2008年03月22日

モーニング娘。コンサートツアー2008春〜シングル大全集!!〜 3月22日松戸森のホール21 昼公演

mori
春ツアー初日初公演に行くことが出来ました。昨年のツアー最終公演依頼となります。この間正直、情報に疎かった訳で、彼女達に何が訪れて、また何が起きつつあるのか、ステージで予備知識無しに確認することになりました。デビュー以来の一ファンとしてはこれは言い訳にならないとは思いますが、歌手である彼女達に対し、対価を支払い接し、その限られた時間(と空間)を評価するには悪くないことなのではないかと強引に自分を納得させています。

セットリストは文字通り、次回発売の新曲を含めシングル36曲を全て歌うというもので、昨年以来彼女達の活動を歴史と捉え振り返る企画が多い中決定版といえる内容です。その意味ではツアーというよりイベントに近いのかと想像されても仕方ないかも知れません。しかしそれは杞憂に過ぎず、モーニング娘。という9人の現役の歌手が、今、ことのときにそこに集った自身のファンに向けて歌を歌う、文字通りのライブが2時間展開されました。

いや、寧ろ、10年という期間その時代の空気を彩り、あるいは空気に彩られてきたが故に必然的に異なる位相をもった楽曲群が同時に一気に提示されるが故に、これまでのツアーのどのセットリストより結果的にバラエティに富むものとなって提示されてくることに目眩すら覚えました。そして同時に現メンバー9人が提示するモーニング娘。という存在の特徴を際立たせるに相応しい構成であると受け止めました。

今回のツアーは、決してモーニング娘。というパッケージの歴史を振り返るものではありません、今回のツアーは結果的に長く応援してきたファンがその記憶を思い出として反芻するものではありません。自分が応援してきたモーニング娘。が実は「」であったと其々が発見するライブです。


ライブの特徴は36曲を歌うという前提から規定されたものだと思います(その意味ではイベント的であることは確かです)。これは最近の傾向でもあるのですが、あらゆる意味で歌に比重が置かれています。

先ずは、ステージングの面。モーニング娘。にしては決して大勢とは言えない9名ですが、それでも狭いと感じるほどにステージは狭く、視界に9人が納まる場面が極めて多い。これはモーニング娘。をそれぞれが一個人応援するという形が崩れ、結果的にチームを応援する形に自然に収斂する効果を生むと同時に、メンバーはこれまで以上にステージングのスキルを求められますが、結果的にフィジカル面での負担が減り、歌唱に余裕が生まれます。

そして、役割をはっきりとさせたパート割。この存在が、異なる時間に作られた異なるテイストをもった楽曲群を今のモーニング娘。が今のモーニング娘。として表現することを可能としています。

リーダーである高橋さんへの依存が鮮明となり「モーニング娘。のベースとなる声」が一人称として見えやすくなったのがなにより特徴的です。これは決して他のメンバーのスキルが低下しているが故の緊急避難的な措置ではありません。もう一人のトップである田中さんのモーニング娘。の中では特徴的な明るい歌唱が高橋さんと美しい対象をなし、其々を引き立てる効果は素晴らしいものです。高橋さんと田中さんは明らかに9人の中では(歌唱という意味に置いて)抜けていると思いますが、その中で絶対的な軸として高橋さんを置いたことで其々のポジションが明確なったと思います。

パート割で特徴的事がもう一つ、9人のメンバーを5人と4人に分けたのかと疑われるほどに役割を明確化したということです。5期、6期の5人がメイン、7期8期の4人がスパイスという形になっています。

高橋さん、田中さんというトップ、それをサポートしときにトップとしての役割を担う新垣さんと亀井さん(特に亀井さんのスキルアップには目を見張るものがあります)としてメインの位置にいて、ニュアンスを変える役割を担う道重さん。今回のツアーにおけるモーニング娘。をヴォーカリストとしてみた場合、殆どの場合においてこの5人の総和において成り立っているといって良いと思います。

では、後の4人に期待するものはないかというとそんなことはありません。メインでは成しえない幅、つまりふり幅を広げる重要な場面で久住さんも光井さんもその個性を活かして印象に残ります。ジュンジュンさんとリンリンさんは(失礼かもしれませんが)予想に反しヴォーカルにおいても極めて透明な存在であり、その個性の無さがモーニング娘。においては極めて個性的です。それは簡単なことではありません、一定以上のスキルが無ければマイナスな意味でも透明ではなくなるからです。


そんな、歌手であるモーニング娘。が提示した音楽の特徴とは何でしょうか。それは丁寧であり、楽曲そのものが本来持っている特長(それはメロディーや歌詞、そして振り付けや衣装を含めた総体としてのものです)を浮き彫りにする控えめな姿勢を保持しながら、しかし、同時にその場に居合わせた聴衆(それはイコールファンですが)と呼応することで、過去でも未来でもない、その瞬間に生まれ、そしてその瞬間に消える「音」を届けるライブ感を強烈に放つという、一見共存し得ない個性です。

その個性が「リゾナントブルー」も「大阪恋の歌」も「I WISH」も「サマーナイトタウン」も、並立しうる音楽として提示し、そしてそのどれもが、初めて接する新鮮さに満ちた発見を提供するのです。


ツアー初日、初回です。馴染みの曲であるが故に、想像以上に余裕を感じたことは確かですが、メンバー其々が手探り状態であったことも事実です。ツアーが進むにつれ獲得する自身と余裕、そしてそれ故に掴める何かを重ねて、どの様なモーニング娘。が完成するか、また、モーニング娘。の36曲が、それぞれどの様な音楽として完成するか、楽しみなツアーとなりました。

日程的に余裕の無い毎日を送っていますが、可能な限り経過を見守りたいと思っています。

これからツアーに参加される方々は、なによりこれまで幾度と無く彼女達のライブに足を運んだファンであるなら尚更、新しく、そして新鮮な歌に接することが出来ると思います。楽しみに、そして期待をして待っていてください。それは彼女達のファンであることの幸せを感じる時間になる筈です。

  

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2007年09月24日

モーニング娘。コンサートツアー2007秋 〜 ボン キュッ!ボン キュッ!BOMB 〜  大宮

soniccity
秋ツアーの初日、初回に参加することが出来ました。

決して最初であるとか、最後であるとかに拘っている訳ではないのですが、(2000年以降全てのツアーに参加してきた私の個人的な規準でしかない事は前提ですが、最もモーニング娘。らしく、そして最もモーニング娘。の音楽を提示することが出来たと確信している)今年の春ツアーも初回とラストに立ち会うことが出来、それからの比較において、少なからず変化したモーニング娘。の現在とこれからを確認するにはとても良い機会となりました。


ファンが仲間内で単に意見交換を交わすのであればともかく、或いは、ファンがその対象を個人の趣味志向として楽しんでいるだけであるのならとくかく、ファンである個人(この場合私自身ですが)が、第三者に向けて(或いは目の触れる可能性のある場所に)文章を書くのであれば、マイナスの評価行うという事は、それが例え本心であったとしても、あまり意味が無いことであると思っています。何故なら、可能性は極めて薄いとは思いますし、自分にその力は備わっていないとも思いますが、目的は、未だモーニング娘。という歌手の歌手としての存在を知らない、未来のファンに向かって、ファンであるが故の特権として受け取ることの出来る彼女達の力を伝えることのみがその目的であると思っているからです。

