MussorugskyLeibowitz  辞めない悪魔と買わす悪魔
 今月の“文藝春秋”に豊田真由子議員のインタビュー記事が載った。

 そのこととは驚くほど関係なく、今日はムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky 1839-81 ロシア)の交響詩「はげ山の一夜(A Night on  Bare Mountain)」(1867)。


 「音盤考現学 片山杜秀の本(1)」の第31章「レイボヴィッツと悪魔」。


 氏はこれまで、レイボヴィッツなる指揮者の「はげ山の一夜」のLPを何度も聴き、友人知己への宣伝も怠りなかったはずだと書いている。

 私は氏の友人でも知己でもないが、氏の宣伝によって買ってしまったのだった。レイボヴィッツのはげ山を。
 罪深いモリちゃん……


 ―(略)―
 えっ、彼の振る《はげ山》の何がそんなに面白いかって?いや、それが驚天動地なのだ。冒頭のヴァイオリンが細かに波打つ部分からもう解像度の高すぎるレントゲン写真の按配!レイボヴィッツは冴え渡った細密画家として《はげ山》を料理する。われわれはルーペと双眼鏡を携え、はげ山探検行に駆り出される。ふだんは埋もれがちなパートも手に取るように聞こえる。これほど精緻な《はげ山》が他にあろうか。
 が、この録音の魅力はそんな特徴的演奏解釈にばかりあるわけでない。レイボヴィッツは《はげ山》のスコアに満足しきれぬのか、指揮者の職分を踏み越え、それを懸命にいじり出す。その演奏はいちおう馴染み深いリムスキー=コルサコフ版にもとづいているものの、打楽器が華々しく追加されたり、ファゴットがコントラファゴットに化けたりと、無数の改変がほどこされる。しかもそのいちいちがツボにはまるのだ。そしてついには山上に強風が吹き荒れる。レイボヴィッツの創意によるウィンド・マシーンの派手な使用によって!
 けれど、ここまでなら編曲の次元にとどまるかもしれない。ストコフスキーだってやるかもしれない。そこで、そうは問屋が卸さぬと、レイボヴィッツは最後に大芝居をうつ。《はげ山》は悪魔が山上で饗宴を繰り広げるも朝には退散させられるという筋書きに拠っている。R=コルサコフ版ではきちんと神の正義を告げ知らせる朝の鐘が鳴るし、原典版でも悪魔が逃げ出すかっこうで結ばれる。ところがこのレイボヴィッツ版で悪魔は終結部になっても帰らない。それどころか正々堂々と居残り、オーケストラはほとんど茶番じみた悪魔への頌歌(オード)絢爛(けんらん)と奏でるのだ。これはもう編曲ではなく作曲だ。コーダの完全な書き替えだ。しかしなぜレイボヴィッツは悪魔を勝たせてしまったのか?いや、そもそも彼は何者なのか。
 ―(略)―


 ということで、彼が何者か知りたい方は本を読んでいただくことにして、この演奏、片山氏が語っている通りの驚天動地なもの。

  退散する悪魔が好き
 編曲物には眉間にしわを寄せる傾向を持つ私だが、ふだん耳にしている「はげ山の一夜」はもともとR-コルサコフが編曲したもの。それにレイボヴィッツがさらに改編を行なったわけで、完全なる別物ととらえた方が腹を立てずに済む。

 面白い版であり、演奏だ。
 だが、夜が明けて教会の鐘の音が聞こえても悪魔は立ち去ってくれない。
 とっても怖い。きちんとおいとましてくれるR-コルサコフ版が、やはり好きだ。


 オーケストラはロイヤル・フィル。

 キワモノではあるが、一聴の価値ありだ。

 1962年録音。ソニークラシカル。

   このCDの詳しい情報 【タワレコ】
   ムソルグスキー:展覧会の絵&はげ山の一夜

 ところで、レイボヴィッツって指揮者は片山氏の本で初めて知ったが、中学生の時に買ったコロムビアの廉価盤LPのオーケストラ名曲集。そこで「おもちゃの交響曲」を振っているという指揮者の名は、ハンス=イェルゲン・ヴァルターってもの(オーケストラはハンブルク交響楽団)。

 が、そのあとこの指揮者の名を目にしたことがない。

 彼は誰だったのだろう?

 そして、けさの名古屋は、雨……

    

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