挫折する経験について

持論でしかないが、挫折する経験は本当に大切だと思う。
正確に言うと「挫折すること」が大切なのではなく、挫折した後の謙虚な省察が大切なのだとつくづく思う。ただ挫折していても自己愛的に他者を非難しているのでは、挫折した悔しさをこじらせて偏屈な人間になるだけだ。
挫折し、謙虚に省察することで得られるのは、優しさだ。人は学ぶのみで一生を終えるわけではない。学んだり、人に助けてもらった分だけ、誰かにものを伝え、何かを遺していく必要がある。それは人間が知的な生き物であるうえで不可避な事実だと私は思う。
優しさは、単に人当たりがいいとか、評価が甘いとか、そんな生温い様を指すのではない。優しさとは実際の挫折や経験から導き出されるフォローや励ましかた、ものの伝え方に現れてくるものなのだと思う。
的確な指示やフォローも寛容さも、自分がかつて他者に受けてきた恩恵と感謝あってのことで、たくさんの失敗をしたり、挫折した人ほど想像力も共感力も備わるものなのだと思う。

実際のところ、挫折なんてしないにこしたことはない。挫折なんてしなくても賢くて良識のある人は、徳のある対応ができるのだろう。でも、多くの場合、そんな生まれながらの人格者に出会えることなんてない。挫折は人がしなやかに強く優しくなるための必要な試練なのだ、と思う。私にはそうとしか思えない。
とはいえ、何かを成し遂げたというわけでもなく!人格的にも確立されていない私がこんなふうに強く主張しても説得力はないのかもしれない。
でも、私が少なからず体験した挫折感や悔しさは自分を優しくさせたと思う。想像して共感し、私がされて嬉しかったこと、私がそうしてくれたらと望んだことを体現する努力ができている。
だから、強く思う。生きていて無駄な年月なんてないんだなと。そんなふうに思うにはまだはやすぎるし、かなり安直なのかもしれないけど。

twitterも、facebookも、気持ちを吐き散らすツールとして手に入れることとなった今、
自然とここで文章を書くことは、とても少なくなった。
ここをみる人も少なくなったことに伴って、ここはより自分の深い部分―
誰にも見られたくないのに、どこかで誰かと繋がりたいと願う、そんな
相反する気持ちがひねくれて、歪んだ形でよりあらわれてしまうような場となってしまった、
ともいえるかもしれない。

最近の自分は、本当にいかれてるぜ、と思う。
消えてしまえばいい、とか、
このまま、あの交差点で死んでしまえばいいのに、とか、
胸を引き裂かれながら、泣きながら、自転車で走る。
でも、左右の安全確認を怠らない自分にほっとすると同時に辟易しているのだ。

こういう気持ちを、だれもが持つのかもしれない。
実際にどうしようもなくなってしまう人も多いのだろう。
今、私が向き合っているのは、おもにそのような心性に苦しんできた人たちであるのだから、
人はみんなそういう際どいところを生きている、ともいえるのかもしれない。


自転車で、唇をかみしめながらペダルをこぐとき、
「私、どうしようもなく病んでるな」
などと思ってみる自分に、いやになる。



「つらいときは、つらいって言っていいんだよ」
「あなたがされていることは、普通じゃないよ。もうやめてしまったほうがいいよ」
「そんな気持ちになるなんて、ひどい」

とかとか。

それらの言葉は、確かに正しくてまっとうであるから、
吸引力が強い。
「私は悪くない」、「この環境がよくない」、「相手がおかしい」、「ハラスメントだ」
などとか、なんとでも言える。

でも、そう思っちゃおしまいだ、って思う。


私の場合は。




自分の、どろどろとした心性が、もっとどろどろとした暗澹とした葛藤を招いて、死にたい気分にさせる。
けど、それは病気のせいなんかじゃないし、誰かのせいでもない。
これは、私の闘いでしかないんだと。
打ち克たないことには、どうしようもないんだ、と。


考えようによっては、ひどい扱いを受けているって思う。
お前何様だ、って思うこともしばしばある。
利用されている、と思えなくないこともない。
傷ついている。悲しんでいる。
クレームばっかりつけるなよ、って思う。
確かに私が悪いのかもしれないけど、


だけど、相手に自分の辛さや傷ついているという現状を訴えることができない。
受け身的にしか、なれない。




言ってしまったら、私の立場は規定されてしまうから。
それが悔しくてならない。
それを肯定的にみれたらいいのかもしれない?
こんな程度の私、を受け止めたらいい?
でも、それじゃ、だめなんだ。



陳情したい気持ちと、
それをよしとしない心が、
葛藤している。

ぐっとこらえていかないことには、成長がないんではないか。
ただ、愚痴ったり、わめいたりするのは、
興ざめなだけではないか。
かっこわるい。


何を言われても、歯を食いしばって耐えろ、というような話や訓話は「美談」として
逆に批判され、非難され、否定されてもきたかもしれない。
それは確かにそうかもしれない。
それは間違いだとはいえない。
捉え方の問題であり、価値観の問題であるから。

でも、簡単に逃げちゃいけない。

もしも、だれにも言えないで、苦しんでも、
辛さを耐えきれずに、自害しようが自傷しようが、気を病んでしまっても、
私は、そんな生き方の方が、潔いって思う。


別に、だれにも弱音を吐かないことがいいとかそういうことを言っているのではない。
事実、私はここで弱音であり、愚痴でしかないようなことを吐き散らしている。
自分のこの、悔しさや傷つきや苦しみを、私自身が乗り越えてやらんと思う。



