2021年09月02日

自分年誌(8)大学後半

1957年に4年生になると、流石に卒業への道程が気になる。
圧倒的に取得単位が足らないので、授業時間に割り振って見るのだが、体が二つないと取れそうにない。
と言っても、焦る性格ではないから、相変わらず無頼に過ごしていた5月の開学記念祭に、全学新の香村委員長がやって来た。ここか色々あったことは、今まで散々書いて来た。

後半は3年間だが、1957年11月1日にヨーロッパから帰国するまでがスペシャルな自分史になる。
この時期の経過は、2019年7月の「62年前のプラハ駐在事情」に詳しく書いたし、部分的には、2006年4月の「ポーランド考」「時は流れて」、2012年7月の「国際特派員」で触れているから詳細は省くことにして、時間経過だけ機械的に述べる。

7月20日 ソ連客船ナホトカ号で横浜出港、2泊してナホトカ、更にシベリア鉄道で7日かかってモスクワ着。
7月28日 第6回世界青年学生平和友好祭・モスクワフェスティバル開幕。

8月 閉会前日に、代表団から脱走して、ルーマニアの首都
   ブカレストで国際学生フォーラムに参加、そのまま
   チェコスロバキアの首都プラハ へ。
   国際学生連盟に常駐。
9月 カルロス大学に留学申請、仮入学。
10月 モスクワ、北京、香港経由で帰国の途に。
11月1日 羽田着。

羽田から水道橋の全学新本部に直行したら、丁度、執行部の会議をしているところだった。
法政大のT委員長が病気療養で辞任するということで、東女のO副委員長が仕切っていたが、すっかり元気のない空気だった。
東大新聞の江副浩正(後のリクルート会長)の画策で、全国の学生新聞への出版社広告配分権を奪われたこともあって、全学新の求心力が衰え、組織解体論まで出ているという。
僕が委員長代行を勤め、新しい運動方針を作るとして出直すことになった。
 
58年の春の全国委員会で、学生新聞は学生運動の教育宣伝を受け持つ特別部隊であり、全学新はその司令塔になる、と左翼的な結集軸を作って、まず、日大新聞などの脱退路線に楔を打った。
その場は凌いだが、予想したように、地方大学の学生新聞が単純化して大衆的基盤を失う結果となった。
大会では、「層としての学生運動に対応して」学生新聞も、方針を学生に押し付ける存在ではなく「不断にくり返される運動の環の全過程で、学生に密着し、学生から創造性と自発性を引き出し、深め、整理して、再度、学生の中に返して行く作業」が学生新聞に求められる。」と提起した。

この方針は、誰かから「サーキュレーション理論」と名付けられて、その後の学生新聞の指針になり、更に10年以上も、新左翼各派から、右翼的理論として目の敵にされた。

委員長を教育大の安達君に引き渡して、ようやく僕は学園に戻ったが、「社会復帰」はなかなか難しかった。
活動の場はなく、学業に身も入らなかった。
結局は、また学園生活を超えることになった。
一番充実したのは、関西唯物論研究会の事務局を引き受けたことで、森信成、内田譲吉、小野義彦、山本晴義などの諸先生との勉強会は心楽しく知的欲望を満たしてくれた。

元町の喫茶店モナミには、ほぼ日参した。
モナミのママ佐久間洋子さんは、大阪経大の中村九一郎先生夫人で、しばしば、泊めてもらい、ご馳走にもなった。
1924年生まれで、戦後、夫たる元陸軍将校の元から飛び出して九一郎先生と一緒になった破天荒な人で、僕は、彼女に恋した。その辺りは、2011年11月の「墓参」に詳しい。

しかし、1959年は、ここを最終学年にしないと卒業できない惧れもあり、単位取得と卒業論文の作成という難事が重くのしかかっていた。就職のことも考える時期だ。
学生運動は警職法(警察官職務執行法)の改訂で騒然としていたが、余り深入りせず、勉強に勤しんだ。
就職試験は、フジテレビと東洋経済新報を受けたが、両方とも落っこちた。この辺りは、2012年3月の「就活」に書いた。

1960年、ようやく卒業の目処が立って、まだ行き先が決まっていない中で、九一郎先生から一吉証券の役員を紹介していただける話が来た。アポイントを待っていたある日、直原さんと杉本昭典さんが神戸大学にやって来た。
直原さんは共産党の県委員、杉本さんは尼崎市委員長である。只事ではないな、と思ったら、要するに、尼崎市委員会の常任にならないか、という談合である。

この頃、共産党は綱領を変える討議に入っていて、僕らは、党中央の綱領案には反対する立場だった。
内容的には色々あるが、主要敵をアメリカ帝国主義とし、日本の対米従属を断ち切る民族解放・.自主独立闘争を戦略の中心にする綱領案だった。社会主義への道は、民族解放統一戦線を基礎とした連合政府がその後社会主義的な政府に移行するという二段階革命であり、それが平和的移行かどうかは敵の出方による、というビジョンだった。
僕らは、主要敵は日本独占資本であり、その市場競争を通じて、日本独占はすでに対米自立路線を歩んでいる、という意見だった。社会主義への道は民主主義的な諸々の構造的改良を通じて平和的に実現できるという意見だった。

直原さん、杉本さんは、中堅幹部として、綱領案に反対する立場だった。僕には、その理論的見地で尼崎での党員指導をしろ、というミッションだった。

悩んだ末に、僕は、神戸大学卒業というエリート的な企業エスタブリッシュの道を捨てる決意をした。
3月、6年間の学生生活に別れを告げ、尼崎市委員会に出頭して非社会的な「社会人」になった。









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2021年08月30日

自分年誌(7)大学前半

独立、明石を出て、一人生活に移る。結婚まで約12年に及ぶ独身生活の始まりである。
初めての我が家は、神戸市東部の野原にポツンと立つ土蔵であった。ゴロゴロと戸を開けると中はほとんど真っ暗、大家さんから電線を伸ばしてもらった裸電気の下に机を置き、明石で餞別にもらった畳2枚を敷いて布団を置いた。
外に水道があって顔は洗えるし水も飲めるが、食事は作れない。何よりも困ったのは便所がないことで、周りの野原で用を足すしかなかった。
流石に参ってしまって、1ヶ月で逃げ出し、山森工務店神戸支店の三畳の宿泊室を借りることになった。