では、2007年9月20日の大宮での彼女達モーニング娘。はそんな未来のファンに伝えたい何かを届けてくれたのでしょうか。残念ながら、そうとは言えませんでした。手探り状態である彼女達が、手探り状態であることをそのままステージ上で表現してしまった、いや、隠すことが出来なかったという状態でした。


誤解して欲しくないのですが、プロの歌手としてのスキルに掛けているとか、彼女達のメンタリティがそこに詰め掛けた聴衆の期待に応えていないということではないのです、増して、ツアー初日の初回であるが故の物理的な手探り状態とも異なります。それは、2005年の夏秋ツアーから今年の春ツアー最終日まで一貫して追及してきた、モーニング娘。がモーニング娘。を探り、そして探り当てるという過程が、確実に、そして二年ぶりに止まったという事が露呈したということです。

すこし回り道になりますが、分かり難いと思いますので、この過程についてもう少し詳しく言及します。モーニング娘。がモーニング娘。を探る過程とは、歌手としてのモーニング娘。への挑戦ということです。それは、歌という音楽をステージングという総合された空間で、ファンと「STAR」との関係ありがちな共有された記憶という前提や助けなしにその瞬間のみに勝負するという姿勢であり、世間一般で認識され、またビジネスとしてもそれを基盤として活動しているといってよい、アイドルとしてのモーニング娘。というスキームを少なくともその主戦場であるコンサートの現場では捨て去るという実験的な試みです。

ここ2年間のモーニング娘。は、実質的にファン層の拡大が出来ず、固定化した(しかし決して少人数ではない、そして熱心な)ファンを市場としながらビジネスとしては縮小均衡での展開をしているにも拘らず、その音楽活動における実体は過去に無い程に、まだ見ぬ未来のファンに向かって開いていった、という矛盾した状況にありました。一部のファンにとってはそれは戸惑いを与えることになりましたが、それは、決して作り手側が(世間一般でそう思われている通りに)惰性で続けているのではない事の証であると同時に、今もまだ、未来に向けて挑戦と実験を続けていることの証でもあります。

この取り組みは、モーニング娘。という状況を考えれば分かりにくく届きにくく、即効性のないものでですが、決して間違っていないと思いますし、これからもモーニング娘。が歌手として活動を続けていくのであれば必要不可欠な価値観であり続けると思います。

しかしこの大切な取り組み、今回のコンサートで一旦止まってしまったという事なのです。そして止まってしまったことで、今現在のモーニング娘。は決して外側に開いていない、いや開くだけの力に欠けていると云わざるを得ないのです。


それはどうしてなのでしょうか。簡単な結論と思われる様で困るのですが、やはり、吉澤さんという歌手を失っただけでなく、予想外の展開の中で藤本さんという歌手を同時に失った中、言語は文化を含めてこれから共有化を図らなければならない「新人」2人が加わったという事実が、直接の原因であると思います。

しかし、それは単に、実力者の脱退と未経験者の加入による、チーム全体のスキル低下という単純な事態、或いは、知名度の低下が引き起こすモーニング娘。それ自体の魅力低下という事を意味しているのではありません。そうではなくて、このような事態の中で、メンバーそれ自身以外の作り手側がコンサートツアーをというビッグビジネスを展開するに際して、必要以上に「守り」に入ったということが原因の第一、そして、その「守り」に入った構成を受け最終的に表現するメンバーが(少なくとも22日の昼の部においては)先ずは無難にこなすことを優先したことが第二の原因であると思います。

「守り」とは、ステージ上でのその場での表現以前に、これまでファンと築き上げてきた記憶を喚起したり、サウンドとリズムで物理的な躍動を喚起する楽曲を並べたこと、9人で構成されるチームである筈のモーニング娘。のなかで安定感のあるメンバーにヴォーカルの比重を極端に高めている事、そして、自身の確固たる世界観を既に構築している安定感のあるユニット美勇伝をゲストに迎えることで、コンサートとしての安心感を高めようとしたことです。

結果として、セットリストは楽しく、また疾走感に溢れているのですが、バラエティ感やメリハリという点で不満が残り、ヴォーカルについても、モーニング娘。が備えている様々な魅力の一部しか表現されていない、また、美勇伝の安定感が、モーニング娘。の現在抱えている一瞬の過渡期的状況を不安定さとして固着させてしまうという残念な結果になっています。


繰り返しますが、だからといって、このコンサートがつまらないという事ではありません。少なくともこれまで応援してきた、そしてこれからも応援して欲しい、何よりも大切なファンに対しては、充実した時間を提供するという意味でも、また、そこに足を運んだ事への感謝の気持ちという意味でも、十分に応えています。それ以上に、コンサートで自分達の歌を歌い、その事で会場全体の幸せな場を創ることの出来る事への喜びに満ち溢れたメンバーの姿に接すれば、ファンとしては十分満足なのです。

今の彼女達に(いまこの瞬間に)足りないのは9人というチームを前提とし、それを活かしきった上での自由さの獲得、そして、それによって実現できるモーニング娘。という他に真似することの出来ない音楽の創造です。

そして、それは決して遠くない将来、これまでとは違った形で獲得してくれること期待する事が出来ました。そして、決して遠くない将来、「モーニング娘。を知らない事って損してるって事だ」と再び言えることを期待しています。



期待が期待のままに終わらないために、最後に、私がこのコンサートで彼女達から受け取った「期待」の芽を記しておきます。


意識するのではなく、意識が追いつかない視線すら定まってない状況下で、ただ体だけは動いている(それはある意味凄いのですが)、本当の意味で、そして中々居そうで実は居ない、新人らしい新人であるジュンジュンさん。極めて日本的な価値観であるアイドルというスキルでは表現できない可能性をスキルを伴いながら両立させる可能性に期待しています。

歌うこと、踊ることを技術として捉え、人前で演じることは才能という前提が必要であると意識しながら、それに足るべる自分自身を鍛錬する姿勢を打ち出すリンリンさん。それを乗り越える自由を獲得したとき、果たしてどこに進むのか、それを決めなければならないとき他のメンバー8人は彼女にとって貴重な存在となる筈です。

メンバーの中の確固たる1人として、その立ち位置を獲得したかに見えた光井さんは、無難さを追及した今回のセットリストにおいて、寧ろ後退した印象を抱かせます。しかしそれは順調すぎた歌手としてのキャリアにとっては自分を見つめなおす良い機会となるでしょう。与えられたソロをツアーを通して歌手としての自分を獲得する場で考えて欲しいと思います。

ソロとしての実績を着実に重ねつつある久住さん。これまでは、お気楽な後輩として受身な姿勢でも十分にその存在感を示して来ましたが、実は今のモーニング娘。にとってその個性的な歌唱が求められていることに気付くべきです。9人の内の1人として、何が出来、何が貢献できるのかを考え、求めても得ることの出来ない、恵まれた個性をスキルとして伸ばしてください。