言葉にしてしまうと、なんだか綺麗になってしまうけれど、
本当は、胸が引き裂かれるように辛い。
悔しい。





ぐち

本当はたくさん伝えたいことがあるのに、いつもわたしは伝えるタイミングを持たない。
チャンスは相手から問われた時のみ。

この前、ある問いかけを受けたとき、今までにない返答をした。
相手は何を思ったんだろう。
深く深く悩んで返したつもりだったのに、
結局保身だったのかな、と悩み出す始末。
まさか、悩んでこうなったとか、こう考えたという話は無様だから、と何も言えなかった。

これからどういう風にありたいのか、全く想像つかない、つまり、どうにもならないようなことであって、それを私は改めて気持ちを伝えたところで何になるのだろう、と思う。
だけど、ちゃんと伝えたい。
でもそれが、何の意味を持つのか。


分からなくて辛く、
きっと分かっても辛い。


こんなときこそ吉井ロビンソンのCALL MEなんだなと。

ぐだぐだだ

最近、再び「海辺のカフカ」を読み直してる。少しずつ。少しずつ。
ナカタさんは被虐耐児だったんだね。


考えてきたことを、改めて人に伝えようとするとき、緊張している。
なんでこんな不安なんだろうって考えたら思い当たる節あり。詰めが甘いからだ!
焦るんじゃなくて、今気づけて良かった。まだまだ時間はあると思考を前向きにしなきゃ、と思う。


だけどうまくいかない。
へこたれるとだれてしまう。
バイト帰り、いつもどちらかというと暗い気分になって帰る。ミスったりした自分に自己嫌悪することもあれば、不当な扱いを受けているような気がして苛立ったり、そもそもそう感じてしまう自分がふがいないやらやるせないやら。死にたい気分になりながら、泣きながら帰ってきたりする。
自転車に乗ってるからこそ泣けちゃうんだよねって思う。
それで帰宅するとすっかり元気はなくなっていたりする。




でもごはんを作ったり走ったり、無心になれるうえに、自己肯定的な作業をすると、すごく気持ちが軽くなるのは不思議だと思う。









ちゃんと思ったりしたことアウトプットしていこうと思う。
今日はだめだ。
眠くなってきてぐだぐだだ。

無題

切り札とも言えるようなカードを何枚かずつ持っているとしたら、
手持ちのカードはいつも最初から相手に全て明かしてしまっているような気がする。


小出しにしとけばいいのに、気持ちが抑えられなくて最初から精一杯になっちゃうから、あとは自分の醜い汚いところしか残らないような気がして、怖くなる。最初から面白くもないのに、こんなに出し切ってしまったら、本当につまらないところしかもう自分には残っていないような気がして。






純粋に好きになったものをとことん好きになる、そういう姿勢がすごいなあと思う。
後を追うように、いろいろあなたが好きだと言ってたものを見回してみると、あなたの片鱗があるような気がして驚く。
あなたの中に好きなものが生き継がれてるような気もする。吸収力がすごいね。



もっと私に好いてもらえるように努力する
って言ってた。


どんどん遠ざかって行ってしまうんだろうか。


私は、そばにいさせてほしくて頑張る。
だけど、つまずいて、どうしようもない自分を目の当たりにするばかり。
あなたのように、好きなものから吸収して成長してまっすぐ追いかけていけたらいいのに。





好きだから、過大評価してるのかもしれない。

でも、追いつきたい。


元気です。

かなしいときはやっぱりかなしくて、
うれしいときはとってもうれしい。
ひとのきもちは不思議なもので、
泣いたり笑ったり。

私の気持ちは、私の心がようく知っているけれど、
目の前にいる人の気持ちまでは分からない。
私が感じた、その人のこころは、
そのままその人の気持ちなのか、
ときどき自信がなくなってしまう。

ひとの気持は変わるものだと
知っているから、
要らない心配までしてしまう。

刹那的に生きるわけにはいかなくて、
ひと時一瞬が、積み重なって私になるのだと
そう思うから、
そう思うけれど、
この生き方でいいのか、悪いのか、
誰かを傷つけているのか、傷つけられているのか、
分からない、なぁ。


そういう感じ。
でも、
元気なのですよ。
相変わらず、のんきにやっています。

無題

どうしてか分からないけれど、あのとき、涙がはらはらと落ちた。
そういうことってあるものなのか、
分からないけれど、
とにかく、あのとき、心の底からわき出る感情があった。
切なかったのか、嬉しかったのか、よく分からない。


でも、たぶん悲しかったんだとも思う。
今もまだ、ずっとずっと、行き場のない悲しみを抱えていると思う。
だから、時々、理由もなく、涙が出てくる。

自分を受け止めてくれる世界のことをおもい、
圧倒的な孤独を実感する。

あのひとときが、いかなる意味を持つのか、
途方に暮れて考えてみる。
すべて間違っていたのだろうか、と不安になる。
でも、どう考えても私にとっては、無駄にはなりえず、
そして、もう一度、
切ないのか悲しいのか嬉しいのか分からない、
複雑な感情に呑み込まれて、泣く。



よりによって、
と思う。
言葉で説明できないことがらで、
誰にも言えないようなことを、
抱え込んでおくしかない。
そんな秘密を、
そのまま放り投げて、
受け止められるままに身を投げ出せてしまえればいいのに、と
思う。


