2024年03月23日

2月、5人のゴルフ仲間とニュージーランドに行ったのだが、その前日、ひどい血尿が出た。
泌尿器科に行くと、膀胱癌だと診断された。
ドクターから明日にも総合病院に行け、と言われ、明日からニュージーランドなので帰ってから、と言ったら、今、海外に行くなどとんでもない、向こうで出血が止まらなくなったら大変なことになる、と言われ、翌日の病院行きの紹介状を渡されてしまった。

さて、僕1人なら行かなくてもいいが、ツアーの全て、ホテルからゴルフ場の手配、チャーター便やタクシーの予約など、僕の手配だから、行かないとなると一行は立ち往生になる。
意を決して、翌日の早朝、病院へ行き、事情を説明し、ダメなら、こちらのお世話にはなりません、と訴えて、ようやく帰国後の予約に変更してくれた。
成田に駆けつけ、メンバーには何も言わず、旅立ち、ニュージーランドを共に楽しんだ。

帰国翌日から二日間、精密検査を受けた。
結果、膀胱の上皮に2cm大と1cm大の二つの腫瘍があり、大きい方は根が深く悪性度が強いかもしれないと判定された。

僕は、元来、癌には罹らないという漠然とした予感があった。周りには、自分の存在自体、世の中に寄生する癌みたいなものだから癌には罹らないと広言していた。
癌保険にも入らず、癌リスクの高い日常生活を長年送って来た。
その僕が癌だと聞かされたのだからパニックになっても当然だが、意外に冷静に受け止めることができた。
内視鏡で、これが癌です、と言われた時に、おう、こいつか、と思ったが、何故か病巣だという意識がなく、体のそこらにできた単なる腫れ物に思われた。

考えて見れば、もう32,000日以上も生きて来たのだから、僕の内蔵たちは相当に疲れている筈だ。32億回以上も脈を打って来た心臓はその最たるものだが、膀胱だって、25万回ものオシッコを扱って来たのだから、もう反乱を起こしても不思議はない。

癌は、ウィルスや細菌などの外から侵入して来た病原による故障とは根本的に異なり、自分の体の細胞が変異したものだから、自分の分身でもある。だから妙に親近感があるのかもしれない。
武士が、敵に殺されそうになったり、瀕死の重傷を負った時に、直近の部下に介錯を命じるように、近しい者に命を奪われても本望だという人間の死生観があるのかもしれない。

手術を受けるまでの1ヶ月、こいつと共生して来て、あたかも赤子をあやすように、僕は接して来た。静かに、してろよ、暴れると取っちゃうよ、と話しかけたりして来た。
この19日、尿道からカテーテルを入れて腫瘍を切除する手術を受けた。
麻酔のお陰で、痛くも痒くもなく手術は終わった。
ドクターから小瓶に入った褐色の粒子を見せられ、これですよ、と言われた時、自分の体から離れて死んだこの物体はもはや自分の一部だったとは見えなかった。

