2020年09月15日

芥川也寸志さんのことなど

思いっきり、べたべたの思い出話を書く。

芥川也寸志さん、芥川龍之介の三男で、僕より10歳上、お近づきになった頃は、すでに音楽界の巨匠だったが、僕が総務部長の職にあった自主団体「日ソ青年友情委員会」の会長をしてくださっていた。
芥川さんの旧ソ連との関わりは、僕より古く、1954年に、当時、国交のなかったソ連に、自作を携えて密航されている。僕が、ソ連から東欧方面に密行したのが1957年だから、その3年前になる。
日ソ青年友情委員会で、150人ものソ連の青年代表を受け入れた時に、滞在費のやりくりをしていた僕は、何度となく芥川さんの元に、金策に伺って小切手を頂いた。
僕の結婚祝賀会の実行委員長もしてくださった。
洒落たシトロエンに乗せて欲しくて、相談を車の中に持ち込んだものだ。乗る時は靴を脱がされた。
2番目の奥さんが草笛光子さんだが、その前の奥さんとの間のお嬢さんの名が「麻実子」さんで、うちの娘にお名前を頂戴した。

古橋広之進さん、日本のスポーツ界の歴史に残るアスリート「フジヤマのトビウオ」である。衝撃の1500メートル世界記録で、戦後世界水泳の頂点に立った。
大阪の扇町プールで開かれた日米対抗を見に行ってアメリカのコンノとの激闘に感動した。
雲の上の存在だった古橋さんにお近づきになったのは、東京オリンピックを前にできた日本労働者スポーツ協会の事務局次長に就いた後である。やはり東京オリンピックの前にできたオリンピック青年協議会の会長を古橋さんがやっていた。
何かとお知恵を借りに、当時、古橋さんの勤務先だった大同製鋼に伺った。豪快な方だが優しくも指導して下さった。五反田の呑み屋街でのお付き合いは心楽しいものだった。

古橋さんと共に、オリンピック青協の副会長をなさっていたレスリングの笹原正三さん、体操の小野喬さんとも親しくして頂いた。お二人とも1956年メルボルンオリンピックの金メダリスト、笹原さんとは地域スポーツ組織の構想で意気投合し、僕らの協会の副会長にもなっていただいた。凄い酒豪である。
小野さんは、僕らの「労働者体操」を作ってくださり、また、お勤めだった東洋レーヨンで、僕らのユニフォームトレーナーを扱ってくださった。

東京オリンピックといえば、終わった翌週に、同じ国立競技場を使って、僕らのスポーツ協会主催の労働者スポーツ祭典を開いた。外国からのオリンピック選手にも何人か残ってもらって実業団の選手と競技交流した。
42000人もの観衆の前で入場行進をしたのだが、先頭のチアリーダーを若かりし倍賞千恵子さんが務めたのも思い出である。来てもらう交渉が大変だった。
アトラクションもやったが、予算が30万円しかなくて、当時の渡辺プロに泣きつき、売れっ子だった田辺靖雄、通称ヤッチンが出てくれた。

これらの思い出につながっていた仲間の殆どが今はもういない。
あの時はこうだったな、と誰とも言えないからここに書いた。

rouhei777 at 14:42|この記事のURLComments(0)

2020年09月11日

偽上戸

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岡山の奥深く、美作の温泉に松茸を食べにやって来た。
これでもか、これでもか、と松茸が出て来て、満足を通り越した。酒肴がいいから酒も進むかと思いきや、熱燗のお銚子二本で目一杯になった。随分弱くなったものだが、これがまともな呑み方なのかもしれぬ。

最近は、冷酒が当たり前のようだが、振り返って見ると、30年前頃までは熱燗しか想定しなかったように思う。
その熱燗を10本ほども呑んで青白い顔でいた。体に良い訳ない。

先日、遺伝子調査というのを受けて見た。
人並みよりリスクが高い遺伝子は、胃癌、肝臓癌、心筋梗塞など、恐ろしい病がずらりと並んでいるのだが、一方で90歳以上生きる確率が高い遺伝子でもあるそうだ。