とにかくその澄んだ目から始まっている。


見捨てられ不安

あなたにとって、私は何の代替物で、何の役割を果たすことを期待されているのか、
って思ったらつらくなった。

いつまで私は「此処」に居られるんだろう、って思ったらつらくなった。

私が「此処」にいるのには、条件が必要で、その条件からはみ出たら、私は「此処」にいてはいけない、
と言われているような気がした。

あなたが私に親切なのは、私がたまたまその条件を満たしたからであって、
「私である」からではない。
「私」からその条件が失われれば、あなたにとって「私」など意味のない存在になる。
そう言われたような気がした。
そうとしか聞こえなかった。


だから、ずっと悲しくて悲しくて仕方なかった。

なんでこんなひどいことを言うのに、
私はお礼を言ったり、にっこりしたり、気遣ったりしなければならないのか。
それは、私が、その人のことを大切だと思っているからだよ。

別に無条件に大切だと思ってしまっているから、
にっこりしたり、気遣ったりすることを使い分けたりしないんだよ。
そもそも、そんなに器用じゃないんだ。



ちっともone of themには成れないし、
たぶん、誰にとってもone になんてなれない、と絶望的な気持ちになる。

そもそもそんなことを望んで生きてるわけじゃないだろうに。
誰かの望む私になりたいわけじゃないのに。

だけど、条件から逸れてしまったら、私は「要らない」人になってしまうんだって、
そう思うから、それがいやだから、
条件に沿いたいって思う。
それは、自分の気持ちに嘘をついていることになるのか、
だけど、「要らない」って思われたくない、っていう自分の気持ちには正直、とも見える。
そういう複雑さの中で、自分は、ずっともがいているんだって思う。

いつも、
そういう不安定な条件付きのところに、身を置いている気がする。

いつもそう感じてしまうのは、条件なんて知ったことか、と開き直れないから。

これは、私にとっての「病」だと思う。

いつも、不安。
誰かと一緒にいても不安。
たまたま「其処」にいたのが私だっただけで、
もっと他の誰かを相手は望んでいたのではないか、と思うこと。
単なる暇つぶしの相手で、単なる快楽を果たす相手で、ただ、たまたま其処にいるだけの人。
其処になんかいるけど、かまって欲しそうだからかまってあげようか、というノリでただ優しくしてもらっているんじゃないか、っていう錯覚。

こういうふうに"とらわれ”てしまうのは、本当に病んでるんだと思う。


友人に言われた。
「見捨てられても自分のやりたいことをできる」のが良い生なんじゃない?
って。

私が、求めているのは、本当にそのことだけなんだよ。
本当にそうだね。

だけど、ただの一度だって、
私は、見捨てられたことなんてなかった、というのも本当のことだったんだね。

希有

最近、努めていることはシンプル化。
バイト先で上司の研究をつぶさにみていると、どうってことのない行動ひとつにもきちんと意味があって、論理的に説明することができるように考えた上で行動されている、ということが最近になって分かった。

私は、そういう論理的な思考がどうも得意ではないようで、
二度手間ばかりか三度手間、四度手間してしまうこともしばしばある。

そういう意味で、「シンプル」に、ある目的があって、そのために〜〜する、みたいにシンプルに説明可能であれたらな、と思っている。
そういう訓練も必要だと思っている。


そして、違う意味でも最近はシンプルになってきている。
ひとつは財布を持たなくなりました。
去年か一昨年(たぶん一昨年)、結構きちんとした長財布を買った。割と高かった。
でも、長いし(←)、鞄でスペースとるし、重いし、と持たなくなってしまった。
本当なら、ポケットの中に小銭じゃらじゃら、でもかまわない(←)のだけど、
さすがに取り出しにくいし、ちょっと恥ずかしいので、小さながま口の財布に小銭を入れて、
カードいれにお札をいれて済ませるばかり。
ざっくり!

でも、なんか楽。

もともとユニセックスな感じの雰囲気がすき、というのもあるかもしれない。
長持ちするのも好きだし、丈夫なのも好き。
自分がつくづく繊細で華奢な雰囲気の装飾品にあまり憧れないものなんだなぁと実感する。
時計もばりばり防水の軍隊が採用している、というメーカーだし(でも女性用の)
携帯もこのご時世でスマートフォンではなく、普通のガラパゴスケータイで、G'zoneというめちゃくちゃごつい携帯に替えました。(スマホバージョンも出てましたが)
この携帯も、とても丈夫で、頑丈とのこと。購入時はやっぱりごついなーと思ってたけど、すでに見慣れてしまい、すごくかわいらしく見えてしまう。ほどよい重みでいいんです。Gshockまで欲しくなってくるし。笑
パソコンも借り物ですけど、レッツノート。レッツノート、本当に最高ですね。
頑丈だし。

うちにある靴でヒールのある靴は、結婚式のときに買ったものしかなく、ビルケンシュトックかドクターマーチンか、アディダスのスニーカーという始末。
でも、非常に楽。

最近は、通販をよく利用するのだけど、無印率もうなぎのぼり。

アマゾン利用率も急上昇。
最近は見境なく本を買ってしまっているような気がする。
CDも調子に乗って結構買ってしまった。
家計大丈夫だろうか。

無印で服は買ってるけど、それ以外にほんとに買い物してないなー。
お菓子も滅多に買わないし、お酒も買わないし。
健全。


こんな生活が、あまりに楽しくて幸せで、ほろってする。ときどき。
ここ数日、いろいろ締め切りに追われて、就寝が遅くなりがちだったけど、
やっぱり好きなことをしているわけだから幸せ。
PC見過ぎのせいなのだろうけど、肩ががっちがちで腕がなんかしびれているけど、
それでも幸せ。

