September 2010

現実逃避の独り言。

どうも帰宅すると、とたんに眠くなったり怠けてしまったり遊んでしまう。
ホントに無益な(いや、むしろ有害かも)ゲームで気分転換してしまったり(気分転換ではなくなるくらいに現実逃避してしまう)する。
しょーもな。


ということで、大学でやれることはやりきってこなくちゃ、と思って今日も居残りしてきたんだけど、やっぱり、勉強道具を持ちかえらないと不安で。
家でもやらないと間に合わないし、そんなに遅くまで大学にもいれないから。
重い思いして、帰宅するんだけど、やっぱりやれないんだな。
もうさ、本当に超自己嫌悪だよ。
これから、お風呂入って、頑張らなくちゃ。

お尻に火が点火するのが、遅すぎるんだよう。
ぶー。





ところで


この曲のサビのメロディライン、好き。
歌詞を後から読んだら、なんだろう、これ。



これも好きだな。


しかし、ほんとにね、「好き」っていう気持ちって難しいものと思う。
私、結構「好き」なもの、多い人です。
「嫌い」のほうが珍しいんです。
(でも、今は出会いに恵まれてるのかなー)
「苦手」はあるかもしれないけど、やっぱり「嫌い」はよっぽどでないとないんだよな。
「好き」は基本形態ですので。
「好き」って感情をベースにしていたほうが、楽しいんだもん。

だけど、その「好き」って気持ちを証明しろ、って言われたら難しいんだろうな、と思う。
どうやって「好き」を表現しえるんでしょう。
そもそも「好き」って言葉で気持ちをひとくくりにしてしまうという慣例がおかしいんでしょう。
たぶん、たくさんある「好き」は、みんな意味の違う「好き」なんでしょう。
何かを犠牲にしてまで遂行証明される「好き」って、自己満足なんだろうね。
だけど、時々、それを執拗に求めてしまうことがあるように思うよね。
人間の、とっても単純な感情が、かくも難しくなりうるなんてね。
「好き」は多用するが、「愛してる」はなかなか言わないねー。
そんな気持ち、どんな気持ちだろうね。
「愛してる」って言葉をイメージすると、どうしても頭に薔薇が咲いちゃうんだよね。。

だからさ、たいていの人のことを、私は「好き」なんです。
だから、正直にそういうんだけど、ときどき誤解を招くよね。
分かってるんだけど。だけど、本当「好き」って括られてる“もの”を一つに絞れっていう話がどだい無理なんだと、私は思うんです。

特に、何があったってわけじゃないけど、ちょっと思ってみただけ。
まるで、妬かれたみたいな言いようだけど、残念ながら(?)そういうことではないんですよね。
でも、ちょっとした会話がきっかけで、ふと思ってみたりしてただけ。





最近、鎌倉の海に行きたい。
ちょっと涼しくなった今の季節。
波音を聴きに行くには、いいだろうなあ。
ただ、ぼーーーーっと、しに行きたいなぁ。
海って飽きないんだよな。

山でもいいけどね。

光と風と音の中で、ただぼーっとする時間が、欲しくなってきた、というだけ。



どまんなか

何を意識するか、という迷いが、ぎゅいんぎゅいんと遠心力に乗ってグルグルしている。
極端に気持ちは揺れ動いて、その起点となる核の部分がなかなか言葉にならない。
たぶん誰も言葉にしていないから。
むしろ誰かの言葉じゃ、私の心の核に簡単には重ならないんだ。
重ねてく作業は私のお仕事。



私という人間は、類に漏れず、アンビバレントで不確かな危うい存在。
せめぎあう気持ちと気持ちがあり、その折り合いをうまくつけられない。とりあえずの中間点をうまく飲み込めない。

白黒つけることが嫌いで、グレーな部分のあることを尊重した生き方をしたい、と思って生きてきたはずなのに、実は随分白黒のどちらか?という評価に急かされて左右されていることを知る。


答えは右にも左にもなく、ただただど真ん中にある。

ぶれることのないど真ん中。
そこは、そのまままっすぐに、重力に従っていさえすればよい場所。そしてただ深く深く核の極みへと沈んでいく。








こうして、自分の傾向や嗜好を探りながら私は私のど真ん中を堀当てる作業をやれているんだろうか。
きっと、心はひとつのようでいて複数あるんだ。たくさんのテーマや問題意識から私は私のど真ん中を探す旅をしている。
心の中ってきっと、曼陀羅のような、説明のつかないような構造とカラクリに満ちているのだろう。