しかし、面白かったのは、体質がらみの遺伝子判定で、意外にも、思慮深く誠実な遺伝子が高くて、冒険的な遺伝子は低いのだそうだ。
そして、アルコールで顔が赤くフラッシュすることはないが、生まれながらに酒を飲みたがる体質でもない、のだそうだ。ワインに至っては、嫌悪する遺伝子だというから、ワインに目がない今の自分は何者なんだ。

コロナの偽陽性というのがあるから、僕は偽上戸なのかもしれない。

rouhei777 at 09:11|この記事のURLComments(0)

2020年09月09日

コロナ疎開

もともと、なんで南伊予の田舎町に居ついてるのか、聞かれた際には、富士山の噴火から疎開してるんよ、と答えることにしていたのだが、今や、コロナ疎開だと言って誰憚ることもない。
2月に免許証の更新のため帰ってからは、半年以上、横浜帰りはままならない。

愛媛でも、合わせて100人余り感染しているようだが、大洲市では、目下、一人の感染者もいないことになっている。
実際には存在していて隠している人もいるんじゃないか、と疑われるのが一般的だろうが、僕の知る限り、この街には、そんな隠し事は通用しない。
あの戦争でも一回戦闘機の機銃掃射を受けたことがあるだけで、空襲も受けたことのない「伊予の小京都」である。
昔から住みついている人たちの消息は、小さいことまで人の口端にのぼる。コロナにかかっていて二週間も所在が分からないなど想像もできない社会なのだ。
今頃、横浜に帰ろうものなら、当分はこの地を踏むことができまい。

8月は、仕事満載で、盆休みもなかった。ただ、夜は自粛モードどこやらで、毎夜のように居酒屋通い、肱川の鵜飼も楽しむ雰囲気である。それでも市民は毎年夏の夜を彩る花火の中止や河原での芋炊きができないことを悔しがっているコロナ贅沢である。

昨夜から、道後温泉で息抜き、今日からは、久しぶりに愛媛県外まで足を伸ばす。行き先は㊙️。

rouhei777 at 07:44|この記事のURLComments(0)

2020年07月07日

地球市民と国家

僕のブログはモノローグだ。
腹に溜まったことをぶつぶつ言ってみるだけだから、そんなにエネルギーは要らないのだが、ずっと厭世的になってしまって、ぶつぶつ言うのさえ邪魔くさくなっていた。
トランプやプーチンや習近平のような人物が世界の覇権を争っていたり、一握りのフィクサーが金融世界を掌に弄んでいたり、若者が権力を崇拝していたり、そして自分の周りに先輩も同期もほとんどいなくなったりしていて、もう世の中どうでもいいや、という気分になっていた。

コロナ禍でフェースが変わったところはあるが、基本の構造は変わらない。土砂降りとまたしても惨い災害が昨日からあるが、2年前の今日の大洲と変わらない。全て地球温暖化をもたらした人類への地球の反乱だろう。
そして、あたかもロボット軍隊のような治安警察による香港市民弾圧は、かつてのハンガリー侵攻やプラハの春の圧殺の繰り返しだ。

コロナ後は、グローバリズムに対する国家の壁の揺り戻しだなどともいう。インターナショナリズムが遥かに歴史の中に消えてグローバリズムが支配的になったのも耐え難いが、それに抗して国家の壁が強固になるというのはますます狂おしい。
ただでさえ、トランプは石油産業のために地球の温暖化など糞食らえだし、習近平は一党独裁による覇権のために香港市民の人権を圧殺して平然としている。
地球市民が国家によって圧殺されているのが、今の世界の姿なのだ。

地球市民とは、地球上のマクロな共同社会の一員であり、どの国に属しているかを問わず、何者にも支配されない人間の尊厳をなくてはならないものとし、地球との共生を求める市民のことだと思う。

トランプを選んだアメリカ国民も、習近平にひれ伏している中国国民も、地球市民の圧殺に加担している。
わが日本国民も、トランプの親友で習近平にも気を使っている権力者に巨大な権限を与えていることによって、地球市民の圧殺に手を貸している。
認めたくないことだが、僕自身、その日本国民であることで彼ら抑圧者の側に属している。