どうでもいいことすぎるのに、
ついブログでつぶやいてしまった。

今私が過ごす時間っていうのは、たぶん人生の中で、
だいぶ貴重な時期なんだとも思う。
本当にある意味でモラトリアムな時間。
長すぎるようだけど、去年の終わりにやっと手に入れた貴重な時間だと思う。
味わって大切に暮らしたいって思う。


つれづれ。

引っ越ししてから、結構いろいろなところに行っているな、と思う。
ありがたいな、と思う。

3月に周防大島と熊本に行って、
4月に山梨、
5月に大阪、
6月に名古屋と大阪と京都
7月に大阪
8月に遠野、
そして、明日から金沢
10月は、名古屋、秋田、大阪だ。

我ながら、びっくり。
ほとんど仕事とかゼミによるものだけど。
これまでこんなにあちこち行く用事なんてそもそもなかったのだけど。

タイマッサージにも連れて行ってもらったし、
プールにも少しだけ通った。
そういえば、漫画喫茶で夜を明かすなんて暴挙にも出た。

そうは言っても、これまでに比べたら、やること、本当に遅々としながらだけど、
一応、やることできてるような気もする。
問題だらけだけど。

本当にありがたいな、って思う。
そして、毎日遊んでるような気分になる。
実際、遊んでるんだろうね。
・・・・。

いわゆる「下宿生活」というものは、どういうものか知らない。
だけど、人をうちに泊めるなんてことも、経験したことなかったから、
誰かに泊まってもらうことが幸せで、
そして、気遣う度合いも分からなかったりして、
そしてそういうのがとても新鮮だった。

先週の金曜日は、指導教官の誕生祝いをした。
久しぶりに会った、Tさんには、家を出たとき、居候させてもらったりして(笑)大変お世話になった。
Tさんは、感慨深く思ってくれていて、本当にありがたいな、って思った。
明日、金沢に行くのも、後輩が旅行に行くからよかったら、という誘いに乗せてもらって行く。
家を借りるときに保証人になってくれたおじに会いに行く。
挨拶。

本当に、ものすごいたくさんの人を巻き込んでるんだなって思う。
遠野のA先生とのゼミでも、「コインランドリーは危ないから気をつけなよ」とか、
「これから、鍛えてあげなくちゃね」とかありがたいお言葉をいただいて。
ほんとに、半端なく幸せ者だって思う。
書いてるだけで、本当に、ため息が出る。




プールに通おうとしているゆえんは、基礎体力アップのため。
なのだが、泳ぎの所作を忘れてしまっている。
息継ぎの仕方がうまくできない。
それから潜水が下手らしい。
あと、腕の筋肉が落ちてて、すぐ腕がだるくなってしまう。
だから、すごく休み休み。
2週間前にはじめて近所のプールに行った。
10年ぶりくらいに泳いだ。
そもそもなぜ水泳か、といえば、「海辺のカフカ」の主人公がプールに通っていたから、ってだけ。
単純。
「海辺のカフカ」は家を出るときにも勇気をたくさんもらったからな。




最近、悩んでいるか、と言われたら悩んでいることは実はある。
相手の言葉を素直に受け止めていいのか分からなくなることがある。
無邪気に受け止めて喜んでいる自分がばからしく思えることがある。
相手がどういうつもりなのか分からなくて苦しくなることがある。
例えば、どういう気持ちのときに、私に関わり合おうとするのかが分からない。
私は、自分から連絡をしたり、私的な話をすることが苦手だから、
受け身であることが多い。
だから、なぜ、そのときに、私が相手となったのか、
分からなくなることがある。
どうでもいいことだけれど、
どうでもよくないんだ、私にとっては。

そして、そういう悩みは、たぶん、今、私にとってはすごく大切ってわけではなくて、
ふっと思うことでしかない。
んだけどね、。

そして、最近は、その人が考えていることが、実はこういうことなんだろう、って気づいていて、
その希望に沿いたいと思いながら、
その希望に沿えるんだろうかって思いながら、
それは全くの勘違いなんじゃなかろうか、とも思いながら、
そうすることが正しいって感じるから、
胸が苦しくなるのであった。
意味深。


さっきから奥田民生の「custom」をリピートして聴いてる。
いいね。

独占ー共有

その人の歌うたくさんの曲の歌詞を眺めた。
あの人は、この歌をあの子のためだけに歌うんだろう、とかそういうことを思う。

この歌なら、私のために歌ってくれるかな、なんて。
そんなふうに思ったりして。

あの時、歌ってくれた歌は、誰に向けられていたんだろう、とか。



誰もがみんな、音楽や絵や形や言葉に特別な意味を見いだして
自分のものにする。
自分のきもちを乗っけて、贈ったり受け止めたり大事にしたりする。


不思議なのは、そういうふうに、直接的な表現にしなくても、
気持ちが余計に強く伝わったり、感じたりするっていうこと。

ただ、私は、婉曲表現に慣れすぎて、抽象表現に憑かれすぎて、
いつも、閉じ込めて、遠回しに歌ったり言葉にする。



核心に触れるのが怖いし、
核心に触れられるのも怖い。





私は、大切な言葉や歌を持っていて、
贈りたい相手とそうではない人の境ははっきり持っていると思う。
言葉や歌は、いつでも、その人のためだけにきっともてるもの。
距離を超えて。
そういう人と具体的に会えたらいいんだけどね。
本当はね。


