奥さんの名前はクララって言うんじゃありませんか?(なんて口が裂けても言えなかった)」

 「それを知った従兄弟たちがね、オレにもやっぱり飲ませてくれって言うんですよ。そしてあげたんですよ。どうなったと思います、お客さん?」

 「もしかして……空を飛べるようになった!(なんて恐ろしくて言えなかった)」

 「治ったんですよ。パーキンソン病が。すっかり。あの難病が治ったんですよ。医者も首をひねるばかりでした」

 「それはすごい。よかったですね」(もっと大きく驚いてあげるべきだったろうか、と反省)

 「で、何だと思います?そのドリンク剤って」

 「あっ、2つ先の信号、右に曲がって下さい」

 「カクサンなんですよ、お客さん」

 「えっ?あの助さんの相棒の?」

 「そりゃ、格さんでんがな」(この2行は創作)

 「核酸は何にでも効くんですよ」(この運転手さんは、いったいどこで、そんな臨床試験を行ってきたのだろう?」

 「はあ」

 「でね、核酸っていうのはいろいろ売られているんですけど、その中でもドリンク、ウチの奴は広島のお医者さんから取り寄せているんですけど、それが特に効くんですよ、お客さん」(摂取形態別比較試験まで行っていたのか。ただならぬオヤジだ)。

 運転手さんは、奥さんがどういう経緯で核酸のドリンクやその効果を知るようになったのかも淡々と説明してくれたが、忘れてしまった。しかし、核酸が「体の根源の物質であり、どんな病気にも効く」と強調していた。

 私はこの話、信じてもいいような、信じがたいような気がする。これを専門用語で“半信半疑”という。確かに核酸は人間の遺伝情報を担っている物質である。

 ご存知のように核酸にはDNAとRNAがあり、DNAは遺伝情報そのものであり、RNAは細胞分裂の際にその遺伝情報を転写して伝達する物質である。となれば、何となく遺伝異常に関係する病気には効くような気がしないでもないのである(パーキンソン病が遺伝と関係する病気かどうか、私は知らない。“ウチの奴”の骨折はもちろん関係ない。

 しかし、核酸の投与によって、正しい細胞分裂が活発化するという理屈も考えられなくはない)。しかし、経口投与によって、それが細胞内部までどのように浸透する理屈は私にはわからない。

 ねずみ講とか霊感商法かもと一瞬思ったが、この運転手はネズミみたいな顔をしていなかったし、霊感だって乏しそうだった。強いて言うならば、妄想癖があるのかも知れない。それに、そういう商売で成功していたら、わざわざ夜のタクシーの運転手なんかしないだろう。つまり、昼だけ走って、夜はラジオでナイター中継を聞くのではなく、家でテレビでナイター中継を楽しむのだ。その家だって、近所ではDNA御殿と呼ばれるような豪邸でなければならない(庭にはらせん構造のオブジェがある)。

 しかし、この運転手さんは、そのような世界とは関わってないように見えるし、札幌市内・近郊で謎の御殿があるというのを聞いたこともない。

 あくまで、「良い物を広げたい」という伝道師に成り切っているように思えてならないのだ(私は人を見る目がない方である)。

 信じるか信じないかはあなた次第!

 タクシーを降りるときに運転手さんは名刺大の紙を私にくれた。「何か困ったときにここに連絡ください……」と。

 そこには奥さんの名前と電話番号が書いてあった。幸い私はいまのところ、電話する必要には迫られていない(ただ、一度DHCのDNAサプリを買ってみたけれど)。

現代人のためのレクイエム

 土曜日の夜、久しぶりにアンドリュー・ロイド=ウェッバーの「レクイエム」(1984)を聴いた。

 “A Requiem from the Composer of Cats,Evita,Starlight Express?”と驚きをもって迎えられたこの作品、つまりは「キャットやエビータ、スターライト・エキスプレスの作曲家が書いたレクイエムだって?」ということである。そして、この作品は発表されるや否や、一気にヒット・チャートに躍り出たそうである(その騒ぎについては、私は当時まったく知らなかった)。

