読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行したものです。 現在は“新・読後充実度 84ppm のお話”としてちょくちょく更新しています。右下の入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

April 2008

J.S.バッハ in ねじまき鳥

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)の第2部71fd972c.jpg 23pには、以下のような文がある。

 「僕は鍋に水を入れてガスの火をつけ、それが沸騰するまでにFM放送を聴きながらトマトのソースをつくった。FM放送はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを放送していた。非常に上手な演奏だったが、そこには何かしら人を苛立たせるものがあった。その原因が演奏者の側にあるのか、あるいはそれを聴いている今の自分の精神状態にあるのか、どちらかはわからなかったけれど、とにかく僕はラジオのスイッチを切り、黙って料理をつづけた」

 バッハの「6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」は1720年に作曲されたとされる作品で、ソナタ第1番ト短調、パルティータ第1番ロ短調、ソナタ第2番イ短調、パルティータ第2番ニ短調、ソナタ第3番ハ長調、パルティータ第3番ホ長調の6曲から成る。BWV.番号は1001から1006。
 ソナタ第1番の第2楽章はオルガン作品のBWV.539とリュート作品BWV.1000に、ソナタ第2番はクラヴィア・ソナタBWV.964に、ソナタ第3番の第1楽章はクラヴィア曲BWV.968に編曲されている。
 また、パルティータ第3番の前奏曲(なんと生き生きとした音楽であることか!)はカンタータBWV.29のシンフォニアに転用されている。

 今から10年以上前、私は東京に出張したときにf2a187d3.jpg、たまたま石丸電気で「つかみ」でこの曲のCDを買った。Eugene Druckerという人が弾いた全曲盤である。正直言って、この曲の他のCDは未だに持っていない。つまり他の全曲演奏を聴いたことがない。そして、この曲は私にとって、魅惑的な部分と、苛立つとは言わないまでも退屈でしょうがない部分がある。
 この小説の“僕”こと岡田亨は、「演奏者の側にあるのか、今の自分の精神状態にあるのか、どちらかはわからないけど」苛立っている。
 私に置き換えてみれば、退屈なのは演奏者のせいなのか、楽曲のせいなのか、普遍的な(だっていつも感じているのだから、一時的なものではない)自分の精神状態にあるのか、今のところ検証されていない。別な演奏を聴いてみたら明らかになるのかもしれないが、「精神状態にある」と判明するのが嫌だから聴かないでいる。
 ちなみにこのCDはNOVELLO RECORDSのNVLCD106。1988年の録音。このヴァイオリニスト、有名な人ですかね?

 話は変わるが「ねじまき鳥」には加納マルタという少々変わった女性が登場する(その妹である加納クレタというのも登場するが……)。マルタ島に住んでいたことがあるということからこのような「職業上の名前」をつけたのだが、マルタ島に行ったことがあるかと彼女に聞かれて、行ったことのない“僕”はこう考える。

 「僕がマルタ島について知っているのは、ハーブ・アルバートの演奏した『マルタ島の砂』だけだったが、これは掛け値なしにひどい曲だった」(77p)

 「マルタ島の砂」……
 私が中学に入ったとき、親にラジカセ(ステレオ・ラジカセではない。そんなハイカラなものはまだ製品開発されていなかった)を買ってもらった。「ラジカセでNHK基礎英語を録音して、英語の勉強をするように」ということであったが、私はその目的のために、短波も入る3バンドラジオつき、2ウェイスピーカー(あんなウーファーがどれほど意味があったのかわからない)、高出力の、当時としてはとびきり重装備の、AIWAの製品を買ってもらった(あのころはaiwaではなくAIWAであった。説明書をとっておいたはずなのに、見当たらない。残念だ)。
 そのラジカセにおまけでついていたのが「マルタ島の砂」が入ったデモ・テープであった。
 私はいい曲だと思ったのだが……
 こんなところで、この曲名に出逢うなんて、感慨無量であった(嘘である)。

 みなさんには興味はないだろうが、一応申し上げておくならば、その直後から私はクラシック音楽にはまっていくことになるのである。

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ロッシーニ in ねじまき鳥

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)は、0ef2a4ed.jpg 「台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった」という文章で始まる。

 「ねじまき鳥クロニクル」は3部からなる長編小説で、第1部は「泥棒かささぎ編」、第2部が「予言する鳥編」、第3部が「鳥刺し男編」となっている。
 個人的には村上春樹の小説の中では最も優れた作品であるように思う。