1954年4月、桜満開の神戸大六甲台本部で、6年間の学生生活が始まった。
通常は4年で卒業だが、僕は6年を要したから、大学前半の記は3年になる。

入学前から、新聞会入会は決めていたから、校門で神戸大学新聞を販売していた小柄な学生から新聞を買って、「新聞会に入ります。」と告げた。後で名前を知ったこの学生、馬場さんは、余程驚いたのか「え、おう、それは」と言葉を失った。
入会したところ、先輩は、この馬場さんを含め4人だった。新入生のオリジナル入会者は12人、必然的に、入会早々、全員、一軍登録となった。
活動拠点は、教養課程御影分校のグラウンドにあるカマボコ棟の一室、ワイワイガヤガヤと集まって「活動」し、暗くなると連れ立って三ノ宮に繰り出すのが常だった。

入学式の後のオリエンテーションで、航空研究会のキャプテンがグライダーの説明をして、速度を測るのはツラメーターと言ったのに感銘して、こちらにも入会した。新入会は4人、5月からは高松空港での関西学連グライダー合同合宿に参加した。泊所は寺だが、練習が終わると、同志社や関大の諸君は高松の遊郭に出掛ける。それを横目に、京大や神戸大などの国立組は、勉強一途だった。
しかし、この合宿は経済的負担が余りに大きかった。2年生の夏前には脱会することになった。

肝心の授業は、というと、クラス分けは第二外国語ドイツ語課程のクラスだったが、クラスは語学の時間だけの顔合わせで交流は薄かった。
教科では、社会学や科学史、哲学などの講義が面白かった。しかし、総じて、朝寝坊で、1時間目は出席不能の劣等生だった。
 
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この写真は、1955年4月の六甲台で駄弁っている新聞会メンバーをカメラマン井手君が撮ったものだが、これがある受験雑誌に「未来を語る学生たち」と題して掲載された。
未来を語ってなどいないが、2年生の春、新入生は入って来る、試験はまだない、気候は最高、のほほんとした僕らの写真は、確かに、受験生を羨ましがらせるに足る光景ではある。
真ん中で新聞を読んでいるのは広沢英男君、中学、高校、大学と同期で、新聞会にも航空研究会にも一緒に入った。

おそらく、この時が僕の青春真っ只中だったろう。

この後、僕にとっての激動の時代が始まる。
書けば幾らでも長くなるので、機械的に時系列を追うことにする。

5月、全学新(全日本学生新聞連盟)の世界青年学生平和友好祭・ワルシャワフェスティバルへの代表派遣計画に神戸大新聞会が応募、会長山森を代表に推薦。
6月、全学新全国大会議長を山森が務める。
  この大会で全学新副委員長に選出。
  ワルシャワフェスティバル代表に決定。
在京中は、全学新米田委員長の下宿に寄宿したので、彼が属する早大新聞のメンバーとは親しくした。当時の早大新聞編集長は、本多延嘉君で、彼の共産党離脱前後だったと思う。
この時から20年後、中核派のトップにいた彼は革マル派に惨殺された。

この時期、日本共産党に入党申請。
7月、共産党第6回全国協議会で武装闘争方針撤回を決定。
8月、日本共産党入党承認。
入党申請から承認まで時間がかかったのは、6全協前の入党などレアケースなので、身分を怪しまれたからだと後で聞かされた。

ワルシャワ行きは、60万円の派遣費集めなど夢物語で脆くも挫折。
学園生活に復帰、県内大学横断の学生懇談会の活動などに参加。
通常、2年生の2月期には、教養課程から専門課程に進級し六甲台学舎に移るのだが、単位不足で「仮進級」になった。
六甲台と御影分校の掛け持ちだった。
その上、新聞会顧問の古林学長や則武先生の知遇を戴いて、連夜、お供を仕ったのだから、忙しい2年生後半だった。

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写真は、再建反戦学生同盟のオルグに来た辛基秀さんの話を聞いている場面。御影分校のカマボコ棟前で1956年春。右は辛さん、左の後ろ姿は石井亮一君。
 
1956年は、政治の季節になった。
6月の全学連第9回大会は、その運動方針で、党派的でもなく大衆迎合的でもない、平和と民主主義を結節点とする大衆運動に学生が層として参加して行くことを基調とすることとした。
その根拠として、学生には真実を求め、正義を希求するという本質があり、学園の自治を基礎にして、集団的に行動できる組織性があるものとした。
全学新も、呼応するように、愛される学生新聞から、正義と真実を発信できる学生新聞への転換を試みた。

この頃、運動が層として成立する一方、一点を突破する個人集団の形成を唱える東大の中村光夫君主導の反戦学生同盟再建の動きがあり、神戸大にも、写真の辛さんがオルグに来た。神戸大の活動家は、僕を含め、挙って同盟員になった。しかし、この同盟はやがて反戦から社会主義に旗が変わり、党派的になったため、神戸大は全員脱退となった。

この年秋の砂川基地拡張反対闘争は、新しい学生運動の試金石になった。砂川の学生は英雄的だった。まず、現地の農民に絶対迷惑をかけない。個人プレーはせず必ず集団で動く。
警官が暴力を幾ら振るっても非暴力に徹する。
統制は見事に保たれた。
測量地に座り込んでいる学生に警官が警棒を振るい血まみれになった学生を機動隊が作ったトンネルに放り込む。
トンネルの先にまで送り出された学生は遠回りしてまた座り込みの最後尾に着く。
追い詰められた最後の塊から.期せずして「赤とんぼ」の歌が歌われると、若い警官たちが立ちすくんだのが印象的だった。
僕は、現地の全学新共同デスクのキャップで常駐していたが、途中からは取材どころではなくなり、座り込みの中にはいっていた。
警棒を振るう警官隊と血まみれの学生の写真が新聞を通じて全国に流れ、世論は圧倒的に地元農民の声と学生の行動を支持した。政府は測量を中止せざるを得なかった。

全学連書記長高野秀夫は、砂川以前に神戸大に来たこともあって面識はあったが、砂川で更に親しくなった。
勝利集会で、片目を黒く腫らした高野は誇らしかったが、この後、この闘争の総括を巡って分岐し、彼および神戸大学は、全学連の少数派になって行く。
全学連主流派は、砂川闘争を反帝国主義現地闘争の勝利と捉え、その追撃戦を主張した。
反主流派は、現地闘争の勝利は国民的支持があってのものであり、かつ、日ソ国交回復を通じて日本独占資本の市場拡大要求を実現しようとする鳩山内閣が砂川トラブルを重荷として中止したものだ、と分析した。従って、続く闘いは、反帝追撃戦ではなく、反独占の国民的結集だとした。

