新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の刺激的出来事についてたらたらと書いています。

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

かつてはこっち、いまはあっち♪中胡協奏曲「Su Wu」他

Su Wu  マチナカから離れたところに……
 初代・陳建民、2代目・陳建一、3代目・陳建太郎の赤坂四川飯店。

 名古屋にも、その直営店か系列店かはよくわからないが、四川飯店がある。
 場所は名駅でも栄でもない。池下という街の閑静とした住宅街にある。

 先週、牛坂課長ならびに乳舞(ちちぶ)係長と、その四川飯店 名古屋に行ってみた。
 もちろんただ行ってみただけではない。ちゃんと食べてみた。

 モダンな店舗。提灯やら紹興酒のカメなんかが店先に並んでいたりしない。
 店内には、いかにもって感じで中国音楽が流れたりしていない。
 価格設定は、一般的な中華料理店の1.5~2倍くらい。赤坂の四川飯店よりはちょっぴり安いかもしれない。

 が、味は間違いなし。これなら、この価格でも文句など言えるものか!

 陳建一の麻婆豆腐と陳建民の麻婆豆腐の2種の麻婆豆腐があり、どちらも食べてみたが、どっちもうまい。
 建一版は唐辛子マーク4つ、建民版は1つ。
 建民版の方が懐かしい味がする。
 なお、どちらも山椒(花椒(ホワジャオ))はほとんど使っていない。もしかするとまったく使っていないかもしれない。豆板醤の辛さである。山椒の刺激で味をマスクしていないのだ。

 メニューにはないのを承知で「かに玉はあります?」と言ってみたら、ウェイターのお兄さんが「かに玉はちょっと」と笑って応えてくれた。ウケてよかった。
 メニューにあるのに「麻婆春雨……」とオーダーしようとすると間髪入れずに「ない!」というあの店とは正反対。応対も洗練されている。

  味わい深さこの上ないスープ
 最後に担担麺を注文。
 3人でシェア。

 スープをすすると、なんと深みのある味か!
 憑りつかれたように続けてスープを飲んでしまい、汁なし担担麺のようになってしまった。
 もちろん麺もこのスープに相性抜群の太さ。

 あぁ、3人でシェアするんじゃなかった。みんな私の物にすればよかった!
 せめて、大盛りを3人で分けるべきだった。
 なお、こちらも山椒は使っていない。

  友好マップが変化
 ところで、何度か触れているが、札幌にも四川飯店がある。それも2店。

 私がよく行っていたのは札幌駅ターミナルビル・ESTAの10階にある店の方だ。

 ところが以前、赤坂の四川飯店に行ったとき、レジの横に置いてある全国の店舗が載っているパンフをみると、その店が載っていない。
 レジの人に聞くと、その店はウチの系列店ではないという。一方、もう1つの店、札幌ガーデンパレスに入っている四川飯店は関係があると言っていた。

 写真は、1985年に発行された「暮しの設計 Vol.167 陳建民 健一 中国の家庭料理入門」。

Kurashi167

 そのなかに四川飯店の案内が載っている広告ページがある。

KurashinoTechoShisen

 赤坂四川飯店の系列店として札幌四川飯店が載っているが、この電話番号はESTAにある店のもの。この店はもちろんいまでもあるし、人気がある。電話番号も同じだ。
 ということは、少なくとも昭和60年の時点ではESTAの店は赤坂四川飯店の系列店だったことになる。

 一方、札幌ガーデンパレスに入っている四川飯店は、いまのガーデンパレスが建てられる前、現在地の近くにあったエルム会館だかという古い建物にあったはずだ。行ったことはないが看板を見かけたことがある。

 それがどんないきさつか知らないが、ESTAの店はもう本家と関係なく、逆に広告には載っていなかったガーデンパレスの店はつながりがあることになった。
 ガーデンパレスの店に初めて行ったのはいまから15年ほど前で、その後何回か食事しているが、確かに赤坂四川飯店や先週食べた名古屋の四川飯店の味に通じるものがあるし、ESTAの四川飯店よりも値段の設定も高めだ。

JyuugyouinBoshu 昭和60年ころから昼に夜によく食事をしに行ったESTAの四川飯店は、ここ数年(その前にも断続的に)かつての味とはちょっと変わったような気がする

 そういえば、ESTAの四川飯店はかつて、陳建民の弟子だった人(日本人)が料理長を務めていると言っていた(写真はまったく関係ない名古屋の中華料理屋でみかけた貼り紙です)。その人が辞めたあと、提携関係が変わったのだろうか?ホームページには“桃園会グループ”とある。

 ところで、なぜ私が陳建民の料理本を持っているか。
 ESTAの四川飯店の担担麺や麻婆豆腐などの味に感動した若き日の私は、自分でも作りたいと強く思った。

 そんなときにこの本を見つけたのである。

 “暮しの設計”での陳建民シリーズは私が知っている限り3冊ある。ほかの2冊は“陳建民・洋子夫妻のおそうざい中國料理”と“陳建一 中国の野菜料理”である。
 結局私は札幌の旭屋書店でこれらのバックナンバーを買いそろえたが、いちばん使っているのは“中国の家庭料理入門”である。

 これに載っている麻婆豆腐と担担麺のレシピ。
 陳建民はどちらにも花椒を使っていない。

Chin_Mabo

Chin_Tantan

   陳建民・建一 中国の家庭料理入門 料理法別 基本と応用、すぐに役立つ143品 (暮しの設計 No.167) (雑誌)

 今日はちょいと変わったアルバムを。
 いまから15年以上前に秋葉原の石丸3号店で、なんの目的意識もなく買ったもの。

 最近になってナクソス・ミュージック・ライブラリーで検索してみたら、これが中胡のための協奏曲と二胡と管弦楽のための作品集であることがわかった。

 収録曲は写真に書かれているとおり。
 中胡協奏曲「Su Wu」の作曲者はZhu Liu、二胡のための協奏曲「Ballad of Yubel」の作曲者はWenjin Liuということだが、ほかの曲は伝承曲もしくは作曲者不詳らしい。

 数人の店員を雇っているくらいの規模の中華料理店の中で流れていそうな“いかにも”音楽だ。

 中胡と二胡を弾いているのは黄安源、指揮は葉詠詩、オーケストラは香港フィルハーモニー管弦楽団。

 1987年録音。MARCO POLO。

   音楽配信はこちら NAXOS MUSIC LIBRARY
 
 なお、広告に書かれている旭川と北見(錦江)の四川飯店は現在はない。
 旭川店はターミナルホテルの上の階に、錦江は北見東急百貨店にあったが、ホテルはイオンに建て替えられたし、東急百貨店は……いまどうなってんだろ?