今日、生まれて初めての入院生活を終わる。
後は、切除した組織の生検による悪性度の審判を坐して待つばかり、である。



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2023年06月02日

社会的社会人(2) 全農林〜日本労働者スポーツ協会

全農林時代は、新宿で連夜の酒宴か相模原にあった中闘寮でマージャンの日々だったが、江田書記長に重用されて、報告書や方針案執筆にも精を出していた。
ただ、上司に奢ってもらっていても、入りと出るのバランスが全く取れず、ピーピーしていた。
書記会の委員長だった成瀬君と書記長の僕は、江田書記長と賃金引き上げの交渉を担っていた。
江田さんは、給料が低いことは認めつつも、予算枠から人減らしと引き換えでしかベースは上げられない、の一点張りだった。
その頃、社会の民主主義的な構造改革を経て社会主義へ、というイタリア共産党のグラムシ路線に、僕は傾倒していた。
グラムシは、レーニン主義的な前衛の機動戦から脱し、市民社会に根ざした陣地をあらゆる分野に築いて多数派を形成して行く陣地戦を主唱していた。
時あたかも東京オリンピック前夜、スポーツ界は、オリンピック開催の主導権をめぐって、政治的に党派的な守旧派とスポーツマンファースト的な田畑政派が反目していた。
僕は、このスポーツ界に陣地を作ろうと思った。調べて見ると、イタリア共産党のトリアッチ書記長はイタリアオリンピック委員会に参加しているではないか。母体はイタリア人民スポーツ同盟、これだ、この日本版を作ろう、そう決意した。28歳の終わり頃だった。
成瀬君は、丁度、総評の東京組織である東京地評からハンティングされていた。僕らは、江田さんに、人員整理といっても首切るわけにはいかないでしょう、退職条件を良くして退職を募ったら、とけしかけた。退職金は時限的に1.5倍になった。
僕と成瀬君は、その条件に乗って退職した。
僕は、この後、日本労働者スポーツ協会の事務局次長に就任した。田畑さんを慕っていたスポーツマンの皆さんのご協力の賜物だった。
ここから後は、2013年 7月の「労スポ」に譲る。

ただ、そこには書かなかったが、この仕事が縁で、本間久美子と1966年に結婚したのでもある。


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2023年01月27日

今は昔

Windowsのバージョンの今と前がゴッチャになって来たこの頃だが、さてWindows出現以前の情報環境を思い返そうとしても、それはもう歴史的な過去のものになっていて判然としない。
年甲斐もなくMS-DOSかなんかでプログラム作りに凝っていて、よく知っている人からは馬鹿にされ、知らない人からは敬遠された時期もある。

しかし、Windowsが出て来て、あのプログラム作りはすっかり無意味になった。
価値が忽然として変わる、という時代に育った僕だが、ちょっと前のことが歴史に消える今の時の速さにはとてもついていけない。

昭和が回顧されて、例えば、有吉とマツコが、あの頃は下北沢は、などと喋っている昔というのは、僕にとっては、かなり年寄りになってからの新しい下北沢なのだ。
要するに、今の時の速きことに反し、昔の「今と昔」の比較は、波長が長いのである。

今、若い人の好みでグミが大流行りで、スーパーにはそのバリエーションが処狭しと並んでいるが、僕は、僕らの子供の頃のグミの実から取れたお菓子だと思い込んでいた。僕らのグミは、飢餓の中の得難い食物で、最後には、絶滅寸前まで食べ尽くされたものである。
あれが何故今脚光を、と思っていたのだが、調べて見ると、全く関係はなく、今のグミはガムと同じ語源だと知った。これなんか、只の時代錯誤に過ぎないが、もっと知っておいて欲しい過去は幾つもある。

仲間の税理士さんで、比較的年寄りの人だが、その年齢でも、教育委員がかつては公選制だったことを知らなかった。教員の勤務評定に始まる日本の教育統制が今の日本を滅茶苦茶にして来たことは理解されなかった。

国立大学が法人化されて、真実追求の場から経営的利益を追う企業にされてしまったことで、日本が誇った基礎科学は完全に死滅しつつある。

教育を受ける方も、最高学府を真実追求の場と考えず、その卒業を生活パスポートとしてしか見ていないようだ。
僕の孫も、大学の附属小学校に入るのにお受験塾に通ったという。更に、これから16年ほどの教育費は天文学的な金額になるという。どう考えてもこれは病いだとしか思えない。

僕のことをいうと、さっきの有吉とマツコの昔から更に遡った昔になる。今の時の速さも含めた時間観から僕の過去といえば、歳の差だけなら、遥かなら歴史の彼方にあろ事象でしかないかもしれない。
例えると、40歳の僕に、88歳の大杉栄が革命論を唱え、正力松太郎や高崎達之助が日本経済を憂い、北原白秋が詩を読んでくれているようなもので、これだけでも遠い先輩だ。が、今の時代的時間尺度からすれば、僕らの時代人が織田信長の世界観を聞かされるようなものかもしれない。
とても現実離れとしか受け取られまい。

しかし、そう思われても仕方がない、僕のことを言うのだが、僕は大学在学6年間、親からも親類からも仕送りというものを全く頂いたことがない。奨学金とアルバイトと他人の善意だけで切り抜けた。
それで、どうして6年の学生生活を過ごせたのか、恐らく、今の時代の誰も信じられないだろう。僕も、今振り返って見て、さっぱり分からない。

