よくわからないが、食べ終わったあと十分すぎるほどのおなかが満たされたことは間違いない。
宮部みゆき
よくわからないが、食べ終わったあと十分すぎるほどのおなかが満たされたことは間違いない。
うっぷんをはらすために?
宮部みゆきが、映画「ゴジラ」は音楽もすごい、って書いてあるのを紹介した、宮部みゆき×半藤一利「昭和史の10大事件」(文春文庫:2018年3月20日発行)。
今日は10大事件の4番目に取り上げられている“東京裁判と戦後改革”から一部をご紹介。
宮部 あることに対して、国民的な熱狂、人がこぞって熱狂する場合は、決していい結果を招かない。やっぱり戦争に傾斜していく間も、ものすごい熱狂に包まれていた。
半藤 ところが、国民全体がごく自然に無責任になっていって、「戦争は一握りの人たちがやったことだ」というような考え方が東京裁判によって定着しちゃったんだよね。
たとえば、終戦後中国は、日本人が戦時中にやったことは、日本の一般国民に責任はないのだと。一部の軍国主義・帝国主義の連中がやったことであって、日本国民には罪がないのだから許す、ということになった。蒋介石が行ったんですよ。ところが、そうじゃないんだと中国側は言い出すかもしれないですよ、これからはね。
戦後日本人が抱いてきた気持ちというのは、東京裁判で責任論はすべてすんで、我々一般国民は戦争に対する責任はないのだ、という結論ですまそうとしていることです。
宮部 まだもやもやしてますよね。
半藤 心の底を割ってみれば、まだまだもやもやしているでしょう。
宮部 私たちの世代でも、歴史的に申し訳ないことしたんだよなって、もやもやがあるし。でも、それをいつまでも引っぱって行っても建設的じゃないのかな、とも思うし、建設的じゃないからって引っ込めてしまうのもいけないかなって、さらにもやもやするというね。
半藤 このもやもやの感じがイヤなものだから、みなシーンとしちゃっていますけれども、逆に、むきになって表に出す嫌韓、嫌中思想とか、ものすごいでしょう、今。
ここで話されている内容に、私のもやもや感もちょっとすっきりした感がある。
そっか、うん。確かにそうだよなって。
あなたは『川』派?それとも『河』派?
心にではなく、木々の上に漂う
ところで、私には「河の上の夏の夜」っていう表記の方がなじみがあるが、最近は流行ってないようだ。
そういえば、浦河町に住んでいるとき、クラスメートに浦川君って子がいたなぁ。
えっ、この写真?靄が消えつつある浦河町郊外(絵笛)の牧場の朝の風景です。
「川の上の夏の夜」は、「小管弦楽のための2つの小品(2 Pieces for small orchestra)」の第2曲(第1曲は、ディーリアスの作品のなかでもとりわけよく知られている「春初めてのカッコウを聞いて」(1911))。
1991年録音。ナクソス。
嫌韓、嫌中思想……感じの良いものではない。
けど、つい何日か前にも韓国の文国会議長が天皇陛下のことを「その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか?」と言ったことが報道されるなど、このところ韓国は日本に対し、言いたい放題、ウソ(だと私には感じられる)つき放題。
こんなのが続けば、韓国ってなんかイヤな国ねぇ、と思う日本人が増えるのも無理ないような……
♪ 作品情報 ♪
【初演】 1913年・ライプツィヒ
【構成】 単一楽章(約7分)
【編成】 小orch(fl 2, ob 1, cl 2, fg 2, hrn 2, Str)
【本作品について取り上げた過去の記事】
≫ カッコウとペアを組むのはカエル?