 私がこの作品を知ったのは札響の定期演奏会においてであった。この当時札響は秋山和慶を正指揮者としていたのだが、秋山は知られざる名曲を積極的に定期演奏会で紹介していた。このロイド=ウェッバーの「レクイエム」もそうである(このコンセプトで取り上げられた曲で、他に私の印象に残っているのは、ラフマニノフの交響曲第3番、グリエールの交響曲第3番である)。

 ロイド=ウェッバーは「レクイエム」の作曲の契機として、

 1. 1982年の父の死

 2. たまたまニューヨーク・タイムズ紙で読んだ記事

を挙げているが、後者の記事というのは、ポルポト政権下のカンボジアで、手足を失った姉を殺すか、それとも自分が死ぬかという事態に直面した少年が、自分だけが生きる選択をしたという内容のものであるという。この2つの出来事がきっかけとなって、この「レクイエム」は少なくとも3人の人間を弔う主旨になっている。1人の少年と1人の少女と1人の男である(以上、矢野暢「20世紀音楽の構図」(音楽之友社)を参考にした)。

 編成にはシンセサイザーも加わるが、曲は極めてシリアス。そして、聴かせ上手といった音楽。途中にでてくる旋律は映画「未知との遭遇」を思い起こさせる。極めて美しい第7楽章の「ピエ・イエス」は単独でもCDに入れられたこともあって(確か「ピエ・イエス」というオムニバス盤だったと思う)、たいへん有名になった。

 ただし、全曲盤は初演に先立ってレコーディングされたマゼール盤しかない。CD解説に写真が載っているかわいらしいボーイ・ソプラノ独唱の男の子が、今ではすっかりいい若者というか、準おじさんになっているのかと思うと、複雑な思いである(一応付け加えるが、私には少年趣味はないので念のため。そういう意味で言ってるんじゃないですからね)。道を踏みはずしていなければいいのだが……。

 別な演奏によるCDが出ないかと待ち望んでいるのだが、ここまで出ないのは特別な理由があるのだろう。マゼールの妨害工作とか……(たぶん、著作権のからみか?なお、ヴォーカル・スコアは出版されている。このブログに貼ってあるSheet Music Plusでも購入できる。私も購入したが、表紙はマゼール盤のCDと同じデザインである。やはり、闇にうごめく何かがある)。

 私はマゼール盤に文句をつけているのではなく、これはすばらしい演奏。大太鼓の音が歪んだり、シンセサイザーの音が聴こえにくい箇所があるけど、これで不自由するという意味ではない。ただ、聴き比べてみたいだけなの……。我慢できない、いけない子ですか、僕?

 ロイド=ウェッバーの「レクイエム」は、「現代人のためのレクイエム」と言える、名曲である(と言っても作曲されたのは20世紀だが)。

 ところで、私はキャッツなどロイド=ウェッバーが曲を書いたミュージカルを一切知らない。逆に言えば、彼のミュージカルの曲を一切知らない。だから、彼の音楽性とか何とかをどうこう言えはしないのだが、茂木健一郎が書いている文を読むと、ふ~ん、とニヤリとしてしまう。

 「ロイド=ウェッバーが叙勲されて『サー』の称号がついたときに、The Independent紙にある投書が載った。それはイギリスで敬愛されているハイドンとかヘンデルといった揺るがない業績のある作曲家と、サー・アンドリュー・ロイド=ウェッバーの名前を並べて、『けっ!わかるだろ』とだけ書いてあった」(茂木健一郎/江村哲二「音楽を『考える』」(ちくまプリマー新書)。

 ねっ?何だかニヤリとしてしまいません?商業主義音楽(同書では「拝金主義」とまで書いていたが)に対する痛烈な批判ですね、これ。でも「レクイエム」はほんと、良いですよ。

 A Lloyd Webber: Requiem

 