着実に成長を続けると共に、ステージの上で歌うことの自分にとっての意味を確りと意識しているプロらしい歌手の田中さん。彼女は成長してモーニング娘。と一体化するのではなく、益々、「田中れいな」としての存在感を獲得しています。もっともっと自分を磨いて、モーニング娘。を振り切ってください。そしてその結果をもってモーニング娘。の可能性を切り開いてください。

今のモーニング娘。に相応しい楽曲(ミディアムテンポで表情が求められる楽曲)において、想像以上の実力を発揮する亀井さん。反面、ファンが期待するアップテンポの楽曲になると途端に凡庸になる彼女のヴォーカルは実はとてもモーニング娘。らしいのです。今一瞬の状況では彼女に掛かる負担は大きいと思いますが、それは他のメンバーが補完しなければなりません。

ステージ上で立ち居振る舞いが映える道重さん。反面ヴォーカリストとしては重要なポジションを任されて来ませんでした。しかし今回のツアー、今回のメンバー構成に置いて、彼女の歌唱はモーニング娘。にとって貴重なスパイスであることが顕在化しています。その事を意識してそれに見合う安定度を獲得できるか、とても期待しています。前例はあります、吉澤さんの様に。

あらゆる面においてモーニング娘。の安定を担っている新垣さん。最年少で加入した当時、今の姿は正直想像できませんでした。現在のポジションを得たことを誇って良いと思います。安定は必要ですが、安定さを担うことは「つまらない」事であると認識して欲しいと思います。新垣里沙であることで突き抜けて欲しいのです。突き抜けてモーニング娘。の個性を担ってください。

今のモーニング娘。は高橋さんに依存しすぎています。そして逃げずにそれを担う覚悟を決めている事には敬意すら感じます。近い将来、彼女の負担が軽くなったとき、彼女自身の存在感も同様に軽くなるのか、否か、とても楽しみです。中心であるが故に、目立たない、存在するが故に他が自由を獲得できるそんな新の意味での「センターポジション」を担ってくれることを期待します。

  
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2007年05月07日

モーニング娘。コンサートツアー2007春 〜セクシー8ビート〜 最終日 卒業

saitamaさいたまスーパーアリーナでモーニング娘。のリーダーである吉澤ひとみさんは卒業しました。そう素直に言える自分に少し驚いています。

卒業という言葉、それ自体がもつイメージ、時に、「寂しく」時に、「希望に満ち」時に、「過去を振り返り」時に、「未来向かう」時に、「感謝し」時に、「反省する」そしてなにより「祝福に包まれる」そんな全てに相応しい、素晴らしいコンサートでした。

「終わりがあるから、始まりがある」と言った彼女の言葉、私は寧ろ、一ファンとして「築き上げた過程があるから、終わることが出来る」と返したいと思います。



文字通りの卒業コンサートに参加して、一日が経って、その余韻はしつこく醒めないのですが、しかし、吉澤さんが居ないモーニング娘。について考えざるを得ない気分になっています。その手掛かりとなる事を期待して吉澤さんが居た(リーダーであった)モーニング娘。について整理してみようと思います。



「リーダーが変われば色が変わる」という藤本さんへ向けた言葉がとても印象的です。それが正しいという受け止めではなく、「自分がリーダーであることによって自分自身のみならす、自分が属する「モーニング娘。」という存在が変わりうる。」と本人が思っていたということ、そしてそれを最後に敢えて発言したという事がとても印象的だったのです。

そう思い続けながらリーダーであり続けたとしたら、それは想像以上の重圧であったでしょうが、同時にリーダーという責任、何よりモーニング娘。であることを全うした彼女なりの自負心の表れだったのではないでしょうか。



実際に、今振り返ってみれば、彼女がリーダーに就任した2005年4月以降、そして彼女が折りに触れて「新生モーニング娘。」という言葉を発して以降、確実にモーニング娘。は変わったし、同時に吉澤ひとみというリーダーも変わっていたことに今更ながら驚いてしまいます。

どの様に変わったのか。私なりの思いを申し上げれば、それは、乱暴に表現すれば、歌(音楽)を通して、その人を応援するというスタイルから、歌(音楽)に触れることでその人を応援したくなるというスタイルへの転換であったと思います。



モーニング娘。というチームが置かれた歌手としての状況は吉澤さんがリーダーに就任する前から「活動の可能性」という面では、マイナス方向に収束し続けていましたが、その中でリーダーとなった彼女が「色が変わる」と信じて突き進んだ方向は、最後まで砦として活動の中心として現在までぶれない軸として続いているコンサートにおける「良い歌を届ける」という行為に全てを収斂させるということだったのではないでしょうか。

それは簡単な選択ではなかった筈です。

彼女の決意は、プロの歌手としてのスキルでは同等、いやそれ以上であったりする後輩達に対し、戦いを避けるのではなく、敢えて勝負を挑み、自分を変えることを厭わないという行動に帰結します。それは諦める事無く2年間続きました。そして、その結果、驚くべきことにチームをも同様に変えてしまいました。それは正に「リーダーが変われば色が変わる」ということであったのですが、実は本当はそうではなく、「変わろうとしたリーダーが色を変えた」ということだと思います。



最近コンサートに参加して、例えば、「推し」のメンバーを応援するために、或いは、メンバーと一緒に燃え尽きるために「参戦」したのに、何かしっくりしない、しかし、とにかく楽しいコンサートで、結果的にとても満足だった。という気分なったことはありませんか。それは誤解でも偶然でもない、吉澤さんというリーダーの基、モーニング娘。が目指した方向だったのだと思っています。

それは、時間の経過を共有してきたファンを大切にしつつ、初めてそこに様々な切っ掛けで訪れた聴衆(未来のファン)も同様に大切にする姿勢であり、それは同時に、周りに支えられるだけではなく、自分自身が自立するという宣言であり、そしてそれこそが「新生モーニング娘。」なのだと信じ、信頼しています。



彼女は、可能性が無限に広がる状況において許される「吉澤ひとみ」というファンと自身との間で了解された人格に依存する(それはある意味才能のある人にとっては楽な選択ですし、事実彼女には同期のメンバー同様にその才能に溢れている人です)のではなく、会場まで足を運んだファン、或いは聴衆に対し、これまでの経緯を前提としなくても楽しんでもらえる、時間を空間を提供するプロの歌手としての「よっすぃ〜」であることに徹することを選びました。

そしてモーニング娘。を去る最後まで、プロの歌手である「よっすぃ〜」としてステージの上で訪れたファンと対峙し楽しませる姿勢を示し続けてくれました。



卒業の名に相応しいコンサートはしかし決して卒業式というセレモニーでありませんでした。開始から終了まで、彼女達が築き上げてきた「何より楽しいモーニング娘。のコンサート」でした。それは吉澤ひとみというモーニング娘。のリーダーが言葉として発しなかった確かなメッセージだったと思います。