気持ちが心のど真ん中にあってやっと生き方が見つかる。それで、どんなふうでもきっと、生きてける。






大事な気持ちはど真ん中にあるから、ぶれないということ。前から知ってるつもりだったけど、きっと、知ってるだけだった。
私の心のど真ん中に、知り得ただけだった意識がやっと乗っかって、やっと分かれたんだろうと思う。



それで幸せで、生きた心地に溢れている。





きっと、ぐるぐるまわりながら、私はいくつものど真ん中探しの旅をしていくんだろう。


mille-feuille of the moment

肌寒ぅい朝です。
不機嫌な朝です。
だって土曜日なのに院の合宿で大学にこれから缶詰…
私的には今回の集合時間は早いのです。ちぇー
(だって要領悪くていろいろと今、焦ってんの。眠たいの、布団にダイブしたい…けどすでに覚醒してますよ)


どうてことない間柄って思ってても、意識してしまうと気がかりで気になる関係に、私はなっちゃうみたいです。

不思議なもので、交流がなくても、相手について想ったり考えたりする時間の長さや濃密さに比例して、親密な気持ちを錯覚してしまいます。


結局、気持ちの整理がつけられなくて気持ち悪いぜってなわけです。


それがなんだかいいんだか悪いんだか


結局、人間って何考えててどんなモラルを持ってて、何が大事で譲れないかなんて、そういう場面に直面するまで、自分のことであっても分からないみたい。
自分はこうだから、といっても誰もがそうであるわけでも、そうでなきゃいけないわけでもないんだ。

どんな魅惑的な話でも道理に逸れたら相応の追い討ちが待ってるだけでしょう?
だけど、私にとって大事なのは一体なんだったんだろうって考えたりしてるんだ。
聖書にはこう書いてあるし、コーランにはこうとあるって話はあったっていいけど、結局究極的には私自身で決めねばならないこと。



ほんとうなんだよ
って言葉を素直に信じきれなくて
ほんとうかな
って悩んでみたりする。

ほんとう、と、うそ、をそうは簡単には見破れないよ。

そもそも、別にどっちでも構わないし困らないかもしれないけど。


だけど
ほんとう
って思ってもいいけど、星の王子さまのキツネじゃないけど、簡単には信じられないんだ。

錯覚の親密さは信用できなくて、大切なのはきちんと時間を積み重ねて育む親密さなんだよ。って私は思うわけさ。





台風がきてるみたいだね。
吹き飛ばされないように今日も1日頑張りましょう。


にしたって朝からこんな文章書くなんて、どうかしてるわよね〜


メンテナンス。

とっても眠たい。
どうしても、生活が不規則になりがちで、疲れやすい。
これから、どんどん寒くなっていくのに、これじゃ、二度寝常習犯になってしまいそう、。

今日、大学に行ったあとにフィールドに出た。
勉強会があったのだけど、13時から始まって、解散が19時半ごろだった。
違うテーマで二つの勉強会だったのだけど、ほとんどぶっ続け。

本当はメインの勉強会が15時からで、それまでフィールドで出会った院生とディスカッションしよう、って言っていたのだけれど、今朝連絡が入ってもう一つの勉強会に参加することになった。
超、勉強になるのだけれど、きつい。
終了予定時刻は18時だったから、友人と18時以降に最初予定していたディスカッションをしようと話していたのだけれど、結局延長したので、今日のところはあきらめた。
それにしても、施設長はじめ、参加者の集中力の持続性にはとても驚かされる。
面白いんだけど、さすがに18時前後になると頭痛がしてくる。
コーヒー三杯も飲んじゃった。
すごいわぁ、、、って思う。
みなさん、とてもタフです。

いつも、会議とかに参加するととても延びる。
19時くらいから始まると、11時まわることもざらだという。
残念ながら、そこまで居れなくて、いつも途中で退席するのがいたたまれない。