女性の味方?クランベリー

 いろんなところからトラックバックが来るが(来るという表現が果たして正しいのか解らないが)、何でこの記事にこんなのが、ということが多々ある。

 先日の「頻尿」というトラックバックは、やはりどうして来たのかか謎だが、さらに、どうして私が頻尿だと解ったのだろうと、妙に感心してしまった。

 正確に言うならば、私は頻尿ではない。夜中に起きるということもないし(起きないでおねしょしてしまうという意味でもない)、日中はふだんはさほど近くない。しかし、飛行機に搭乗するとか、長い時間車に乗らなければならないというときには、その前に何回も何回もトイレに行ってしまう。何回も行くから「貧尿」になるが……(うまい!、か?)。これは多分に精神的なものだ。

 ただ、私は一度尿意を感じ始めると、あまり我慢し続けられるタイプではない。考えてみれば、これは大学生のときに急に血尿が出て、泌尿器科で「膀胱鏡」を入れられて以降の現象のように思う。あんなもの、あそこの先から入れられたんだからたまったもんじゃない。しかも血尿の原因は解らず、あんなに苦しく恥ずかしい思いをしたのに、下された病名は「尿道炎」だった。しくしく……

 ところで、男の尿道炎はあまり多くないそうだが、女性の尿道炎や膀胱炎は実に多いという。で、膀胱炎にはクランベリーが有効だそうだ。クランベリー、つまりツルコケモモである(ツルコ・ケモモと区切って読まないように)。

 「女性の60%が一度は尿路感染症を起こし、少なくとも1/3の人が1年以内に再発を経験するという。……クランベリーの有効成分はプロアントシアニンという抗酸化栄養素で、これは抗酸化作用、抗菌作用、抗ウイルス作用などをもつ。……また、クランベリーに含まれる有効成分が、体内で酸性物質に変化して尿中に排せつされることで、尿のpHを下げて尿を酸性に保ち、細菌の増殖を抑制するというメカニズムが示唆されているという。これはクランベリー特有の効果で、同じツツジ科のブルーベリーには認められない作用である。……これまでにもクランベリージュースやクランベリーエキスのサプリメントを使った研究が行われており、尿路感染症の再発予防効果が認められているという」(蒲原聖可(かもはらせいか)著「サプリメント小事典」(平凡社新書)による)。まあ、クランベリーは自然の果物だから、副作用もないらしい。私は別にクランベリーの普及消費拡大運動に取り組んでいるわけではないが、クランベリーで膀胱炎が治るのなら良いかもしれないと思ったまでである。

 関係ない話だが、私も庭でベリー類を植えている。ストロベリー、ラズベリー、ブルーベリー。だけど、クランベリーは枯れてしまった。妻に食べられることを警戒して自殺したのかも知れない。

 そうそう、私が若い頃に下された「尿道炎」であるが、男の場合、原因の一つとして「房事過度」があるそうだ。房事過度って……。かなり恥ずかしいではないか!(でも、私は過度にはしていなかった)

札響東京公演

 訳あって、今日は出勤。

 土曜日というのは、電車も東京駅も空いているし、なかなか快適である。これだったら毎週、土曜出勤してもいいかな、と思ってしまう(ただし、毎週平日の一日を代休にしてくれるという担保が必要)。ところが、あらら、エアコンが入っていない……。ちょっと暑い……。土曜出勤してもいいかな、という言葉は、男らしく撤回いたしたい。

 わが故郷の自慢のオーケストラ・札幌交響楽団。

 毎年、東京公演を行っているが、今年は11月13日、19時開演。会場は東京芸術劇場。

 指揮は尾高忠明。ソリストはポール・メイエ(cl)と堀米ゆず子(vn)。

 プログラムは、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」「クラリネットと管弦楽のためのラプソディ」「海」、武満徹の「ファンタズマ/カントス」「遠い呼び声の彼方へ!」。

 私は現代音楽にあまり抵抗がない、いやむしろ好きな方だが、武満徹という人の曲はどうも苦手。良いと思ったことがない。巷には武満ファンは多いようだけれど、私の感性にはマッチしない(私に感性があるという前提で書いている)。しかし、札響は武満作品の演奏に定評があるし、その昔には作曲家自身が映画「乱」の録音で札響を指名したほどである。今回もきっと良い演奏をするものと期待できる(←とっても他人行儀)。