「普段は綺麗なお姉さんなのに・・・・全てを棄てて演じきる」事が素敵であるという言葉を届けた田中さん。どうしてコントの事にこの場で言及するのかその場では分かりませんでした。でも、それは「プロの歌手としての意識」への最大限の賛辞であり、その事をこれからも引き継いでいくという決意だったのだと今は理解しています。



ありがとうございました。本当に、そして心から、ありがとうござました。そして今以上に期待しています、吉澤さんにも、何よりこれからのモーニング娘。にも。
  
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2007年03月18日

モーニング娘。コンサートツアー2007春 〜セクシー8ビート〜 座間

zama春ツアーの初日、初回に行ってきました。

ツアー初回は、ファン的視点から見れば、事前知識がない新鮮さ、何より久し振りの彼女達との再会、そして、初めてであることから必然となる会場全体の緊迫感など特別なものなのだと思いますが、同時に、ツアーというものはその言葉通り、線として展開していく中で変化し成長していくものであり、作り手側にとっても、そして受け手であるファンにとっても、結果として望んでいるものを探り、評価するのであれば、少なくとも中盤以降のステージをもって受け止めなければならないと思っています。

しかし、今回敢えて初日に向かい、そしてその感想をこうして記すのか。それは、彼女たち自らが「新生モーニング娘。」と自らを発して以降、2005年の夏秋にその発芽が見え隠れし、2006年春、その方向性が明快となり、2006年の秋、極めてタイトにプレゼンテーションされた、「歌手として歌うことで音楽という(モーニング娘。にしか出来ない)空間を提供するという姿勢」。それはある意味、昨年末で完成されたといっても良い位の出来栄えでしたが、それ故に、今後どの様に展開される(しようとしている)のか、その可能性は果たして存在するのか、という事が気になっていましたし、それが一番端的に示されるのは、受けて側の反応がフィードバックされない初回が一番であると思ったからです。

最初にコンサートと終えて一番印象に残ったことを記します。それは「肩の力が抜けたモーニング娘。がそこに居た」という事。そして、「ファン(或いは男性)が求めるモーニング娘。ではなく、自分達が目指したいモーニング娘。を模索し始めている」という事。これは新生モーニング娘。の始まりが終わり、新生モーニング娘。の行き先を探す過渡期に入ったという事なのではないかと受け止めました。


始まりが終わったということ。それは乗り物に例えれば加速度が零となったという事でしょうか。これまでのツアーにおける張り詰めた緊迫感が良い意味で解放され、初日であるにも係わらずより「楽しむこと」にシフトしたという印象がコンサートを通じて全体として流れていました。それはとても新鮮でしたし、彼女達につられていつの間にかリラックスしている自分に気付き、少なからず驚いてしまった位です。モーニング娘。という存在は何事にも、特にコンサートという場面と対峙した場合、気合をもって望むという姿勢(それは良い意味で作用した時季も、悪い意味で作用した時季もありましたが)を堅持してきましたが、それが10年目にして初めて崩れ始めているのであるとしたら、大きな、そして決定的な変化です。勿論、今日一日でそれを判断する訳には行きません。しかしそうであることに期待したい、と思っています。何故なら、それは歌手になりたいという過程への賛同を求めるモーニング娘。から、歌手であることに共感を求めるモーニング娘。への脱皮であることに他ならないし、その事をファンでも、或いは周辺の状況や思惑でもなく、他ならぬ彼女達自身が気付いたという事だからです。


自分達が目指したいモーニング娘。への模索は始まったばかりです。その気配は感じられてもその方向を受け止めることはまだ出来ていません。但し随所に手掛かりとなりそうなヒントが隠されている様な気がするコンサートでした。

誰が見てもテーマが明快に示めされるモーニング娘。のコンサートにおける舞台美術ですが、今回は音符(や音符記号)が具象的に配された白いステージで、いつにも増してシンプルです。ライティングのシンプルさ、PV的に使われるスクリーンと彼女達の何時にもました一体性などが加わって、結果として視線は彼女達個人に比重が置かれることになります。音符を使っているから音楽がテーマなどとは流石に言いませんが、単に歌うだけでも、単に踊るだけでもない、ステージ全体(時に聴衆をも含みますが)が紡ぐ世界観がモーニング娘。のコンサートである訳で、その事を念頭に置けば、その世界観における彼女達自身に比率が重きを成しつつあるということなのではないでしょうか。

衣装についても具体的な点は指摘できないのですが、何かこれまでの流れとは異なるなという印象です。とにかく薄着に終始します。それは端的に言えば露出度が高いということですが、想像通り、結果的にSEXYに結びつくということはありません。スポーツ選手おいて顕著であると思いますが、肉体を晒す事により言外に伝わる個人、彫塑的な効果より歌手としての彼女達がクローズアップされます。実際的な効果を申し上げれば、重ね着による衣装チェンジという手法を最小限に留めているということでもあります。結果として、彼女達が歌に合わせて世界観を提示するのではなく、彼女達自身が主体となって歌を提示するという効果を生んでいます。

セットリスト、曲目ついては、初回であるという効果が効いているのかも知れませんので印象は異なってくるかも知れませんが、少なくとも今回のコンサートのみでという限定となってしいますが変化を感じました。それは、モーニング娘。のコンサートにおいて顕著であった「ノセてなんぼ」「ノッてなんぼ」という世界観、或いは「知っているという前提に基づいた強固な関係性と馴れ合い、そしてステイタスの形成」という、結果はあまりに対極であるとは言え、例えばクラブそのもの成り立ちや、それにおけるDJと客との間にも似た関係性からの脱却を志向し始めているという事です。

所謂モーニング娘。らしい曲、聴衆との(合いの手やお決まりの応援スタイルを通しての)物理的一体感を訴求する楽曲を決して否定はしていません。また逆に、ソロや少人数による楽曲における歌や歌声、そして歌以前に歌う人その人の主張という歌手としてスタイルに固執する訳でもないのです。モーニング娘。という「枠」を広げようとするかのごとく、バラエティに富んでいるという表現したら良いでしょうか。(それを誘うが如くのプレゼンテーションも含めて)ファンとのお決まりの曲があるかと思えば、歌を歌として聴かせようという曲もある、加えて、楽しいけれどノルというより聴いてしまう曲もあれば、その様な心構えが無いのにいつの間にか体で聴いている(つまりノッている)曲もあったりします。様々な提示が様々な手法をもってプレゼンされるので、一貫した印象や、終始ノンストップで盛り上がるという感じではないのです。そういう意味では、コンサートで発散しようとして乗り込んだファンが居たとしたら拍子抜けするかも知れませんが、そんな人達を含めて結果的に楽しかったという印象を持って会場を出ることが出来ると思います。それはつまり、モーニング娘。を楽しむつもりが、いつの間にか音楽を楽しんでいたという事なのです。

この様な勝手に受け止めたヒントからモーニング娘。模索しているモーニング娘。の姿を思い切って表現してしまえば、それは、「彼女達其々がモーニング娘。となる前にモーニング娘。になりたいと思った、そのモーニング娘。を目指している」という事なのではないかと思っています。彼女達は私も、そして多くのファンがそうであるように男性ではありません。一人の今日よりも明日に希望を意味出せる本当に若い、そしてそんな希望を実現できる才能をもった女性が夢見たモーニング娘。を今実現しようとしているのではないかと思うのです。それは決してファンを裏切るという姿勢ではありませんが、ファンに阿るという姿勢でないことは確かです。