 この小説でもクラシック音楽が流れている場面がたくさんあるが、出だしからしてこうなっている(ここで流れている演奏はアバド指揮のロンドン響によるものである。それはもちろん小説中の、このすぐあとに書かれているが、こういった細かな記述が村上春樹の小説にリアル感を与えるものとなっているのだろう。それでなければ、空想の世界の「わけのわからない向こう側の世界の物語」だけで終ってしまいそうだ。しかし、間違いなくこの世界の出来事だということを訴えるために、アバドが出てきたり、アディダスのTシャツを着たり、「暮しの手帖」を読んだりするのだ)。

 ロッシーニ(1792-1868)は、イタリアの初期ロマン派歌劇の「帝王」であった。40曲近いオペラを残したが、村上春樹がここで有名な「セヴィリヤの理髪師」でも「ウィリアム・テル」でもなく「泥棒かささぎ」を持ち出しているところが、いかにも彼らしいこだわりが感じられる。
 かささぎ(鵲)という鳥はカラス科の、体長18センチほどの鳥だという。北海道には生息していないらしい。それはどうでもいいか……

 ロッシーニと同時代には、ほかにドニゼッティとベルリーニが活躍したが、彼らの「娯楽用作品」についてベルリオーズは次のように書いている。

 《イタリア人にとって音楽とは官能的な喜びであり、それ以上のものではない。精神の高貴な表現である音楽に対し、彼らは料理の仕方並みの敬意しか払わない。連中は、何も考えずまた注意を払わなくともすぐに消化できる、いってみればマカロニ料理のようなスコア(楽譜)を求めている》(ショーンバーグ「大作曲家の生涯」。共同通信社)

 こういった音楽の傾向が、現代においてロッシーニ(そしてドニゼッティやベルリーニも)の作品が、いくつかを除いてあまり聴かれなくなってきている原因となっているのだろう。要するに流行らなくなったのである。

 ここではロッシーニの作品でも、オペラではなく、器楽692d7e1f.jpg 作品を1曲ご紹介しておく。
 6曲からなる「弦楽のためのソナタ」(1804)である。
 愛らしい肩肘の張らない音楽で、スパゲティーをゆでるのには合わないだろうが、昼下がりの庭で執拗につきまとってくるブヨをはらいながらお茶を飲む情景にはぴったりである。
 お薦め盤はイタリア合奏団の演奏によるもので、デンオンのCOCO70512~13。タワーレコードのネットショップに在庫あり。1,575円(2枚組)。録音は1987年。なお、ドニゼッティの弦楽四重奏曲(弦楽合奏版)が2曲カップリングされている。

 ところで「ねじまき鳥クロニクル」の第1部の69pには、主人公の“僕”が「『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部覚えている」という記述がある。
 思い起こせば、私はこの記述を読んで「カラマーゾフの兄弟」を読もうと思い立ったのであった(私が読んだのは、その後大ブームとなった光文社古典新訳文庫のもの)。
 そして、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の“私”も、「カラマーゾフの兄弟」の兄弟の名前を覚えていた。
 よくわからないが、恐るべしカラマーゾフ、である。

待ったあげく、期間終了

 私がアフィリエイトで利用しているのは、このブログと同じocnの「My Affiliate」と、バリューコマースのものであるが、今年に入ったあたりから「My Affiliate」のメニューの充実度ぶりはすばらしい。なかなかたいしたものである(それで自分が実際に稼げるかどうかは別として)。  一方、バリューコマースの方は、確かにプログラムは多いが、参加企業によってはいつまでたっても、提携依頼したのに許可の返事も不許可の返事も来ないままというのがある。  島村楽器に提携依頼したときは、4ヶ月間「提携依頼中」のまま。最後は「オファー期間が終わりました」との連絡。ひどいよなぁ。微力ながらも島村楽器のお役にたちたいと思ったのに……。ああ、片想い。  提携依頼に応じられないなら、「あなたのことは嫌いじゃないわ。けど、なんていうか……、お付き合いはできないの」といった返事が欲しい。いずれにせよ長くても1週間くらいで可否をはっきりしてほしい。  これはバリューコマースというよりは、そのサイト(この場合は島村楽器)の態勢の問題だろうが(実際、たいていのものは、1日2日で返事が来る)、かといって、バリューコマースがノーチェックでいいというわけでもない。誠実にオファーに対応しない(承認、非承認のいずれでも)サイトには注意を促してほしい。私は途中で、オファー申し込み中の解除をしようとしたが、その方法は解らなかった。  そんなんで、最近は自然と「My Affiliate」のプログラムに申し込むことが多い。  ただ現在、1週間前にバリューコマースで提携依頼したものが一つある。返事はまだ来ない。承認、非承認もなく、ただ「オファー中」のままである。  さて、動きがあるのはいつのことになるやら。  休まず、今日も書いてしまいました……