みんな、とても真剣で、勉強熱心。
すごいことだって思う。


回復者の人たちを見ていると、いつも圧倒される。
みんな、とても人間的に強い人たちばかり。
強いって、腕力があるとかそういうことじゃなくて、自分の弱さを知りつくしてる強さがあるような気がする。
心のうちを見透かされているような、しっかりと見つめられてるような気がする。
すごいなぁ、っていつも思う。

決して怖くなくて、なんだかとても安心できる。
なんだか不思議だ。
一緒にいて、居心地がとても良いから。



薬物依存の研修を受けた時、当事者の人たちについて語られるイメージに、激しいギャップの印象を持った。
たぶん、混乱した状況のまっただ中の当事者に会わないうちに、しっかりと回復した人たちばかりに出会ってきたからかもしれない。
なんだか、とても複雑な気持ちだった。


今日、カナダでワーカーをしている方のお話を聴いた。
最近、自分が何を問うていくべきか、その土台となるような部分で悩んでいた。
それは現状のシステムの中でどう当事者の人たちの問題を解決していくかについて模索するべきなのか、それとも、システム自体を問うていくべきなのか、ということだったのだけれど、
カナダのシステムは日本とは大変に異なっており、
日本では、なかなか胸を張って口にすることができないような考え方が、公でしっかりと認められて当事者の治療がすすめられているとのことだった。

日本で、発想すること自体を疑問視しなくてはならない、と感じていたことが、ごく自然に自由にカナダで発想され蓄積されて実現に至っているということを知って、スッキリしたし、びっくりもした。
どんな契機があって、カナダが現状の取り組みを始めるようになったのかまだよく分からないけれど、どちらにせよ、日本においては、ヴィジョンの積み重ね自体がまだまだ不足しているし、議論をする土壌すら整っていない分野なのかもしれないな、と実感した。


そういう状況だから、余計に自分が一体どのようにこの問題について捉え考えるか、ということが大きく問われているんだな、とも思う。
いろいろと、モヤモヤと考えているんだけど、ラディカルに本質論的に考えるには、私の頭はすでにいろいろな先入観で侵されかけている。
結局、生き方を考えることであって、どのような生き方に私が価値を置くのか、ということがベースの部分で問われているような気がする。語られてきたことにのっとるばかりではなくて、志向性が問われている。
システム内でどう機能するか、システム自体を問うか、ということも大切だけれど、それよりさらに前提として考えねばならないのは、どのような希望やヴィジョンを持つか、ということなのだと最近思う。
限られた資源や制約、そしてシステムの中で、そのヴィジョンに近づくために何がなされるべきか、なされ得るのかを問うていくこと。必要に応じて代替策を練ること。
ヴィジョンを描くためには、全体像を描く必然性があって、その部分でなかなか頭が追い付かない。
時間があっても、きちんと身体や脳が機能しない。
だから、私は私をしっかりとメンテナンスする必要があるんだ。
論理的な思考を通して、しっかりと考えたい。
すごくドキドキする。


うまく考えが収斂されずもどかしい。
だけど、こんな刺激的なフィールドで、学べることが嬉しい。
今日も、決して「薬物依存」で終わらない問題だって、痛感した。
もっとしっかりと言葉で表現することができるようになりたい。


そして、もっと、バテない身体づくりをしたい。

カメレオン

約半年ぶりに友人Tちゃんに会う。
フェミニズムについて彼女の意見を聴きたくて。
楽しかった。元気そうでなにより。いろいろと聴いてもらい、癒されてまいりました。


彼女と話していて、「!」と思うこと。


最近、松崎はいい意味でもっと傲慢にならなきゃならないなって思っていた。
のですが、そう思う背景というのは自己肯定感の低さに影響していた。ようだと思ってるのです。

相手に常に合わせたくなってしまう。
相手の求める自分になりたくなる。
そうしたいから、とかそういう自分の意識でコントロールできるようなものじゃない。
相手の要望する「私」にならなければ「私」は必要ないんじゃないかって、思ってたような気がする。
恋人に私の気持ちを言ってはいけないような気がした。
権威的な存在が認めてくれる姿になりたかった。
私がなりたい自分じゃなくて、相手の要望する像に近づけるように、「こうあらなきゃ。こう振る舞わなきゃ」って必死にもがいたりして。たような気がする。
カメレオンみたいに、景色を構成する一要素になる。私を消してしまう。枠にはまる。
私のあるがままを許せなくて、自分を認めたくなくて、その不自由さに慣れきってしまった。私をそのまま受け入れろと要求できず、そんな強さも自信もなかった。