地球市民の一員でありたいが、国という幻想の中にある限り、自ら胸を張って、そうだとは言えない。そして、鎖を断ち切る情熱も意欲も力も薄れ行く老いそのものが、罪悪であるのかもしれない。

rouhei777 at 17:00|この記事のURLComments(0)

2020年01月29日

丸3ヶ月

このブログの筆を置いて丸3ヶ月になる。
管理ページも閉めようと思って3ヶ月ぶりにドアを開けて見たら、信じられないことに、あれ以来、更新していない語録にも関わらず1日も欠かさずどなたかが訪問して下さっている。

こんな申し訳ないことはない。

最後に書いたように、何事が起こっても大したことでない、という感覚になって来て、これが歳というものだと感じ始めてている。
この3ヶ月の間にも、身近な人が2人亡くなった。それぞれ万感の思いがあり、書けば尽きないことになるのだが、それとても、心の内に秘めた想いでいいのだ、という心境になりつつある。

車の中で、ちあきなおみの唄など聞いていると、田舎の路傍に車を停めて、小さい時からのことを順番に想起する時間もあるが、だいたい35歳頃までの場面をあれこれ思い出していると、それで1時間はかかり、疲れ果ててしまう。
なんと長い間、生きてしまったことかと、つくづく思う。

宣言していたように、年越しは、海外で、一人静かに過ごしたが、その安寧の楽チンが癖になって、次の安寧を求めたくなる。まだまだシガラミはあるし、何でも自由にできるほどの資金もないが、残りの時間×行動面積を、思い通りにしたいものだと思っている。

第1クォーターは、やりたい事を目一杯した25年だったし、第2クォーターは、やらねばならぬ事を懸命にした。
第3クォーターは、やれる事に喜びを感じて生きた。
75歳からのアディショナルタイムは、もう10年になろうとしている。アディショナルタイムだから、オマケみたいなものだ。ノーサイドまで、おそらく役立たずのプレイヤーでいるだろうが、チームに迷惑をかけない限りはそれが自分なのだ、と思うしかあるまい。





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2019年10月29日

生存確認

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3ヶ月振りだ。あまりのブログご無沙汰で、死んだか死にかけてると思われたふしもある。
結構東奔西走していたこともあるが、だんだん暮らしの毎日についてインセンティブを感じなくなって来たようだ。明らかな老化現象である。結構、他人から見れば珍しいこともしているんだが、自分では大したことに思えなくなって来た。

木曽の集まりは久しぶりの木曽カントリーだったし、鑑定士のゴルフも楽しかった。志摩観光ホテルクラシックに久しぶり泊まったのも特筆するべきだし京都では先斗町のいろはで極ウマのすき焼きを食べた。
どれもこれもいい毎日だが、やったよと書いて残すことでもなかった。

ラグビーWCは、それでも僕にとっての一大イベントだった。9月の終わりには神戸でスコットランド・サモア戦を見た。10月13日の日本スコットランド戦は、確かに冥土への土産になった。

ラグビーは、森重隆、松尾の新日鉄釜石、平尾、大八木の同志社が強かった1980年頃からの人生の楽しみだったから、今年のWCは、僕にはオリンピック以上のものだった。

南アに負けて、人並み以上のラグビーロスになった。

ブログ3ヶ月ブランクだからといって、生存確認されるほどは弱っていない。しかし、あっという間の3ヶ月ではある。人生最後の直線コースに入ってるなあ、という感は強い。

もう精一杯に生きるべえと、年越しはランカウイ島で過ごし3月にはニュージーランドに遠征する。
念願のクルーズは、あれやこれやと研究が楽しい。



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2019年07月28日

62年前のプラハ駐在事情

初めてプラハに来たのが62年前だとガイドのSonさんに話して、何故そんな若い時に、社会主義チェコスロバキアに来られたのか、根掘り聞かれた。
断片的には、そのあたりのことをこのブログにも書いたが、ここで纏めておこうと思い立った。
というのは、今日、7月28日は、プラハ入りするプロローグになった第6回世界青年学生平和友好祭がモスクワで開会されたその日だからである。