この反主流派の分析は、振り返って、実に正しい。
独占資本主義と帝国主義的野望は同伴者だとする旧来のレーニン主義的論理を否定し、核戦争の脅威の下で市場が東西に2分されている当時の構造においては、帝国主義的野望は、むしろ、独占資本なかんずく日本独占には重い負担、つまりコストになっている、と考えた訳で、当時の左翼の常識に大胆に挑戦するものであった。

ただ、その結果、砂川後に取り組んだのが国鉄運賃値上げ反対闘争だったのはいただけない。これは折角の反独占のスローガンを矮小化した。
戦略的成功は戦術的失敗で台無しになった。
我が大学前半の最後の時間は、こうした政治的高揚と鎮静の中に過ぎて行った。

私生活は、相変わらずの劣等生で、ゼミナールに顔を出すのも月一程度、月に10日は、東京にいた。神戸では、後に日刊スポーツの編集長になった久保田武君、リーゼントに角帽を被り、道行く女性に、片端から声を掛ける小林達夫君と連れ立って、連夜、飲み歩き、ヤクザと喧嘩した。
かなりの程度、学長以下の先生らの懐に縋り、一部分はアルバイトと奨学金で賄い、それで払えない分は、出世払いとして永久的なツケにしてもらった。

東京女子大のO.Mさんとはいい仲になった。
僕と共に全学新の副委員長で、僕のシンパだったからいつも行動を共にしていた。
ただし、お互いに結婚する気は微塵もなかった。

3年生の三学期には、そろそろ、就職の話が仲間内で多くなって来たが、僕には、ジャーナリストになりたいという夢想があるだけで、裏打ちとなるべき何程かの努力も視野になかった。






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2021年06月05日

自分年誌(6) 高校後半

1952年春、移り住んだ明石の山森家は、明石市相生町1丁目、目の前の土堤を超えると、そこは瀬戸内海に面する中浜海岸である。
二軒の家を繋いで、住居と山森工務店があったのだが、その繋ぎ目に造られたほぼ3畳の部屋が、僕の寝室兼勉強部屋になった。
勉強に飽きると、窓から抜け出して夜の海に飛び込み、クラゲを追い払いながら、のんびりと泳いだものだ。
残念ながら、高成長下の埋め立てで、この辺りは今では当時の面影なく、ただの内陸になってしまった。

4月初頭、明石高校に通い出した時の印象は実に鮮明である。
校舎のある敷地からグラウンドは一段低いのだが、幾つかの階段の間の土手には桜並木、ちょうど満開の桜の下で、何組ものペアが仲睦まじく語らっている。そこから遥か南を見下ろすと穏やかな瀬戸内海が広がり、さらにその先に、淡路島が浮かんでいる。なんというのどけさかな、と思ったものだ。

授業も、ピリピリした高津高校のそれとは異なり、教師と生徒がフレンドリーに付き合うという雰囲気があった。
2年生のクラスはクラス替えがあったばかりだから、転入生の僕にも居心地は良く、担任の吉田先生は龍谷大学を出たばかりの若い歴史の先生で、名刹鶴林寺の跡継ぎだから、僕らはボンズとあだ名を奉じた。
ベルが鳴ると同時に飛び込んで来る「消防車」田浦先生の数学の授業は歯切れ良く明快だった。僕はお宅にまで呼ばれて個人授業も受けた。
国語の慶野先生の授業は重厚だがユーモアも散りばめて楽しく、英語の小菅先生は女生徒に甘い所はあったが、授業のレベルは高かった。

ただ、余りに毎日が緩やかであったため、刺激を求めて、僕は新聞部に入ったのだが、先輩の数が少なかったからか、2年生の2学期には部長になった。
できる女生徒が太腿に答えを書いて隣の子に教えるという大胆なカンニングが発覚したことがあって事件になったのだが、僕は明高新聞に「カンニングは悪いことか?」という論説を書いた。何のための試験であるのかと学校批判になったこともあって、学校の事前検査に触れ、削除を求められた。
僕は、論説部分を白紙で発行しようとしたが、それも拒否され、別の記事で埋めるしかなかった。
この時、密かに教えた側のチョイ悪女生徒の一人、丹羽和子さんに僕は惚れていて、中浜海岸に時々泳ぎにくる彼女を待ち伏せして海の上で偶然会ったようなフリをしたこともあった。彼女は神戸女学院に進んで新聞部に入ったので、会う機会も多かったが、一度だけ映画に誘った時、真っ赤なコートを着て来た彼女とムサイ学生服の僕とは余りに不釣り合いで、お互いにすっかり引けてしまって、それきりになった。

明高新聞は、神戸大学新聞会の高校新聞コンクールに応募して3位に入ったりしたが、これは、神戸大学を選び、かつ新聞会に入った一つのきっかけにもなったように思う。
明高新聞部顧問の黒川先生は寛容な先生で、編集会議を部員の家で開いた後などには、僕らと酒宴していた。今だと大変なことだろう。

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明高は、戦前の明石中学野球部の伝統もあって、スポーツの盛んな学校だったが、頭脳のレベルも結構高く、僕の友人の多くは大学に進学した。大学進学率が僅か7%だった時代のことである。
写真は、親しかった仲間で誰かの誕生会をやった時のものである。
後列左端の井上さんは奈良女子大、真ん中の山下さんと前列右端の原口君は大阪外大、前列左から二人目の山本君は京大工学部、前列真ん中の柳原君は阪大医学部、以上の5人は卒業時の優等生として表彰された。

前列左端の石本君と僕は優等生ではなかった。
二人とも神戸大学経済学部を受けたが、当時の倍率は8倍、明高の現役からは6人が受けたが、僕ら二人以外は優等生で、石本君と僕はダメでもしょうがないなと慰め合っていた。発表前日、春休みの学校で二人で卓球をしていたら、吉田先生が「君ら二人でよかった、君らだけ通った。」と告げた。天国の一瞬だった。