っていうオチで終わらせておこうって思う。

そうと認めざるを得ないような感情がある。

強い憧れと共感。
はっぱかけられて悔しさ。
だけど、それが愛情だって分かるから、見返したくて認めてもらいたい。


すごく大好きなんだなあって思う。

考え方とか発想とか、なるほどって勉強になる。
すべてがいいって思わないけど、
振る舞い方ひとつ、とらえ方ひとつが新鮮で、
楽しく感じる。


だけど、それ以上でもそれ以下でもない。
それが切なくもあり、それがほっとすることでもある。

だけど、強い気持ちがあるんだなぁって自分で感じてびっくりする。
誰にも言えないことだけれど、
こんなに強くそう感じるなんてびっくり。

同じように振る舞ってくれる人はいる。
好意をもってくれている人はいても、
その人に対して、ここまでは感じることができない。
尊敬することができない。
憧れない。


だけど、その気持ちは、表現される機会は一切ないし、
受け止められる機会も一切ないし、
なくていいし、
あっちゃ困るし、
どうにもならないんだけど、
気持ちが強いだけ、行き場がなくて、ときどき悲しくなる。



単純なことばひとつすら、発することができない。
私から、発することはできない。



発せないから、まわりくどくなって、
伝えたい気持ちが屈折して気持ち悪い。




いやなところもたくさんあるんだけど、
そういうのは、とても表層的なことで
今のところ、その本質的なところに惹かれているということが分かる。
人となりや精神性や目指そうとしているところに惹かれている。

私も、その姿をみて、そういうふうに在りたいって憧れて
そういうふうに考えて、ものをとらえて、構成していくように在りたいって思う。



切り替える。

このタイミングで見てはいけなかった・・・と思った。
『マディソン郡の橋』。


愛について、考えてみても、ずっと答えはわからないのだろうな、と思います。

だけど、間違いなく素敵な映画だった。

フランチェスカが冷蔵庫のドアを足で閉めるシーンとか、
躊躇いながらどうしようもなくフランチェスカとロバートが惹かれあっていくシーンとか、
いっしょにすごす幸せな時間とか、
そのあとの切ない葛藤とか。

さすがクリント・イーストウッド、メリル・ストリープ。


愛はつづいていくものなんだろうか、とか
なんだかんだと
思って観た。

だけど、
「あなたの気持ちを、本当の気持ちを教えてよ」
ってフランチェスカが朝ごはんの時にちょっと興奮して泣いているようなシーン、
観てて、すごいなーって思う。
自分基準で観てしまうと、どうしてもああは言えないんだろうなと思う。
あれは、文化の違いなのか、私の性格の問題なのか。

映画を観ていて、違和感があったのは感情の起伏の激しさ。
おそらく、原作はもう少し丁寧に描かれているんだろうなと想像する。
ついていけなくはないけれど、感情の変化の機微が測りかねた部分もややあった。






昨日、読み終えた『国境の南、太陽の西』も、
もうすぐ読み終えようとしている『ボヴァリー夫人』も、。




どうしてまぁ、こんなに複雑なんだろう、って。
人間というのは。



ところで、『国境の南、太陽の西』。
腑に落ちた文章があって、ありがたくて、すっかり納得してしまったけれど、
島本さんがミステリアスすぎて気になる。




どうも、気持ちが切り替わらないから、とりあえず呟いてみたくて、書き連ねてみた。
あまり、切り替わった気がしないけれど、
やらねばならないことがあるから、
とりあえず作業をしよう。


よく考えたら、レンタルしなくても、まぁだいたいの映画が大学で観れるっていうのはいいよね。
昨日も研究所でサタディナイトフィーバーの話になって、
ジョン・トラボルタにあこがれる、みたいな話をしている先生がいた。
この前であった人も、ジョン・トラボルタが登場する一番最初のオープニングシーンがいいよね、って言ってた。
だから、今度はサタディナイトフィーバーを観るんだって決めてる。


もの知らずだって自覚してたけど、ジョン・トラボルタのこと全然知らなかったわけ。
パルプ・フィクションを貸してもらって観て、初めて彼のことを知った。

メリル・ストリープは授業で扱った映画に出てきたから知ってただけ。
実はクリント・イーストウッドさえ、「ああ、この人か!」という具合。
ひどい。



そして、私のケータイは、待ち受け画面が久しぶりに変わった。
紺をバックにした象形文字。
青がきれいで、
ケータイを見るたびに見とれているんです。


いろいろ考えちゃう。ほぉ。


おわり。

お久しぶりです。

久しぶりにブログを書きます。
先月は一回も書いてなかったのだなぁ、と思うと、少し不思議な気持ちになります。
昔はなんだかんだ言っても、結構な頻度で更新していました。

ここのところ、いろいろなことがありました。
私にしては珍しく、「多忙」という言葉で表現してもよい感じの。

まず、指導教官が大会長を務めた学会の事務局をしていました。
それからバイト先の研究所で研究のささやかな手伝いとして出張に行かせてもらい、近畿地方に二回出張に行ったりもしました。
疫学のセミナーを4泊5日で京都に受けに行ったりと、
今、振り返ると、あっという間のようで、ずいぶん昔のことのようにあれこれ感じられる時間でした。