もちろん、制約は多かった。
私立など問題外だった。浪人することも想定になかった。神戸を離れた所も選べなかった。

しかし、兎に角、僕のような貧乏人の子でも、大学を卒業できた時代だった、ということだ。
やはり、この方が、今よりまともだったんじゃないかな。


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2023年01月16日

生き、そして死ぬ

社会的社会人の入り口に立って、さて、これから後の約60年を回顧するとなって、途方に暮れた。
振り返って見ると、非社会的社会人の期間は僅か2年だ。それは、実に波乱に満ち必死だったからとても2年とは思えないが、それでもやはり僅か2年だ。

これから後の60年をこの2年に対応して「社会的社会人」として一括りするのは、どうにも釣り合わない。
ここからは、別のまとめ方にしようと思う。
僕は、我が人生を三つのクウォーター(四半世紀)で生きて来た、と常々行って来たから、27歳まで述べたここまでを大雑把に第一クウォーターとして、ここから後は、第二、第三クウォーターとその後のアディショナルタイムに分けよう。

そこで、死ぬまでには全部、書き上げると考えながら、さて、死ぬまで、とはいつまでかと思い至った。自分ではまだ書き続ける時間があると勝手に決めているが、死ぬのは明日かもしれない。
同じように、来月にはタイに出かけるし、8月にはヨーロッパにも行こうとしている。その前に死ぬことは考えていない。
しかし、その前に死ぬかもしれないと思ったら何も予定できない。だから、いいのだ。書くつもりだ、行くつもりだ、しか仕方がないではないか。
そう思い始めると、逆に、今まで生きて来たこと自体、不思議なこと、つまりは死ぬことがあっても不思議でないことだ、ということにも気づく。

今までに何度も書いたように、僕の幼少期は脊椎カリエスになりかけで、医者からは、放っとけば成人までは持たないと言われていた。
子供ながらに諦観があったのか益々引き篭もり、本を読み書を嗜む子供らしくない子供になっていた。
前に触れた「三田谷治療学院」の特殊教育のお陰で完治し普通の国民学校に戻ったが、時は戦争真っ只中、敗色濃厚な中、空爆に逃げ惑い、機銃掃射も食らった。
死とは隣り合わせ、そして、皆、やがては戦争に行って死ぬ、と思っていた。
死と生は対等だった。

戦争が終わっても、この死生観は消え去らず、今なら全国ニュースになるような子供の溺死や事故死も、隣のクラスの子が川で死んだ、なと、1日、2日の話題で終わっていた。

平和な時代が続いて死の確率は大きく下がったが、確率というものは選ばれた者にとっては100%でもある。ほとんど当たらない宝くじでも誰かに当たるのと同じだ。
しかし、周りに死が少なくなって、社会が死を稀なものとするのに同化し、現実世界を謳歌して死を意識せずに毎日を過ごすことが多くなった。

三つの四半世紀を経て75歳になり、アディショナルタイムに入って更に13年、友人、知人、その縁者の死が次第に増え、至近弾が増えて来た、と意識するようになった。
またまた死が身近になり、しばしば夢の中で死に、死にかけて目覚めてホッとしたりする。

僕は、若くして弁証法を学んで発展と死滅の法則を知り、唯物史観の徒になって観念の産物である神仏の優位を信じなくなった。
死は相対的には不確実だが絶対的には確実だ。
死しては土に帰り、死後の世界もあり得ない、と思う。
そんな僕ながら、死というものを経験したことはないのだからどんなことなのか分かる訳がない。ただ、この世から消えることは淋しいと思う。美しい自然や人との交わりから隔絶することを想像すると、それはは実に淋しい。

