2019年07月28日

62年前のプラハ駐在事情

初めてプラハに来たのが62年前だとガイドのSonさんに話して、何故そんな若い時に、社会主義チェコスロバキアに来られたのか、根掘り聞かれた。
断片的には、そのあたりのことをこのブログにも書いたが、ここで纏めておこうと思い立った。
というのは、今日、7月28日は、プラハ入りするプロローグになった第6回世界青年学生平和友好祭がモスクワで開会されたその日だからである。

この辺りの関心がない向きには退屈だろうが、「書き置き」の意味もあるのでご辛抱願う。

神戸大学開学記念祭の最中だったと記憶する。1957年の5月頃、4年生になってソロソロ勉強をしないと卒業できないぞ、と焦っていた僕を、全日本学生新聞連盟(全学新) の香村委員長が突然訪ねて来た。僕は、その全学新の副委員長をしていた。香村君は東大で金沢の出だが、どういう訳か都内の大邸宅に一人で住んでいて、上京の時には定宿にさせてもらっていた。
話はモスクワの世界祭典のことだった。フルシチョフが日本からも500人の青年学生を招待するというニュースは知っていた。
僕には、その2年前のワルシャワ祭典に派遣される代表に選ばれたものの当時の60万円という費用が集まるわけはなく挫折した苦い経験がある。モスクワ祭典には関心がなかった。

しかし、香村君は、僕に代表になってモスクワに行ってくれと言いに来たのである。
何故かというと、その代表に同じく副委員長の慶応のI君が手を挙げているのだが、その政治的傾向として、彼に全学新を代表させるのは望ましくないから、僕と二人を派遣したいという事だ。

迷って神戸大細胞の委員会に相談したが冷淡なもので、そんなところで遊んでくる余裕が僕にあるのかと突き放された。新聞会の諸君は好意的で、2年前のリベンジだからいいじゃないかとモスクワ行きを勧めた。

あれこれあったが、行くことになった。しかし、行かなくても秋までには卒論の大綱を仕上げなければならんのに行くとなれば絶望だから留年は避けられなかった。そこらを香村君や新聞会の諸君と相談している内に、モスクワに行くだけじゃなくついでにプラハの国際学生連盟に全学新の特派員として常駐したらどうか、という雰囲気になった。
そりゃ面白いが、そんなことができるかと思っていた。
まず全学新にそんな滞在費が負担できるわけがない。モスクワに一団で行くのにそのまま別行動をするのも無理だろう。

香村委員長はまず全学連の幹部と話をして、OKを取り付けて来た。滞在費の一部、ポケットマネー程度は国際学連が見てくれる。それだけでは足りないから、いっそのことプラハのカレル大学に留学すればいい。奨学金で特派員生活は問題ない。
モスクワでは最終日に代表団から「抜ける」。名目はブカレストの国際学生フォーラムへの参加とする。もう一人、全国教育系学生自治会協議会のT君がソフィアの会議にと「抜ける」から一緒に、ということになった。カレル大学への留学には外務省か全学連の認証が要るが外務省は無理に決まっているから全学連が9月新学期入学の保証書を送ってくれるということになった。

代表団は、外務省がパスポートの発行に難色を示したため、500人の予定が最終的には150人に決まった。全学新の代表はI君を降ろして僕一人になった。
代表団の一部と同時開催のスポーツ祭典への代表団は新潟から船に乗ったらしいが、大部分は横浜からソ連客船バイカル号に乗った。
2泊3日でナホトカに着き、シベリア鉄道に7日揺られてモスクワに着いた。シベリア鉄道の中では、学生代表団は手書き車内新聞「ズドウラスヴイチェ(今日は)」を発行したが、僕が編集長を務めた。

第6回友好祭について、半谷史郎という人が長崎眞人という参加者の聞き書きを出版している。この長崎という人は当時民青の役員らしいのだが、この頃の民青にいたのに相応しく大衆運動への無感覚が、この聞き書きによく読み取れる。
「この頃の学生自治会はほぼ壊滅状態でしょう」などと言っているのだから噴飯ものである。前年の砂川闘争も知らなかったのか、それとも聞き書の時は老いぼれていて忘れたのか、だろう。
その直前の第9回全学連大会は、香山委員長、牧副委員長、高野書記長を選んでいる。
1957年〜60年は、おそらく学生自治会活動のピークだっただろう、のにである。