 ドビュッシーは楽しみ。大いに期待できる!(←打って変わってえこひいき的)札響の持つトーン・カラーはドビュッシーにも合うと思う。

 それにしても、尾高忠明はすばらしい指揮者になった。私はあたかも彼の乳母のように喜んでいる。私が札響の定期演奏会に通うようになったのは昭和49年頃からだが、そのときに客演で来た尾高忠明はとっても若かった(そして私は、彼と比べ物にならないくらい若かった、というか幼かった)。演目はチャイコフスキーのpf協第1番(なんと、ソリストはアンドレ・ワッツだった!)、それとブラームスの第1交響曲。はつらつとしたカッコいい指揮ぶりだった。

 あのころ尾高はNHKの「テレビファソラシド」という番組に出演していて(司会は芥川也寸志だった。しかしひっでえ番組名だ)、露出度が高まりつつあったが、指揮者としてはまだ駆け出しだった(余談だが、あの頃の札響はやたらとブラームスの1番を取り上げていた。なんとレパートリーが偏っていたことか。ブラ1のときにはホルンのトップなんか暗譜で吹いていたくらいだ←うそです)。

 それがすばらしい指揮者になった!尾高が指揮した札響のCDも出ているのが、これはひいきじゃなく、良い演奏だと思う(武満他の作品。シャンドス)。今後はエルガーの第3交響曲(補筆完成版)などもリリースされる予定。

 私が尾高を札響定期で初めて聴いたのと同時期だったと思うが、小松一彦という指揮者も札響にしばしば客演していた(定期演奏以外で)。その後、札響の常任にもなったこともあるはずだが、今はどこで活躍しているのだろう。

 私は彼の武田鉄矢みたいな髪型が嫌いだったし(ただし、武田のほうがブレイクは後だったと思う。つまり小松は彼を真似たわけではない。どーでもいーけど)、どこかすましたような態度も好まなかった。彼のタクトによって紡ぎ出される音楽は、彼の見た目と同じでどこか冷めているように感じた。

 小松君、君に個人的な恨みはない。けど、僕たちは仲良くなれないみたいだね。

学生歌とブラームス,マーラー

 ということで前号の続き。昨夜はまず最初に、芥川也寸志の「交響三章」(1948)と「武蔵坊弁慶」(1986)を聴いた(作曲者指揮の新so。フォンテック盤)。

 芥川は伊福部昭の一番弟子にあたるが、彼と師の音楽の大きな違いは「生命力」ではないかと思う。芥川の音楽は「都会的洗練さ」があると評されており、確かにそのとおりだが、線の細さが特徴的だ。例えば「交響三章」の第2楽章を聴くと、そのメロディーというか素材は伊福部の音楽に通じるものがある。しかし、芥川の音楽はあくまでも繊細で、悪い言葉を使えば「どこか弱々しくいじけている」。もちろんその作風こそが彼の魅力である。一方で、伊福部昭の音楽は、同じく「寂しさ」がつねに根元にあるのだが、それはパワフルである。芥川の音楽を聴くと、彼がこれからというときに早くに亡くなってしまったことが、何となく納得できるような気がするのである。

 伊福部の教え子たちが書いた「9人の門弟が贈る『伊福部昭のモティーフ』によるオマージュ」(1988)という作品がある(CDはFL-TYCY5217/8)。この中で芥川も1曲を書いているのだが、伊福部の書いたモティーフが芥川の手によって、このように「繊細に、スマートだけどちょっと華奢な感じ」になっていることは、芥川という作曲家の特質と、両者の差異を端的に表わしている(芥川が担当した「ゴジラ」のモティーフを素材にしたこの小曲は、実に素晴らしく胸を締め付けるような感動を覚える)。