♪ 作曲家情報 ♪
両親はドイツ人。イギリスで生まれたが、若い頃はアメリカのフロリダ州で商業に従事、のちライプツィヒ音楽院で正式に音楽を学んだ。同地でグリーグに会い、強くその音楽から影響をうけ、1888年以後パリ郊外に住み、印象主義の手法も取入れた。イギリスの作曲家とされるが、様式的にはドイツ、フランス、ノルウェーなどの雑多な要素を混合したもので、晩年になって次第に認められるようになった。
(井上和男編著「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)による)
水爆実験と水爆大怪獣
インターネットのどこのなんたるサイトか覚えていないのだが、宮部みゆきのインタビュー記事が載っていた。
平成の時代に起こった凶悪事件について語っているものだった。
宮部みゆき……
一度はこの私がお熱を上げ、惚れに惚れた女だ(って失礼な言い方、すいません)。
が、彼女とは別れた(重ね重ねすいません)。
けど、小説はもういいけど、なにか彼女が書いた読み物がないか探してみた。
すると、「昭和史の10大事件」(文春文庫)というのを見つけた。宮部みゆきと半藤一利の対談である。
もう平成が終わるというときに昭和を振り返るなんて、自分は時代に取り残されている懐古趣味のあるヒトのように思わなくもなかったが、紙の本、電子版とも2018年3月の出版。出版年からすれば、全然新しい。なので、時代の先端を突き進んでいるような気分になって買った。
この本は2人が選んだ昭和の10の事件について取り上げているが、今日はそのなかの8番目。“第五福竜丸事件と『ゴジラ』”。
アメリカの水爆実験により第五福竜丸が被爆したのが1954(昭和29)年3月1日。水爆大怪獣の映画「ゴジラ」が公開されたのは11月3日のことである。
第五福竜丸事件について半藤氏は、“核の力というのは、人間が制御できねえんじゃねえかと、この事件のとき思った。人間が制御できない核の力というものを、具体的に表したのが『ゴジラ』だ”と言っている。
「音楽もすごい」とみゆきさんも感心
そのあとの2人のやりとり。
半藤 ……もう一つは、私らみたいに戦争中の廃墟を知っている人間から言わせると、ゴジラが東京に上陸したときと焼野原と、そうなる前の東京の風景がよく出ているんですよ。それは、やっと復興して、銀座でも何でも……。
宮部 にぎやかになってきた。
半藤 要するに戦後日本があそこにあるんですよ。それが木っ端みじんになるんだよね。俺たち復興で一生懸命やっているのに、こんなふうに簡単にまた元へ戻っちゃうのか、と。
宮部 なんだろう?その感じは。
半藤 戦争中そうだったものね。焼け跡で私は「絶対」という言葉を二度と使わないと思ったけど、ほんとに、またここでも絶対はないんだと。一生懸命に復興してきた人間の努力というのが、バーン!と……。
宮部 ゴジラがバンと壊してしまうかもしれない。
半藤 あのニヒリズムは衝撃的でしたね。
宮部 映画監督で脚本家の高橋洋さんが『映画の生体解剖』という対談集の中で語っておられるのですが、1959年生まれの高橋さんが小学校低学年のとき、学校で、みんなで映画館へ行って映画を観た。何を観たかは覚えてないんだけど、さあ帰りましょうというときに、『ゴジラ』の予告編が始まったんだそうです。そうすると子供たちが、みんな足をとめて振り返ってしまう。
半藤 うーん。
宮部 東宝のマークに、ずしんずしんという足音だけが響く、すごいインパクトのある予告編だったそうですね。子供たちは怖くって、あっちこっちで泣き声があがる。先生は慌てて生徒たちを外へ連れ出そうとする。でも、泣いてる子供たちは、泣きながらも予告編が観たくて観たくてしょうがなかったんだ、と。
だからやっぱり、それぐらい心を揺さぶるものだったんじゃないですかね。今、観たって、すごいですもんね。音楽もすごいし。
半藤 人間の努力というものが、一生懸命ということが、いかに儚いものであるか、という衝撃だったね。
宮部 この映画は残さなきゃいけないと思うんですよ。戦争体験があって戦後にご覧になっている半藤さんの世代や、戦争体験がなくて観ている私たちとか、ハリウッドメイクを観て初めて「あ、ゴジラはそもそもは日本映画なんだ」と知ったという人たちまで、ずうっと観続けなきゃならない映画だと思いますね。
いまさら言うまでもなく、「ゴジラ」の音楽を書いたのは伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)。
オーケストラ・トリプティークによるアルバム「伊福部昭百年紀Vol.3」には、「ゴジラ」の音楽を組曲にした「ゴジラ」組曲の改訂版が収録されている。