シーズン開幕を告げる明るい序曲

 T.スボボダ(1939- )の「シーズンへの序曲」。

 過去に聴いた音楽のなかで、ぜひとももう一度耳にba59a593.jpg したいと願っているのに再会できない曲というのがいくつかある。
 このブログで以前取り上げた、ペーツェルの「金管五重奏のための組曲」もそうである。そして、このスボボダという、プロレスラーみたいな、あるいはたまたま通りがかったどこかの家の庭に果樹を見かけたときのような(「スモモだっ!)名前の作曲家が書いた、「シーズンへの序曲」もそうである。

 私はこの曲を1989年9月の札響第306回定期演奏会で知った。指揮は先月まで都響にいたジェイムス・デプリースト。
 当日のプログラムには、この作品について次のように書かれている。

 「『シーズンへの序曲』は、1978年オレゴン交響楽団83季開幕に寄せ、委嘱をうけて作曲され、10月7日に初演された。
 スボボダの作品は明るく軽やかな色彩が強く、彼自身アメリカの作曲家と認めながらも、青年期を過ごしたチェコでの人々との深いかかわりが失われていないと語っているように、チェコ音楽の特質を作品のかいまみることができよう」

 う~ん、情報不足で書くのが大変だったのが伝わってくる文章である。

 それはともかく、とても新鮮な感じがする音楽で、チューブラベルの音が印象的。メロディーも「これからシーズンが始まるよ」というような、期待感に満ちたような明るい音楽だった。演奏時間は約8分。

 この日の演奏は後日、AIR-G(FM北海道)の「札響アワー」(土曜日朝)で放送されたのだが、あいにく当日私は仕事でエアチェックできなかった(あの頃はまだ土曜出勤というのは当然だったのだ。週休二日になるのには、もう少し時間を要した)。
 それが惜しまれてならない。仕事をずる休みしなかった、勤勉な性分に自分自身腹が立つ。

 あぁ、ぜひとももう一度耳にしたい。
 耳にするだけじゃもちろんいや。自分のものにしたい。(←CDを持ちたいという意味)

 しかし、いまのところ当たり前のように音盤はないし、今後もかなり難しいだろう。
 だいいち、その後スボボダという作曲者の名前すら耳にしない。
 ガンバレ、スボボダ!

 耳にできない作品ではあるが、将来への期待を込めてレビューのトラックバックもしておく。

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ドライブ中に味わった超屈辱感

 村上春樹の「遠い太鼓」(講談社文庫)は彼のギリシャやイタリア滞在記である。初出は1990年だから、もう20年近く昔の本だ。

 私は海外旅行に行きたいなんて全然思わない人間bb0a8fba.jpg で、ましてや村上春樹のように海外に長期間滞在するなんてことは、考えただけで首をくくりたくなる。多くの人と違い私にとって海外に行くことはリフレッシュなんかにならず、ストレスにしかならない。
 数年前に仕事でドイツ、フランスに行ったときも、現地でアテンドしてくれた日本人がいたにも関わらずひどく苦痛であった。言葉が通じない恐ろしさと、基本的にパン食が苦手なせいである。
 私はハムサンドィッチだけは好むが、それ以外のパンは好まない。それだって角食の、完璧に耳を切り落としたものに限る。
 そのヨーロッパに行ったときも、最初の訪問先で社員食堂で一緒に昼食を摂るはめになったが、パンが苦痛だった。しかも「食え、食え」とパンをいくつも押し付けてくる。パンだらけでやなせたかし・ワールドに放り込まれたような気分だった。

 その「遠い太鼓」に次のような記述がある。

 「ペロポネソスは山の険しいところだし、ロードスではフィアットでひどい目にあったから、今度は安心できる日本車にしようと思って「インターレント」でニッサン・チェリー(たぶん日本でいうパルサーだろう)を借りたのだが、これがまたひどい代物だった。見掛けはけっこうぴかぴかしているのだが、実は整備不良を絵に描いたような車だった。高速道路で百キロを出したらぶるぶると車体が震えて、ハンドルにしがみついていなくてはならない。きつい山道にくると、状況はもっと悲惨だった。なにしろ上り坂でギヤをローに落としてアクセルを踏みこんでもフカフカッというばかりで全然馬力が出ない。ずるずるとスピードが落ちていってバスやら大型トラックやらに追い抜かれる始末である。そういう情けないチェリーを駆って、選挙戦で熱くなったペロポネソス半島を一週間ばかりうろうろと回っていた」(466p)

 実は私はパルサーに乗っていたことがある。
 自分たちで(結婚した後だったので)初めて買った車であった。
 そのパルサーもひどい車だった。馬力という点では、屠畜直前の馬のようなものだった。