 「武蔵坊弁慶」はTVドラマのテーマ曲として書かれた作品だが、ここにも芥川特有のどこか憂いのあるカラーが全曲を支配している。

 次に伊福部昭の「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』」(1979)を聴く(安倍圭子(ma),山田一雄/新星日本so。初演時のライヴ)。私はこの曲を1983年1月の札響定期で聴き、大きな衝撃と感動を受けた(独奏と指揮はこのCDと同じ)。伊福部は彼の「タプカーラ交響曲」に関し「タプカーラとは立って踊るという意味です。アイヌの人たちは楽しいときも悲しいときも、このように踊るのです」という旨のことを書いているが、私にとっては「ラウダ・コンチェルタータ」は「悲しいときも、嫌なことがあったときも、無心で音楽に没入したときも」聴きたくなる作品である。シューベルトはパガニーニの演奏を聴いた後、街中を夢遊病者のように歩いたというが、あのコンサートの私もそれに近いものがあった。何が、それほどまで?それはまた今度。

 次はブラームスの交響曲第1番(ドホナーニ/クリーヴランドo)。このCDにカップリングで入っている「大学祝典序曲」も聴く(「悲劇的序曲」はパスした)。

 ブラームスの第1番の第1楽章には、ベートーヴェンの第5交響曲の「運命動機」が現れる。だからといって、第4楽章の第1主題がベートーヴェンの第9の「歓喜の歌」と似ているというのはどうか、と私は思う。ほとんどの解説で、この第4楽章第1主題(ホルンのファンファーレ風主題のあと、フルートに引き継がれ、やがて弦楽で現れる主題)はベートーヴェンの「歓喜の歌」と似ている、親近性がある、と書かれているが、果たしてそうだろうか?私にはどうしてもそのようには聴こえないのである。

 そこで「大学祝典序曲」。この曲の開始から2分ほどのところでトランペットが弱音で吹く旋律は、ドイツの学生歌「われらは立派な校舎を建てた」から引用しているという。その引用は、曲の性格上からして、なるほどと思う。しかしさらに、私は第1交響曲第4楽章の第1主題も「われらは立派な校舎を建てた」に由来しているのではないかと思うのだ。

 ぜひ、「大学~」と第1交響曲とを聴き比べてみて欲しい。「歓喜の歌」よりははるかに類似性が認められるはずだ。ところで、先に書いたホルンのファンファーレ風の主題であるが、これについてドホナーニ盤の解説に興味深いことが書かれてある。「1868年9月12日、ブラームスはクララ・シューマンの誕生日プレゼントとして、滞在中のアルプスから木彫りの箱を贈ったのだが、それに添えられたカードに、この旋律の楽譜が書かれていた」という。クララはハイジに「立って!」と言われた少女ではなく、シューマンの未亡人である。まったく、プラトニックなやらしオヤジだな、ブラームスって。

 「われらは立派な校舎を建てた」というドイツの学生歌は、マーラーの第3交響曲の冒頭の旋律、つまり8本のホルンによって吹かれる旋律でも用いられている。ウィーン大学時代のマーラーは「ドイツ人読書連盟」という、ゲルマン民族主義、反ユダヤ主義を掲げた政治的サークルに関係していたらしいが、1878年にこの連盟は国からの圧力によって解散させられてしまう。この解散のときに学生たちが合唱したのが、ドイツ・ナショナリズムと結びついた学生運動のシンボルである「われらは立派な校舎を建てた」だったというのである。マーラーは第3交響曲で、このシンボルを取り上げたのである。すごいなぁ。からくりだなぁ。このあたりは村井翔「マーラー」(音楽之友社)に詳しく書かれているし、ブラームスの第1交響曲がこの学生歌に関連しているという、私が思ったのと同じことも指摘している(わぁ~い。私もたまには気づくことがあるのだ)。

 そんなことを考えながら、ブラームスのあとにグラスの「浜辺のアインシュタイン」をかけた。2曲ほど進んだところでギブアップしてしまった。ちょいと真面目なことを考えているときに聴く曲ではなかった……