嫌な世の中だが、それでも健康で生きていたいというのは、今が楽しいからだろう。幸せなことだ。









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2023年01月04日

自分年誌(11)社会的社会人「プロローグ」

議員秘書生活は、松本七郎先生が、江田派から佐々木派に鞍替えしたため、約半年で首になって終わった。
また非社会的社会に逆戻りかと思っていたら、その頃顔を出していた組織問題研究会の引きあわせで全農林労働組合中央本部書記局への就職が飛び込んで来た。
全農林は、当時の農林省職員の組合で、現業の林野庁を除く全職域を網羅した約5万人の組合員を持つ国家公務員組合最大の組織だった。

組研は、戦前からの活動家で修行僧のような風格を持った藻谷小三郎さんが主催する研究会で、その幹部だった福田勝さんは、全農林中央執行委員だつた。福田さんから推薦を受けて入局試験に臨んだ。
受験者は5〜6人だったと思うが、僕が合格になった。
筆記試験は2番だったそうだが、1番の男は当時3トロと呼ばれていた三多摩のトロツキスト集団に属していて撥ねられたらしい。

3公社5現業とは、と問われて、3公社が電電公社と専売公社の他は国鉄だというのが分からず苦し紛れに交通公社と書いて、入ってから試験官の委員に笑われた。
さて後は健康診断書を提出して決定だったのだが、東大病院で受けた肺のレントゲン写真に影があるというので福田さんが慌てた。
後に刎頸の友になる成瀬良美君は全農林の書記局員で組研のメンバーでもあったが、彼が慶應病院でレントゲンを撮って来て僕のと差し替えて事なきを得た。完全な不正入局だった。

こうして、国家公務員の賃金体系に準じた身分と初任給となって、僕は初めて社会的社会人になった。併せて、それからほぼ四半世紀に亘る労働組合専従者生活が始まった。

全農林では組織部に配属、富永組織部長の下、部員は成瀬君と僕、仕事のことは兎も角、これは飲酒部ともいうべきトリオだった。
5時になると、富永さんの「行くぞ」を業務命令として新宿のネオン街に繰り出す毎日だった。全て富永さんの奢りだが彼は一円の公金も使ったことがない。後で聞いたことだが、成瀬と山森のお陰で数ある持ち山の一つを売ったとか、であった。
三重県の富永さん宅に泊めてもらったことがある。20以上あるという部屋の一つに迷路のような廊下を奥さんに案内された。

中央本部の中で、僕の後ろ盾になってくれた福田さんは調査部長で学究肌だったが書記長の江田虎臣さんは根っからの実務派で、会議に提出する報告書や提案書をほとんど僕に書かせた。注文は、もっと砕けた分かりやすい文章を書け、だけで、虎さんの提案趣旨に僕が少々脚色を加えても何食わぬ顔でそのまま提案していた。ただ、質問が出ると、時々、僕にカンペを求めて、反対派から、自分の言葉で答えろ、などとヤジを飛ばされていた。

1959年の警察官職務執行法への反対闘争でストライキを打って公務員として処分された鶴園初代委員長は
、僕が入った頃は参議院議員になっていて、僕が警職法裁判の担当者になっていた関係でよく議員会館の鶴園部屋に通っていた。議員秘書の満田京子さんに惚れてしまいアプローチしてあっさり断られたりした。

政治的には、社会党の構造改革派に属し、社会主義青年同盟霞ヶ関支部の書記長を勤めた。党内闘争は熾烈で、社青同大会で、路線を巡る代表質問をやって猛烈にヤジられたものだ。

全農林に約2年、これが社会的社会人のプロローグであった。




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2022年09月05日

ゴルバチョフ死す

ミハイル・ゴルバチョフが死んだ。
政治家の死は感慨から遠いが、彼の死は僕には大きい。
彼が権力の座に就いたのは54歳、僕が50歳だった。
同時代にあるというだけでなく、彼の発言の一つ一つが、あのソ連で、ここまでやるか、という驚きを呼んだ。

元々、僕は、1957年、22歳での訪ソ以前からずっと親ソ派だった。訪ソした時のソ連は、フルシチョフの時代だった。
その前年にかつて君臨したスターリンの独裁と犯罪を暴き、非スターリン化を宣言したフルシチョフは、僕らの足裏にも刺さっていた棘を取り除き、社会主義における民主主義の勝利を確信させた。
高野秀夫は、このフルシチョフに、核実験の一方的中止を同志的に進言するよう、当時の共産党宮本顕治書記長への働きかけを本気でやっていた。