誰かに寄り添いながら生きたい。相手の気持ちをもっと理解したい。辛さ苦しみを共有してでもいいから一緒に居てもいいって言ってほしい。って極端な話、そういう感じ。
私は私、と自律的に生きることができないようでいた。
傍若無人に過ぎるのはよくないけど、私を知り私を保ちながら、誰かと共にあれるようバランスをとるのは難しいな。




なんか違和感なく納得できちゃって、怖くて、すっきり!

誤解もしてるかもしれないけど、基本的にこういう人間だと思う。




たぶん一生そんな生き方しちゃうかもしれないけど、たぶん微調整してく努力はしていけるかもしれないから、なんかちょっと嬉しい。
・・・・でもね、正直、とっても悔しくて悲しくて、たまんない気持ち。なんだよね。
一生懸命にポジティブに捉えりゃ、「まぁ、気付けてよかったじゃん」ってだけで。
23にもなって、「私」に揺らぎ、困っちゃう。情けなくて恥ずかしくて、余計に自信もてない。
ここから、なんだけどね。ここで、開き直り切らなきゃ、きっと前に進めないんだけどね。くそったれだ。

なんだかんだ、私を素直に受け入れてくのも長い時間がかかりそうだ。



ずっと、他者があってこその自分という言い訳で満足してきたけど、私は私で生きてるんだよね。他者に支えられて生きてるけど、私が選びとる生き方もある。だけど、こんな私すべてひっくるめて在る姿がまつざきよしみで。
私を探さなくとも、そうとしか生きることができない私が私。なんか混乱する。



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戯言つらつらり。

大学が始まってしまいました。
でも今日はお休みしてしまいました。
気持ちは、小学生時代の8月31日の切なさとまるきり同じです。
+α、焦り。
ひぃー、。


今日から、いろいろと慌ただしく周りが動き出し、
早速、ダブルブッキングが発覚するし(汗)、
ほったらかしにしといた文献(研究とは無関係、と思う)を読まねば、と焦りつつ手にはとりたくならないし、
授業やらミーティングやらのメールが飛び込んでくるわで、

あー。なんだかんだ言って、今まで夏休みだったんだなぁ、とマヌケな感慨に浸るのでした。



いろいろと書き表さなくちゃ、と焦りの中にいると、
いろんなことが面倒くさくなる半面、欲張りにもなる。
貪欲になるのはいいことだって言うけど、
やっぱり節制もとても大切で。
アウトプットの余裕がなくなると、混乱して混沌するばかり。
とってもよろしくないね。

今日は、科学統計の教科書広げてみたりしたんだけど、
わけわかんないのね。
理屈はようやく分かっても、数式が理解できないんだ。
森博嗣の小説のタイトルでみかけるくらいだった数学記号が、当たり前のように羅列している。
AやらPやらSやら、一体何を示してるのか分からない。
Θだとかλだとか、一体、どういう意味なの?
こんなふうな世界があっただなんて、知らなかった。
かっこつけて記号使ってるんじゃないんだもんな。必要があって用いられてるんだよな。
記号ひとつひとつが、現象や状況の簡略化のために用いられている。
簡単に示し替えたはずの情報が、私にはさっぱり理解できないのですよ。
数学ね、、数学か・・・。
ぬーん。
(傍から見たら、私が一体何をしたいのか全く分からないよね。意味はあることなんです)

誰か、数学的知識、授けてください。





私は、いつも前日の夜、翌日の支度をしておく。
小学生以来の習慣で、着て行く洋服と鞄の中身を揃えておく。

明日の鞄の中身を取りそろえるとき、いつも明日の自分に期待する。
これも読めるかな、あれも読めるかな、って、本やらノートを詰め込んで、重たくしてしまう。
いつも大体、5,6キロは背負ったり、持ったりしてる。
結局、そのほとんどが活用されずに終わってしまったりする。
明日の私が、もしかしたら頼りないかもしれないって、いつも思うけど、
それでも明日の私に期待を込めて、布団をかぶる。

今夜も例外なく、明日の私に過大な期待をかける。
リュック、本4冊はいってるど。
全部はやらなくてもいいから、がんばりなさいよーって。
こういうところがマゾヒスティックなの?それともサディスティックなの?
結局、重たい鞄持つだけ持って、本に手をかけたりしないこともザラだから、
たぶん、要領悪いおバカなんでしょう。これがね、とっても肩凝るんです!