時間はあっという間に過ぎてしまい、焦りが募るばかりではあるのですが。



変わったことといえば、昨年末から、思いがけず、いろいろと自分の抱えている問題に、向き合わされている、ということでしょうか。
今まで自分の問題なんて、あるようでないと思いこんでいました。
いたって平凡にまともに生きているつもりでしたが、不思議と最近は、根本的なところで私が抱えていたり、ずっと向き合えてこなかったようなことに向き合わされているような感じです。



最近は、ゼミではイリイチを読んだりもしていましたが、その言葉に慰められもしている感じです。
イリイチは、自分が責任を負えない他者のことを守ったり、考えたり、救ったりしようと考えるな、というようなことを言います。
何かに対して、責任感のような感情を抱くことは、裏返していえば、そのものに対して自分の力を及ばせることができる、ということでもあるのだと。
だから「地球環境保護」や「生命を守る」とかそういう言葉で募らされる責任感や使命感というようなものは傲慢以外の何物でもないのだと。

とても、極端な言葉のような気がしますが、結局のところ、私たちは、責任感や使命感にせきたてられるように煽られているようにも感じるわけです。
目の前の誰かを抱きしめることも救うこともできずに、なぜ、遠くの誰かを思いやりうるのか。

私たちは、身を立て、名を挙げる欲望に常にさらされているように思います。
誰かの生き方や誰かの在り方に口をすぐ出したくなります。手も出したくなります。
何か問題が起きれば、その問題について論じたくもなるし、自分の考えを披露したくもなります。
だけど、実は何もできずにいてその葛藤に苦しんだり、誰かのことを祈るとか言いながら、常に祈り続けられないでいる自分に矛盾を感じて辛くなったりします。
手も足も出ないようなことに対しては、実際問題、「手も足もでない」のです。
手も足も出ない出来事に直面したら、存分に絶望しましょう。
存分に絶望したら、絶望の中で必死に生きようとしましょう。
できることといったら、それだけです。
それ以上もそれ以下もない、とはまさに言い得て妙です。
考えることを止めよ、というのではないです。
考え続けたらいい。だけど、考えるという行為は、自分が生きていくためにあるのであって。
祈るのを止めよ、というのでもないです。
祈り、とは、きっとその人の生きる時間をささげることで、その人の暮らし、日々の中で終始することです。
その行為は静かにひっそりと行われているものなのです。きっと。
誰かに知られる必要はないのです。

そういうわけで、できることと言えば、自分の生を全うして、身近にいる人に愛情を注ぎ、精一杯に注ぎ、慎ましく、静かにささやかにできることを淡々とこなすだけなのかもしれない。


こうした考え方は、卒論で「地縁や血縁を越えて誰かの記憶や想いを継ぐこと」について考えた私にとって、衝撃的なものであり、ある意味で救いのようにも思いました。



全て身の回りで起こっていることは、繋がっているんだなぁ、と思うわけです。
うまくとても説明できていないのですが。(そもそも説明しようと思って書いているわけでもないのですが)




実のところ、全てが順調というわけでもなくて、
いろいろとのんきすぎる私は相変わらずすぎる!と自己嫌悪に陥ることも多々あるわけです。
他人に「のんきさ」や「頑固さ」を指摘されると、むきになったりして、まだまだお子様なわけです。
だけど、感謝したいのは、周りにいる人たちの理路整然とした思考と、まっすぐで深い愛情と、その人たちの志向するものがとてもポジティブで前向きな未来観で支えられたものに、自分が成長する機会を頂いている、ということです。

「憧れ」の対象がたくさんあり、同時に至らない自分に対する「悔しさ」があります。
ずっとずっと、変わらない感情ですが、そうした感情に支えられてやってきていると思います。
悔しさは募りながらも「憧れ」のありようはより具体的になっていきます。
あんなふうに在りたい、こんなふうに在りたい、という思いがあって、
そういう思い描く在りように少しでも近づけるようにと夢見ています。






私の部屋は、エアコンのリモコンが故障し、とても暑いです。
だけど、「月がきれいだよ」というメールをもらって、部屋の窓から外を眺めました。
流れてくる風がとても涼しくて気持ちよくて、「月がきれい」というメールをただもらっただけなのに、
なんだか嬉しくて、ちょっと涙がでました。
そういうささやかで幸せな時間を過ごせていることに感謝したいです。

正直、久しぶりに(この程度ではありますが)自分の思いをつらつらと書き述べるだけの文章を書きました。
行受さんのコメントに触発されました。
ありがとうございます。
みてくださった方、ありがとうございます。

もうひと踏ん張りです。


熱中症にお気をつけて。


もにょごにょ

決して世界は、美しいばかりじゃない。
さわやかで、静かで、心地よい瞬間ばかりじゃない。
暗部というものが必ずあって、そういう世界があるってことを。

だけど、私は、そういう暗部を撲滅したいのでも、そこにいる人たちを救いたいとか、そういうふうに考えているわけじゃない。
そういう世界を自分も共有しなくては、とかもっと知らなくては、とか、そういう思いを持つ人たちがかつて大勢いて、その中である運動が沸き起こってきたという過程があるだろうということももっときちんと把握せねばならない。