 走行安定性は悪い(冬の峠道のトンネルで一回転したことがある。FFなので尻振りがあるのはわかるが、それにしても尻軽女のように尻が軽かった)。
 力はない(私も峠道で大型バスにあっという間に抜かれたことが何度もある。こっちはアクセルを目いっぱい踏み込んでいたのに、である。峠の登坂車線で自分が「遅い車レーン」にいて、バスやらトラックやら軽自動車やらがスイスイと追越車線をすり抜けていく屈辱感はなかなかのものである)。

 というわけで、村上春樹が書いてあることが実によく理解できるのである。整備不良云々以前に、仕様の問題である。

 今のパルサー(ってあるのかな?)は違うのかも知れないけど、私の乗っていたやつはおもちゃのような車だった、あらゆる意味で。

 それと、パルサーの前身は確かに「チェリー」であった。
 しかし「チェリー」ねぇ。タバコじゃあるまいし……。
 そして「桜」が「脈動性電波(パルス)を周期的に発する天体」に変わったというのにも、かなり無理がある。その天体は三菱ふそうバスや日野レンジャーや、小惑星のような軽自動車たちに置いてきぼりにされるのだ。

 あぁ、悲しかった。

 それ以降、現在までのところ私はレガシィ以外を買ったことはない。
 レガシィってとっても素敵な車だ。

村上春樹のブルックナー観(?)

 村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーラbe603832.jpg ンド」の下巻には、「ハードボイルド・ワンダーランド」での主人公である「私」が、次のように思う場面がある(この小説は「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」の2つの世界が描かれており、前者の主人公は「私」で、後者の主人公は「僕」である)。

 「雨はまだ降りつづいていたが、服を買うのにも飽きたのでレインコートを探すのはやめ、ビヤホールに入って生ビールを飲み、生ガキを食べた。ビヤホールではどういうわけかブルックナーのシンフォニーがかかっていた。何番のシンフォニーなのかはわからなかったが、ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない。とにかくビヤホールでブルックナーがかかっているなんて初めてだ」(新潮文庫・下巻237p)

 う~ん、そう言われればそうだけど、でも、そうかなあ。
 つまり、「ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない」という部分についてである。
 確かにブルックナーの交響曲はどれも「雰囲気」が似ているが、各曲でけっこう異なるのだ。そういう点で言えば、私なんかはかえって、モーツァルトのピアノ協奏曲の方が、ふと聴いたときに「あれ、これって何番のテーマだったっけ」と思うことがあった(今も完全克服したとは言いがたい)。

 「ヴィヴァルディは600の協奏曲を書いたのではなく、1つの協奏曲を600回書きかえたのだ」と言ったのはダラピッコラであるが、村上春樹の文章はこれに匹敵する見識だと言える。実際、ブルックナーに対し同じ交響曲を9回書いたと感じる傾向の人もいるという。

 ただし、私は小説の主人公の「私」の考えが的を得ているとは思わない。案外とブルックナーの曲は、マーラーほどではないにせよ各曲が個性的である。
 にしても、ビアホールにブルックナーがかかっているというのは場違いな気がする。どうも彼の曲は飲食には向いていない。テーマも響きも、そして進行も。
 そういえば、当時のウィーンの人々はブルックナーに「アダージョ・コンポニスト」というあだ名をつけたという。楽曲の進行にずいぶんと時間がかかるために、ウィーンの人たちには彼の音楽のどれもがアダージョのように聞こえたらしい。
 それをBGMにしてビールを飲んでいたら、ペースが狂ってきっとビールがぬるくなってしまうだろう。ドイツの人はぬるいビールも飲むらしいけど。
 ただ、こじつけるならブルックナーは大のビール党だったという。そういう意味ではビアホールと無関係ではない作曲家だ。そんなことはビアホールに来ている人には関係のない話だけど。

 小説は次のように続く。 

 「やがてブルックナーの長いシンフォニーが終り、ラヴェルの「ボレロ」に変った。奇妙なとりあわせだ」(同)。

 まったくである。このビアホールの店長はテンポの速い楽曲は嫌いなようだ。

 ブルックナーとマーラーの音楽はほぼ同じ頃に人気が高まった。
 しかしマーラーとブルックナーは、共通点よりは異なる点の方が多い。
 私は圧倒的にマーラー派であるが、心が広い私はブルックナーをも受容している。しかし、マーラー派にはブルックナーの音楽に拒否反応を示す人もいるようだし、マーラーからブルックナーに「改宗」した人も私は知っている。その点私は無宗教なので、マーラーが好きだがブルックナーもしばしば聴く。

 そういう意味ではブルックナーの音楽というのは難しいのかも知れない。ブルックナーを崇拝する人にとっては高尚で精神を高揚させる要素が、逆の立場の人たちにとっては長ったらしく退屈にしか聞こえないらしいから。
 あとホントかウソか知らないけど、女性のブルックナー・ファンというのは極めて希少な存在だそうだ。高野史緒さんくらいか?