なんの改訂版かというと、「伊福部昭百年紀Vol.1」に収められている「ゴジラ」組曲の改訂版である(12曲、約18分)。
指揮は齊藤一郎。合唱は伊福部昭百年紀合唱団。
2014年ライヴ録音。THREE SHELLS。
こちらは作曲者のお墨付き
ゴジラの音楽だけではないが、編曲にあたって直接伊福部昭がかかわったのが「SF交響ファンタジー」(1983)。
第1番から第3番まであるが、第1番は冒頭のゴジラ登場のメロディーで瞬時に聴き手を引き込み、そして圧倒する。
第1番に登場する音楽は、
ゴジラが出現するときのメロディー → 「ゴジラ」メイン・タイトル → 「キングコング対ゴジラ」メイン・タイトル → 「宇宙大戦争」愛のテーマ → 「フランケンシュタイン対地底怪獣」バラゴンのテーマ → 「三大怪獣・地球最大の決戦」ゴジラとラドンの戦いのテーマ → 「宇宙大戦争」および「怪獣総進撃」のメイン・タイトル(マーチ)。
いつ聴いても、何歳になっても、降圧剤を飲んでいても、血が騒ぐ音楽だ。
こちらは、今日は石井眞木/新交響楽団の演奏を。
1984年ライヴ録音。風樂(キング)。
ところで、第五福竜丸事件のあと、被爆者のための治療薬としてアメリカが日本に送ってきたのは、アロエ(アロエ・ベラ)だったそうだ。
♪ 作品情報 ♪
【本作品について取り上げた過去の主な記事】
≫ ゴジラもまた文明の犠牲者である♪伊福部/「ゴジラ」組曲
≫ 伊福部が手がけたのは「モスラ」ではなく「モスラ対ゴジラ」
≫ 特撮&伊福部ファンが陶酔した夜
♪ 作曲家情報 ♪
つまり杉村の妻のせいで……
先日、JR札幌駅につながるPASEOの1階にある弘栄堂書店に立ち寄ったら、宮部みゆきの(私が知らない)小説が平積みされていた。ハードカバーのものと文庫の2種類。
一時期あれだけ好きだった宮部みゆきの小説(時代物は除く)だったのに、数年前からまったく関心がなくなってしまった。不思議なくらいに。
「ペテロの葬列」あたりでいやになってしまったんだと思う。
平積みされていた本にも『杉村三郎シリーズ』って書いてあったような……(杉村は「ペテロの葬列」の主人公)。
「火車」とか「理由」とかのころはおもしろかったのになぁ……
「ペテロの葬列」にはやれやれって感想を持った私だが、こちらはホンモノのペテロさまを讃える歌。
ブリテン(Benjamin Britten 1913-76 イギリス)の「聖ペテロ讃歌(Hymn to St.Peter)」Op.56a(1955)って曲である。
オルガン伴奏による高声と混声合唱で歌われる。
スパイサー/フィンジ・シンガーズの演奏を。
このアルバムはブリテンの合唱作品集で、3枚組。
このようにまとまった形でブリテンの合唱曲が聴けるのはうれしい企画だ。
この時期に聴きたくなる、児童合唱とハープのための「キャロルの祭典(A Ceremony of Carols)」Op.28(1942)も収められている。
1995年録音。シャンドス。
“弘”の由来はたぶん……
ところで弘栄堂書店は、その名も示すように北海道キヨスクが展開している書店。
その名も示すって言われても、なんのことやらさっぱりなそこのあなた!『弘』は『鉄道弘済会』に由来していることを、こっそり教えてあ・げ・る(私の推測だけど)。
なお、キヨスクや書店などは1987年に設立された北海道キヨスクが鉄道弘済会から事業を引き継いで現在に至っているのだ。
“展開”と書いたものの、北海道ではかつては帯広駅などにもあったが、今では札幌のPASEOとAPIAと(なぜか)北郷の3店舗だけ。適度な大きさで、マニアックな本を探さない限りは買いやすい店だ(と、私の妻は申しております)。
現在は文教堂書店になっている『国際ビル』(私がときおり行く『八雲』が入っているビル)の地下もかつては弘栄堂書店で、そこではLPレコードも売っていた。
ええ、けっこうお金を注ぎ込みました。ここに。
歌どころじゃないが……
月曜日も風が強く落葉が翻弄され、私も行く手を阻まれそうになった。
とても「あら、風が歌ってるわ!耳を澄まして聴かなきゃ」って甘いもんじゃない。甘くてもそんなことしないけど。
しかしながら、「風が強いので前進しにくいし、涙目になるので仕事をお休みします」なんていう理由ではリユウとして認められない。そんなことは想像するまでもないほどのことなわけで、泣きながらもちゃんと出社したことはいうまでもない。
読み直しているのに新鮮な感覚
いま、また「風の歌を聴け」(講談社文庫)を読み始めている。
村上春樹のデビュー作品である。