なお、僕は、滑り止めの受験はしなかった。神戸大受験以外では、4級職国家公務員試験を受けた。職種は郵政職、筆記試験は難なく通ったが、面接で落とされた。支持政党はあるか、と聞かれて「社会党です」と答え、更に右派か左派かと突っ込まれて、よせばいいのに「左派です」と答えたのだから仕方あるまい。

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写真は神戸大学の受験写真である。
経済学部の受験は、英数国社が必須で各200点、理科は選択で100点、全国共通の進学適性検査が100点、合計1000点の配点だった。
どの学科にも足切りラインがあって、一科目でも足切りに掛かると落ちるという噂だった。僕は選択した物理がメチャクチャで30点も危なく、これはダメだと思った。
後から聞いたのでは、物理は難し過ぎて足切りラインが下がったために助かったということだった。
総合点を押し上げてくれたのは、進学適性検査である。
シンテキと呼ばれていたこの検査は、事前準備がほぼ不可能な試験で、文系、理系各25問を2時間半で解く問題だった。
理系でいえば、例えば、二つの立体が示されて、一方の立体を幾つ組み合わせれば他方の立体を構成するか、といった問題で、消しゴムを削って立体を作って考えている人もいたが、一問6分しかない時間が間に合う訳がない。
文系で覚えているのは、刑法の規定が示されていて、5件の事件例の中から「未必の故意」に当たるのはどの事件か、という問題である。
僕は理系3問、文系5問を間違えたが、84点を取り、兵庫県で関学高の女生徒の86点に次ぐ第2位になった。灘高や神戸高校のトップにも勝ったのは誇らしかった。
合格ラインが総合点600点程度だったからこのアドバンテージは大きかったと思う。


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2021年05月14日

自分年誌(別)アーカイブ

高校後半に入る前に気づいたことがある。
本来、誕生から幼少にかけては、父母や血筋の写真ぐらいは載せるべきだった。
中学校から高校にかけて世話になった片岡家の紹介もあって然るべきだった。
その他の遠戚にも触れてよかった。
詳しくは書かないが、せめて写真を中心に振り返っておきたい。

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手元にある、一番若かりし頃の父である。おそらく旧制中学ぐらいのものか。
養父は、父を養子にした後、実子が生まれて来て、父の処遇に困っていたのではなかろうか。
かなり、甘やかされて育ったと聞くが詳しくは知らない。

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当時の軍隊には、幹部候補生の制度があって、父はそのコースを選んだらしい。
僕が知る頃には、軍隊に入れば下級士官になるということだった。実際、戦争末期に徴兵された時にはおそらく40歳代だったと思うが、少尉だった。復員して来て知ったのだが、青森の海岸で米軍の攻撃に備えてひたすら防空壕を掘る部隊の指揮官だったそうで、戦争の影もなく、部下に身の回りの世話をさせてのうのうと過ごしていたという。

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写真は、左側が母と姉、右側が父の義妹、つまり僕が明石で居候することになった叔母とその子、姉と同年代の従姉妹である。
母は、三重県から嫁いで来て、父とともに本家から独立した「サトー屋商店」の経営に当たった。
(1)で述べた「水屋」である。

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山森家勢揃いである。中央は、父の義父母、右端に立っているのが、喜子叔母の婿養子資一叔父である。山森工務店を継ぎ、仕事を広げた人で、居候した僕には、毎晩、晩酌をしながら、機嫌よく説教をしてくれた。
その左は、喜子叔母の後に生まれた淳三郎叔父、山森工務店の専務になった。僕は「小さいおじさん」と呼んでいて、僕が長じても酒食を馳走してくれたり、就職の心配をしてくれたり、よく可愛がってくれたが、早逝した。
その左の父は、この頃、どんな立場だったのだろうか?
左端に座っている母と共にいるのは、姉淑子と兄啓助で、僕はまだいない。

母方西村家の祖父は、僕が生まれた頃、すでに亡くなっていて知らない。
三重県で絹織工場を経営していたと聞く。
母は末っ子で、長姉は「しげ伯母」、ずっと独身を通し、大阪で「西村屋旅館」を経営して、妹たちを養っていたが、50歳を過ぎて、昔からしげさんを恋い焦がれていた呉服商の谷田屋さんの思いに応えて後妻に入った。
谷田家には、ノブちゃん、ヒロちゃん、フミちゃんという僕の従姉妹になった子たちがいて、僕ら兄弟とも大人になるまで親しくした。
ノブちゃんは、神戸で医者をしていて、よく泊めてもらっていたが、早逝した。
ヒロちゃんは、大変なワルで、僕の家に泥棒に入ったことも前に書いたが、まともになってからは、明るく気前の良い兄貴分で、よく可愛がってもらった。名神高速道路をぶっ飛ばしていて、壮烈に事故死した。
フミちゃんは、僕より3歳くらい若い女の子で、可愛かった。思春期に入っては、かなり意識して遠ざかっていたが、所帯を持ってからは、いい付き合いをした。

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写真の右はしげ伯母、左がフミちゃんである。
二人に血の繋がりはないが、伯母がなくなるまで本当にいい親子関係だった。
フミちゃんからは、数年前、突然に電話がかかって来て、近況が聞けた。一度、会いましょうと約束したのだが、その後、何度か連絡を取ろうとしたのが繋がらなくなった。
縁者を通じて消息を尋ねたところ、ご主人を亡くされた後、引越しをされ、かつ認知症に罹っているということであった。

母の次姉は片岡キヌ、103歳まで生きられた。
片岡家の従姉妹は4男1女、特に従兄弟の4人は、我々兄弟と小さい頃から縁が深かった。
小さい頃は、ウチが海の側で、片岡家は、伯父が神戸税関に勤めていて、その官舎が北野の山手にあったが、よく行き来した。
戦争中は、片岡家が焼け出されて、川西のウチに同居した。
中学後半から高校前半にかけて、僕は片岡家に居候した。
従兄弟の中でも、僕と1歳違いの末弟守ちゃんとは、御神酒徳利のようにいつも一緒に遊んでいた。
一度も喧嘩した覚えがない。

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守ちゃんは、背丈が180センチ以上あるのだが、とにかく穏やかな人で、僕とに限らず、人と争うということがない。僕が、近所のヤンチャと決闘まがいの喧嘩をする時は、介添人として立ち会ってくれる。
喧嘩の相手は、介添人が大男だから、喧嘩が抜き差しならなくなった時の助太刀を恐れ、大概は、最初の口上合戦で矛を収め、仲直りをするのが常だった。
大学は、大阪市大、残念ながら数年前に亡くなった。