 そこで、という訳ではないが、今日はブルックナーの交響曲第8番ハ短調WAB.108を御紹介。
 といっても、ふだん耳にするハース版やノヴァーク版では8db91779.jpg なく、第1稿と言われているもの。
 この曲は1884年から87年にかけて作曲された。その1887年のものが第1稿であり、ハース版やノヴァーク版は1889年から90年にかけて改訂された第2稿による。第2稿の初演は1892年に行なわれたが、第1稿の全曲初演は1973年になってやっと行なわれた(第1楽章だけは1954年に初演)。
 インバルが振った(たぶんオケはフランクフルト放送響だと思う)この第1稿のライヴ録音をNHK-FMで聴いたとき、私はおったまげてしまった。例えば(というか、これがいちばん衝撃的だけど)、第1楽章は力強いファンファーレで閉じられるのである!
 紹介するCDもインバル/フランクフルト放送響のもの。1982年録音。
 テルデックのWPCS21016。タワーレコードのネットショップに在庫あり。1,050円。

 ほら、ブルックナーの交響曲は9つだけにとどまらず、さらにいろいろな版があるのだ。
 豊富な品揃え!

 どれも一緒だなんて言っちゃイヤ!

民謡を使い忘れた愚かな行為

 ハチャトゥリアン(1903-1978)のピアノ協奏曲変二長調(1936)。

 ハチャトゥリアンが残した音楽の少なからずのものは、とても親しみやすいメロディーを備え、生命力にあふれている。
 そして適度なエキサイティング感がある。適度な憂鬱さもある。適度な官能美もある。
 しかしバランスを崩してそのどれかに溺れてしまうことはあまりない。

 ハチャトゥリアンは同じ時代のソヴィエトの作曲家、ショスタコーヴィチ(1906-1975)やプロコフィエフ(1891-1953)とは異なったベクトルで活躍したと言える。
 彼はアルメニア人の子として生まれたが、そのアルメニアをはじめ、コーカサス各地の民俗音楽を素材にした作品を書いた。それはソヴィエトにおける非ロシア的な民族主義音楽をリードするものであったという。「非ロシア的」ねぇ。ショスタコーヴィチやプロコフィエフの“モダニズム”とは一線を画した立場にあったのである。
 それはまた、ハチャトゥリアンがショスタコーヴィチやプロコフィエフほどの評価を与えられず、「有名な『剣の舞』の作曲者」ぐらいで話を片付けられてしまう要因にもなっている。

 そんな「民俗オーラ満開」の彼であってさえも、共産党からの批判対象になったことがある。
 1948年2月に開かれたソヴィエト共産党中央委員会の会議では、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ムラデリ、ハチャトゥリアン、ミアスコフスキー、シェバリンらが名指しで、形式主義と「ソヴィエト人民や、その芸術的好尚に無縁な反民主主義的傾向」に陥り、「ヨーロッパやアメリカのブルジョア、モダニズム音楽を強く想起させる」音楽を書いている、と非難された。
 このときハチャトゥリアンは次のように謝罪した。
 「いったいどうして、私は形式主義の陥穽(かんせい)にはまったのだろうか。……私と同じように、今日の人民に理解されない音楽でも、将来の世代は理解するだろうと期待した私の同僚に警告したい。これは致命的な誤りである。わが国では数億の民衆、ソヴィエト全人民が、いまや音楽の審判者である。わが人民が理解できる音楽を書き、創作芸術によって数億人に喜びを与えるほど、崇高な仕事があるだろうか」(H.ショーンバーグ「大作曲家の生涯」。共同通信社)

 やれやれである。
 ちなみにこのとき、ショスタコーヴィチは「決議に盛られた批判の一切に対し……私は深く感謝している。……私は英雄的なソヴィエト人民の影像を音楽で描くため、さらに決意を固めて努力するつもりだ」(同)と述べ、またムラデリは「自作のオペラのなかに、私がどうして1曲も民謡を入れなかったのか、自分でもわからない。……私は創作上の誤りの深刻さを十分認識し、これらの誤りを今後の作品のイデオロギー的誠実さで矯正するという、厳然たる責務を負っている」(同)と謝罪している。

 やれやれ。どうして1曲も民謡を入れなかったのかだって?……入れたくなかったんでしょ、ムーちゃん?