ハッピー・コール

 昨日の夕方、私が胃内視鏡検査を受けたK-E病院から携帯に電話が来た。

 ちょっとかわいらしい声の女性からで、私本人だと確認がとれると外来に電話が転送された。もうちょっと彼女の息遣いを聞いていたかったのにぃ(ウソです。今まさに宣告されようとしている内容に、柄にもなく緊張してましたから)。

 回された電話に出たのは、あのときの外来医師だった。相変わらずノリが軽い。

 「あっ、検査の結果が出たから。う~ん、悪いもんじゃないわ。よかったね、僕が言ったとおりだったでしょ?炎症を起こしてるだけ。ピロリ菌の薬、飲み終わったでしょ?したら、もう一つの薬、60日分あるやつ、きちんと飲んで、そうだなぁ、そのころ、もう一回来て、飲んで、カメラ。ちゃんと潰瘍やびらんが無くなっていることを確認しなきゃね。じゃあ、そういうことで」

 ということであった。決して、いや、まったく丁寧な口調ではないが、かといって高圧的とか高慢とかいうものではない。むしろ庶民的な感じが好感を持てる。ましてや、私に対して、ひじょうにお忙しい中にも関わらず、良い知らせを伝えてくれたのだ。どうして、彼を非難することができようか!

 でも、懸念していたとおり、もう一度カメラを飲まなきゃならないのか……。高い金を払って苦しい思いをするなんて、まるでマゾ・クラブに行くのと同じだ(と思う)。もっとも、同じ苦痛でも、前者は苦痛の後の「異常なし」という喜びを得るためなのに対し、後者は苦痛そのものに倒錯した喜びを得るものだが……(後者については、私の推理。個人的体験なしです)。期待に反し、カメラの苦痛の後に「やっぱ、大異常ありだったわ」と言われたなら、マゾを通り越して、レイプ魔に抵抗する気力もなく犯されているような気持ちになっちゃうんだろうけど。

 さて、喜びの報を受け、昨日はまっすぐ帰宅できたので、家でミートソース・スパゲティ(内心では「ボローニャ風」と呼んでいる。これは19日の日曜日に札幌から戻った後、タマネギとニンジンのみじん切りとひき肉を、わざわざミートソース缶に加えた「半手作り」である。これまで何度か火を加えてきたが、もう賞味期限切れの限界であった)を作った。私はミートソースのパスタ(カッコつけて、あえてスパゲッチとは書かなかった)が大好きである。おそらく、まだ私が知らされていない、イタリア人の先祖がいるに違いないと思っている。

 そして大好物のサッポロ黒ラベルで独り祝杯をあげた。このビールはキレとコクのバランスがとても良い。色合いも良い。健康な人の尿の色のようだ。

 「う~ん。今朝はうどん、昼はそば、そして今はスパゲティと、今日は麺三昧だったわい」と考えながら、テレビでニュースを観ていた。

 伊勢丹と三越が統合のニュース。昔、あるイベントで仕事で関わるはめになった、三越の生意気な社員の顔を思い出してしまった。確か札幌の丸井今井デパートは伊勢丹のテコ入れを受けているはずだ。となると、札幌は三越と丸井今井が仲良しになっちゃうのだろうか?ニュースで言っていたけど、西武とそごうはセンブン&アイの傘下だし、大丸と松坂屋は統合したし、阪急と阪神も一緒になったんだなぁ。時代が変わったんだな、やっぱり。何でもそれなりに、でも結局は中途半端な品揃えのデパートよりも、ビックやヨドバシ、ホーマックやコーナン、といったそれぞれの専門大型店でなければ個々のニーズを満たせなくなっているのだろう。書店だって同じだ。中途半端な規模の店は苦しいだろう。

 ニュースでは警察官による拳銃殺人について多くの時間を割いていた。被害者の名は佐藤陽子。んっ?そういえば、同じ名前のヴァイオリニストが居たな。かつて、天才少女と呼ばれたヴァイオリニストだ。池田満寿夫と結婚したんだっけか?いま、どうしているんだろう?もう死んだっけか?(いきなり北海道弁が続く)

 となったところで、しばらくぶりにじっくりとCDを聴くべ、という気になった。

 長くなったので、続きは次号で(暇だから、いや私は与えられた仕事の処理が速いから、すぐに次号を執筆します)。

吹奏楽はゲンダイオンガクの宝庫

 これまで私は、吹奏楽のジャンルの作品は、例えばスーザの行進曲のようなものを除いては、ほとんど聴いたことがなかった。唯一、ひじょうに好きな曲として、ホルストの「吹奏楽のための組曲第1番」が例外的にあっただけだ(対位法が快感!)