まだぐずぐずして読み終えてはいないが、氏の「職業としての小説家」(スイッチパブリッシング)はおもしろい。
この場合の「おもしろい」は滑稽であるということではなく、心惹かれるとか興味深いという意味である。
ここにはいろいろ納得、説得させられることが記されていてお得、両得である。
というのは冗談として、ここまで村上春樹の個人的な考え方や思いが飾り気なく語られているのは初めてのことだろう。
本書のなかには村上春樹が小説家となることになった「風の歌を聴け」の話が、当然多く出てくる。と、けっこう感化されやすいい私はまた読み直したくなったのだった。
本棚から取り出して読み始めると(その前に「職業としての小説家」を読み終えろというあなたの不満と忠告は痛いほど伝わってくる)、氏の小説に、あらためて奥行きのようなものを感じる。
再び読んでも新鮮さがある。発見がある。
一時期とても好きで著書を立て続けに読んだ宮部みゆき。
ジャンルの違いということはあるものの、もう一度読み返したいという彼女の小説はほとんどない。あんなに感心させられたのに不思議なことだ。
先日はこちらのマンションから、宮部みゆきの本はすべて自宅に運んだ。
そのうち「ここはボツコニアン」だけはもう絶対に読み返さないという確信があったので、ブックオフに持って行き買い取ってもらった。5円だった。
そしてまた、ここ最近出た宮部作品は、結局買う気にならないままである(「ペテロの葬列」が最後となっている)。
私の嗜好が変化したのか、それとも彼女が新たに生み出す作品には輝きが失われているのか、そこはわからないが……
樹にちなんで
シベリウス(Jean Sibelius 1865-1957 フィンランド)の「5つの小品(5 Pieces。樹の組曲)」Op.75(1914)。
その名のとおり5曲からなるピアノ曲で、各曲には樹にまつわる、あるいは樹木そのもののタイトルがついている。
1. ピヒラヤの花咲くとき(When the mountainash is in flower)
2. さびしい樅の木(The lonely fir)
3. ポプラ(The aspen)
4. 白樺(The birch)
5. 樅の木(The fir)
私が持っている音源はラウリアラのピアノによるもの。
1995年録音。ナクソス。
シベリウスのピアノ曲は日本ではポピュラーとは言えないが、抒情的でしっとりとしたなかにもぬくもりが感じられる。
なお第1曲のピヒラヤとはナナカマドのことである。
樹が燃えた
おとといの早朝の、消防車のけたたましいサイレン。
帯広駅南側の樹、つまり植込みが燃えた火災だった。
北海道新聞朝刊(地方版)によると、それなりに燃えたらしい。
やっぱ放火か?
早朝の歩きたばこ投げ捨てか?
今の気分は「ぶっちぎりの笑い」の方
全然知らなかったのだが、宮部みゆきの新刊が出たことを昨日のTV(王様のブランチ)で知った。
以前ほどではないが、私は宮部みゆきの小説が好きである(「ペテロの葬列」でやや熱が少々下がったのだった)。
そこで本屋に行って来た。
確かに「悲嘆の門」という本が平積みされていた。上下巻に分かれている。
今までだったらそこですぐ買うところだが、「いや待てよ、1年も待てば文庫で出るな」と、買うのを思いとどまった。
その代わりに、というのも何だが、浅田次郎の「王妃の館」(集英社文庫)の上下巻を買った。
当たり前といえば当たり前だが、文庫2冊でも「悲嘆の門」の上巻よりお安くついた。
「王妃の館」のあらすじは、
パリはヴォージュ広場の片隅にたたずむ、ルイ14世が寵姫のために建てたという「王妃の館(シャトー・ドゥ・ラ・シーヌ)」。今は、一見(いちげん)の客は決して泊めない、パリ随一の敷居の高さを誇る超高級ホテルとなっているこのシャトーに、なぜか2組のワケあり日本人ツアーが同宿することになった。しかも、倒産寸前の旅行代理店の策略で、客室を昼と夜とでダブル・ブッキングされて……。ぶっちぎりの笑いと涙満載の傑作人情巨編
というものだが、まだ読み始めたばかりだがすでにドタバタ劇の予感。
最近、仕事が忙しかったりストレスもたまっているような気がしないでもないので、無意識にこういうのを欲したのかもしれない。少なくとも宮部の殺人ものよりは、今の私にはふさわしいと思われる。
母が死んだ夜に成功を報告
小説ではモーツァルトも滞在したことがあるシャトー・ドゥ・ラ・レーヌ……
それにあやかって(?)モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の交響曲第31番ニ長調K.297(K6.300a)「パリ(Paris)」(1778)。