    

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違うだろぉぉぉぉぉっっぅっー!♪ファリーナ/常軌を逸したカプリッチョ

Marais  「続けたい」とはたいした胆だ
 18日、豊田真由子議員が3か月ぶりに公の場に姿を見せた。

 あの録音を何度も耳にしたので、顔を見ると般若の面とかとオーバーラップしてしまう。


 で、議員を続けたいって言ってるのが信じられない。やはり超人的な精神力の持ち主だ。
 あなたこそ「違うだろぉぉぉぉぉっっぅっー!」だ。


 私はときどき、彼女には一度わが社に来てもらって、常識的な仕事をしない、いや、常識的には考えられないようなことを発展途上のまま繰り返す一部の社員に対し、喝を入れてほしいと思うことがある。
 彼女の吐いた言葉、気持ち悪く歌っていた歌詞の少なからずの部分が適用できるからだ。
 が、恐怖の豊田節であってもさして効果はないかもしれない。
 やれやれ……

 ファリーナ(Carlo Farina 1600頃-40頃 イタリア)の「常軌を逸したカプリッチョ(Capriccio stravagante)」(1627出版)。

 ファリーナは作曲家でもありヴァイオリン奏者でもあった人物だが、その生涯は謎の部分も多い。

 「常軌を逸したカプリッチョ」は彼のヴァイオリン・テクニックが駆使されるように書かれており、以下のように猫や犬の鳴き声、雌鶏や雄鶏の鳴き声、横笛などがヴァイオリンで表現される。

 カンツォーナ~リラ~小型の横笛~リラ・ヴァリアータ~弦を弓の木部で叩く~プレスト~アダージョ~らっぱ~クラリーノ~ドラム~雌鶏~雄鶏~プレスト~小型のフルート~プレスト~トレムラント~軍隊の横笛~猫~アダージョ~犬~アレグロ~スペインのギター~センプレ・ピウ・アダージョ


 また、ダブルストップ奏法(2つの音を同時に奏する)を発明したのもファリーナだと言われている。


 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏を。


 1969年録音。テルデック(WARNER × TOWER RECORDS Detour Collection)。


   このCDの詳しい情報 【タワレコ】 ※ポイント10倍キャンペーンは22日23:59まで
   バロック期の標題音楽<タワーレコード限定>


スパムささわたおりわり  常軌を逸した時刻
 ECショップから注文した商品の確認のメールが来た。

 すばやい対応だ。けど、えっと、何か頼んだんだっけな……


 あれ?

 私が登録しているのはECナビってサイトだ。
 ポイントサイトだが、そこから楽天市場へと進み欲しい商品を注文することができる。

 けど、それはECナビだ。ECショップではない。しかもECナビだって使ったことはない。


 しかも宛名がメールアドレスになっている。
 商品をお買い上げいただいた方に対して失礼である。MUUSAN様と書くべきだ。
 ということは、こやつ、私の名前を知らないってことになる。


 そして、ささわたおりわり……
 笹綿折割なら笹を綿状にして折ったあと割るって意味だろうが(意味が解らないが)、この奇妙な言葉は何だ?
 そういえば、こういう謎の文字の羅列が入ったメールを以前にも受け取ったことがある。

 そしてまた、送信者=ECショップのアドレスもアルファベットのチョー長いランダムな羅列。
 このメールが届いた時間も午前3時。こんな時間に営業してるわけがない。機械任せか、あるいはニポン国ではない只今真昼間の国から送ってきているのだろう。

 しっかし、なぁにが“お取引終了まで短い間では御座いますが何卒宜しく御願い申し上げます”だ。御座いますとか、何卒とか、宜しくとか、御願いなんて、フツーは漢字使わないし……

 この確認のURLをクリックすると、どんな画面が目の前に広がるのだろう?
 そしてなにより、このひらがなの羅列は(送り手にとって)どういう意味を持つのだろう?
 迷惑メールフォルダに振り分けられないようにするためという説もあるが、よくわからない。

    

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関東を過ぎたら手のひら返し♪マゼールの「冬の日の幻想」

TchaikoSym1  予想に反し、来るのは遅かった
 おとといの日曜日。

 前の日の土曜日から台風の接近を警戒するようにさんざんテレビに言われていたので、日曜日は9:30にまずは飛行機の予約をし無事目的の便の予約が取れたが、希望する後方通路側はうまっていた-、雨が降る前に急いでスーパーに行き制汗剤を買い-急いでいたせいでそれ以外のものを買うのを忘れた-、でもちょっぴりポツリポツリと雨粒攻撃に遭った

 ところがである。昼にもかかわらず、そしてそこに寝転んですごしていないにもかかわらず、枕元に懐中電灯を置いて警戒しているというのに一向に雨が降る気配がない。風だってそよそよだ。

 テレビの画面では九州がひどいとか、東海地区でも三重や岐阜がたいへんだとL字型スペースに表示されている。が、ここ愛知県の私の居住エリアはいたって平穏だ。

 風が強くなってきたのは夜の7時を過ぎてからだ。
 そして、雨が降り出したのは8時半ころからだろうか?

 9時過ぎになっていよいよもって台風を実感させる風雨。
 いよいよやってきたのだ。

  覚悟に反し去るのは早かった
 そのあと懐中電灯をそのまま枕元に置いて就寝したのだが、運の悪いころに午前2時ころにトイレに行きたくなり起床。しかしその頃には、外のヒューヒューという風の音は聞こえなくなっており、雨も上がっていたようだった。あっという間に過ぎ去ったのだ。

 3時半過ぎに携帯電話にメールが入る。
 市役所からの防災情報だ。
 市役所といっても自宅のある北海道から。大雨警報、暴風警報、洪水注意報が発令されたというのだ。

 つい6時間ほど前はここで荒れ狂っていた台風の魔の手が、もう北海道に。
 そりゃもうこっちは静まるわけだ。駆け足も駆け足、すごいスピードでここを過ぎ去って行ったのだった。

 昨日の昼前にあたりを散歩していると、しかしけっこうな被害が出ていた。
 店の看板が落ちたり、家の金属製フェンスが倒れたりしていた。やはり相当な風だったのだ。

 マンションに住んでいるとわからないものだ。けど、ここの網戸が吹き飛ばされたりしたら危ないなと思う。そうなって下で誰かに当たったら、やはり責任は私になるのだろうか?それともマンションの所有者あるいは管理会社になるのだろうか?