フルシチョフ失脚後のソ連は、次第に官僚化の道を歩んだ。この後、僕は5度訪ソしており、10数回ソ連代表団の訪日に立ち会ったが、その度に、度し難いソ連官僚主義と完璧にフレンドリーなロシア人との大きいギャップに直面した。
やがて、1979年、ブレジネフのアフガニスタン侵攻に抗議した日ソ青年友情委員会の総務部長を務めていた僕は、ソ連と絶縁するに至った。

フルシチョフの流れを汲んだゴルバチョフが、1985年に登場して、ペレストロイカ、グラスノスチによる民主主義改革を始めた時、僕らは快哉を叫んだ。ブラボー❗️
ゴルバチョフ政権下では、一度、労働組合代表団を連れて訪ソしたことがある。
感想を聞いた通訳は「深呼吸ができるようになりました。」と表現した。
この時のゴルバチョフは、禁酒政策をとっていて不評だった。
向こうの労働組合の歓迎会で、ウォトカらしきものが卓上にあった。これは?と聞くと、「これは水です。」という。「何処で採れた水ですか?」と揶揄ったら、「この建物の地下室です。」
言ってみればこの程度の統制だった訳だ。禁酒政策は間もなく撤回された。

ゴルバチョフがいなくても時代の流れは変わらなかったろう。しかし、あの時、守旧派のクーデターが成功していたら、ソ連、いやロシアそのものがほとんど再起できないような惨禍に見舞われたに違いない。
メルケルが、「彼がいなければ、今の私はいなかった」と想起した言葉は重い。ゴルバチョフは確かに扉を開けたのだ。

今のロシア人が、ゴルバチョフを悪人としているのは、ロシア人が一度として民主主義の支配する社会を経験したことがないからだと思う。
ゴルバチョフの挫折は、こうしたロシア人社会の土壌に彼の開明性が根ざさなかったからだろう。
今のロシア社会には、まだプーチンが似合っているのか。

晩年のゴルバチョフには、統一教会の援助に頼るような弱さも見られる。僕的には馬鹿野郎だったな、という感想が残る。
それにしても、1957年の最初の訪ソは、モスクワの青年学生平和友好祭参加のためだったが、14日間の開催期間中、半ば以上はモスクワ大学の会場に通っていた。その僅か2年前までゴルバチョフはそのモスクワ大学の学生だつたのだから、ほとんど同時代の空気にあったのだ、と彼死して感無量である。



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2022年08月26日

自分年誌(10)非社会的「社会人」(後半)

上京は、本来、心躍るものであるはずだが、我が26歳の東京は惨憺たるものだった。
もともと、公然たる反権力主義者は、それだけでも、世の中からハミ出した存在である。それでも、その主義者にも小さいながら世界があって、例えば、出版社や業界新聞をはじめ、さまざまな業種、業界に、一定の生きる道があった。
ところが、こちらは、その世界から、更にドロップアウトしたのだから、鶴田浩二の「傷だらけの人生」よろしく「右も左も真っ暗闇」であった。

高野秀夫さんが、本当に親身に世話をしてくれて、何とか食い繋いでいた。
杉浦さんという、かつて共産党の資金作りを担当していた水道屋さんが雇ってくれた時期もあった。極寒に水道管を捻じ切る作業は過酷だった。杉浦さんは、この時の5年後の僕の結婚パーティにも来てくれたが、その直後に、奥さん共々、謎の失踪を遂げた。
西武の堤清ニさんにコネを付けてその親類に頼んでくれ、年末年始に、町内の夜回りもやった。夜中、「火の用心」と拍子木を打ちながら呼ばわる自分が世間離れしていておかしかった。
戦時中スパイとして処刑されたゾルゲの墓参会というのがあって、その事務局役も担った。共に処刑された尾崎秀実の弟さんで小説家の尾崎秀樹さんやゾルゲの妻だった石井花子さんなどと多摩墓地を詣でた。
法政大学の井汲卓一先生が主催した政治経済研究所に研究員として入って、前野良先生などのお手伝いをした。
といっても、出版社に投稿される原稿の副本を手書きで作る程度の仕事で、そんなに潤沢でない先生方から支払われるのだから、実に微々たる収入だった。