ただ、世界は、ねちねちとじっとりとした場所があるということ。
「泥の河」のような、
そして夢野久作が描くような世界。。


かつて出会った人のことをこのごろ思い出した。
腕にリストカットの跡が大量にあった。
だけれど、初対面の私にやさしく微笑んでくれた。
セクシャルマイノリティだってほかの人が話してたのを聞いた。
銀杏BOYZ、好きかもって聞いて、曲を少し焼いてあげた。
私に、夢野久作を教えてくれて、貸してくれたのはその子だった。
歳も近かった。
タバコを吸ってた。
人ごみが苦手だった。
一緒に横浜でカフェに入ったとき、汗をかいていた。
その後、リストカットを再びしてしまい、入院した、と聞いた。
また会えると思っていたら、いつのまにか、会えなくなってしまった。
本名も知らないし、どこに住んでいるのか知らない。
ただ、その人の語る言葉に耳を澄ませ、私の話す言葉を聴いてもらった、
というひと時がいくらかあったか程度だった。

だけど、忘れてないよ。


私は、その人に対して親しみを持っていた。
もっと知りたかった。
仲良くなって見たかった。



私に何ができるんだろう、と考えたりする。

私は、ただ、つながってたいだけなんだと思う。
いろいろな境遇を持っている人がいるということ。
私の境遇は、他人の目から見て、どのようにうつるのか知らない。
たぶん平均よりもしあわせかもしれないし、ややこしいのかもしれない。
だけど、別にそんな評価は関係ない。

「当事者」とかそういうの関係なく、ただ一緒にいてみたいだけなんだよ。



マニュアルですくいあげられるものがあるし、
そういうシステムはとても必要で大切なのだけれど、
それにいちいち感動したり、興奮するのだけれど、
それで流されていく自分が怖くもなるんだよ。

量的調査の結果で、自分の言いたいことが言える、結果から数値から自分の思いを後押しできるって無邪気に思ってたけど、
この数値で本当にそのように語ることができるのか、というためらいや怖さは依然あった。
数値できりきれない測りきれないものも歴然とあるんだということ。
その曖昧さや二律背反的なぎりぎりのところを丁寧に見ていくんだということ。


支離滅裂だ。

結婚したいw

昨日は小学生以来初めて出た結婚式でした。
パーティなどには呼んで頂いたことはあったけれど、式や披露宴にも呼んでもらったのは、本当に久しぶりでした。

昨日は汗ばむほどの好天にも恵まれて、素晴らしい結婚式・披露宴・二次会でした。


披露宴では沖縄エイサーが余興に含まれており、みんなで舞いました。
幸せが混ざるようにと、手を振りながら踊るわけですが、新郎新婦がタキシード・ウェディングドレスで沖縄の踊りを踊るなんて、それもまた不思議な光景で。
そして、参加者も、太鼓の音に乗りながら、舞ったわけでした。
幸せ、すごくまざっておすそ分けいただいた気がします。
沖縄の結婚式では、必ずされるそうですね。すごくよかった。

そして、二次会。
新郎新婦のお二人に日頃お世話になっているということもあり、余興のひとつの仕切りを担当させてもらってしまいました。
私なんぞに!?という感じで、明らかに力不足な点も多々あり、反省点もたくさんありましたが、とても勉強にもなり、楽しく務めさせていただきました。
AKB48をやったわけですが(苦笑)、新婦が留学していたということもあり、二学年にわたっての出演で、参加合意をたてることから、みんなの貢献できる度合、などなど、妥協点を探るのがまず難しかったということ。
そして、みんな働いているので、一度も練習をあわせる機会がなく、二次会開始前のわずかなリハーサル時間が初対面であったということ。
さらに、披露宴に出席させていただいた仕切り屋の松崎が、披露宴の50分延長のため、リハーサル時間に遅刻、というハプニング。
みんな、「やばいんじゃないの?」という不安でもあり不穏な空気の中、グダグダのリハ。

という感じだったのに、本番では、さすがだな、、と思うほどの底力を発揮し、大盛り上がりで幕を閉じました。

それも、パーティ全体がとても盛り上がる内容であったこと。
そのために入念に新郎新婦が打ち合わせを重ねて来たということ。(私も数回参加させてもらったのですが店の人もここまで打ち合わせしてるの見たことない、と言っていた)
ふたりの人徳もあるのでしょうが、出演者や参加者がみんなあたたかく参加していたこと。
などがあり、
さらに、AKBに関しても、音響や映像の件でたくさんアドバイスくれた人、演出などの件でもたくさん助言をくださり、リハーサルにも同席してくれた方などの力があってこそのことでした。

たった5分足らずの余興を、少しオーガナイズの視点から関わらせていただいただけですが、本当に学ぶことが多かった。そして楽しかった。
それは、平和プロジェクトでかつて展示をやっていたときとも少し似たような感覚でもあったかもしれない。

でも、ひとつ小さなプロジェクトではあるが、仕事を終えてほっと一息、少し自信にもなったような気がしています。



昨日は私もお酒をたくさん飲みました。
ストローでビール早飲み大会とかもあり、なぜかノリで参加してしまったし。。
でも、良い加減に酔い、レゲエを聴き、踊りまくり、笑って、ハグして、出会って、良い会でした。

GWはほぼAKBの準備と授業に追われていましたが、ひとくぎりついたので、やるべきことを一生懸命やりたいと思いました。
そういう、踏ん切りのようなものも昨日の結婚式でつけられたな、と。
結婚式とか人生でいくつかある節目のような行事は、そういう心を整え、気持ちを改めるものでもあるよな、と思いました。

がんばらな!