20170918水位  東京が中心なことはわかってますけどね
 あいかわらず東京主体で報道がなされるわけで、台風が関東を過ぎた昨日になると、どの局もトーンダウン。
 しかもABE首相が解散すると匂わしただかで、まったくこの人は大きな事件や災害があるときをねらってんじゃないかってくらい、皆の注意が集中しないタイミングになにかをやらかそうとする。姑息だ。臨時国会回避というのがもっと姑息だけど。

 ニュースでは九州の被害や北海道に再上陸といった報道はされるが、L型表示の常時報道はされない。北海道の様子はリアルタイムでわからないのだ。

 私は自宅近くの河川の水位情報を1時間おきにチェックしながら、不安な時間をくつろいで過ごした。

 話は変わって、村上春樹の「雑文集」(新潮社。現在は文庫化されている)の中の“余白のある音楽は聴き飽きない”(初出は2005年6月の「別冊ステレオサウンド」)にある記述。

MUrakamiHZatsubun ――
 ヨーロッパに住んでいたころ、クラシックのコンサートによく通いました。それでよかったな、と思うのは、やっぱりレコードなどではわからないことってありますよね。たとえば、ロリン・マゼールをローマで聴いて、「マゼールってこんなにいい指揮者だったっけ?」って本当にびっくりしました。――


 私もむかしはマゼールという指揮者は苦手だった。へんなクセがある演奏をするな、と。
 ところが、もちろんマゼールの演奏を生で聴いたことはないが、あるときからそのクセが快感に変わってしまった。年とともに快感中枢に変化が起こったのだろう。

 今日は若き日のマゼールがウィーン・フィルを振ったチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第1番ト短調Op.13冬の日の幻想(Winter Daydreams)」(第1・2稿1866/第3稿'74)。

 以前にもこの演奏を取り上げているが、ひじょうに引き締まったパワフルな演奏。特に低弦がすごい。コントラバスの弦から松やにが飛び散りそうな勢い。
 この演奏なら、「冬の日の幻想」じゃなく「冬の日の現実」だ。

 そしてまた、この時代にこんな音を録れたのもデッカだからだろう。

 1964年録音。デッカ。

   このCD(同一音源)の詳しい情報 【タワレコ】
   ※本日19日11:00より22日23:59までポイント10倍キャンペーン開催
   チャイコフスキー:交響曲全集 I

 あっ、結局3連休中にFoober問題に取り組むことができなかったな……

 あと2か月もすれば、北海道は現実的な冬が到来する。

    

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私の札響感動史(3)♪還暦おじさんの久々のステージは溌剌!

  どうもすっきりしない痕跡が
 前回のこのシリーズ(に勝手にしてしまってごめん)で掲載した札響の歴代指揮者の図だが、さっそく間違いがあった。この調子だとあと4,5か所は間違いがありそうだが、そこは焦らずゆっくり確認していくつもりだ。


 さて、何が間違っていたかというと、岩城が“音楽監督・正指揮者”だったのは1978年の7月まで。
 8月からは正指揮者がとれ、“音楽監督“一筋!となっていた。


 それはそうと、岩城が正指揮者から音楽監督・正指揮者という次長・課長のようなダブルの肩書を持ったのは1978年10月のことだが、このころの定期演奏会のチラシや絵はがき(シーズンのプログラムが印刷されたもの)を見ると、岩城が音楽監督・正指揮者になるにあたっては、必ずしも話がすんなり進まなかったのではないかと勘ぐってしまう。

 この緑色のはがきは1978年春季(4月~7月)のプログラムを告げるもの。

Sakkyo1978Spring

 オーケストラの陰影の下に“正指揮者・岩城宏之”とある。


 ところが1978年秋季(9月~11月。8月は定演はなし)の赤色のはがきをみると、その部分は空欄となっている。事務局の校正ミスってことも考えられなくはないが、どうもそうではない気がする。

Sakkyo1978Autumn

 このはがきを印刷するときには、肩書がどうなるのか-正指揮者のままなのか、音楽監督なのか、あるいは折衷案の正指揮者・音楽監督にするのか-決まっていなかったんじゃないかと想像してしまう。

  もう刷ってしまっていたらしく……

 各定期演奏会の個別チラシ。

 11月の第187回定期演奏会のものには、正指揮者・音楽監督ではなく、正指揮者のままだ。

Sakkyo187thAd

 このチラシを刷るときには“正指揮者・音楽監督”なる肩書を冠する予定はなかったということだ。
 そのひと月前の10月の定演のチラシは持っていないが、間違いなく表記は“正指揮者”だろう。

 一方、この第187回定期のプログラムノーツの表紙には“音楽監督 正指揮者 岩城宏之”と書かれており、最後のページのオーケストラ団員名のところでも、当然“音楽監督正指揮者”の肩書になっている。


Sakkyo187thPa

Sakkyo187thPa2

 なお、当時は“音楽監督正指揮者”と書かれたり“音楽監督 正指揮者”と書かれていたりする。
 現在の札響の公式サイトの中の“札幌交響楽団について”では、岩城宏之のことを“音楽監督・正指揮者”と表記している(歴代指揮者図でもこの表記に従った)。

 関係ないけど、お気軽なお値段で最高の格式って、どう考えてもありえないような……、あの食堂じゃ(いまはとっくにありません。というか、札幌市民会館自体が存在しない)。
 

 チラシでは、12月の定期演奏会のものでようやく“音楽監督正指揮者”の表記が現れる。


Sakkyo188th

 真相のほどは私にはわからないが「音楽監督にしてくれなきゃ、ボク、辞めちゃうよ」と、岩城はダダをこねたのでこんなことが起ったのだろうか?


  聴衆に恵まれているオケだと感じた夜
 それはともかく、私が札響に行くようになって2回目の定期演奏会。
 この日は札響の創設者の1人であり、初代常任指揮者を務めた荒谷正雄が、氏の還暦祝賀ということで指揮台に戻ってきた。

Sakkyo134thAd

Sakkyo134thPN

 この日のプログラムは掲載したように、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」とファゴット協奏曲。そして、ドヴォルザークの交響曲第8番ト長調Op.88だった。

 前の月の第133回定期(下の写真)は、バッハのブランデンブルク協奏曲に「こんなすてきな曲があったのか!」と興奮したものの、プログラムとしてはおとなしめの曲ばかり。

Sakkyo133rdPN

 それでも、当時流行っていた“交換日記”で、クラスの女の子にこの日のコンサートの様子を興奮して書いたら、翌日返ってきたノートに、その子は“札響、よっぽど上手かったようだね”と書いてきた。

 私は頭をひねった。“じょうずかった”?。その子は成績が良い子で、特に国語の成績は抜群だった。
 そんな子が、なぜこんなへんてこなことを書いてくるのだろう?