この辺りの関心がない向きには退屈だろうが、「書き置き」の意味もあるのでご辛抱願う。

神戸大学開学記念祭の最中だったと記憶する。1957年の5月頃、4年生になってソロソロ勉強をしないと卒業できないぞ、と焦っていた僕を、全日本学生新聞連盟(全学新) の香村委員長が突然訪ねて来た。僕は、その全学新の副委員長をしていた。香村君は東大で金沢の出だが、どういう訳か都内の大邸宅に一人で住んでいて、上京の時には定宿にさせてもらっていた。
話はモスクワの世界祭典のことだった。フルシチョフが日本からも500人の青年学生を招待するというニュースは知っていた。
僕には、その2年前のワルシャワ祭典に派遣される代表に選ばれたものの当時の60万円という費用が集まるわけはなく挫折した苦い経験がある。モスクワ祭典には関心がなかった。

しかし、香村君は、僕に代表になってモスクワに行ってくれと言いに来たのである。
何故かというと、その代表に同じく副委員長の慶応のI君が手を挙げているのだが、その政治的傾向として、彼に全学新を代表させるのは望ましくないから、僕と二人を派遣したいという事だ。

迷って神戸大細胞の委員会に相談したが冷淡なもので、そんなところで遊んでくる余裕が僕にあるのかと突き放された。新聞会の諸君は好意的で、2年前のリベンジだからいいじゃないかとモスクワ行きを勧めた。

あれこれあったが、行くことになった。しかし、行かなくても秋までには卒論の大綱を仕上げなければならんのに行くとなれば絶望だから留年は避けられなかった。そこらを香村君や新聞会の諸君と相談している内に、モスクワに行くだけじゃなくついでにプラハの国際学生連盟に全学新の特派員として常駐したらどうか、という雰囲気になった。
そりゃ面白いが、そんなことができるかと思っていた。
まず全学新にそんな滞在費が負担できるわけがない。モスクワに一団で行くのにそのまま別行動をするのも無理だろう。

香村委員長はまず全学連の幹部と話をして、OKを取り付けて来た。滞在費の一部、ポケットマネー程度は国際学連が見てくれる。それだけでは足りないから、いっそのことプラハのカレル大学に留学すればいい。奨学金で特派員生活は問題ない。
モスクワでは最終日に代表団から「抜ける」。名目はブカレストの国際学生フォーラムへの参加とする。もう一人、全国教育系学生自治会協議会のT君がソフィアの会議にと「抜ける」から一緒に、ということになった。カレル大学への留学には外務省か全学連の認証が要るが外務省は無理に決まっているから全学連が9月新学期入学の保証書を送ってくれるということになった。

代表団は、外務省がパスポートの発行に難色を示したため、500人の予定が最終的には150人に決まった。全学新の代表はI君を降ろして僕一人になった。
代表団の一部と同時開催のスポーツ祭典への代表団は新潟から船に乗ったらしいが、大部分は横浜からソ連客船バイカル号に乗った。
2泊3日でナホトカに着き、シベリア鉄道に7日揺られてモスクワに着いた。シベリア鉄道の中では、学生代表団は手書き車内新聞「ズドウラスヴイチェ(今日は)」を発行したが、僕が編集長を務めた。

第6回友好祭について、半谷史郎という人が長崎眞人という参加者の聞き書きを出版している。この長崎という人は当時民青の役員らしいのだが、この頃の民青にいたのに相応しく大衆運動への無感覚が、この聞き書きによく読み取れる。
「この頃の学生自治会はほぼ壊滅状態でしょう」などと言っているのだから噴飯ものである。前年の砂川闘争も知らなかったのか、それとも聞き書の時は老いぼれていて忘れたのか、だろう。
その直前の第9回全学連大会は、香山委員長、牧副委員長、高野書記長を選んでいる。
1957年〜60年は、おそらく学生自治会活動のピークだっただろう、のにである。

友好祭では、僕は「反核兵器フォーラム」に出て、日本の運動について英語で報告した。演説草稿を手直ししてくれたイギリス人の国際学連書記が親指を立ててくれたから一応通じたのだろう。
フォーラムのコミュニケの作成委員にも選ばれて、できたコミュニケの発表もさせられた。