纏い

歳をとるにつれて
すっきりすることが少なくなるみたい
あっけらかんとした無心の状態がなんだかとても難しい

単純な気持ち、では物事はすすまないし逆にしがらみにも混乱にもなるみたい


人と人との関係も綺麗に縦糸と横糸でまじらわずにこんがらがったりしてる

泣いてもどうにもならないこと。
取り返しのつかない失敗や失態。

背負いながら隠れたり切り抜けて生きてくみたい。




煩悩を捨てて無心に生きてくことの難しさと憧れ…



今、「火の鳥」の鳳凰編、我王思い出しちゃった。
動物たちとひっそり佇む穏やかな我王…




火の鳥全巻ほしいなあ
ブッダも全巻ほしいなあ

訂正

前回のブログで誤ったことを書きました。

苦海浄土は聞き書きがベースと書いたけどそうではなく完全な「私小説」だそう。


取り急ぎ

you are not alone

『苦界浄土』(石牟礼道子)を読んでいる。
この本のことは、結構前から知っていたけれど、とても難しそうで読めないや、と手をつけてこなかった。
けれど、“こういう”事態である。
読んでみよう、と思って、先日購入した。


たまらない気持ちで読んでいる。

日常を暮らしていた人たちに突然降りかかってきた原因不明の病。
憤りをぶつける場所もなく、ただ、病と暮らす人たちのこと。
小説とはいえ、おそらく石牟礼さんが聞き書きしたことがベースになっているのだろう。(そのように聞いた覚えがある)
石牟礼さんが出会った水俣の人たちの生き様が、なんだか美しくて、たまらない気持ちになる。
恨みのない気持ち、病気になってしまって迷惑をかけて申し訳ないという気持ち、また海へ行きたいという思い、死んだらまた人間に生まれ変わりたいという思い、水俣病になった孫の行く末が不安で不憫で死ぬにもしに切れない祖父母の姿・・・。

人だけでなく、猫もその奇病に冒されて死んだ。鳥も魚を食べて飛べなくなって死んだのだという。動物たちもきっと苦しみながら死んだんだろう。
生命が喪われ・奪われる、ということはなんて、おぞましいことなのだろう。


水銀による海への汚染は、異臭を放っていたらしい。



今、原発のことを思う。

私は、リアリティをもって、原発の危険や深刻さを想像できていない。
だから、なんだか気楽なものである。
けれど、無臭・無色で放射能は、あらゆる生命を蝕んでいるのかもしれない。

ほうれん草のことやしいたけのことを考える。
植物、菌類でしかないけれど、もしも何か思うことがあるとすれば、何を思っているんだろう。





正直、原発問題で、私の出る幕はない、と思ってしまっている。
民意は圧倒的に「脱・原発」だろう。
デモで、意思を共有しあい、励まされ励ましあい、「脱・原発」の想いを表明する意味はおおいにあるだろうけれど、
けれど、いざ自分が具体的に何かを「脱・原発」のためにすすめていく術を私は知らない。
こういうときにこそ、専門家はその役割を果たしてほしい、と思う。
未知の領域ではあれ、ありうる方策を示してもらえたら、とつい願ってしまう。


ただ、私にできるのは、何を批判し咎めうるのかをきちんと判断し、要らぬ心配や過剰な反応を避けるのみかもしれない。

電気に依存する私が、東電を一概に批判はできない。
何者も批判はできない。誰かのせいにしてしまいたいけれど、ここは、圧倒的な加害者は不在なのだから(言ってみれば、私たちが「圧倒的な加害者」でしかない)どのように責任を分かち合うかを問うていかなくてはならないんだ。
節電でその責任を果たせるのかわからない。
けれどもしもそうなのだというなら、喜んで節電をしよう。

そして、誰も、孤立しないように、さみしい思いをしないように、
何かできたらいいなって思う。

さみしい誰かを抱きしめてあげられる、胆力を備えられますように。



生き延びていく、ということには、もしかしたら、罪の意識がときどき付きまとうかもしれない。
生き抜く、ということの苦しさと申し訳なさとその責任の重たさと。
生きることを引き受けた人たちに、生きることを引き受けている私に、何ができるというのか。
誰もはみだしものにされずに、つながっていけたらいいのにさ、と思う夜だよ。

割りきり下手

「あなたは経験してないのだから分からない」って言われ、理解しようという想いがはねのけられてしまうことがある。

体験は生かされてほしいと思うが、その体験に固執し続けて、未経験者にはどうせ分かりきれないとみるのなら、そもそもどうしたいのか?
体験を知るか知らないかで対話の術を失うのなら、なんて報われないんだろう。寂しいこと。


という、とても複雑な苛立ちに似た気持ちを抱え続けてる。
戸惑いながら、どうしたらと悩んだりしてさ。



この気持ちはずっと秘めておこう。
そう決めたよ。









感覚がひとつの味を知るとそれにとりつかれることってたぶんある。
悔しいけど、忘れてしまうまでしばらく時間がかかりそう。
私はそのことがとても悲しい。ちっとも嬉しくない。
悲しくて情けなくて惨め。

割りきることが苦手。
私は割りきられるのは嫌い。
誰かを割りきるのも嫌い。
私は人間なんだよ。


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