17日、曇りの予報が外れ、日が差し込んだ、座間の住宅地の真ん中で出会えた彼女達は諦めては居ませんでした。妥協もしていませんでした。寧ろ未だモーニング娘。が先を目指しで進んでいるという事を教えてくれました。そしてその事は、モーニング娘。のファンであるという事が、決して馴れ合いでも余興でもなく、増して単なる応援でもない、現在進行形であることの証であり、それが何より嬉しい事でした。

既にモーニング娘。とは過去の存在であるとの認識は当たり前となっています。移り変わりの激しい世の中で10年も続けていれば、或いは超然たる個というカリスマでは無いのならば、それは当然の事といえます。寧ろ現在進行形であるという意志にとっては「モーニング娘。」という記号は時に障害となるかも知れません。しかし彼女達は過去に甘んじる事もなく、現状に妥協することもなく、音楽という楽しみを楽しみとして伝えることに前向きです。その事を敢えて言えば唯一受け止めることが出来る機会を得ているファンは幸せであり、同時に、そうであることを伝える役割を担わされている事に気付いて欲しいと思います。



最後に、17日の彼女達について一言だけ。

光井愛佳さん
本来一番に触れるべき新メンバー、ツアーデビューとなる彼女に敢えて触れなかったのは、新人として評価するのは失礼であると感じるほどに九分の一として機能してからです。モーニング娘。を形作る芯(メイン)を形成する歌い手としてモーニング娘。の幅を広げてくれたことに感謝しますし、彼女を迎えることが出来たモーニング娘。は幸せです。

久住小春さん
新人らしい新人として未だ新鮮ですが、この新鮮さはこのままずっと保たれるのではないかと思ったりしています。訓練では習得できない存在感は実は今のモーニング娘。に欠けている存在感です。コミカルな歌唱が今はモーニング娘。におけるスパイスですが、将来それがモーニング娘。という枠を突き抜けるか否か、楽しみです。

田中れいなさん
現在のモーニング娘。において彼女は決して中心ではありません。その明るい声質は貴重なスパイスとして大切に機能しています。しかし、何より、一瞬たりとも気を抜かないステージ上の姿は実は後輩の見本であり、先輩への突き上げであり、モーニング娘。をモーニング娘。として成り立たせている原動力なのです。助かります。

道重さゆみさん
田中さんと並んでモーニング娘。のセカンドラインともいえる明るい声担当です。彼女は明らかに迷っています。しかし、その迷いを迷いのまま表現してしまっても、それが魅力となる不思議な個性を持っています。このまま迷い続けて下さい。迷って迷って迷いぬいて、それでも結論を出さずに走り続けてください。そんなあなたは格好良いのですがら。

亀井絵里さん
道重さんとは逆に迷いを脱しつつある。いや迷いより意思が勝っているという言い方が適切かもしれません。あらゆる意味でモーニング娘。のスタンダードであり、彼女が巣短ダートであるということはモーニング娘。がかなりのレベルにあるという証明でもあります。ただ、その安定した強い意思が今まで通り歌に向かうことを祈っています。

藤本美貴さん
藤本美貴という歌手が既に藤本美貴で完結しているということに世間は気付くべきであると思います。そしてその上で彼女がモーニング娘。のメンバーで居続けることの危うさと大切さにファンは気付くべきであると思います。モーニング娘。無くしても彼女は存在しますが少なくとも今のモーニング娘。にとって彼女は不可欠の存在です。

新垣里沙さん
モーニング娘。であるというより、年齢なりの女性として抜群の安定度を誇る彼女は、徐々にその存在感を増しつつあり、今ではかなりメインに近いヴォーカリストとしても活躍しています。此処まで到達した実力と努力は賞賛しますが、これ以上先が今は見えにくいという事実もまた受け容れるべきでしょう。どう解決するか楽しみです。

高橋愛さん
彼女がモーニング娘。の中心で居ることを認めつつ、彼女が中心のモーニング娘。という形が見え難かったのは過去のことと行って良いでしょう。ここ一年で急速に輝きだした彼女はいつの間にかモーニング娘。という枠を越え、高橋愛として存在を主張し始めています。彼女が居るモーニング娘。に私は可能性を感じ、期待を込めています。

吉澤ひとみさん
このツアーで脱退する彼女は主役の一人です。確実に主役に相応しい存在として振舞っていましたが、既にリーダーとしての役割は少なくとも精神的には終えている様です。モーニング娘。のリーダーではなく、一人の歌手としてモーニング娘。に貢献する彼女を実は初めて見た気がします。そしてそんな彼女はとても魅力的な歌手です。


9人其々を見つめて、改めて今のモーニング娘。が充実していることを思い知らされます。そして同時にそれは決してファンの贔屓目だけではないと思いたい気持ちです。
  
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2006年11月23日

BUNP OF CHICKEN  涙のふるさと

namidanofurusatoシングルという名の作品が音のデータの記録メディアにいつの間にか変質してまった事に、「音楽」と対峙したいと願っている私自身が、違和感を抱いていないという事実。そんな、情けない自分を突きつけられて尚、その事が嬉しい。この「涙のふるさと」というシングルを前にそう思っています。

彼等の一年ぶりのシングルは思いもかけずCMとのタイアップという形で私に届けられました。その事自体には、特に肯定や否定の感覚を抱くほど彼等との接点を持たない私ですが、それが幸いだったのか、不幸であったのか、それすら結論が出ないままに打ちのめされました。シングルを(正確にはそのジャケットを)街のショップで見かけ手に取り、購入し、帰宅の後に取り出し、歌詞カードを眺めつつ、再生するという過程、その全てが発見と裏切りとの連続でした。

「会いにきたよ」というリフレイン、情緒的な映像(CMでもPVにおいても)との隙のない融合により固着された先入観は、それ故にこの曲に触れた前提のない聴衆に対しては、違和感なく、そして心地よく空気としての音楽を提供するのでしょう、しかし、彼等と共に歩んできたファン、先行する情報に心が揺れていたファンにとっては、改めて、シングルを購入するという過程で別の体験が待っているのではないか。

彼等のファンといえる程の資格のない私ですが、そんな想像をしています。

表題曲における「君」「僕」「俺」それは如何様にも解釈が可能です。しかし、ジャケットで提示された「オブジェ」という明快な画像が提示されつつ、カップリングとセットで聴くとき、「ふたりがひとつ」「ひとりがふたつ」と繰り返される言葉と対峙するとき、そして、加えて更なる音源と接するとき、如何様にも解釈が可能だったそれが、其々の置かれた状況により、一つの回答を導きうるのです。もちろん、皆が、同じ結論に達することは無い筈です。しかし、其々が確固たる結論に辿り着けるのです。

このシングルを聴くのではなく、勿論、聞くのでもなく、買って頂ければ幸いです。歌はそれ自身が既に音楽です。その事を否定はしません。でも、このシングルと出会えたなら、音楽は依然データではない事、空間を演出する空気でもなく、それを発する人間が聴いて欲しい、しかしそれがどこに居るのか判らない「人」に、なぜ?その意味も考えずに、とめられない意志に突き動かされて紡ぎだす贈り物であることを改めて思い知る事が出来るはずです。手に入れた全てに思いも、意味も見出せるものなのです。


人は音楽に何を求めるのでしょう?