 さて、ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲だが、彼のヴァイ50dce9d1.jpg オリン協奏曲とは違って、この曲はすぐにとっつきやすいという類の曲ではない。全体的に物悲しい重さに支配されているからである。ヴァイオリン協奏曲はここまでの重さはない(ヴァイオリン協奏曲についてはあらためて取り上げたい)。しかし民俗的な情緒が横たわっているのはハチャトゥリアンならではのものだし、民俗的ながらメカニック的なエキサイティングも彼ならではのものだ。
 この曲についてショスタコーヴィチは「極めて深い思想を感じることができるし、交響的規模の点でも(ハチャトゥリアンの卒業作品である)第1交響曲をしのいでいる。この協奏曲でハチャトゥリアンは、技巧的な豊かさと奥深い内容を結びつけることに成功した」と讃え、実際、このあとハチャトゥリアンの名声は次第に国外にも広がっていったのだった。

 大太鼓の一打で開始されることがまずは衝撃的であるが、打楽器では第2楽章にフレクサトーンという珍しい楽器が使われる。お化けが出てくるときに効果音で使われるような、金属のヒュロロロロ~という音がする体鳴楽器で、ショスタコーヴィチも「ニュー・バビロン」で用いている。

 私がこの曲を最初に聴いたのは、札響の定期演奏会においてであったが、そのときのソリストはまだ元気な頃の舘野泉さんだった。あの人って、見るからに人が良さそうな感じだ。それはともかく、その夜アンコールで彼が弾いたシベリウスの小品がまた絶品だったなぁ。

 お薦めするCDは、というか私がふだん聴くCDは、お富さんだかアタミアンだかが弾いているもの(写真を見る限りでは、あまり知り合いにはしたくないタイプの男だ。舘野泉とは正反対っぽい。思い込みだけど)。指揮はジェラルド・シュヴァルツ、オケはシアトルso。たまたま買ったCDだが、よくわからないが引き込まれるのである。DELOSのDE3155(輸入盤。たぶん廃盤)。

 この曲を初めて聴いてみようという方は、廉価なナクソス盤(ヤブロンスカヤのpf、ヤブロンスキー指揮モスクワso。規格番号は8.550799)が手ごろかも知れない。

死んだ。また死んだ。親父も死んだ。

 ヤナーチェク(1854-1928・チェコ)の、3曲から成る狂詩曲「タラス・ブーリバ」(1915-18)。
 この作品は「シンフォニエッタ」(1926)とともにヤナーチェクの代表作であり、CDの数も彼としては多いほうだが、なかなか生で聴ける機会は少ない。
 それが昨日の札響定期演奏会で取り上げられたの9bad3237.jpgで(しかもいきなりプログラムの1曲目)、会場に足を運んでみた(同様のプログラムで本日12日15時からも公演が行われる)。

 CDで聴く以上にとても面白い作品だった。エコーのようにホルンが掛け合ったり、ティンパニとベルのリズムの絡み、弦楽群の旋律の受け渡しなど、CDではその効果がなかなか伝わらないものが、ステージを観ることではっきりとし、この作品の魅力をあらためて知った次第。もちろん演奏もたいへんすばらしいものだった。
 指揮は、この4月に札響の首席客演指揮者に就任したラドミル・エリシュカ。
 私は初めてこの指揮者を知ったが、年齢の割になかなかエネルギッシュな動きをする指揮者であった。彼はヤナーチェクの高弟ブジェチスラフ・バカラに師事したということなので、就任第1曲目として「タラス・ブーリバ」を選んだのかも知れない。

 「タラス・ブーリバ」はゴーゴリの「ミールゴロド」という小説の中の「隊長ブーリバ」から題材をとったもので、ブーリバはウクライナ地方のコサックの指導者。ポーランド人と戦って英雄的な死を遂げた。ヤナーチェクはチェコが独立を果たしたのを機に、この同じスラヴ系民族の英雄を題材にした狂詩曲を書いたのであった。
 狂詩曲といっても3部から成る25分ほどの大きな曲で、独特の調性というか、旋律線が印象的である。

 第1部は「アンドレイの死」。アンドレイはブーリバの長男で勇敢な戦士。しかし、敵軍ポーランドの司令官の娘と恋に落ち、ブーリバに殺される。
 第2部は「オスタップの死」。ブーリバの次男オスタップも戦士だが、ポーランド軍に捕らえられ拷問を受け死んでしまう。
 第3部「予言とタラス・ブーリバの死」。ブーリバもついに捕らえられ、火を放たれて亡くなる。

 このように「死の3部作」のような作品であるが、全体に悲愴感に満ちているというような曲ではまったくない。民俗的で特徴的な素朴な旋律とリズムで曲は進み、ときにはユーモラスさえ感じる。その響きは、あるときはとても美しいロマンチシズムに満ち、またあるときは金管の荒々しい咆哮がこだまする。
 オルガンが薬味的に加わるのも効果的(私は昨日、初めてキタラのオルガンの音を耳にした)。