友好祭では、僕は「反核兵器フォーラム」に出て、日本の運動について英語で報告した。演説草稿を手直ししてくれたイギリス人の国際学連書記が親指を立ててくれたから一応通じたのだろう。
フォーラムのコミュニケの作成委員にも選ばれて、できたコミュニケの発表もさせられた。

友好祭で一番困ったのは、始まってすぐ2週間分の食券を紛失したことである。幸い、原水協の安井郁さんの娘さんの法政大学から来ていた安井侑子さんが「私は食べないから」と譲ってくれて事なきを得た。

友好祭終了の前日、8月10日、僕は代表団から「抜けて」鉄道でブカレストに向かった。3日間のフォーラムに訳分からず付き合った後、プラハに着いた。

プラハでは国際学連副委員長の田中君が住むホテルの一室に居候した。彼は京大生でおっとりした性格の秀才だった。夜は二人でチンチロリンをしては負けた方がシビンのような入れ物を持ってビールを買いに行った。部屋ですき焼きをして、異臭がすると訴えられ、ホテルに大目玉を食らったこともある。

9月に入って、カレル大学には仮入学が認められ、通い出した。たちまち僕は立ち往生した。まずはチェコ語の学習ばかりだが、講義も宿題も当然英語である。二重翻訳の上、宿題が山のように出る。とてもついて行けなかった。
一方、本入学のための全学連の認証がいつまで経っても来ない。田中君が全学連に催促してくれるのだが手続き中だというばかりだった。

10月になって、全学連から、香山委員長がインドのネールと今会っているのだが、この後カイロでナセルと会談してからプラハに向かう。事情は香山から聞いてくれ、と連絡があった。
香山が来て、留学せずに帰国してくれ、という話である。
神戸大学の中で内紛があって自治会が崩壊状態だという。一度帰って立て直すのに尽力してほしい、という。直ちには信じがたいことだが、信任状が出せないということなら仕方がない。
10月末、国際学連が手配してくれた航空便でモスクワ〜北京〜香港〜東京と飛び、帰って来た。11月1日だった。
友好祭参加者へのパスポートには、「ソ連国内に限り有効」と記載されていた。モスクワを離れ、ルーマニア、チェコスロバキアに行き、その後もポーランドなどに取材に行ったが、どの国の入国にもこのパスポートは有効でなかった。国境では、各国の学生組織のバウチャーを見せると、パスポートに紙を一枚挟みそれに入国印を押してくれた。
帰国の途でも同様だったから、最後に香港に入った時はソ連の入国印しかないのに香港に来たことに審査官は首を傾げながらも入国印を押してくれた。日本への入国に問題なかったのは何故か分からない。

神戸大崩壊は全くのフェイクニュースだったが、知らずに全学連へ高野書記長に会いに行った。高野は居らず、平和運動対策委員長の森田実から香山と同じ説明を受けた。要するに神戸大の僕は国際学連の常駐者としては好ましからざる者であったらしい。
僕の帰国直後、全学連は清本(早大)、赤崎(神戸大)両中執を罷免して分裂への道を歩んだ。
ここからは、また別のストーリーである。


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2019年07月21日

プラハ〜ドレスデン〜ピルゼン

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数年ぶりのプラハは変わらず美しい。
プラハの中心部プラハ1区では新しい高層建物が建てられないからこの景観は変わりようがない。

今回は大洲市の士業の仲間との旅だが、残り少ない時間を目一杯過ごすためにも、年に2回は国を出たい。

ウ・ズラテーホ・ティグラは、常連で大混雑だが、たまたま予約済みだったのでなんとか一角に座れた。

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ここでは、座ると注文なしにジョッキが来る。ジョッキが空くと間髪いれずお替りが来る。周りのチェコ人は何も食べずにワイワイ喋りながら何杯も飲んでいる。
僕らは、何品か頼んでシェアし、4人で500ミリを11杯飲んだところでジョッキにコースターを乗せてフィニッシュした。勘定は現金限定、チップ込み5000円。

2日目のストラホフ修道院の有名な図書館は初訪問、すぐ隣の修道院ビアホールも良かった。

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4日目はバスでドレスデンに向かう。
ターミナルのフローレンツは交通の要衝、乗り入れているメトロの階段に各国語で何か書いてある。日本語もあって「どうしてバスなのですか?電車で行きましょう。」とある。あからさまなライバル意識が面白い。