徹底的な絶望と絶対的な孤独を甘んじて受け入れ、しかし尚、それでも尚、前に進もうとする意思が人生なのだとすれば、そんな自分を否定することも肯定することも無く、ただ、鏡の如く自分自身を映し出してくれる者。私はそう思っています。

「涙のふるさと」は私にとっての大切な音楽です。

  
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2006年07月18日

「Ambitious!野心的でいいじゃん」 初回生産限定版 映像

ambitious
初回生産限定版(特にシングルにおいて)というシステムを決して否定する訳ではないですが、現在のCD売上げが少なくともランキングという指標を気にする場合販売日からの数日間の売上げが全てあるという現状を考えれば仕方ないのかも知れません。しかしそれは、楽曲の良さ(相対的傍観者への親和性)が浸透することを期待するのではなく、これまでに獲得した熱心な支援者(それは楽曲そのものではなく多分に彼女達のパーソナリティに対する支援者が中心でしょう)を確実に囲い込むことを期待しているという極めて現実的な戦略であることを考えると、モーニング娘。という「歌手」が置かれた現状、つまり認知度は高いが既に過去のもの、或いは歌手で無い何か、として認知されてしまっているという現状に対しての敗北的な追認でしかないという事は認めなければならないでしょう。特に、今回もそうですが、モーニング娘。のシングルにおける限定のあり方はその価格差と特典のマニアックさ(ファンクラブ特典的と言い換えても良いですが)という意味で、買い得感を訴えセールスの幅を広げるという前向きさとは間逆に、残留しているファンを更に選別することにしかなっていない、少なくとも対外的にはその様にしか見えないという意味で今更ながら先の見えない彼女達の現実を痛切に見せ付けられる気がします。

ではなぜ、それでもその初回限定版に言及するのかと言えば、それは上記した現実とは正反対に実際にはこの限定となる映像こそが、実際には極めて「開かれて」いるという矛盾した実体について触れたいからなのです。

繰り返しますが、今実際にモーニング娘。のシングルを購入する、しかも値段の高く、とりあえず発売日にあわせて購入することが求められることが建前の初回生産限定版を購入し、特典である映像を目にするのは所謂コアなファン、言い換えれば何を発売しても取り合えず購入する熱心な支援者が殆どでしょう。それ自体は否定されるべきものではありません、寧ろそんな支援者に彼女達は支えられているのです。

残念なのは、彼等は(いや私を含めて)その映像を目にしても、今までそれぞれが経験し、そして固着してきたそれぞれの彼女達の魅力を確認するだけでしかないということです。それは何の広がりも期待できない、いや、ファンとしての支援を継続させる動機付け位にしか期待できないということです。

いや、そうであったとしても、それがファンアイテムとしてのものでしかないのであればそれでも良いのです、でも、この特典は違います。それは歌手としてのモーニング娘。を素直に、自然に表現している数少ない媒体であり、この映像に簡単に触れる機会が出来れば、全員とは言いませんが、定着したモーニング娘。という評価によって遮られてきた潜在的なファンを獲得することが出来る期待が出来る、その位の魅力ある媒体なのです。

その映像とは、春のコンサートツアー、さいたまスーパーアリーナにおける2曲のライブ映像に過ぎません。一曲は前回のシングル「SEXY BOY 〜そよ風に寄り添って〜」、もう一曲は直近のアルバムからの楽曲「青空がいつまでも続くような未来であれ!」です。特典といいながら、その目的は直ぐに発売されるライブDVDの宣伝に過ぎないのかも知れません。また、商品となるライブDVDがどの様に編集されるのか今は分かりませんが、この映像はそれほど精密に編集されておらず、素材を簡単に繋ぎ合わせているという状態です。音声についても同様で、マイクで拾った音がそのまま流されているという印象を受けます(勿論編集しているとは思いますが)つまり商品としては未完成といっても良い位です。ですが、結果的にそうであるが故に、今の10人というモーニング娘。の歌手としての魅力、モーニング娘。というスキームの持つ可能性と希少性を極めて効果的に切り取った媒体として成立しています。

この特典映像から伝わるモーニング娘。の魅力とは、やはり10人の自立した歌手によって初めて創られる「チーム」の魅力です。自立とは歌手として卓越した実力を持っているという意味でも、1人でも存在感を放っているという意味ではありません。自分の力をわきまえ、何より集団の他者との関係性を常に意識しながら自由に振舞えるという、責任と義務を伴った主体性という意味での自立です。

その結果、1人でも2人でもバンドでもコーラスでも得られない独自な魅力を生み出します。

実はモーニング娘。はこれまではそんな「チームとしての歌手」という魅力を目指していたのではなかったと思っています。初期においては歌手になりたいが歌手未満であり、しかし歌手未満であるがゆえに誰よりも歌手らしかった彼女達から放たれる結果としての音楽とそれにまつわる物語り、中期においては、結果的に膨張した多種多様なファンに応える多種多様な情報とイベントを提供できる個性という人間に依存する魅力と芸能というシステムとの融合、その様な流れを経て初めて辿り着いたのが「チームとしての歌手」という魅力なのではないか。歌手としての自立にこだわってデビューした彼女達が長い過程を経て漸く辿り着いた歌手としての自立。しかし、それが実現したとき彼女達の姿は外に届かなくなっていたという皮肉。

構図としては音楽があり、そしてそれを歌う歌手であるモーニング娘。が居て、そしてそれを聴く聴衆がいるという形、それはポップミュージックのコンサートに他ならないのですが、モーニング娘。自体がモーニング娘。という他のスキームとは代えがたい形態を提示しているが故に、実際には特別なものであり「モーニング娘。のコンサート」としか言えません。この特殊性と特殊な魅力は文字で表現することは難しいし、当然CDの音源でもTVの歌番組でも伝わりません。実際にその空間に居合わせる以外には伝えにくいのです。しかも、CDの音源(つまり楽曲ですが)も彼女達の構成や彼女達自身のモチベーション、プレゼンテーションは全てこのコンサートという空間に向けてのものである現実に対し、彼女達と(ファンを含めた)他者とを媒介するのはCDの音源であったり、歌番組やバラエティのTVであったり、写真集などのメディアしかないという矛盾。この解決困難な矛盾を取り払う可能性をこの特典映像は提案しています。


この映像は、製作者には怒られるかも知れませんが、飽くまでも結果的に、計算外に、奇跡的な成功をもたらしている様に思います。他の媒体、既存の媒体では表現できないモーニング娘。というスキームの魅力を選曲された2曲によって、極めて効果的に、簡潔に、表現しています。