 なお、当夜のほかのプログラムはモーツァルトのピアノ協奏曲第24番(独奏・伊藤恵)、ドヴォルザークの第6交響曲。
 ドヴォルザークは所用があって私は聴けなかったが、モーツァルトの演奏も力演だった。昨日のモーツァルトを聴いていて感じたのは「モーツァルトの演奏も変わったなぁ」ということ。つまり、ピリオドではない通常のオーケストラでも、甘ったるさに陥らずにきびきびとしたピリオド風の演奏になってきたということ。これは私には好ましいことである。こういった傾向は指揮者の指示ももちろんあるのだろうが、ホールが良くなったせいもあるだろう。例えば同じような演奏を昔の北海道厚生年金会館みたいな響きの悪いホールでやったら、ブツブツと音が途切れ途切れになってしまい、曲にならなかっただろうから。
 伊藤恵の独奏も、過度に力を入れない好感をもてる演d80f4dc0.jpg 奏。第1楽章のカデンツァは私は初めて聴くものであった。

 「タラス・ブーリバ」のCDでは、古くはクーベリック盤が定評ある演奏だし、ノイマン/チェコpoの演奏(スプラフォンCOCO70411)も名演である。
 しかし、ここではクリスティアン・アーミング指揮ヤナーチェクpoのCDを紹介しておく。輸入盤でARTENOVAの74321 67524 2だが、現在は廃盤のよう。とてもきびきびとした歯切れのよい演奏。昨夜の札響の演奏もこちらに近い傾向の演奏だった。

 先に書いたとおり、今日の15時からもB日程の演奏会がある。
 プログラムが地味なせいなのか、昨夜の客席には空席が目立った。
 しかし、「タラス・ブーリバ」だけでも一聴の価値あり、と私は思う。

 

“はいはい道新”のワンダー度

 ローカルな話で恐縮だが、北海道新聞の夕刊には「はいはい道新」という読者投稿欄がある。読者投稿といっても、読者が電話で伝えるものである。また、ローカルと言っても北海道では北海道新聞が圧倒的な発行部数を誇るので、その社会的影響度は大きい(かも知れない)。毎日5つほどの「話」が載っており、心温まる話題には「えくぼ」、腹が立った出来事には「怒ってます」なんていうタイトルがつけられている。

 しかし私はこの欄があまり得意ではない。
 「何だよ、これ!」という話が「当然のこと」のように載っていることが多々あるのだ。私の心は「怒ってます」になってしまう。だから、ほとんど目を通さないようにしているが、昨日は子供が「何だよ、これ!」って言っていたので読んでみた。
 やれやれという気持ちに十分襲われた。
 掲載されていた5つのうち、まともな話題は2つあったが、もう1つは「そうかねぇ~?」というもの、残り2つは「???」というものであった。

 「そうかねぇ~?」と思ったのはこんな話。

 《えくぼ》 (←つまりは読んだ人が思わず微笑むような話(のはず))
 「自分の要求が通らないと商店などの床に転がり大声で泣き叫ぶお子さんを時々見かけますよね。手を焼いているお母さんのためにお勧めする手は、知人に頼んで駄々をこねている子供に近づき「元気だね。私の子供になってよ」と声をかけてもらうことです。子供はびっくりしてお母さんの方に走ってきます。子供の知らない人でないとだめで、しかも事前の打ち合わせが必要になりますが、私の経験では効果的でした。試してみてください」(釧路市・訪問ヘルパー、女61)

 そうかねぇ?
 まあ、効果がある方法なのかも知れないが、「子供の知らない人でないとだめで、しかも事前の打ち合わせが必要になる」って、子供がいつどこで床でパフォーマンスを繰り広げるのかわからないのに、こんなこと現実味があるのだろうか?それに結局は、その親がきちんと躾していないという根本的な問題は解決しないだろう。
 「私の経験では効果的でした」って、この人、何十年も前にこの方法を実践したようだが、今は時代も違うだろう。とにかく自分の育児に安易に他人を巻き込むなって言いたい。



 次は、投稿者の感性と私の感性のギャップを感じた話。

 タイトルは《心が癒された一瞬》
 「母の運転する車で商店街へ買い物に行きました。信号待ちをしていると、目の前の横断歩道を小学高学年の男の子が両手を振り回しながら、元気いっぱいに歩いていきます。その後を妹さんが大きくて重そうな買い物袋を両手で持って、ついていくんです。最近は凶悪事件のニュースが続き、やりきれない気持ちでした。身軽さを誇るようなお兄ちゃんと、ついていくのに必死な妹さんのしぐさに一瞬心が癒されるのを感じました」(札幌市・パート、女46)

 これってどこが癒されるのだろう?
 兄が妹をこきつかっているだけで、優しさも微塵もない。むしろこれを見て「ますますやりきれない気持ち」にならないのだろうか?やりきれないとまではいかなくても、「あら、妹さんがかわいそうね」という気持ちになるのが私の感覚。凶悪事件の対極にある心温まる話とは全然思えない。
 「ついていくのに必死な妹さんのしぐさに一瞬心が癒されるのを感じました」って、こいつサドか?
 大丈夫か?札幌市・パート、女46歳!
 それとも私の感性がおかしいのでしょうか?……