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2021年05月13日

自分年誌(5)高校前半

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1951年4月  大阪府立高津高校に入学、写真は、その入学申請用のものである。
当時の校区は狭く、高津高校は、旧制府立第11中学と旧制清水谷高女を前身とする校区ナンバーワン校だった。校是は旧制時代から「自立・創造」、校風はまさにその通りであった。
社会科の1時間目は、GーWーG’ と黒板に書かれ、資本の一般的定式から剰余価値がどのように生じるか、というマルクスの資本論の基礎講義から始まった。
英語の授業は、初めから日本語抜きの英語で行われ、さっぱり分からない。
中学時代に少しはあった自信が、脆くも崩れた。国語と社会はなんとかトップクラス、数学もクラスで5番以内ぐらいに付けたが、英語や理科ははボロボロだった。

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どうしても敵わない秀才が二人いた。A君とS君、上のクラス写真では、前から4列目の左から4人目と7人目だ。人格的にも、謙虚でおおらかな二人だったので、気持ちよく付き合えた。後で述べるように、高津高校生活は、1年だけで終わるのだが、後に東大に進んだA君とは、学生運動の中で再会した。運動の路線が東大と神戸大とは違っていたが、それは抜きにして、懐かしく語り合った。

1年生で、僕らは、最初の政治の嵐を受けた。イールズ教授の来日に始まるアメリカ占領軍によるレッドパージは、高津高校にも及んだ。社会科の山森二郎先生と漢文の熊沢蕃山先生が罷免されるというので大騒動になった。
生徒会は生徒会総会を開いて、執行部からストライキ提案が出され、生徒から圧倒的な支持を得た。
ストライキ決議は文句なく決まりそうだったが、講堂にやって来た校長先生から話があるというのでそれを聞くことでも一致した。
校長先生は、「自立・創造」の校是に基づき学園の自由を守るため、校長の職を賭けて両先生を守る、ストライキだけはやめてくれ、と切々と訴えられた。
元々、生徒会と学校とは信頼関係があったから、ストライキ決議は行い、かつ、その実行は保留することを決した。
どういう経過があったかは知らないが、両先生は無事に学校に残った。生徒会執行部の多くは、東大に進学し、後に東大学生運動の中にも、その名前を見ることが多かった。

僕は、中学生の終わり頃から、母方の親類である片岡家に居候していたのだが、高校生になった頃のある日、家を出ていた父が訪ねて来た。ほとんど何を話したか覚えていないが、僕の学生服姿を心から喜んでくれていた顔は今も浮かぶ。それが最後となった。
それからどれだけ経ったか、母が父の遺骨を持って訪ねて来た。「こんな姿になって」と母は泣いた。

3学期になったある日、母は、僕に学校を辞めるしかない、と告げに来た。もう生活費と学費をし送る余裕がなくなった、と言われ、僕は観念した。しかし、その僕を、余程哀れと思ったのか、母は、父の妹に当たる明石の叔母に、僕を預かってくれるように頼み込みに行っていた。
父は、子がいなかった山森家に養子として迎えられ、皮肉にもその後に生まれたのが、この叔母である。
結果として、父は山森本家を継がず、母を娶って独立した形になっていた。叔母には婿養子が来てその婿養子が山森本家を継いでいた。僕は、その家の居候になり、高校も転校することになったのである。

母は、明石に僕を送った別れ際、「明石の家には、貴方の面倒を見てもらえる経緯もある。何も卑屈になることはない」という趣旨のことを、僕に言った。




       

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2021年04月30日

自分年誌(4) 中学校後半

右足ギブスの生活は、おそらく2か月近くだったのではないだろうか? 汗でギブスの中の脚が痒くてならなかった記憶がある。
ギブスが取れても暫くは巣篭もりで、その後の松葉杖生活も長かった。家の中で悶々と暮らすのは、思春期に差し掛かった僕には辛い日々だった。
白井喬二の「富士に立つ影」を読みながら、敵役に主人公の恋人が手籠にされる描写に興奮して、自慰に耽ったりしていた。西遊記にもきわどいシーンがあって身悶えたりしていた。
この生活は夏まで続いた。夏の高校野球のラジオをこの状態で聞いていた記憶があるからである。

大家の戸倉さんのご子息が大阪大学の助教授をされていたのだが、川西の家に住われるようになり、追いかけるように、奥さんとお子さんたちが住まれることになった。阪大の先生だけの時は、2階を明け渡して食事のお世話などしていたのだが、御一家が来られてからは、我が家が2階に追いやられた。

どういうツテがあったのか、母は、大阪の生魂神社の参道にあるお寺の塀が戦災で壊れたままになっていたところを借り受けてきた。塀代わりに、その場に小さい家を建てて、川西の家から引っ越したのは、その年、1949年の秋だったと思う。
場所が参道だったので、家の土間を広くして、といっても家そのものが小さいのだから狭いものだが、そこに駄菓子屋を開いた。母と一緒に問屋にお菓子などの仕入れに行ったり店番をしたり、結構、働いていて、気が晴れ晴れした時期でもある。
店があったお寺に有名な縁切り地蔵があって、そこに、今、朝ドラの「おちょやん」のモデル、浪花千栄子がお参りに来ていた。僕の店番中にも彼女に線香を売った覚えがある。
時期的には、亭主の渋谷天外が不倫をして外に子ができた時期と一致する。離婚直前の苦悩のときだったのではないか。

店に菓子や玩具を買いに来る子供らとも仲良くなって、不自由な右足を子供の三輪車のサドルに乗せて、左足で漕ぐという移動法を発見し、結構早く走り、行動範囲も広くなっていた。

年を越して、ほぼ正常に歩けるようになり、1950年4月、大阪市立高津中学校に入り、ようやく3年生になった。
クラスは3年2組、担任は上谷信隆先生である。
先生とクラスメイトとは生涯の交わりとなった。
親友となった広沢君とは、高校、大学と同じで、大学では、新聞会、航空研究会とサークルも共にした。
住友銀行に入ったが、50歳台で早逝した。
佐野君は、佐野目と呼ばれる大きい目の子で、スケベェなヤンチャだったが、早く陶器を扱かう商売の道に入って成功を収めた。後年、接点があって交友を深めたが5年前に急逝した。