第一曲において観客と融合した「乗り」、ソロパートの意味(10人それぞれが主役になりうるという自立性)迫力を。第二曲において前提は過程抜きに体感し得る「幸福な空間」、個人の自由さとテクニカルなフォーメーションの高次での融合を。

しかも、この映像は、有り勝ちなマニアの中のみで完結する裏媒体などではなく、CDを買えば付いてくる本来であれば(ファンでない人でも)簡単に手に入る特典として成立しているのです。余りにも勿体無い、もう少しで壁は取り払われそうななのにそこに越えられない壁がいまだ成立しているのが残念です。

このHP、この文章をお読み頂いている方々の中でまだ映像をご覧になっていない方。また、(殆どいらっしゃらないとは思いますが、)モーニング娘。について興味をお持ちでないポップミュージックファンの方。騙されたと思って一度ご覧になってください。なかなか視野に入らないものですが、実は、CDショップに行けば1680円で簡単に入手出来るものなのですから。

  
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2006年03月27日

モーニング娘。を発見する旅〜コンサートツアー2006春・仙台〜

sendai既に何度、彼女達に出会うため杜の都を訪れたか、その正確な回数は判りません。何時もながら、駅からコンサート会場のあるサンプラザホールに向かう新しくとして人工的な町並みと広すぎる一直線に伸びた歩道(計画的でありながら、店舗の利己的な看板群に侵食されつつある、都市計画的に云えば見るも無残な景観は、それ故に、人間的なスケール間を皮肉にも留めています)は、あまりにも没個性的であり、同様に無機質を極める新幹線という移動手段も相まって、その絶対的な距離にも係わらず、遠くまで来たという感慨を抱かせることは絶対ありませんでした。しかし、この特徴の無い風景は同時にモーニング娘。という音楽といっしょに記憶されているが故に、1人恥ずかしながら心を躍らされてしまうのです。本日もそれは変わることが在りませんでした。

この歳になって、期待に胸膨らませる機会がすっかり少なくなりました。そんな生活に彼女達は今も音楽を届けてくれるのか。錆付いて、閉じてしまった感性に訴えてくれるのか。昨年末終了したツアーを「始まりの始まり」と期待した彼女達を確認する為の今年初めてのツアー参加でした。

しかし、そんな余りにもファン的で、個人的で、そして感傷的な思いは、コンサート会場に訪れた聴衆を前に自分達の音楽を音楽だけを届けた彼女達を前にしてあっさりと打ち砕かれました。彼女達は既に「応援の対象」では無くなっていました。そこに訪れた人々を楽しませる、そこに訪れた人に共感される、そこに訪れた人の憧れとなる、完全ある表現者として歌い、踊っているのです。昨年「新生モーニング娘。」と連呼していた彼女達、そして今年「新生モーニング娘。」言わなくなった彼女達を恥ずかしながら発見する旅となりました。

それぞれに個性的な歌い手がその個性を戦わせるのではなく、お互いを補いながらチームとしての完成度を目指す。理想的でありながら実現は難しい、そしてモーニング娘。が誕生して以来、ずっと目指してきた筈の目的が、決して無理する事無く、受け止める側にとって自然に伝わってくる奇跡。誰もが主役になり、誰もが脇役になる自在性と多様性。高度な技術を保持しながらそれを感じさせない開放感。目の前に居る10人は正にプロの歌手そのものであり、同時に他の歌手では絶対に表現できない個性を備えた唯一無二の存在でした。既に知っている、受け止めていると思っていたモーニング娘。というグループの魅力を改めて発見したのです。

10人の歌手としての個性について少し触れます。それはモーニング娘。の歌を圧倒的歌唱力でベースとして支えながら、同時に個性的であることを維持している藤本さん。その藤本さんに大いなる影響を受け、無個性なスタイルから力強いヴォーカルに変身し同時に藤本さんに対抗しうる存在感を示す高橋さん。この二人がモーニング娘。の楽曲の伝統である情念的な表現を担当する中心的役割を担当します。対して、明るく可愛らしい良く通る声をもち技術的にも表現の多様さについても申し分のない田中さんは先に挙げた二人を明快な対象を示し一方の主役です。新垣さんと亀井さんは技巧に長けた渋さで時にメインを、時に脇役に、起用に様々な役割をこなします。コンサートにおいてこの二人の自在さは大きな武器です。元気な太い躊躇いのない声の小川さん、通らないけれどそれ故に表情のある色っぽさが魅力の紺野さんの二人は専門性の高い個性的なヴォーカリストです。道重さんと久住さんは今のところ色がありません。色の無さが今は10人の中で相対的な魅力になっています。しかし、彼女達が歌う(口パクでしょうけれど)「レインボーピンク」のような自分自身の嗤うような達観したスタイルが実現出来ればより楽しくなると思います。今後に期待します。リーダーの吉澤さんはヴォーカリストとしてもリーダー的です。一旦メインで歌いだすとその場を占領してしまうくらいの存在感を放ちます。力強かったり、元気だったりする10人の中で実はもっとも女性的な印象を感じたりします。

繰り返しますが、10人がかなり高いレベルで拮抗しています。誰がセンターでメインで歌ってもそれぞれの個性で引っ張っていけています。何より全員がメインであろうと、脇役であろうと気を抜くことが無い(見ている側にそう感じさせない)という状態がプロらしさを感じます。直接的に歌っていようがそうでなかろうが常に歌手として振舞っている。そのようなチームは出来るようで出来ないものです。

多くの人にとってモーニング娘。は「アイドル」でしょう。そして、ファン以外の人々にとっては過去に一世を風靡し、いまも粘り強く、メンバーを代えて活動を続けている「過去のアイドル」でしょう。ファンにとってはとくに贔屓とするメンバー一人を中心とした「応援の対象」なのではないでしょうか。

確かに、全くの素人が誰よりも歌手に成りたいが歌手以前の存在として、歌ではなく、歌いたい気持ちを表現したが故にその「精神的部分」が共感され活動が許された時期がありました。それ故に生じた個性的な個性が支持された時期もありました。そんな芸能の世界では少し異質な彼女達が「若い女性」であるが故に結果として現れる「画としての華やかさ」が製作者側にもてはやされた時期もありました。それは偶然であったとはいえモーニング娘。という存在にとって幸運な時期の連続であったと思います。しかしそれらが全て過去のものとなったとき「モーニング娘。」という看板は足枷としてしか機能しなくなっていました。つまり、ファンでない人々にとっては「(過去の)アイドル」でしかなく、ファンにとってはいつまでも「応援する対象」でしかないという状況です。

その様な閉塞感の中で(新生の)モーニング娘。である彼女達は何を目指せば良いのか、彼女達が昨年提示した音楽に大いなる可能性を受け止めた1人のファンとして一緒に共有して行きたいと思っていました。

確かに今も彼女達の状況は閉塞しています。しかし、今日仙台で発見したモーニング娘。は既に次の段階に生まれ変わっていました。状況は閉塞していても、その根源となる彼女達はいつの間にか「歌手」として成長していました。