あ、
あとね、
自助グループのミーティングに私も出させてもらってるんだけど、
そこでは本名を言わず(私は言ってるけど)アノニマスネームっていう、いわばニックネームで自分を名乗ることになってる。
ずっと、なんていう名前にしようか迷ってて、結局「よしし」にした。
お話するとき、いつも「学生のよししです」と言ってから、みんなが「よししー」って呼んでくれて話しはじめるんだけど、いつもおかしくて笑っちゃう。みんなも笑ってる。
「なに、よししって。ハシシ(大麻)?」とか言われちゃうw
本当は、高校生のときに、卓球のラケットをマイク代わりにして、あややの真似して「よししでーす」って遊んでことに由来してるんだな。
バカだねー。
そんなこんなでみんな、普通は、「よっしー」とか「まつざきぃ」とか「まきぽん」(←?。まつざきの「ま」と「き」でまきぽんなんだって。)って、呼んでくれてます。
愛称で呼んでもらえるのって、幸せです。(まつざきぃは愛称なのか?)

にしても、新学期が始まってしまったから、なかなかミーティングにも出られなくなるなぁ。さみしいな。
なんだか、フィールドに出ると楽しいんだけど、どっぷり漬かってる気持ちにはなれない。
それは、きっと、フィールドはフィールドでしかなくて、日常じゃないからなんだろうね。
私の日常とは断絶された、日常で、パラレルワールドのような、。
みんなには、私の言葉で示す「フィールド」こそが、日常で、そこから抜け出すことを目標にもがいている。
どっぷり、もっと漬かりたい、って思いながら、漬かり切れない。
片足突っ込んで、体半分怯んでる。
その、もどかしさと、やるせなさと、やりきれなさと、安堵と、安定と、、、、。
その場所から、進むのか、退くのか、留まるのか、よく分からないけど、そんな私を尊重してやらなければ。




。。。なんか、オチがないけど、だらだら書くのも終わりにしときます。
おやすみなさい。

フラストレイション。

うすうす、気づき始めてたことでしたが、いろいろと自分の頭で考えにゃならないことが錯綜している。

フェミニズムの捉え方やらなんやら。


何かに乗っ取ってそれを口にするのではなくて、私がどう引き継いで考えるのか、が必要だ。

これまであまり自分にフェミニズムの考え方を学ぶ必要性を認めてこなくて、むしろ面倒かなって避けてきてた気がする。
なんやかんやで私は環境に恵まれてたのか性差別という性差別も受けたことはなかったということもあるかもしれない。
でも、この問題意識を私はどう受け止めるのか、語られてきたことをどう語り直したいのか、考えなくちゃと思った。


それだけで、言ってみりゃ私のオリジナリティが些細ながら求められるんだなと。

メインのテーマはそれじゃないと思うし、心情的に穏やかに進めたい気持ちだけれども。
なんていうか、しわ寄せがどこかに来てるには来てるだろうが、まだ私にはそれを男/女で割り切っていいのか分からないから。


なんやかんや現実的にクリティカルに目前の事象に向き合い取り組むことの難しさを思い知る。
その俯瞰もその整理もその割りきりも。

私が私のできることをどこに見いだしうるかによっても主眼は異なってくるのだろうが。




残念ながら、とても冷静に距離おいて関心に向き合うことに苦労する。
だから数字を客観視するような訓練は今、私にやはり大切だ。

そしてまた残念ながらちっさな各種いろいろな問題の捉え方を納得できるような形でしか脇に置いておきたくない願望があるんだ。
前提を問いたくて、いや欲求じゃなくて必然性に駆られてしまうだけなのだが…、なかなか「まぁそれはいいからさ」、と現実的に話を進められない。

最近は具体的に話を聞いて、何よりもまず何らかのアクションが最優先されねばなんだなと思いつつ。




枝葉末節になりがちであり、ともすれば無意識に付和雷同である。
フェミニズムにしろなんにしろ問題の本質はどこにあるのか、そのシンプルな枠組みを把握することに一番の意味があるのかもしれない。
分からないままやったって、意味不明なまま終わってしまうから。





それにしても、もすこし夜間活動できたらいいのに。

フラストレイション。


烏賊様様?