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写真は、卒業前に撮った記念写真だが、一番前にいるのが広沢君、右端が佐野君である。
僕を除いて、この写真の全員が今はいない。

溝端君も親友で、音楽に通じて、ギターを聴かせてくれたり、学校でもハーモニカをソロで演奏したりする腕だった。高校、大学と同じだったが、やはり50歳台で早逝した。
村野君は、チビと呼ばれて、上谷先生に一番叱られたイチビリ屋だったが、ずっと音信不通だったのが、数年前からクラス会に石川と名を変えて来るようになった。
なんと眼科医になっていて、御殿場の医師会長もやる大物になっていた。
ただ、皆からは、チビに自分の眼を診てもらう気にはならないと、からかわれているが。

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これも当時の記念写真だか、左端が溝端君、前が村野君である。

女子生徒では、同じ3年生転入だった浅川杢美ちゃんとフレンドになった。彼女は声にひびが入っているように割れる特徴があって、ガチャ子とあだ名されたが、皆から愛されていた。
朝鮮半島帰りの家庭で経済的にも恵まれていた。
一度、僕一人、押しかけたのか招かれたかは忘れたが、自宅に行ったことがあり、余りの豪邸に驚いた。アルバムを見せてくれたりお菓子をご馳走になったりした楽しい陽だまりの縁側だった。
天橋立への修学旅行では、ずっと隣り合わせになった。旅館を抜け出して夜の海岸を散歩したりした。
淡い恋だったが、高校が別々になって疎遠になった。

上谷先生は、ライオンと呼ばれて生徒から畏敬されていたが、実に程よく生徒と付き合う、それでいて決して妥協しない素晴らしい教育者だった。
クラスは60人近くいたが、何十年経った教え子と会っても、即座にそのフルネームを言える先生だった。
クラスの同窓会「悠久会」は、先生を交えて、ずっと毎年開かれて来たが、3年前に上谷先生が亡くなられ、寂しくなった。

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写真は、悠久会の1986年、卒業35年の集まりである。主題が夕陽丘中学校とあるのは、僕らが卒業した後名前が変わって今日まで来ているからである。
後列右から6番目には広沢君、7番目に溝端君、左端に佐野君がいる。佐野君の右にいる女性が杢美ちゃんである。
写真の中の男性は、先生を含めて12人であるが、内7人が今は故人である。

僕は、この時期、学校生活は充実していたが、家庭的には、終盤、父母の離婚、一家離散があって、親類の片岡家に居候の身になった。親と暮らした日々は、この時期までである。
つまり、親元から離れて70年生きて来たことになる。

父母の離婚がいつどのように進んだのか、僕は全く知らない。その前の状況の一部は、2011年8月の「母の恋」に書いたが、別れる相談が事前にあった訳もなく、こうしたという知らせもなかった。僕は後で知ったが、それほどの感慨もなく、出て行った父は大丈夫かな、と生活能力のない父の行く末を案じた程度であった。

1951年、高津中学を卒業、卒業時点での学業成績は、クラスで1、2番、学年で5番以内だったと思う。
かくて、大阪府立高津高校に進学した。

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2021年04月29日

自分年誌(3) 中学校前半

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最後の国民学校卒業生が戦後教育制度下の最初の新制中学校入学生に僕らがなったのは、昭和22年の春であった。
大阪府池田市立池田中学校は、それまでの国民学校高等科の学舎で、クラスは、確か、11くらいあっただろうか。

授業を中心にしたクラス生活について、ほとんど、記憶がない。新制度は混乱状態で、英語の授業など、ほとんど英語は知らないような先生が、ジスイズアペン、と教えていた。
上の写真は、見て分かるように、いかにも栄養不足だと分かる子供たちが不機嫌に写っているが、クラス写真である。
今見ても、先生の名もクラスメイトの名も、全然、分からない。
国民学校の写真のクラスメイトの名は殆ど覚えているのに、である。
要するに、充実からは程遠い中学校生活だった。

ただ、グラウンドでの野球ばかりを覚えている。
僕は2番レフトが定位置だったが、割に盗塁が上手かった。レフトの守備ではファインプレーも覚えているが、ある試合の最終回に、二死満塁のレフトフライをエラーして逆転サヨナラ負けした風景が今でも目に浮かぶ。

この頃は、家の近所で遊び回っていた印象があり、近くの猪名川で泳いだり、ラムネやべったんを毎日のように賭け遊びし、空気銃で雀を撃ったりとヤンチャをしていた。
時々は、ローラースケートで産業道路を走って、宝塚に遊びに行った。学校の鞄を隠すところがあり、遊園地に潜り込むフェンスの破れ穴もあって、中に入り込んで遊んでいた。

2年生の夏には、朝日新聞の記者
から貰った甲子園の通し券で、毎日、高校野球を観に通った。福島投手が投げ抜いた福岡の小倉高校が優勝した年である。

その2年生の終わりの春休み、僕は、神社の大欅から落ちて大腿部骨折の大怪我を負った。
詳しくは2011年10月の「骨折」に詳しい。
この骨折をもって池田中学校時代は終わった。
そこから一年の中学浪人と大阪市立高津中学校の一年が、僕の中学校生活後半である。



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2021年03月15日

自分年誌(2)国民学校(修正版)

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(写真上は、入学前の記念写真 写真下は6年2組の一部、左下が池長先生、その右上が僕、その並びの右端が僕憧れの森田照子)


僕の国民学校時代は、2006年5月の「子供の頃があった」(上)(下)、2010年12月の「12月8日」、2011年1月の「父」「母」、2011年4月の「三田谷治療学院」、「弱い者同志」、同年9月の「新聞記者」、2012年1月の「母の教育」、2013年1月の「体罰」、2014年8月の「あの8月」、2017年7月の「戦争と少年」、2017年12月の「僕が僕を形成する時」、その他に何度も書いているから、これからの記事は当然に重複する。

1941年4月 大阪市立北野国民学校入学
      
それは、当時の大阪市天満区にあった。しかし、ほとんど記憶がない。先生の顔はかすかに覚えているが、名前は定かではない。ただ、授業は全く易しかったような気がする。1学期の途中で転校したと思う。
この年から敗戦から2年の1947年3月まで6年間「国民学校」が存在した。だから僕は国民学校にしか行ったことのない唯一つの年代である。
      