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ドレスデンは3度目だが、どうしてかいたる所工事中で興ざめだった。

5日目からビールの本場ピルゼン へ、醸造所ツアーでは、冷え冷えした保存トンネルでよく分からない英語の解説を聞き、蔵出しをテーストしたが、寒さで味も分からなかった。








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2019年06月24日

儚い夢

事故に遭ったS3が帰って来た。
姿は元に戻ったし、走りの快適は相変わらずだが、気分が違う。
僅か100日だが、手放すことにした。終いの車だったから保険も完全解約、サヨナラである。
儚い夢だったがこれも定め、結構高くついた夢だが、少し若返った気がする。手放したが身近にあるから、乗ることはできる。
この車にはドライバーが意識を失くした時などに助手席から緊急停止ができるスイッチがある。これからは、一人では運転しないこととする。

夢といえば、このところ、死者ばかり出て来る夢が多い。しかし、考えて見ると、古くからの友人、知人の多くがどんどん死んで行っているのだから、見る夢にも死人が多くなっているのは当たり前のことだ。
しかし、これだけ、あの世の友人達が毎夜出て来ると、呼ばれているような感じである。

抗うように、生きるスケデュールを次々に入れている。
今月のチェコ・ドイツ旅行から10月のラグビーWCまでぎっしりで、11月から来年2月までは仕事多忙であるし、トドメはオリンピック、水泳と柔道のチケットが手に入ったから、1年後までは仲々死ねない。
そう思うと、自分の体が気になって、肺のCTを撮ることにしたり、呼吸器内科の予約を入れた。歩くのも増やし、椅子からの片足立ちなどの自分テスト、スクヮットなどに余念がない。

夜の夢に出て来る友よ、当分は夢の中だけの付き合いにしてくれ。





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2019年06月02日

上り坂・下り坂(2)

5月は、色々あって、時が速かった。
特に、車のトラブルがあって以来は何も手がつかないような日々だった。
幸い、ぶつけた車の持ち主は常識的な人で、冷静に話を進めているが、保険屋には腹立つ事ばかりだ。

癒しに古い映画を見た。「時雨の記」.20年ほど前のものだが舞台は昭和が終わり平成が始まる5ヶ月である。
吉永小百合、渡哲也による中年男女の悲恋を描いて、ストーリーはケレン味のないものだが、時代背景と鎌倉、京都の風景がほとんどなので我がノスタルジーをよく掬い取ってくれる。昭和の最後の除夜の鐘が建長寺から聞こえる中で二人が別れを惜しむシーンはその一つである。

吉永の巧さは相変わらずで、渡はちょうど実年齢を演じているからか割にいい。
渡が扮する大手開発企業の専務は56歳、その時代の僕は53歳である。だから同時代性は強い。

しかし、閉塞感が強い今と違って、昭和から平成への頃の1年はめっちゃ動きが激しかった。
50歳代の3歳違いには大きく世代差があった。
その上、僕は中学生で1年、大学で2年、寄り道しているから、社会人としては3歳上は6年先輩になる。

凄まじいバブルと急坂を転げ落ちるような崩壊の中の6年違いは雲泥の差である。
渡演じる大企業専務はバブルの真っ只中で不倫の恋に人間回復を求め、死ぬ。
この年齢は、後5年早く生まれていれば、学徒出陣で戦地に散ったかもしれない運命にあり、早死にしていなければバブルの後始末で戦犯扱いされた世代である。
反して、少し遅れた僕の世代は、バブルとその後のアップダウンの中で、上がつかえていて中間管理職で苦労した諸君が多い。

この映画の中の男は上り坂しか知らず、僕たちは、上り坂ではこき使われ、その後、責任ある立場になった時は、世間の下り坂の中で苦労させられた世代である。

仕事を辞めて、吉永と二人だけで暮らそうと、死後に残したのが、二人で住むために男が描いた「侘びとさび」に徹した終の住処の心象スケッチだった、というのが、ラストだが、美しくも贅沢な夢の遺産だな、というのが、僻みっぽい僕の感想である。

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2019年05月20日

上り坂・下り坂

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18時間の船旅は、以前の大部屋でごろ寝から格段にレベルアップして、二段ベッドながらカプセルホテル並みのプライバシーは担保されていて、ゆっくり眠れた。
朝5時、東京着、レインボーブリッジを抜けたところで朝日を見る。
その日の行く先はレインボーカントリークラブ、同業者の諸君との交流は一期一会、有意義だった。