 だが、ほどなくして理解した。どういういきさつで正解を見いだせたのか覚えていないが。

 はいはい、“うまかった”とすぐわからなかった私が悪かったです。けど、“上手かった”なんて、ばあさんみたいな漢字使いをする方も悪い。

 それはそうと、この日のメインはドヴォルザークの8番
 シンバルや大太鼓などは入らないが、金管が咆哮する。
 いやぁ~、燃えたね。
 全川君も興奮のあまり、お下品に指笛ピーピー吹きまくり。

 初代常任指揮者だと知らなければ単なるおっさんさんに見える荒谷も、初代指揮者だと知らなければステージ上でなぜかはしゃぎまわる単なる危ないおっさんに見えるほどの元気溌剌オロナミンCぶりだった。

 って、そのころはけっこうな歳に見えたけど、還暦って60歳だから、まだまだ全然若かったわけだ。
 いやぁ、自分も還暦に近づいているなんて、いやぁねぇ~、まったく。

 ただ、おそらくあの“おだった”様子からすれば、いまあの演奏を聴くと、かなり気負ったものになっていると思う。それでも、そんなことは聴衆にとって二の次だった。
 札響を育ててくれた荒谷に対する感謝と、その元気な姿を喜ぶ会場からの温かい拍手が、とても印象深かった。

  After 35 years
 ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の交響曲第8番ト長調Op.88,B.163(1889)。
 あの晩から35年後の2009年にエリシュカがこの曲を取り上げ、そのライヴが高く評価されていることを知ったら-知りようがないが-荒谷も喜ぶことだろう。
 
Dvorak8Sapporoso

   このCDの詳しい情報 【タワレコ】
   ドヴォルザーク:交響曲第8番

 また、尾高忠明がこの曲を2007年に札響で振った録音も出ている(私は未聴)。

   Dvorak: Symphonies No.8 Op.88, No.9 Op.95 "From the New World" (3/28-29/2007) / Tadaaki Otaka(cond), Sapporo SO
   Dvorak: Symphony No.8, No.9<限定盤>

 ところで、これは134回定期のプログラムノーツに載っていたTEACの写真。

 あぁ、こういうのを自分の手にできたらどんなにすばらしいだろうかと、ひどく憧れたものだった。
 
Sakkyo134thPN_TEAC

 ところで、あの歴代指揮者の図には他にも間違いがあった。
 そのことは追い追い触れながら、最後に完全無敵修正版をご披露したいと考えている。


    

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荘厳というよりは壮麗なミサ曲♪ケルビーニ/ミサ・ソレムニス ニ短調

KANKI  よく見ると美しいフォルムではある
 おかげさまで、って別にあなたのおかげではないが、朝晩は秋めいたさわやかな気候になった。

 で、窓から少し先に見える風速計、ではなく、換気扇(って言うのかね?正式名称を知らない)も回っていないので、強い風が吹き込んでカーテンが暴れ、アロエの葉にひっかかり、鉢が倒れ、悲しみと面倒くささに打ち沈みながら掃除するはめになることはないだろうと、エアコンを切り、扇風機の動きを止め、窓を開けて寝てみた。

 その結果、朝方はちょっぴり寒いくらいで、なおかつ3時頃にパトカーのサイレンの音がけたたましく鳴り、目を覚まされてしまった。さすが″愛知県警24時間”だ。


 にしても、あの換気口だが、まさか汲み取り式便所があるわけではあるまい。
 謎の存在である。


 それはそうと、今日はアサイチで2カ月後の飛行機の予約-今日から予約受付開始だ-をしなければならない。
 出張の予定が変更になる可能性もあるが、だが、なんでもその日の翌日から札幌で嵐のコンサートがあるらしい。幸い自宅に泊まるのでホテルの心配はないが、飛行機だってとれない恐れがある。
 成功を祈る!(と自分に言う)。

Cherbini  My音楽史の振り返りにもなる

 リッピング作業をしていると、「おぉ、久しく聴いてなかったなぁ」というディスクの存在にあらためて気づくことがある。

 今日はそんな1枚の中から、ケルビーニ(Luigi Cherubini 1760-1842 イタリア)の「ミサ・ソレムニス(Missa solemnis)」ニ短調(1811)。


 ほとんどという表現だと言いすぎかもしれないが、あまり知られていないというと謙虚すぎる言い方になる、なかなかマニアックというかレアな曲。


 そんな曲を私が知ったきっかけは、ここでも書いたが、浪人生活中-いつもワンパターンで書いて申し訳ないが、私が侍だったころ、という意味ではない-に、勉強もしないでFM放送のクラシック番組聴き放題の日々を送っていたときに、NHK-FMの“海外の音楽”で放送された、ライヴ録音をエアチェックしたからだ。

 念のために言っておくが、“海外の音楽”というのは邦楽以外の音楽を流すという番組ではなく、海外でのコンサートで演奏された曲を、向こうの放送局が収録し提供されたものを聴かせてくれるという番組である。

 このミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)は、最初こそちょっと悲しげなポーズを見せるが、全体としては喜びに満ちた明るい曲で、まさに流れるような音楽。魅力的なメロディーも豊富で美しく、聴いていて全然飽きさせない。
 エステルハージ侯爵に捧げられたというが、だからこのように祝祭的な雰囲気が強いのかもしれない。


 浪人中、そしてその後も何度聴いたかわからない。
 出張中に秋葉原でCDを発見したあとは、買ったことで安心してしまったのか、あまり聴こうと思い立つことがなくなってしまった。

 リッピング後に確認のために聴いてみたら、そりゃ奥さま、あなたのようにステキです。

 私が買ったCDはジェンキンス指揮クラリオン・コンサーツ管弦楽団、同合唱団他、メンバーもレアな感じのもの(単に私が知らなかっただけ)。

 1971年録音。ヴァンガード・クラシックス。


 だが、このCDは廃盤。


 私は未聴だが、現役盤としてツェペレイ/ミュンヘン交響楽団他による演奏のCDがある。

 レーベルはProfil(原盤:CALIG)。1992年録音。


   このCDの詳しい情報 【タワレコ】
   Cherubini: Missa Solemnis No.2


 ところで、私はステーキの焼き方で、レアは好まない。ミディアムよりもう少しウェルダンの方がいい。
 ただ、そんな言い方をするのは面倒なので、ミディアムと言うことに甘んじている。


 レアというと、赤い肉汁がたっぷり滲出してくることが多い。その皿の気持ち悪さよ!