友好祭で一番困ったのは、始まってすぐ2週間分の食券を紛失したことである。幸い、原水協の安井郁さんの娘さんの法政大学から来ていた安井侑子さんが「私は食べないから」と譲ってくれて事なきを得た。

友好祭終了の前日、8月10日、僕は代表団から「抜けて」鉄道でブカレストに向かった。3日間のフォーラムに訳分からず付き合った後、プラハに着いた。

プラハでは国際学連副委員長の田中君が住むホテルの一室に居候した。彼は京大生でおっとりした性格の秀才だった。夜は二人でチンチロリンをしては負けた方がシビンのような入れ物を持ってビールを買いに行った。部屋ですき焼きをして、異臭がすると訴えられ、ホテルに大目玉を食らったこともある。

9月に入って、カレル大学には仮入学が認められ、通い出した。たちまち僕は立ち往生した。まずはチェコ語の学習ばかりだが、講義も宿題も当然英語である。二重翻訳の上、宿題が山のように出る。とてもついて行けなかった。
一方、本入学のための全学連の認証がいつまで経っても来ない。田中君が全学連に催促してくれるのだが手続き中だというばかりだった。

10月になって、全学連から、香山委員長がインドのネールと今会っているのだが、この後カイロでナセルと会談してからプラハに向かう。事情は香山から聞いてくれ、と連絡があった。
香山が来て、留学せずに帰国してくれ、という話である。
神戸大学の中で内紛があって自治会が崩壊状態だという。一度帰って立て直すのに尽力してほしい、という。直ちには信じがたいことだが、信任状が出せないということなら仕方がない。
10月末、国際学連が手配してくれた航空便でモスクワ〜北京〜香港〜東京と飛び、帰って来た。11月1日だった。
友好祭参加者へのパスポートには、「ソ連国内に限り有効」と記載されていた。モスクワを離れ、ルーマニア、チェコスロバキアに行き、その後もポーランドなどに取材に行ったが、どの国の入国にもこのパスポートは有効でなかった。国境では、各国の学生組織のバウチャーを見せると、パスポートに紙を一枚挟みそれに入国印を押してくれた。
帰国の途でも同様だったから、最後に香港に入った時はソ連の入国印しかないのに香港に来たことに審査官は首を傾げながらも入国印を押してくれた。日本への入国に問題なかったのは何故か分からない。

神戸大崩壊は全くのフェイクニュースだったが、知らずに全学連へ高野書記長に会いに行った。高野は居らず、平和運動対策委員長の森田実から香山と同じ説明を受けた。要するに神戸大の僕は国際学連の常駐者としては好ましからざる者であったらしい。
僕の帰国直後、全学連は清本(早大)、赤崎(神戸大)両中執を罷免して分裂への道を歩んだ。
ここからは、また別のストーリーである。


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2019年07月21日

プラハ〜ドレスデン〜ピルゼン

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数年ぶりのプラハは変わらず美しい。
プラハの中心部プラハ1区では新しい高層建物が建てられないからこの景観は変わりようがない。

今回は大洲市の士業の仲間との旅だが、残り少ない時間を目一杯過ごすためにも、年に2回は国を出たい。

ウ・ズラテーホ・ティグラは、常連で大混雑だが、たまたま予約済みだったのでなんとか一角に座れた。

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ここでは、座ると注文なしにジョッキが来る。ジョッキが空くと間髪いれずお替りが来る。周りのチェコ人は何も食べずにワイワイ喋りながら何杯も飲んでいる。
僕らは、何品か頼んでシェアし、4人で500ミリを11杯飲んだところでジョッキにコースターを乗せてフィニッシュした。勘定は現金限定、チップ込み5000円。

2日目のストラホフ修道院の有名な図書館は初訪問、すぐ隣の修道院ビアホールも良かった。

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4日目はバスでドレスデンに向かう。
ターミナルのフローレンツは交通の要衝、乗り入れているメトロの階段に各国語で何か書いてある。日本語もあって「どうしてバスなのですか?電車で行きましょう。」とある。あからさまなライバル意識が面白い。