ひきこもりたい願望をなかったことにしながら、身体を布団から引き剥がして大学へ。
後期授業で使う先生のレジュメを先週印刷室に出せなかった。来週から授業始まるのに、今週は今日しか大学行けないから、今日印刷室にお願いしなきゃ、と判断したため。
まぁ、借りたい本もあるしいいか…と向かったものの、

図書館開いてないし。
建校記念日?
知らないよ〜開けといてよ〜

もしや…

と思ったら印刷室も閉まってましたとさ。
最悪。



仕方ないから、まぁ別件済ませたり勉強したりした今日でした。大学へ自転車で行けるようなら特に不平も言わないのだが、。




昨日から昨日の会話を思い出したりして考える。

思い出したりしてみる。



何だか分からないけど、いろんなことがやっぱり繋がっていて怖かった。
春に沖縄でユタのおじさんに、「足元からこれまでの常識が崩れてしまうようなコペルニクス的変換があなたにもそのうちにやってくるよ」と予言されたことを思い出したりして。
そのことを話してもこれまで「胡散臭い」とか誰も言わずにきてくれたことがありがたかった。
昨日の友人も。
沖縄にいたとき、感覚がものすごく開きっぱなしだった、と今思う。全人的に動いている感じ。それはピースウォークのときもそうで。まるっきり私なのだけど私じゃないみたいだった。


ユタのおじさんが何を言ってるのか分からなかった。今も、どういう意味なのか分かれない。
「自覚できたら楽になるよ」、「“その時”は辛いかもしれないけど大丈夫だよ。いつでも電話しな」
という昨日の友人の言葉はまるで呪文のようで。




一体、自分がどこにいるのか分からなくなる。
こんな文脈の会話、世界のどのあたりのものだろう。私の馴染みのある日常から激しく乖離したやり取りにやや混乱する。
でも、間違ってはいない。

考えてきたこと、惹かれてきたことに、連続性があるかもしれないという希望があって、だけどその私が気にする脈絡は、一体、定められた筋を辿られなければならないものなのか?と自問自答する。

訳が分からないね。(笑)




だけどこの不可思議な言葉もそれが由来する世界観も未知は未知のまま信じたいと思っている。



鳥運、人運。

今日はなんだかこゆーい日。
こんなお方がいたのか!と思うような方と、昼下がりのニシオギを満喫してしまいました。

鳥博士で植物博士!
「野草、食べれるのと食べられないの見わけられるようになりたい」って話したら、
いろいろ教えてくださるって!!
すごいー。

他にも、いろいろとお話したけれど、圧倒されまくり。
すごく楽しかったです。


ソレイユという、素敵なお店で珈琲飲んで、絶対にこの喫茶店には常にイケメン店員さん(アンニュイなイケメン)がいる、というニシオギ七不思議について教えていただき、善福寺公園へ。

すごいね。こんなところが!


以下、そのお友達のつぃーとを勝手に転載。(ごめんなさい)

ともだちと善福寺公園ぶらぶら。今日は鳥運がやたらよかった。まずカワセミ3個体一気に見た! 巣立ちした若鳥なのかな


サギ類レギュラー陣ひととおり。コサギ、ダイサギ、アオサギ、ゴイサギ。カワウのコロニー見てともだち「ペンギン?」


カルガモ巣立ち若鳥。まだふわふわして目があどけない! バン若鳥も。


カルガモ翼鏡(カモ類風切羽の、メタリックに輝くあの部分)の羽根を拾った! 「カケスの青いとこ」と同様、レアな拾い物ですよ!


とどめに夕立。ニシオギ野生の王国、満喫したわーヽ(´∇`)ノ


あんな鳥運いいの、この6年で初だよ! 何者あんた(笑) またぬー



ほんとにすごかった!