横浜に戻って用を足した後、蓼科へ向かう。
S3での中央高速上り坂は実に快適そのものだった。疲れ知らずのドライブである。

蓼科は予想に反して好天に恵まれ、高原生活を楽しむ。しかし、この山荘も去年人手に渡ったから、今は借り宿である。
横浜の土地建物は老妻の老後保障にと10年前に全部譲り渡してあるから、これで不動産的には、文字通り無一物になった訳である。

考えて見ると、10年前には、家作と引き換えに自由の翼を手に入れ、今度は、山荘と引き換えに、翼の一種といえるS3を手に入れたのだから、これはわらしべ長者ならぬ「人生下り坂」みたいなものだが、この下り坂の快適さは僕にしか分かるまい。

と思った途端、昨日、管理事務所の駐車場に車を停めようとしてバックしかけた瞬間、バシャっと衝撃、右からバックして来たらしい車に横腹を掘られた。
頑丈なアウディだからドアが凹んだだけで済んだが、これは参った。女性警官に免許証を渡して、こっちがぶつけた方だったら、また高齢者の、と散々やられるだろう、と言ったらコロコロと笑われた。

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相手は平謝りだが、後の保険屋とのやり取りなど憂鬱だ。
それにこの負傷車で、後1週間の旅を続けることになる。この「人生下り坂」は不快の極みである。



rouhei777 at 06:43|この記事のURLComments(0)

2019年05月12日

東奔西走

連休中とはいえ、その前の4月の半分を遊びまくったから、仕事が待っていた。
愛媛県最西端、佐田岬先端の三崎町、愛媛県最南端、愛南町の漁師町、高知県と山越えで繋がっている山村、松野町へと、いずれも遠くて狭隘な町に走る。
行くのは遠いが、そこにあるのは、心安らぐ海と緑あふれる山々である。ストレスからも遠い仕事だといえる。

連休明けは、群れる日々だ。
飲み会続きで、今度は内臓が休まらない。
昨日は、一転、青空の下、ホームコースの月例会を楽しんだ。最初の6ホールを4オーバーで乗り切ったためエージシュートがチラチラし出した途端にガタガタになって、上がってみれば94と年齢プラス10打の平凡スコアで終わった。

さて問題は、5月中旬からだ。
関東での予定が二つあって、その間に一週間のブランクがあることだ。一つ目は、神奈川で業者の会、二つ目は八幡浜のグループとの軽井沢ツアー。

四国からの航空便二往復か二つのイベントの間の滞在か、のいずれも費用や交通手段の確保などに大きい難点がある。
そこでとることにしたのは、カーフェリーで行ってまたもやS3に乗って帰って来る、という手段。

徳島まで行って東京までのカーフェリーに乗り、一つ目の集まりの後は、蓼科辺りでのんびりした後、軽井沢で合流、最後は四国までドライブ、である。費用的にも足回りも断然有利だ。

残るのはまたもやロングドライブの体力だが、我が四つ足のS3の乗りやすさが助けてくれるだろう。

rouhei777 at 10:44|この記事のURLComments(0)

2019年05月04日

10日間1200kmドライブ

ハワイから帰って、成田のホテルに置いていたS3で延1200km超のロングドライブだった。

先ず東京に戻って、御茶ノ水駅聖口に近いホテルに泊まる。この界隈は、学生時分、何かとウロウロしていたエリアだ。学生新聞連盟の副委員長だった頃の連盟事務局は水道橋だったが、会議は御茶ノ水が多かった。原稿書きもここの音楽喫茶での徹夜、明治の学食で朝飯を食ったものだ。

創業60年という老舗のサテン穂高で朝コーヒーを喫したが、この店でさえ、あの学生時分にはまだなかった訳だ。
ここの不変のシンボルは、やはりニコライ堂だろう。この絵だけで御茶ノ水とすぐ分かる。

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日程的には、この後、富士の名門ファイブハンドレッドクラブでプレイした後、横浜に戻った。
ここまででドライブ200キロ超。
横浜山下町の古いライブハウスで久しぶりにカクテルを飲んだ。若いプレーヤーの必死さがここにはある。

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この後、老妻との終活ドライブに入ろうとして、訪問先の義兄危篤の報に接する。後は前稿「大正の男」の通り。