この曲は《コンセール・スピリチュエル》の支配人ジャン・ル・グロから聖体祭用の交響曲をとの依頼を受けて書いたもので、モーツァルトにとっては3年半ぶりに作曲した交響曲である。
ザルツブルクよりも大きな編成のパリのオーケストラやパリの聴衆の好みを計算に入れ、交響曲としては初めてクラリネットを採用し完全な2管編成としているし、パリの協奏交響曲を意識して管楽器を協奏的に扱っている。
一方で、ザルツブルク時代の交響曲に比べてモーツァルトらしくないと言われることもある。
曲は、アレグロ・アッサイ、アンダンテ、アレグロの3つの楽章からなる。
初演(6月18日)は大成功で、モーツァルトは父・レオポルト宛ての手紙に次のように書いている(7月3日)。
第1楽章の真ん中へんに、あるパッセージがあって、これがうけるに違いないことをぼくはよく承知していました。― 果たして聴衆はここで夢中になって、大変な喝采でした ― でもぼくは書いている時からどんな効果が生れるかよく知っていたので、最後にもう一度だしておきました。そんなわけで、ダ・カーポ(頭から)のくりかえし。アンダンテもうけましたが、最後のアレグロは特にそうで、当地では最後のアレグロはすべて第1楽章と同じように、たいていまず全楽器のユニゾンではじまるときいていたので、ぼくはヴァイオリン2本だけ、それもピアノではじめました。ただし、これははじめの8小節だけで、それがすむとすぐフォルテがくるのです。ですから聴衆が(ぼくの期待していた通り)ピアノのときシッシッといったかと思うと、さっと間髪も入れずフォルテです。フォルテをきくのと、拍手がわっと湧き起るのとは同時でした。
(吉田秀和 編訳「モーツァルトの手紙」:講談社学術文庫(一部文字遣いを変えた))
なお、上の手紙はモーツァルトとともにパリに来ていた彼の母が亡くなった夜に書かれている。
2つあるアンダンテ
第2楽章には2つの版がある。
というのも、最初の版はル・グロの気に入らなかったので別なものを書いたのである。
7月9日の父宛ての手紙-この手紙でモーツァルトは母が亡くなったことを報告している-で次のように書いている。
最も悲しい、最もいたましいお知らせのひとつを、毅然としておききくださる心構えのおできになっているものと存じます。7月3日付の前便で、到底よい知らせをおききになれない状態にたち至ったことを、お覚悟のことと思います。同じ3日の夜10時21分、お母様は神の御許に安らかに休憩なさいました。ぼくがお手紙していた頃は、もう天上の喜びにひたっておいでで ― 万事が終わっていました ― ぼくはその夜お手紙していたのです
……
……
でもアンダンテは、彼に満足してもらう幸福をもたず、彼のいうには、転調が多すぎる上に長すぎるのだそうです。― でもこれは、聴衆が最初の楽章と終楽章の時のように、大変な拍手でいつまでも大さわぎするのを忘れたからの話で、あのアンダンテは、ぼくと、すべての鑑識者と、愛好者と、大抵の聴衆からは、この上ない喝采をうけたのですもの。ル・グロのいうのとは逆に、あれは全く自然で、短いのです。でも彼(及び彼のいうところの、その他の人々)を満足させるために、ぼくは別に1つ書きました。好き好きですし、どれもそれぞれ独特の性格を持っている。でも後で書いた方は、一層ぼくの気に入りました。…… (同上)
現在通常演奏される第2楽章は初演時のものである(掲載譜・上)。また新たに書かれたアンダンテは下のスコアのものである(音楽之友社刊のベーレンライター版。新しいアンダンテは付録として収録されている)。
輝かしい祝典的な華やかさのなかにもがっちりとした芯のあるガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏を。
なお、このCDでは第1楽章の次に最初のアンダンテ、そして再演時の(新しい)アンダンテ、第3楽章の順に収録されているのだが、ライナーノーツの表記では再演時のアンダンテの方(7トラック目)に「Version of the 1st edition」と書かれている。
4枚セットの1枚。ライナーノーツには初出時のジャケット写真も載っている(上の写真。ただし本セットの各CDとはカップリングが異なる)。
第31番は1987年録音。デッカ(原盤フィリップス。TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION +plus Vol.17)。
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