あれこれしている間に、日本社会党の松本七郎代議士の秘書に、高野さんが推してくれて、議員会館に通うことになった。ここからは2011年5月の「議員秘書」に書いた。
その中身はともかく、ここで久しぶりに、安定的な「月給」にありついた。少しは、社会的「社会人」への入り口に近づいた感じであった。


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コロナ記念日

久しくご無沙汰していて、生きているのか危ぶまれるお便りも頂く始末、やはり、人生の息切れは否めない。
基本的には健康な部類に属するが、腰は痛い、指が十分に曲がらない、目が霞む、などの摩耗は甚だしい。

と、感じている内に、コロナに感染した。
6月下旬、I女史が、こりゃあかん、もしかしたら、と休日診療に行ったら陽性の判定だった。
直前、会食もしていたし、車の中でもマスクもしてなかった。明らかな「濃厚接触者」だ。

自宅に引き籠っていると、2日後の夜から咳が出始め、体温も37°台がつづく。抗原検査を続けている内、翌々日には陽性反応、医者の認定を経て保健所管理に入った。
7月7日までは外に出ないで下さい、と言われ、周りから取り敢えずの日常品の差し入れを受け、籠城生活にはいった。
保健所から「ごふじゅうはないですか?」と言われると、不自由に決まってるではないか、と答えるしかない。独居老人なんだから病院かホテルにいれろ、と声高に要求したが、お声がお元気そうだから、と一蹴された。

結局、給食を受けることになった。玄関前に受け皿を出して置いて下さい。午前に昼食、夕方に夕食、朝食を届けます。玄関のベルを鳴らしますから少し時間を置いて引き取って下さい、という段取りである。
夜中の咳も微熱も2晩で消え、後は、単なる引き篭もり老人の日々である。ま、十分に肝臓を休め、本を読み返したりできた10日間であった。
国民学校世代には給食経験がないから、日々いただいた配食は有り難かったが、申し訳なくもいささか味気ない食事タイムではあった。下の写真から想像されたい。

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  配食のベルは? そうか、終わったか!
  7月7日はコロナ記念日

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2022年02月20日

コロナ考

大洲市の識者の集まりで三日塾というのがあって、順番制の塾長が、去年の4月から僕の番で、来月には終わる。
ずっとコロナ自粛で、この間、まともに開けたのは3回だけだった。

新年冒頭の会は、1月11日だったが、1月3日まで、愛媛県はずっと感染ゼロだったのが4日に3人出たと思ったら、その11日には53人という爆発ぶりである。その後370人程まで増えて高原状態になる中で、2月は3日が集まりだった。

当日のレクチュア担当だった2人のTさんのスピーチは3月まで待機して頂いて、会も1時間で打ち上げとした。
代わりに、僕がこの一年、コロナ騒ぎで明け暮れた中の塾長としてコロナ感を語らせて頂いた。以下の通り。

毎日の報道は、今日も感染数が過去最大とか同じ曜日としては最大、とかその数値を並び立てる。
増加ファクターについて過去最大というのは、本来、傾向的に想定内のことだからニュースとしては価値がない筈だが、マスコミは飽きずに伝え続けている。
しかし、感染の絶対数をいうなら、実数は発表の何倍か、もしくは10数倍に達している筈だ。何故なら高齢者や基礎疾患者への感染が今までより大きいから死者数か大きくなっているのだが、高齢者にだけ特殊に広がる構造はあり得ないからだ。そこまで広がっていても分からない程薄く広く広がっているに違いない。