   ?月 尼崎市立立花第2国民学校に転校
      
大阪から尼崎の立花に引っ越した。それまでは借家とはいえ一軒家だったが、当時の「文化住宅」に移った。文化住宅というのは、長屋風の連棟であるが、1戸毎に小さい門があり、玄関前には小さい庭もある2階建て、今のテラスハウスに近い。
学校までは、歩いて1時間くらいかかったと思う。
この学校に1年生の大半と2年生の1学期を過ごした。「子供の頃があった」(上)にこの時のことは書いた。
毎日の授業の始まりに「宮本武蔵」を物語ってくれた田中絹子先生は忘れられない。

   12月 

8日、「本日未明、わが帝国陸海軍は、南太平洋上において、米英両国と戦闘状態に入れり。」の放送が流れた。暗黒と悲劇の幕が開いた。

1942年4月 

18日、B25爆撃機15機が、開戦後初めての日本本土爆撃を行った。
この時の家屋全半焼は290戸だったそうだが、その1戸は、神戸市東出町の僕の生家だったというから、あのまま住んでいたら生きていられたか。

1942年9月 

三田谷治療学院に転校。「三田谷治療学院」と「弱い者同志」に詳しく書いた。
ここでの2年間は、戦争の影から遠く離れて過ごすことができた一点で、日本中の子供の中で一番幸福な学校生活だったのではないかと思う。
振り返れば、何が幸いするか知れない。ただただ、身体虚弱児だったお陰である。

1944年9月 大阪府池田市立呉服国民学校に転校
      
この年の6月、政府は米軍による空襲の激化に備えて、子供を大都市から地方に待避させる「学童疎開」の措置をとった。多くは集団疎開といってクラスごと地方の学校に合流させたが、縁故疎開といって親類などの縁故を頼った個人疎開もあった。
芦屋の山手にある学院にいる僕は問題がないが、我が家の住居自体が、工場地帯に近い尼崎は危なと、そこからの脱出を図り、兵庫県川西町に移転した。
その家は、大阪の伯母が女将をしていた旅館の常連客で、日東紡績の専務だった戸倉さんという方の持ち家だった。戸倉さんは丹波の柏原という所にお住まいで、会社に上阪される時には泊まって頂くことと引き換えに貸していただいた。
ちょうど僕も学院生活の中で虚弱度が薄れていたらしく、退院して転校することになった。
川西町にも、当然に学校はあったが、母は、どういうつもりか、川を挟んで隣町の池田市の学校に僕を越境させた。

ここでの生活の始めの方は、「体罰」に、終わりの方は、「子供の頃があった」(下)や「あの8月」に書いた。

そこに書いた以外の鮮やかな思い出がある。
今や面影のカケラもないが、僕は、綺麗なボーイソプラノだった。
松平先生という若くてイケメンの音楽の先生に、皆の前でよくソロで歌わされた。
「輝く夜空に・・」と始まる「星の世界」を壇上から歌った時には、自分でも感情が入り、聴衆が聴き入っている雰囲気に自己陶酔してしまった。
ある日、それは全校遠足だったのだが、出発前に、クラスの森田照子さんと藤代さんという2人の女生徒が、体調不良で参加せず、学校に残って自習することを知った。僕は、森田さんに恋い焦がれていたから、咄嗟に、仮病を使って、彼女らと共に学校に居残った。
3人で学校を独り占めし、校庭で遊んだり、教室でトランプをしたり、遠足用の弁当を食べたり、と、目一杯、楽しんだ。
講堂に行ってピアノを触っていると、音を聞きつけたのか、居残り当番をされていたらしい松平先生が入って来た。
そこからは、生徒3人の松平音楽教室、先生のピアノでハモった「花」は、実に心楽しいものであった。

戦争末期から戦後初期にかけてのこの2年半は、僕の一生の中でも、最も凝縮された時間だった。
この期間に、僕の人格形成の核になったのは、旺盛な読書欲だったと思う。
吉川英治の宮本武蔵から白井喬二の「富士に立つ影」.、三国志、西遊記、更に父の日本文学全集を読み漁った。
坂口安吾の「堕落論」や「白痴」を本屋で立ち読みする早成な子供だった。
しかし、幼少時の引き籠り読書ではなく、外でも活発に遊ぶ子供になっていた。
一貫してクラスで前から3番目位のチビだったが、跳馬は身長に近い7段も飛ぶことができたし、登り棒もクラスのトップクラスの速さを競った。ただ水泳はからっきしだった。
一方、敗戦から数年の世相は、戦争の焼け跡にできた闇市場を中心に動いているように、少年は感じていた。
闇市場には、金さえ出せば何でもあったが、子供の手に届くのは、芋飴とアイスキャンディだった。
そんなのを欲しさに、僕は、父の文学全集のケースから本だけ抜き取って古本屋に売りに通う悪童であった。
稼ぎのもう一つの柱はビー玉、僕は強かったから、結構、小さい子らからぶんどってそれをまたその子らに売り付けた。

1947年3月 

呉服国民学校卒業、僕は、卒業生総代として、全員の卒業証書を受け取った。
一人で参観に来た母は、「その小さい体で・・」と、証書の束の重さを心配してくれた。
      
      
      
      
          


      
      


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2021年03月04日

自分年誌(1) 大戦前夜

遺言がわりに、自分年誌を書こうと思う。
何回か書いたが、僕の人生は、三つのクォーターとその後のアディショナルタイムに分かれる。
アディショナル がべらぼうに長くなったのは誤算だが。
今回は、第一クォーターの冒頭である。ほぼ、太平洋戦争が始まるまでかな?