 実はレアでも、きちんと熱が入っていれば、見た目は生でもあんなに汁は出てこない。
 レアというと、中は生焼け、ではなく、生そのもの、時に冷たかったりする肉を出してくる店が実に多いことか。

 ちゃんとした焼き方をしてくれるのなら、レアは嫌だけど、ミディアム・レアで合意する覚悟が私にだってある。

 まっ、そうそうステーキを食べに行くことはないから、せめて焼肉屋に行ったときにはハラミをよ~く焼きあげてから口にしよう(横取りされないように、自分の肉を監視するのがたいへんだけど)。
 それが悪い菌があった場合の防御にもなるだろうし。

    

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あっちは明るい朝。こっちは暗い朝♪サーリアホ/鏡

SaariahoTocar  電気が停まり、通信はダウンする
 太陽がくしゃみだかなんかをして、その影響が地球にも及ぶ。
 
 そんな不安を煽るようなニュースが流れていた。

 太陽フレアという爆発現象のことである。

 停電が起きるだの通信障害が起こるだの、あたかもかなりの確率で起こるような言い方をしていたが、起きなかった。

 起きないことは良いことだが、相変わらず煽り立てる報道の姿勢には困ったものだ。

 だからテレビ離れ、新聞離れが進むのではないか?(って、ネットでも騒がれていたけど)

 太陽フレアによって、地球のあちこちでオーロラが観られるかも、という話もあった。


  おぉっ、オーロラだ!
 14日の朝、私が観た空はオーロラっぽかった。本物のオーロラがどのようなものか知らないけど。

20170914Morning1

20170914Morning2

 いえ、単に朝焼けなんですけど。
 ナゴヤの空にオーロラが現れるなんてワケがない。フニャフニャ動いてもいないし。

 朝焼けを見ると、私の頭の中には小学生のころに観ていた「ミラーマン」の歌が浮かぶ。


 ♪ あーさやけぇーのぉ 光の中に 立つ影は ミラーマァ~ン
                                    ミラーマァ~ン
                                          ミラーマァ~ン

 どうでもいいことだけど、大昔のことなのに不思議なものだ。

   ミラーマン DVD-BOX


 その数日前の夕方には、何か不思議なもの-巨大なエクトプラズムみたいな-が空に立ちあがっていた。
 でも、よく見るとできそこないの虹だった。


P9120369

 「ミラーマン」だけで話を終わらせると、クラシック音楽ブログの看板に偽りあり、になっちゃうので、サーリアホ(Kaija Saariaho 1952-  フィンランド)の「(Mirrors)」「鏡Ⅱ」「鏡Ⅲ」を。
 ⅡとⅢは第2稿、第3稿という意味で、作曲は3曲とも1997年。

 フルートとチェロのための曲。
 サーリアホにはフルートの作品に優れたものが多いと言われるが、私にはどうもピンとこない。
 武満徹などが好きな人には感性ばっちりなのかもしれない。


 オイテンガのフルート、カルットゥネンのチェロで。


 2013-14年録音。ONDINE。

   このCDの詳しい情報 【タワレコ】
   K.Saariaho: Let the Wind Speak

   音楽配信はこちら NAXOS MUSIC LIBRARY


  まずは風呂用洗剤を買いに
 今日から3連休だ。

 決して健康に良いとは言えないおこもり状態での、そして読者の意向をよそに質より続けることだと自己満足しているブログ記事の書きだめはそこそこにして、この休みはすこしCDのリッピング作業を行なおうと思う。

 リッピング作業が健康に寄与するとはまったく思えないが、少なくとも目は疲れないだろう。


 そのリッピング作業だが、所有しているCDのおよそ2割程度は完了した。
 でも、もっと本気を出さなければ、次に引越するときにまだ大量のCDを運ばなくてはならないことになってしまう。
 がんばらなければ。


 そうそう、このあいだほぼ1年ぶりに、e-onkyoで購入したハイレゾ音源を再生しようとした。
 再生ソフトはFooberである。


 しかし、エラーが出て再生できなかった。1年前に購入した音源(ショルティ/シカゴ響のマーラー/5番。この演奏はLPで、CDで、そしてハイレゾのダウンロードと3回も購入したことになる)を喜び勇んですぐに再生したときには問題なかったのに不思議だ。この問題を解決するという新たな作業も、この休み中に行なわなくてはならない。

 高関/札響が定期演奏会で取り上げた伊福部昭のヴァイオリン協奏曲第2番やシンフォニア・タプカーラもe-onkyoからハイレゾ音源が供給されている(伊福部昭の芸術11 踏 ― 生誕100年記念・札響ライヴ)。
 いずれこのハイでレゾな音源も購入しようと思っているので、なんとしても解決しなければならない。

 それにしても、このように、私にはいつも厄介な出来事が次々に発生する。


 なんとなくの予感だが、仮にFooberでの再生が無事できるようになったら、今度はTVのリモコンの電池が切れるような気がする。そうなると電池交換という些細だが、非日常的な作業が発生することになる。
 そうだ便器にトイレスタンプもしなきゃ。だいぶ、あの花模様が小さくなってしまったから。


 買い物にも行かなければならない。

 レギュラーコーヒーがなくなった。キーピングも残り少ないし、スプレー式の風呂用洗剤もレバーを引いてもダラダラとしか出てこないくらい水位が下がっている。燃えないごみ用のごみ袋もあと1枚しか残っていないし、制汗剤の缶もとっても軽くなっている。

 でも、すでに朝から雨が落ち始めてるしなぁ……

    

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鉄道ファンと音楽ファンの根底にある共通点♪ヴァイス/ADE他

IMGP1110b  鉄路は五線譜だ
 「音盤考現学 片山杜秀の本(1)」の第49話「鉄道の落魄(らくはく)」(初出は“レコード芸術”2004年1月号)。


 そのなかに次の記述がある。


 だいたい音楽は鳴ればすぐ消える音を聴く者に覚えさせつつ脈絡をつけていこうとする面倒なもので、その覚えには反復による刷りこみが手っ取り早い。別の言い方をすれば、繰り返しの嫌いな人は音楽好きになれぬだろうし、鉄道にただ乗っているのもうんざりだろう。音楽の阿呆と鉄道の阿房は反復嗜好症という共通の病をもっている。そういえば、枕木に仕切られながら延びてゆく二本の鉄路のヴィジョンは、小節線で区切られながら連なってゆく五線譜と似ているようにも感じられる。

 なるほどねぇ。
 ということは、鉄道ファンだった私にとって、音楽を好きになる素地がもともと備わっていたわけだ。

 何杯もハイボールを飲んでしまうのも、反復嗜好症だと考えれば、説明がつく。単なるのんべぇではない。反復嗜好症なのだ。オスティナートだ!パッサカリアだ!シャコンヌだ!