岐阜から京都へ、義兄を見送った後、四日市に戻って90歳の実兄を見舞う。思ったより元気だったが、酸素吸入の器具が欠かせないとあって、外出困難だというのが気の毒でならない。

四日市から奈良へ。急に寒風酷くなった古都には、インバウンドが充満していた。ここで京都から新幹線で帰る老妻とバイバイしてから、最後の立ち寄り地、神戸に入る。

昼は明石焼き、しかし、明石の街に100店もあろうかという明石焼き屋(明石では玉子焼きという)は、連休に入ったからか、どこも大行列である。幸い、僕ご贔屓の店は待ち時間が10分ほどだったが、テレビに出た店なんか50人近く並んでいた。

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淡路でタマネギ関連を買い込み、四国に入っても止まり止まり、大洲に着いて、メーターは1200km超。
10日間、ドラマもあった超ロングドライブが終わったのは平成最後の日だった。

rouhei777 at 05:49|この記事のURLComments(0)

2019年04月28日

大正の男

亡き姉の夫、鈴木の義兄さんが死んだ。この夏には99歳になる筈だった。
昭和の時代を真っ直ぐに生きた大正の男だった。

電気系エンジニアだったが、55歳定年であっさりサラリーマンを卒業し、しばらくして故郷の丹波に隠遁した。
神戸生まれの妻たる姉は、田舎生活に恐怖を感じつつも夫に従い、奥深い丹波て十数年暮らした。それでも夫が町長候補に擬せられた時は、流石に眦を決して抵抗し阻止した。

姉が死んで出棺する時、その額に長い接吻をしたにいさんは神々しかった。

両親を若くして亡くした僕にとっては親代りの存在だったし、人生の師でもあった。

つい旬日前に、僕ら夫婦でこの人ともう一人の実兄を訪問することを打診したばかりで、本人から楽しみに待っているとの葉書を貰ったばかりだった。訪問予定日の三日前の早朝に息をひきとった。

数日前に昏睡状態になったという知らせを受けたが、それ以来、薬物等による延命措置を拒否したばかりか、水を飲むことも頑として拒んだ、というから、強い意志に根ざした死だったと思う。水でも飲もうものなら、後いつまでかは生き延びて皆に迷惑を掛けると思い、それが嫌で断ったのだろうと想像すると、その潔さにこうべを垂れるのみである。
文字通り枯れ果てて逝った老衰死である。

荼毘に付された骨は、頑丈だった人のものだったが、今年に入って骨折したという大腿部に長い金属製の棒が埋め込まれていたのが終末の辛さを示していた。

ただただ、有難うございました。


rouhei777 at 16:35|この記事のURLComments(0)

2019年04月21日

消え行く太陽

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ハワイ島アクティビティの最後は3ラウンド目のワイコロアキングコース、バンカーの牙に折れかけたが、何とか100は切れた。

打ち上げはサンセットディナー、消え行く太陽を見る老人の図である。

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2019年04月19日

ハワイ島再訪

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昨年に続き2度目の訪問、M君のコンドミニアムで早くも4日目となった。
着いた日から二日連続のゴルフだったが、三日目は休養してマウナケアの海岸やクラブハウス、ヒルトンの中庭で疲れを癒した。同行の衆は、その日も午前ゴルフ、午後は星空ツアーとタフに動いている。

M君は、心臓に人工弁を入れている障害一級だというが全くの元気印、その仲間たちも愉快な行動家ばかりである。その一人Oさんは僕より二つ若いだけだが、今日まで四日連続のゴルフにも、調子が出て来た、と嘯いている。Yさんは、何と明石生まれの明石高校後輩ということで母校の話で大いに盛り上がった。
Sさん夫妻はまだ60歳代とグループの青年団で、食事作りなどに奮闘して下さって、お陰で上げ膳据え膳の毎日を送らせていただいた。

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とにかくこの島は雄大でナチュラルで完全にリラックスできる。マウナケアホテルのコーヒーを注文したらホテルゲストと思われたのかフリーだというし、ヒルトンの駐車場にM君がレンタカーを乗り入れたら、ホテルゲスト専用の出口が無人で開いていて、ちゃっかり利用させてもらった。

あっという間に今日は最後のゴルフプレーとフェアウェルパーティになる。宴は楽しくも短い。

rouhei777 at 01:53|この記事のURLComments(0)