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ドレスデンは3度目だが、どうしてかいたる所工事中で興ざめだった。

5日目からビールの本場ピルゼン へ、醸造所ツアーでは、冷え冷えした保存トンネルでよく分からない英語の解説を聞き、蔵出しをテーストしたが、寒さで味も分からなかった。








rouhei777 at 11:40|この記事のURLComments(0)

2019年06月24日

儚い夢

事故に遭ったS3が帰って来た。
姿は元に戻ったし、走りの快適は相変わらずだが、気分が違う。
僅か100日だが、手放すことにした。終いの車だったから保険も完全解約、サヨナラである。
儚い夢だったがこれも定め、結構高くついた夢だが、少し若返った気がする。手放したが身近にあるから、乗ることはできる。
この車にはドライバーが意識を失くした時などに助手席から緊急停止ができるスイッチがある。これからは、一人では運転しないこととする。

夢といえば、このところ、死者ばかり出て来る夢が多い。しかし、考えて見ると、古くからの友人、知人の多くがどんどん死んで行っているのだから、見る夢にも死人が多くなっているのは当たり前のことだ。
しかし、これだけ、あの世の友人達が毎夜出て来ると、呼ばれているような感じである。

抗うように、生きるスケデュールを次々に入れている。
今月のチェコ・ドイツ旅行から10月のラグビーWCまでぎっしりで、11月から来年2月までは仕事多忙であるし、トドメはオリンピック、水泳と柔道のチケットが手に入ったから、1年後までは仲々死ねない。
そう思うと、自分の体が気になって、肺のCTを撮ることにしたり、呼吸器内科の予約を入れた。歩くのも増やし、椅子からの片足立ちなどの自分テスト、スクヮットなどに余念がない。

夜の夢に出て来る友よ、当分は夢の中だけの付き合いにしてくれ。





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2019年06月02日

上り坂・下り坂(2)

5月は、色々あって、時が速かった。
特に、車のトラブルがあって以来は何も手がつかないような日々だった。
幸い、ぶつけた車の持ち主は常識的な人で、冷静に話を進めているが、保険屋には腹立つ事ばかりだ。

癒しに古い映画を見た。「時雨の記」.20年ほど前のものだが舞台は昭和が終わり平成が始まる5ヶ月である。
吉永小百合、渡哲也による中年男女の悲恋を描いて、ストーリーはケレン味のないものだが、時代背景と鎌倉、京都の風景がほとんどなので我がノスタルジーをよく掬い取ってくれる。昭和の最後の除夜の鐘が建長寺から聞こえる中で二人が別れを惜しむシーンはその一つである。

吉永の巧さは相変わらずで、渡はちょうど実年齢を演じているからか割にいい。
渡が扮する大手開発企業の専務は56歳、その時代の僕は53歳である。だから同時代性は強い。

しかし、閉塞感が強い今と違って、昭和から平成への頃の1年はめっちゃ動きが激しかった。
50歳代の3歳違いには大きく世代差があった。
その上、僕は中学生で1年、大学で2年、寄り道しているから、社会人としては3歳上は6年先輩になる。

凄まじいバブルと急坂を転げ落ちるような崩壊の中の6年違いは雲泥の差である。
渡演じる大企業専務はバブルの真っ只中で不倫の恋に人間回復を求め、死ぬ。
この年齢は、後5年早く生まれていれば、学徒出陣で戦地に散ったかもしれない運命にあり、早死にしていなければバブルの後始末で戦犯扱いされた世代である。
反して、少し遅れた僕の世代は、バブルとその後のアップダウンの中で、上がつかえていて中間管理職で苦労した諸君が多い。

この映画の中の男は上り坂しか知らず、僕たちは、上り坂ではこき使われ、その後、責任ある立場になった時は、世間の下り坂の中で苦労させられた世代である。

仕事を辞めて、吉永と二人だけで暮らそうと、死後に残したのが、二人で住むために男が描いた「侘びとさび」に徹した終の住処の心象スケッチだった、というのが、ラストだが、美しくも贅沢な夢の遺産だな、というのが、僻みっぽい僕の感想である。

rouhei777 at 07:56|この記事のURLComments(0)