 けど、五線譜のような線路だったら置石だらけみたいだ。


DifferentTrains  すべての出来事は反復だ
 で、鉄道についてだが、同書の第39話「ブランキスト・ライヒ?」(初出は、同2003年3月号)では、ライヒ(Steve Reich 1916-  アメリカ)の「ディファレント・トレインズ」(1988)について触れられている(片山氏の表記は「ディフェラント・トレインズ」)。

 ――音楽の反復・変奏の上には、芥川の『藪の中』どころか、人類の歴史の一切合切をさまざまなタイプの出来事の反復・変奏に分類しつつ乗っけてしまうことも可になる。そしてじじつ、ライヒは、そういう音楽作品を1980年代末から意識的に作りはじめた。その初っぱなに来るのは《ディフェラント・トレインズ》で、そこでは弦楽四重奏のやる繰り返しの音楽の上に、汽車の響きが重なり、さらにいろいろな世代の人々が汽車の旅について語る思い出話の録音が被せられる。もちろん、その録音のひと声ひと声は別の人間が個々に固有の体験を語っているのだが、その声がみな一様に、繰り返しの音楽の上にモンタージュされてしまうと、われわれはそこからブランキ的感慨しか得られなくなる。いつの時代にも人間はけっきょくは似たような希望と絶望を抱え、旅をして空しく死んでゆくのだなと。それぞれにはたしかにちょっとした違いがあるにはあるが、だからどうしたんだと。――


Dvorak9Sapporo ブランキとは19世紀フランスの思想家だそうで、すべての出来事に進歩などなくて、すべての出来事は過去にあったことの繰り返しに過ぎないと唱えたという。

 ライヒはミニマル・ミュージックの大御所である。私は一時期、ライヒに夢中になった。ここにも書いたように、彼の作品のなかでも最も好きなのが「ディファレント・トレインズ(Different Trains)」(1988)である。

 片山氏の文を知る前から、この曲を聴くとなんとも言えない切ない思いを感じていたが、こりゃあもう、切なさを通り越してむなしくなっちゃうかも。

 さて、鉄道好きとして有名な作曲家といえばドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 ボヘミア)。


 彼にとって何が幸せだったかって、ここに書いたように、機関士とお友達となれたときが至福のときだったのだ。

Dvo9_1Score ここの記事でもスコアを載せているが、これは交響曲第9番「新世界より」の第1楽章。
 下線の音型が、列車が走るときにレールが発する音を模しているという。本人がそう言ったのかどうか定かではないし、あるいは偶然そう聞こえるのかもしれないが。

  もうすぐ車止めだ

 そして、これまた以前に書いたのだが、走行音じゃなくてもっとマニアックな鉄道音を。


 ヴァイス(Harald Weiss 1949-  ドイツ)の「別れの曲ADE)」(1986-88)の第6曲「コボルデの踊り(Tanz der Kobolde)」の最後。

WeissAde そこで刻まれるリズムと音色がJRの列車の運転席から漏れ聞こえてくるATS(自動列車停止装置)の警告音にそっくりなのだ。

 それにしても、ヴァイスは絶対人気が出ると私が信じ続けて20年近くになるが、ぜ~んぜんその兆候はない。
 ディスクが入手しずらいせいもあるし、そもそも名前が知られていない。

 とってもすてきな曲を-こっちが気恥ずかしくなるようなものも-書いているんだけど……


 「ADE(アデー)」は舞台作品の音楽(シアター・ミュージック)で、ヴァイス自身とノモス弦楽四重奏団他による演奏のCDが出ていたが、タワレコのオンライン・ショップでは発見できず。
 Amazonでは複数の店舗が新品を扱っている。

 親しみやすく“人間的な”メロディー。録音も良い。

 1988年録音。WERGO。

   このCDの詳しい情報 【Amazon】
   Weiss:Ade

 そうそう、ドヴォルザークの「新世界より」のCDが欲しいけど、どれがいいのか迷っちゃうって人がいあたら、エリシュカ/札響のものをお薦めする。
 それにしなさい。

    

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伊予柑と八朔が見分けられない私はお豚♪スクリャービン/Sym2

ScriabinSym2Golovschin  音だけでは成立しないロマン派の音楽
 吉松 ブラームスとかシューマンとかシューベルトとかのドイツ系ロマン派って、音そのものを聴いて感覚的に何かを感じるタイプの音楽じゃないような気がするんだよね。そもそもロマン派というのが、音以外の余計な想像的プラス・アルファを組み込む流派でしょ。だから、物語があったり精神があったりして成立する。音だけでは完結しない。そんな気がする。ベートーヴェンやモーツァルトにもその萌芽があるかな。
 西村 僕はシューマンもブラームスも音楽そのものとしてすばらしいと思うけどね。シューマンのあのニ短調のシンフォニーなんかが、プラス・アルファを必要とするほど平凡なものとは思えない。
 吉松 もちろん平凡とはいわないよ。でも一般のひとがただ感覚的に聴いてわかるようなものじゃないと思うな。オーケストレーションも地味だし。
 西村 マーラーがシューマンのシンフォニーのオーケストレーションをやりかえているよね。
 吉松 あれはね、たしかにやりたくなるよ、スコアを見ていると。
 西村 まあどっちでもいいんだよ。音楽はそういうものじゃないんだよ。シューマンのすばらしさはオーケストレーションの巧拙を超えているよ。
 吉松 最近ではオーケストラのレベルが高いから、シューマンの鳴らないオーケストレーションだって鳴らしてしまえるからね。むしろ、マーラーとかリヒャルト・シュトラウスとかリムスキー=コルサコフとか、あんまり鳴りすぎるオーケストレーションを否定する向きもあるわけだし。
 西村 シューマンの《ライン》。天才的な輝かしい主題が、じつに野暮ったいオーケストレーションをまとって登場するよね。でも、それがシューマンならではの人間的味わいを生んでいると思うね。愛情をさそう、“偉大な(つたな)さ”だよ。

 「西村朗と吉松隆のクラシック大作曲家診断」(2011.4 version1.0発行:学研)。第3章「ところで“作曲家”ってなに者?」の「オススメの“わかりやすい”作曲家」の項で語られている一部である。
 吉松の“……マーラーとか……”の箇所は、以前にもご紹介したことがある。

 おととい紹介した、レイボヴィッツ指揮のレイボヴィッツ編による、結末大どんでん返しの「はげ山の一夜」は、オーケストレーションも大改編しているものだが、ああなるとリムスキー=コルサコフの編曲版を元に、それを創作して再構築した曲と言うべきものだ(ゴードンのベト7の再構築にはかなわないけど。)。