 ところが、次男が中学生になって吹奏楽部に入ってから、その発表会(演奏会というべきか)に「親の務め」として何度か「ご臨席」するようになって、これまで聴いたことのないような吹奏楽のためのオリジナル曲を知ることになった。

 考えてみれば、この世界、新しい作品が次々と生まれているジャンルなのだろう。いくつもの団体が出場するコンクールになると、演目にはクラシックの編曲モノに負けないくらいのオリジナル曲が並んでいる。

 私はクラシック音楽の中でも、ゲンダイオンガクが好きな方だから最近作曲されたであろうオリジナル作品にさほど抵抗感はないが、ご子息・ご令嬢が吹奏楽団に所属していて、今日は晴れ舞台ということで「見学」に来た親御さんたちの多くは、ステージ上の我が子とその他大勢のメンバーが吹き出したとたんに、「なんざんすの、この騒音のような音楽は?」なんて思っているに違いない。決して耳に心地よい曲ばかりではないから。

 私も最初は「クラシックの名曲のアレンジものの方が聴衆のウケも良いだろうし、吹くほうも楽しいのではないだろうか」と思ったのだが、やってるほうはそういう軟弱な思いはないらしい。それに審査されるとなると、チャレンジ度も重要な要素になるのだろう。

 もっとも、指導者が自分の好きな作曲家のものばかり取り上げるので、部員たちが閉口しているケースも少なからずあるらしい。

 先日もしょうがないから、札幌地区予選・中学生の部のコンクールをキタラに聴きにいった。

 感心するのはステージの入れ替えの速さ!みんな明日にでも引越し屋のバイトを機敏にこなせそうだ。若者がきびきびと動き回る姿は良いものだ。

 我が子はホルンを吹いているが、ホルンという楽器は音がひっくり返りやすい。そのことは、過去のオーケストラ・コンサートでも十分に私は承知している(昔、札響定期でブルックナーの4番をやったときに、第2楽章でホルンの音が出なくなり静寂に包まれたときは、心からホルニストに同情した)。そういうわけで、冷静さを装いながらも、息子が息の長いソロの旋律を吹いている時には、「なんとかひっくり返らないでくれ。お前は酸欠でひっくり返ってもいいから、音だけはひっくり返さないでくれ!」と祈った。なんて良い父親なのだろう!自分でも感心してしまう。

 幸いソロを含め、ホルン・パートは大きなミスもなく演奏終了。

 帰宅した息子をさりげなく褒めてやろうと思ったら、審査員の講評でホルン・パートがずいぶん褒められたと、すっかり顔が天狗である。まったく、これだからダメだ。いろいろな教育方針があるだろうが、次男に関しては「褒めて伸ばす」というのは適していない。すぐに調子にのる。私には似ていない。

 なお、団体の成績としては金賞を逃した。

 親としては、もうそろそろ高校受験に向けてお勉強をして欲しかったから、正直ほっとした。でも、その後も相変わらず勉強はしていないという事実が確認されている。

 ところで、今回息子のいる中学の吹奏楽部が取り上げた曲名だが……忘れてしまった。曲名の断片は解るが……。確か新しい曲と言っていた。山野楽器でCDが出てないか探してみよう……。

 ついでにいうと、高校生の長男は天狗になりやすい次男とは対照的。しかし、音楽は「いま流行り」の、お父様にはわからないものを好んでいるようだ。

 宮部みゆきの「模倣犯」を読み終えた。最後は終わりに向けて急いでたたみかけすぎじゃないか?

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