しかし、ファクターの積分値を見るのは、過去の総括を行う上では有用だが、今後の推移と将来への動向を考えるには、ファクターの増分の増減、すなわち微分値の分析が不可欠である。
1週間単位の移動平均を見ると、愛媛の場合、爆発が始まった4日までの一週間平均は3人÷7で0.43人だから、そこから53人に膨れ上がった11日までの1週間の平均は4日までに対して30数倍という猛烈なものだったのは当然である。
これは異常値だが、更に1週間後の18日からの対前週比移動平均は、読み取りが可能な法則性を示した。
2月3日までの2種間で見ると、前週比の数値は、1月下旬の2.5倍程度から1日当たり0.94〜0.97の比率で減少している。
愛媛の場合は、この比率で感染増率が減少して行けば、2月3日の週6、7日に対前週比がほぼ1.0になるからピークでしょうと、報告した。
この時の予想通り、その翌週には倍率は1.0未満に達した。

更に、愛媛の場合は、母数が少ないから減衰曲線には多少の凸凹があるが、全国のデータとなると、極めて、なだらかな曲線になる。0.955〜0.965/日というほぼ等比曲線で感染増が減衰しているのが分かる。つまり「今日も最多」の増え方は正常な増え方であり、かつ、その増え方は正常に減衰している。この正常性が保たれるなら、2月11.12日頃までの前週比か1.0を切る、つまりピークになる、と予測した。
実際、ほぼこの週以来、全国のマクロな感染再生産数は、1.0を切っている。

国会で、野党が、尾身さんに、ピークアウトは、マッターホルン型か富士山型か、などと知ったかぶりの質問をしているが、統計的に、等比級数的な減衰はなだらかな曲線を描くのは当たり前だ。選良たる者、どうなりますかと聞くのではなく、自らの知見を述べた上で、この曲線が乱れた時は何らかの撹乱要素があると考えてよいか、ぐらいの質問ができないものか。

昨日も、報道は、東京は11日ぶりに前週同曜日より感染者増、などと言っているが、前の週の数値は祝日のものだから比較そのものがおかしい。

全国の感染傾向は、連休による攪乱要素以外は、目下、正常な減衰を示しているが、愛媛は従来の微分曲線からブレている。撹乱要素があったと見るべきだが、思い当たるのは居住地、大洲市で、ゼロ状態からクラスター発生などで一挙に一週間100人を超える感染が生じたことか。減ってはきたが昨日も12人、4万人の街だから、愛媛の人口に引き直せば360人である。これはヤバい。

よって、このところ、自粛して巣篭もりを決め込んでいる。

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2022年02月13日

87歳

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ついに87歳、昔風の数え歳で米寿である。
物忘れ激しく、目が霞み、靴下を履くのが苦しいが、その他は、まだ、70歳台の水準かなという自覚はある。

年齢分類からいえば、後期高齢者を通り越して末期高齢者に属するが、そもそも、今の年齢観がおかしい。
高齢者が65歳からというのに何の根拠もない。年金受給年齢のことらしいが、高齢者だから年金受給が始まるのか年金受給が始まるからそれを高齢者というのか定かでない。
それでいて、高齢者1人を現役2人で支えているとか、その2人が1.5人になるのは何時だとか、騒がれている。

僕の意見としては、高齢者を人口の何%と決めるべきだ。
例えば、年齢上位25%をもって高齢者とするとかである。
現況25%は67〜68歳が下限らしい。人口推計では2055年で75歳以上になる。その年齢未満を支える側の現役人口だとすると、年金システムも安泰で社会が安定する。
65歳の平均余命では、今でも男85歳、女90歳が平均だが、2055年なんていえば、ずっと長寿になっているだろうし、75歳まで働いているなど当たり前になっているのではなかろうか。

さて、僕はどのくらい余命があるか?
事故や災害や事件で命を失うのは、常在戦場の覚悟が必要だが、普通の死に方なら電池がどのくらい残っているだろう。
87歳の平均余命は約5年、その通りなら92歳で電池切れで、目下残量5.4%である。
平均よりはかなり元気だから、残り10%と思いたい。
それで計算して見たら、2031年10月13日没、享年96歳、という事になる。

11日、疎開先の大洲の友人たちが誕生日パーティを開いてくれた。写真はその一次会。
翌日は、二日酔いのままゴルフ、最終ホールで大叩き11が響いてスコアは103と沈没した。

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