1935年 2月11日に神戸市湊区東出町に、八三郎、タメの
    第三子として生まれた。この日が、奇しくも東京
    築地市場の開場日だったことは、2018年10月に、
    「築地市場」に書いた。
    その頃は、1935年などとは言わず、神武天皇即位
    から数えて皇紀2595年で、誕生日は、その即位の
    日「紀元節」だった。
    東出町は神戸港に面し、家業は「水屋」だっ
    た。水屋というのは、明治期、コーベウォーター
    と呼ばれて外国船の垂涎の的であった布引の水を
    外国船に売り込む商売があって、その権利は1907
    年に組合が神戸市に売り渡したのだが、水以外の
    食料や日常品を売り込む商売として「水屋」の名
    は引き継がれていた。
    東出町の隣町は西出町で、そこには、沖仲仕の人
    材派遣業者である「山口組」があった。

1935年から1938年までは、ここに住んでいたように思われる。姉叔子は1924年生まれ、兄啓助は1928年生まれだったから、歳が離れていて、遊んでもらった記憶はない。
一番幼かった記憶は、母の背中におぶ紐で括り付けられて、蒸気船が沖に向かっている。
目の前に大きい黒い船があって、高い波のせいだろう、
母の背中越しにその船が物凄く上がり下がりしていた恐怖の風景である。
華奢な母が背負って商売していたのだから、せいぜい2歳かそこらだったのではなかろうか。幼児にとっての非日常的風景として心に刻み込まれているのだろう。
父は遊び人だったとかで、店で働いていた姿を覚えていない。ほとんどマージャン屋に入り浸っていたらしい。
この時期は、日中戦争真っ只中で、ノラクロやタンクタンクローなどの戦争漫画を渡辺さんという若い番頭さんが読んでくれるのが楽しみな毎日だった。
後に母の笑い話で、出入りしていた船乗りからたっぷり貰ったチョコレートなどを両手に抱えた僕が、何処かに置けばいいものを、持ったままで、「こんなようけ持ってたら食べられへん」と泣きべそをかいていた、そうだ。

1936年に2.26事件があり、37年には日中戦争がはじまる。
日本は世界中から非難を浴び、翌年、国際連盟から脱退して世界の孤児になって行き、今の北朝鮮に似た異様な国家として見られるようになった時代である。
ただ、幼い僕らにはそんなことは分かりようもない。
38年の終わりまでには、我が家は神戸を離れ大阪天満町に引っ越している。商売が立ちいかなくなったのだろうが、なぜ、38年中かというと、大横綱双葉山が69連勝の後、安芸海に負けたのが39年の1月場所で、それを大阪の街の風呂帰りの号外で知って、大泣きしたことを覚えているからである。

1940年 5歳、皇紀2600年の大祭が華々しく開かれた。
    戦火を他所に、人々はちょうちん行列に浮かれ、
    僕らは、天満の天神さんの境内に集まった屋台が
    嬉しく、買った癇癪玉を爆発させて興奮してい
    た。
    しかし、そんな外遊びは、僕の場合、殆ど例外
    で、普段は、家に籠って、本ばかり読んでいた。
    近所に、母の長姉である伯母が、「西村屋」と
    いう旅館を経営していて、おそらく子供連れのお
    客のためか漫画や講談本の棚があった。
    入り浸っては、漫画を見ていたが、いつの頃から
    かカタカナやひらがなを早く覚えて、講談本も読
    むようになっていた。
    講談本の漢字にはルビが打ってあったからカナさ
    え知っていれば読めたのだ。「真田十勇士」や
    「後藤又兵衛」、「岩見重太郎」、「塙団右衛門」
    など、貪るように読んだ。その内に、漢字も
    どんどん覚えるようになったら、読書スピードが
    格段に上がるようになった。
    
    反比例するように、外に出ない僕は青白くなり、
    加えて、甘いものしか食べない極端な偏食だっ
    たから、完全に身体虚弱児になった。
    心配した母に、四つ橋というところにある児童相
    談所に連れて行かれた。
    医者の診断を受けたり、テストを受けたりした。
    テストは、今でいうIQだと思うが、8歳相当だとい
    われたらしい。IQにすると150位になるのか。
    今でも覚えている問題で、丸いグラウンドが書いて
    あって、入り口の門に当たる所だけ空いている図で
    この中にボールがどこにあるか分からなくなったが
    どうやって探すかを答えるのだつた。
    どんな答えが優っているのか今でも知らないが
    その時の僕は、トンチ本ばかり見ているからか、
    入り口の空いている所にだけ線を引いた。
    これで欠けていた丸が繋がってボールの形ができた
    から見つかったことになると言って、大笑いされた
    のをはっきり覚えている。
    相談所の結論は、読書や習字などを何とかしてやめ
    させて、とにかく外に放り出しなさい、だったと
    いう。

1941年 6歳、大人の世界では、日本陸軍の中国からの撤
    退を求めるアメリカとの日米交渉が始まるが、
    当然のこととして難航している。
    大戦前夜である。
    4月、僕は、いよいよ国民学校一年生になる。
    この年から、小学校が国民学校と名前が変わった。
    天皇陛下のために戦う小国民の学校である。
    大阪市立北野国民学校入学。
    2018年2月の「キサブロウ」に書いたように、
    それまで幼名の基三郎と呼ばれていたのが、
    この日から、物心ついて初めて本名で呼ばれる。
    山森大七郎の誕生である。
    
    写真は、上が2〜3歳かな?下は4〜5歳頃、右端は伯母、その他は我が家族。
   
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2021年01月15日

カナリヤ

もう10年も棲みついた大州の街は、前々回で言ったように、ずっとコロナ無感染地帯だった。
それが、この8日に首都圏からの帰省者を囲む複数家族の年末集まりを起点にしたクラスターが現れ、さらにそこから波及した飲食店クラスターも出て来て、6日間で、あっという間に31人の感染となった。
僅か4万人の街だから、31人は衝撃的だ。県内では県都松山に次ぐ感染者数で、東京の人口1,300万人に引き直したら1万人が一度に感染したに等しい。

それまで緩んでいた街のムードは一変して、元々過疎の街から、更に人の気配が少なくなった。
一人で恐る恐る馴染みの居酒屋を覗いたら、やはり誰もいなくて、安心空間で一杯楽しめた。しかし店にとっては深刻な事態である。

TVなんかでは、時短営業だ、休業要請だ、で飲食店が困っているという東京ニュースが流れるが、ここでは、全く逆だ。
あっという間に客が来なくなったから店を閉めたいと思っても、休むとコロナで閉めたと言われそうで閉める訳にいかないという。狭い街だから噂が一番怖いのだ。
誰憚りなく閉められるように、1日も早く、休業要請でも何でも決めて欲しい、というのが、店の切実な願いなのだ。
緊急事態宣言なんて全国に出すべきだ。この小さい街には今が緊急事態なのだ。

僕なんか、この歳にあっては、籠の中のカナリヤの如きもので、罹ればコロリと行くだろうから、さしずめ、コロナの波が身近に来たかどうかのテスターといったところか。
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