カワセミ、初めて生で観たと思う。
コイを騙し騙し遊んでた(餌をやる真似をしておびきよせて、観察)ら、あっちのほうで、「ほら、カワセミ!魚とってる」と教えてもらい、目撃。
「カワセミ観れるの、なかなかラッキーなんだよ」
と言ってもらっていたら、そのあとに2羽登場。
若い、カワセミは、腹の部分のオレンジ色がくすんでいるんだよ、と教えてもらう。
すごい!若いんだ、あのこ!

サギにもいっぱいいろんな種類がいるんだーって、知り、
昔はここから池の水が湧いてたんだよ、という泉?でばしゃばしゃし、
カルガモの、ものすごく綺麗な毛並みの兄弟たちを観察しながら、羽のまだ小さなものは若くて、プロは、尾羽と羽のサイズで性別も年齢(?)も言い当ててしまうんだよ、ということを知る。
蚊にあちらこちら刺されながら、なかなか珍しいという羽を拾う。



IMG_3823














嬉しい!


カラスの若い子たちは、頭の毛がほわほわしていて、光にかざすと茶色いんだよ、ということも教えてもらい、猫を気にかけているような、ぽかーんとした表情のカラスたちを笑い、
いろいろなことを教えてもらい(アジサイやシャクナゲの葉には毒がある、とか)
いろんなことを話して、
素敵な古本屋を教えてもらい、
おかしな英語表現に失笑し、
G-Diaryというおかしな、奇妙な、変な雑誌を初めて見開き、
夕立の気配に焦りながら、降られて、商店街を駆け抜けてお別れした。



すごーい!

話した内容も、骨太で、でも慰められたような、背中を押してもらえたような、なんていうか、すごく幸せな気持ちになったのに、
こんなに東京のど真ん中で自然に触れ合ってしまって、不思議で楽しかった。



私、鳥運だけじゃなくて、人運にもすごく恵まれてるっていつも思う。
いつもいつも感謝してます。
今日も本当にありがとうございます。
今日のお友達だけじゃなくて、たくさんの人たちに、本当にありがとうございます、って言いたい。











ところで、すでに4,5年使ってるカメラに、セピアやモノクロで撮影できる機能がついていた、と今知りました。
・・・・・!!しょっく、。


IMG_3818





不得手自己紹介

最近、なんだか自分がきわどいことばかりを考えてるのかしら?って思ったりする。

ああ。こんなこと、ブログに書くべきじゃないようなことかなぁ、、とか思いながら、削除したくてもタイミングを失って、そのまんま。

文字通り、私を受け取らないでほしいです。


でも、言葉でもうまく、私は自分をうまく説明できないです。
自己紹介、超苦手。(そんなこと言ったら社会性ないみたいだけど、そこそこやっております。)

長い目で、見守っていてくれたら、なんだかきっと分かるものかもしれないですね。



だけど、そうは言っても、繋ぐ文字や言葉のきれはしから、私という人間像は、出来上がっていくわけで。
どう見られたって構わないよーと思うけど、
だけど、それでもやっぱり時々は怖いくなるよ。
恥ずかしくなるよね。
そんな目でみちゃヤ!みたいな。あはは。
誤解のきっかけは本人から生まれてくるものかもしれないけれど。
時には、そんなことなかったことにしてしまいたくなる、我儘っぷりを発揮するものです。




誰かが、当事者の方が言っていたけど、(「その後の不自由」にも書いてあったな)
「一人じゃ言えない」
「居場所と仲間がいたから、口にできた」
って気持ち、分からなくないような気がする。

ブログで、きわどいことを言ってのけるとき、
根拠ない過信がある。分かってくれる人がいる、っていう気持ち。
それがなかったら、とても書けないし、打ち明けられない。

書いてから恥ずかしくなるのは、そんな自分の頼りない自信が、実際どうだか?って気分にさせられるから。
ああ。ちょっと突飛すぎてるのかしら?とか。
平均や普通とのバランスを保ちたくて、基準値から手を離してぶっとんでいけない。

ひとりだって平気だもん、って思ってたり、ぶっ飛んでたいって、いくら思っても、
群れてたい、らしい、私。
それは、人間だからなのかしら。
それとも、私という人間の性格ゆえなのかしら。






わからにゃー!




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