 あの記事でも書いたように、リムスキー=コルサコフの編曲をさらに完成度高く補筆したものだと思って聴くと、「冒瀆だ!」と叫びはしないまでも、なんだかイライラしてくる。

 しかし、匠の技による創作中華料理とか創作和食なんだと思って聴くと、なんと革新的なんだろうとミュシュランご一行様も感心しきりってことになる。
 考えてみれば創作露西亜料理って耳にしたことがない。和食とのコラボでピロシキの中にあんこを入れたりしたらどうだろう?あっ、それってあんドーナツか。

 ShostakoKegel 狙ったが、スカ!
 シューマンのオーケストレーションはくすんだ響きがすると言われる。そのため-どのくらいの頻度なのか、あるいはほとんどの場合なのかわからないが-指揮者がスコアに手を入れてよく響くようにするという話を聞いたことがある。
 西村氏が述べているマーラーの編曲版についてはこの記事などをごらんいただければと思う。

 このように、シューマンのすばらしさをもっと伝えたいという善意からオーケストラが鳴るように手を加えることに、私は違和感を持たない。どちらかというと作曲者が残したオリジナル版を尊重すべきだという考えを私は持っている。でもこういう親切は許してあげたい。そもそもどこに手を加えているのか、その指揮者ごとにわかるかといえば、どちらかというとわからない。

 が、同じ手を加えるでも、ケーゲルのタコ5を聴いたときには、最初びっくり、その後はじわじわとありがた迷惑感が高まり、何の意図でこんなことをしたのか良識ある私には意味不明と困惑。
 ライヴで聴衆の拍手も入っているが、それはおっそろしいほど冷めざめしたもの。このときのケーゲルの心中はいかばかりか?絶対ウケを狙っていたのに、そして興奮のるつぼと化すと信じていただろうに、完全にスカ!
 終演後、ケーゲルは独り寂しくヤケ酒の数杯もあおったんじゃないだろうか?

 その、「バビ・ヤール」じゃないのに、最後に鐘が鳴り響くケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmity Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)の演奏は、でも、聴いておくべきだ。
 「こんなことしちゃいけないんですよ」という教訓のために。
 ただし、ショスタコの5番のCDを初めて買おうとしている人は、これを選んじゃ絶対ダメ!(←ブルゾン風に)。
 あくまでこれは応用動作。というか、逸脱。「ちょいとオイタしちゃおうかな」っていう変態っ気のある人向き。正気の沙汰じゃないから。
 もっとも、私のように変態っ気のない人も消費者の1人なのだが。

Vorkov_mini  大ヒットしてもおかしくない終楽章
 スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915 ロシア)の交響曲第2番ハ短調Op.29(1901)。

 なんでいきなりスクリャービンかって? 彼のオーケストレーションも評判があまりよろしくないようだからだ。

 S.ヴォルコフ著「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫 訳:中央公論社)には、

 ところで、ある講演のとき、ソレルチンスキイはロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンのことを話していた。彼はスクリャービンがそれほど好きでなかった。スクリャービンの管弦楽法の知識は豚がオレンジを見分ける程度のものだ、というわたしの意見に彼は同意していた。

という記述がある。“わたし”というのはショスタコーヴィチだ(この本は偽書らしいけど)。
 でも、豚ってオレンジを見分けるの?何と?
 私は伊予柑と八朔の違いがよくわからないんだブゥ~。

 スクリャービンのこの第2交響曲は、学生時代にLPを買ってみて-金もないのに、未知の曲のLPに投資したのだ-すぐさま好きになった作品。賭けに勝ったのだ。
 特に終楽章がめちゃカッコいい。

ScriabinSym2LP なお、LP(メロディアの廉価盤)の帯には「悪魔的な詩」と書かれていたが、これはスクリャービンのあずかり知らないところでつけられた通称。
 第3番が「神聖な詩」、第4番が「法悦の詩」、第5番が「火の詩」という標題をもっていることから誰かが、第2番にもタイトルを、とばかり「悪魔的な詩」と勝手につけたのだけである。
 いまでも「悪魔的な詩」と表記しているディスクもあるが、そういう誤解を生むことを書かないでほしい。

 スクリャービンはのちに神秘主義へと突っ走ったが、第2番はロマン主義の音楽。
 5つの楽章からなるが、第1楽章と第2楽章、第4楽章と第5楽章は切れ目なく続けて演奏される。
 第3楽章の、フルートによる鳥のさえずり声の模倣。その美しさも聴きものだ。

 ショスタコの証言はこう続く。

 わたしの見るところ、スクリャービンの交響詩のすべて、『神聖な詩』にせよ、『法悦の詩』にせよ、『火の詩(プロメテウス)』にせよ、いずれもちんぷんかんぷんである。

P7290352 にせショスタコーヴィチは交響詩と書いているが、スクリャービンの場合、第3番以降は交響曲だか交響詩だか姿かたちがあいまいになってくる。

 でも、つまるところ、にせショスタコは神秘主義に傾倒したスクリャービンの音楽が肌に合わない。なのに、豚がオレンジを見分ける程度のものだなんて、単なる好き嫌いにすぎないんじゃ……?豚さんがかわいそうだ(写真はイメージだブゥ~)。

 私はスクリャービンの交響曲全集として、ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団のものとインバル/フランクフルト放送響のものを持っているが、どちらも廃盤。
 それがスクリャービンの置かれているいまの現状って感じだ。

 第2番単独のCDではゴロフスキン/モスクワ交響楽団のものも持っているが(遺作の交響詩ニ短調も併録)、幸いにしてこちらは現役。ちょいとオーケストラの響きが薄いが、悪くない。

 1995年録音。ナクソス。

   このCDの詳しい情報 【タワレコ】
   Scriabin: Symphony No. 2

   音楽配信はこちら NAXOS MUSIC LIBRARY

    

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驚いたのはむしろ私の方で……♪エルガー/エニグマ変奏曲

ElgarEnigmaSolti  そういう話したことなかったもんね
 先週、同期入社でいまは本社勤務の宮光さんが支社に来た。

 目的はいろいろあったようだが、少なくとも私と打合せするためではない。
 なので、立ち話程度の会話を座りながらちょこっとしただけだ。


 彼とは一緒に仕事をしたことはないが、何度か酒を飲んだりする仲である。

 その彼が、座りながら立ち話をしているときに言った。


 「ねえ、このあいだ東京のIさんから聴いたんだけど、MUUSANってクラシック音楽が好きで、しかも詳しいんだって?」
 「まぁ、中学生の時から聴いているからそこそこ」
 「へぇ~、全然知らなかった」


 考えてみれば一緒に飲んでいるときだって、そんな話をしたことはなかった。

 子どもは何年生になっただの、奥さんの皺は増えただの、カルビを食べると胸焼けするようになっただの、そんな話をしているときに、どうして「チャイコフスキーはコレラで死んだんだ」なんてことを口にできようか?