 最後に私が無性に腹が立った話。

 《怒ってます》
 「デパートの上りエスカレーターのステップ右側に立っていると、中ほどで後ろから「道をあけて」という男性の声。私が「お急ぎの方は階段をご利用ください」と冗談交じりに言ったら気に障ったのか「右側をあけるのがマナーだ」と怒り出しました。マナーはわかりませんが、私は左手が悪く、右手で手すりをつかむため右側に立つことが多いのです。弁明も聞かずに男性は私をひどい言葉でののしりながら通りすぎていきました。残念です」(札幌市・主婦、72)

 あぁ~、読んでて腹がたつ。男性にではなく、この72歳の主婦に。
 なんだこのババア!
 「お急ぎの方は階段をご利用ください」だと?しかも「冗談交じりに」だと?
 喧嘩うってんのか、このババア!
 何が「マナーはわかりませんが」だ。自分の無知を正当化するな!(一応申し上げておくが、北海道は東京などと同じく、エスカレーターでは右側を急ぐ人のために空けるのだ。大阪とは逆だ)

 後ろの男性から声をかけられたときに「すいません、右手でしか手すりが使えないものですから」と最初に答えれば、男性だって怒らなかったはずだ。
 「『お急ぎの方は階段をご利用ください』と冗談交じりに言ったら気に障ったのか」だと?気に障るに決まってんじゃないか!何が「弁明も聞かずに」だ。弁明を聞いてほしいなら、最初っから気に障るようなことを言うな!
 何が「残念です」だよ。
 
 それにしても、道新はこういう話を載せるときに掲載基準みたいなもので篩いにかけないのだろうか?
 どっちが非常識なのか考慮しないのだろうか?非常識な、あるいは間違っている側の話をこんなふうに載せることに抵抗を感じないのだろうか?なんだかとっても不思議である(私は道新自体は好きである)。

 あるいは「反面教師」として「こんなへんてこな考えの人もいるんですよ」という意味で掲載するのだろうか?
 だとしたら、けっこう奥の深い欄ではある。

幼な児の前途に祝福あれ!

 ベルリオーズの宗教的三部劇「キリストの幼時」Op.25(1854年全曲初演)。

 この曲はその名のとおり、宗教的な題材による三部構成の作品だが、劇とはいえ動きはないので実質はオラトリオである(オラトリオとは日本語で聖譚曲といい、宗教的な性格を持った長い歌詞による楽曲のことである)。
 題材は「マタイによる福音書」第2章のヘロデ王の幼児大虐殺と聖家族のエジプトへの避難だが、ベルリオーズ自身によって作詞されている。

 「キリストの幼時」はベルリオーズの多くの作品とは異なり、誇張のない素朴な音楽となっており、オーケストラの編成も2管を基本としている。
 作曲は1850年から始められが、それはこの年に書かれた合唱曲「聖家族への羊飼いたちの別れ」が発端となっている。この作品が成功したため、ベルリオーズはさらに三部劇に拡大し、1854年に完成したのであった。

 各部は、第1部「ヘロデ王の夢」、第2部「エジプトへの避難」、第3部「サイスへの到着」で全部で11曲から成る。1850年に書かれた「聖家族への羊飼いたちの別れ」は第2部の第2曲である。

 ここで私が紹介したいのは、第3部にある「2本のフルートとハープのためのトリオ」である。
 これは劇の筋としては、疲れ果てた聖家族たちを家7ed9582b.jpg 父がいたわったあとに、若いイスラエル人たちが奏でるもの。 清澄で素朴な美しい音楽。心が安らぐわぁ~
 このトリオのあと、「このようにして一人の異教徒により、イエスは救われた」という歌が続き曲は終わりを迎えてゆく。

 このトリオは、全曲中ここだけでも聴いておきたい部分である。有名でない名曲である。

 フルートの独奏曲、あるいはフルートが中心になった室内楽曲っていうのは案外と少ない(それは他の管楽器も事情は同じようなものなのだろうけど)。
 そのような恵まれない環境の中、この曲はフルーティスト(卵を含む)にはとっても良いレパートリーになるのではないだろうか?(私が言うまでもなく「そんなこと知ってるよ」と言われそうだが)

 私が持っているCD(全曲盤)はクリュイタンス指揮パリ音楽院oのもの(EMI 5 68586 2。現在は廃盤のよう)。なお、現在タワーレコードではC.ディヴィス盤やミュンシュの盤などの全曲盤のほか、名曲集に収められたものも扱っている。

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