  そういう話想像もしてなかったもんね
 宮光さんは黒光りした顔を私に向け、懺悔するように静かに語った。


 「オレもクラシックが好きなんだ」


 今度は私が大いに驚く番だった。
 彼がクラシックを好きだったなんて、ヒアリが日本に生息している以上に思ってもいないことだった。

 だいいち、Kitaraで彼の姿を見かけたことも一度もないし、タワレコや今はなきPALS21で出くわしたこともない。

 なぜか私の頭には「タンホイザー」の凱旋行進曲のファンファーレが響き渡っていた。

 私は宮光さんに言った。

 「欲しいCDがあれば、遠慮なく落札して。いま、けっこうオークションに出品してるから」


 彼は寂しげな笑みを浮かべて、そのあと支社をあとにした。


 ところで宮光さんは、どんな傾向の曲が好きなんだろう?
 肝心のことを聞くのを忘れた。というのも、彼も私にそういうことを尋ねなかったからだ。
 今度、ゆっくり話をし、いつからクラシックを聴くようになったのか、好きな作曲家は誰か、初恋は何歳のときかといった謎を解き明かしてみたい。


 エルガー(Edward Elgar 1857-1934 イギリス)の「エニグマ(謎の)変奏曲(Enigma Variations)」Op.36(1898-99)。


 ここに書いているように、エルガーの友人たちを描いた曲で、各変奏曲にはエルガーの妻や友人たちを暗示したイニシャルが書かれている。


 ショルティ/シカゴ交響楽団の演奏を。


 1974年録音。デッカ。


   このCD(同一音源)の詳しい情報 【タワレコ】
   エルガー:行進曲≪威風堂々≫(第1番~第5番) エニグマ変奏曲/序曲≪コケイン≫ イギリス国家:ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン

    

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空が白んでも終わらない饗宴……♪レイボヴィッツ編「はげ山の一夜」

MussorugskyLeibowitz  辞めない悪魔と買わす悪魔
 今月の“文藝春秋”に豊田真由子議員のインタビュー記事が載った。

 そのこととは驚くほど関係なく、今日はムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky 1839-81 ロシア)の交響詩「はげ山の一夜(A Night on  Bare Mountain)」(1867)。


 「音盤考現学 片山杜秀の本(1)」の第31章「レイボヴィッツと悪魔」。


 氏はこれまで、レイボヴィッツなる指揮者の「はげ山の一夜」のLPを何度も聴き、友人知己への宣伝も怠りなかったはずだと書いている。

 私は氏の友人でも知己でもないが、氏の宣伝によって買ってしまったのだった。レイボヴィッツのはげ山を。
 罪深いモリちゃん……


 ―(略)―
 えっ、彼の振る《はげ山》の何がそんなに面白いかって?いや、それが驚天動地なのだ。冒頭のヴァイオリンが細かに波打つ部分からもう解像度の高すぎるレントゲン写真の按配!レイボヴィッツは冴え渡った細密画家として《はげ山》を料理する。われわれはルーペと双眼鏡を携え、はげ山探検行に駆り出される。ふだんは埋もれがちなパートも手に取るように聞こえる。これほど精緻な《はげ山》が他にあろうか。
 が、この録音の魅力はそんな特徴的演奏解釈にばかりあるわけでない。レイボヴィッツは《はげ山》のスコアに満足しきれぬのか、指揮者の職分を踏み越え、それを懸命にいじり出す。その演奏はいちおう馴染み深いリムスキー=コルサコフ版にもとづいているものの、打楽器が華々しく追加されたり、ファゴットがコントラファゴットに化けたりと、無数の改変がほどこされる。しかもそのいちいちがツボにはまるのだ。そしてついには山上に強風が吹き荒れる。レイボヴィッツの創意によるウィンド・マシーンの派手な使用によって!
 けれど、ここまでなら編曲の次元にとどまるかもしれない。ストコフスキーだってやるかもしれない。そこで、そうは問屋が卸さぬと、レイボヴィッツは最後に大芝居をうつ。《はげ山》は悪魔が山上で饗宴を繰り広げるも朝には退散させられるという筋書きに拠っている。R=コルサコフ版ではきちんと神の正義を告げ知らせる朝の鐘が鳴るし、原典版でも悪魔が逃げ出すかっこうで結ばれる。ところがこのレイボヴィッツ版で悪魔は終結部になっても帰らない。それどころか正々堂々と居残り、オーケストラはほとんど茶番じみた悪魔への頌歌(オード)絢爛(けんらん)と奏でるのだ。これはもう編曲ではなく作曲だ。コーダの完全な書き替えだ。しかしなぜレイボヴィッツは悪魔を勝たせてしまったのか?いや、そもそも彼は何者なのか。
 ―(略)―


 ということで、彼が何者か知りたい方は本を読んでいただくことにして、この演奏、片山氏が語っている通りの驚天動地なもの。

  退散する悪魔が好き
 編曲物には眉間にしわを寄せる傾向を持つ私だが、ふだん耳にしている「はげ山の一夜」はもともとR-コルサコフが編曲したもの。それにレイボヴィッツがさらに改編を行なったわけで、完全なる別物ととらえた方が腹を立てずに済む。

 面白い版であり、演奏だ。
 だが、夜が明けて教会の鐘の音が聞こえても悪魔は立ち去ってくれない。
 とっても怖い。きちんとおいとましてくれるR-コルサコフ版が、やはり好きだ。


 オーケストラはロイヤル・フィル。

 キワモノではあるが、一聴の価値ありだ。

 1962年録音。ソニークラシカル。

   このCDの詳しい情報 【タワレコ】
   ムソルグスキー:展覧会の絵&はげ山の一夜

 ところで、レイボヴィッツって指揮者は片山氏の本で初めて知ったが、中学生の時に買ったコロムビアの廉価盤LPのオーケストラ名曲集。そこで「おもちゃの交響曲」を振っているという指揮者の名は、ハンス=イェルゲン・ヴァルターってもの(オーケストラはハンブルク交響楽団)。

 が、そのあとこの指揮者の名を目にしたことがない。

 彼は誰だったのだろう?

 そして、けさの名古屋は、雨……

    

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