未熟さに妥協するのでもなく、一生懸命に振舞うのでもなく、固定されたファンと馴れ合うのでもなく、仕事として割り切るのでもなく、何より目前に居るファン頼るのでも、対峙するのでもなく、プロとして自ら主導者として演じ、楽しみ、そして何より相手を楽しませる「10人の歌手」がそこに居ました。プロフィールや楽屋落ち、そこに至る背景など余分な情報が一切必要ない歌のみを届ける「10人の歌手」が居ました。歌手としての存在を維持し証明する為にビジネスとして歌うのではない、歌手であることにプライドを持ち歌うことに妥協しない「10人のプロ」が居ました。

ファンすらも知らないうちにモーニング娘。は変わっています。10人の若い女性。派手で、しかし流行に沿わない衣装を身にまとう10人の女性。実際にステージに立っている事以外、全て他人より与えられた環境に身を任せている10人の女性。確かに一見すれば今もモーニング娘。はアイドルに見えるかも知れません。でも裏を返せばそれは、(勿論振りを含めて)歌うことのみに集中している本当の歌手とも言えなくはないでしょうか。

これは想像でしかないのですが、自分が「推す」個人を応援しようと臨んだファンの方も結果的にモーニング娘。を楽しんでいた、頑張る彼女達を見ようと駆けつけたファンも結果的にモーニング娘。の歌を楽しんでいた、そんな、コンサートであり、そんなモーニング娘。であったと思います。「確実に楽しいけれど、でも今までとは違う感覚」を受け止めた筈。

実は今のモーニング娘。を本当に楽しめるのはモーニング娘。のファンでない、でもポップミュージックのファンである方々なのかも知れません。いやそう確信しています。モーニング娘。のファンとしては勿論、ポップミュージックを愛する音楽のファンとして今の10人のモーニング娘。を推薦します。

残念ながら、今のモーニング娘。はコンサート以外に自分達の音楽を提示する機会を失っています(CDの音源だけでは彼女達の魅力が伝わりにくいという大きな問題も横たわっていますが)。ファンの方はもう一度まわりに居る友人を誘ってみて下さい。ファンでない方(この文章を読んでいただいている可能性は少ないですが)は騙されたと思って一度会場に足を運んでください。想像とは違う、モーニング娘。を発見できる筈です。想像出来ない音楽を発見するかも知れません。

忙しい中確保できた休日にトンボ帰りで参加した仙台のコンサートは嬉しい誤算に出会えた発見の旅となりました。モーニング娘。の皆さん、ありがとうございました。
  
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2005年11月28日

ツアーファイナルは始まりの始まり・・・

maebashi誰もが知っている、知っているから実体は伝わらない、そんな彼女達の秋のツアーが27日群馬県民会館の公演をもって終了しました。

新生となった彼女達のツアーが、新たなファンを獲得するに足る、そしてポップミュージックの観賞に耐えうる、如何に充実したものであったか、という事については前回記述した通りです。

にも拘らず、ツアーファイナルとなった昨日の公演の感想を記述するのは、これからの「新生モーニング娘。」がどんな方向に進むのか、大いなる期待と大いなる不安との二つの気持ちを抱くことになったからです。これからどの様な方向に進んでも、このツアーが為しえた到達点を記録しておきたいからです。


日本国中の誰もが知っている「モーニング娘。」はそれ故に世間的な認識としては新鮮さからは程遠い存在であり、寧ろ「既に過去の」存在として了解されています。今モーニング娘。の支えているのは比較的長く彼女達を応援し続けている固定的なファンである事は受け容れなければ成らない事実です。

4ヶ月に渡った長いツアーが関東平野の北西部、東京からも遠くない都市で行われる事は、特別な環境が用意されるということに繋がります。ファンで無い方々にはわかりにくい状況ですが、これまでツアーに参加して内容を知り尽くした固定ファンが、その総仕上げとして、大勢居住する関東各地から大挙して詰め掛けるということになるのです。移動に掛かる経済的負担は決して少なくは無いですが、しかし、負担できない金額ではない。むしろコンサートの為に長距離を移動してきたということで高揚感が高まったりする効果を生みます。勿論武道館等と違ってキャパシティーは比較的小さいこともありチケットの入手も困難に成ります。

反応が想像できる固定的なファンに支えられているモーニング娘。のライブの中でも、前橋市のコンサートホールで行われるツアーファイナルはよりその構図が鮮明と成る空間であるということです。

当然私もその1人であるし、詰め掛けたファンに対し批判的な姿勢はとりたくはありませんが、実際その様な空間に対峙して「歌を歌う」彼女達はモチベーションを維持することは難しいと思います。何故なら、自分達が歌う前から、自分達が踊る前から、結果、つまり反応は決定しているからです。次に何が起こるのか熟知している聴衆、次に何を自ら行うのか決めている聴衆を相手に、彼女達に課せられるのは、その期待に応えるべく決まった形を再現することだけだからです。

これまでのモーニング娘。は繰り返されるこのような環境において、目の前の自分達を今支えている「顔の見えるファン」に直接的に応え、結果として、その後ろ側に居る大勢のファンに対しても、明日のファンであるかもしれない観賞者に対しても閉じてしまい、ライブであって、ライブでなくなってしまうか、或いは、逆に、「顔の見えるファン」を見えないものとして割り切り、同じ空間に居ながらステージと客席とが隔絶してしまうという残念な状況に陥るかのどちらかでした。


昨日の彼女達は確かに違っていました。予定調和的結果を頑なに要求する力強い固定的なファンの極めて熱い声援に、これまで通りの、そしてツアーを経ることによって得られた自信をもって「歌」と「ステージワーク」で応えていました。そんな彼女達は大いなる期待をもって詰め掛けたファンを裏切らないと同時に、極めて少数であった筈のスターに憧れる地元の幼いファンを楽しませるに足る空間を提供していました。

モーニング娘。は「歌を届ける歌手の集団」として生まれ返えそうとしています。そんな彼女達に私は期待したいと思います。


反面、では昨夜のライブが最高の出来であったかと問われると、頷く訳には行かないのです。正直申し上げれば、気合が空回りしていたのか、或いは気合より安心感が勝ってしまったのか全体的に「雑」であったと思います。今回のツアー全般で受け止められた「歌おうという意思の結果としての丁寧さ」に欠けていたのです。ツアーを最終日まで無事こなしたという自信によって初めて獲得した精神的な自由度が、節目として意識し難い地方都市(失礼)の中規模コンサートホールという空間にも後押しされて、気持ちのみにシフトしてしまった様です。

自分達が作り上げてきたライブが今日で終わってしまうことへの郷愁より、次の課題へのチャレンジに意識が既に飛んでいる、そんな姿勢は彼女達らしさでもあるのですが。

確かに、彼女達がツアーを通して届けた音楽は素晴らしいものでしたし、その事に素直に感謝しています。でもそれは彼女達の、いや新生モーニング娘。の到達点ではない筈です。寧ろ、出発点に過ぎないのです。であるが故に、ツアーファイナルを自分達へのご褒美としてしまった彼女達に一抹の不安を感じてしまったのは事実です。



歌を歌うこと、ステージで音楽という作品を紡ぐことを目指した今回のツアーは、それ自体がファンの外側にまで伝わって居なくとも、自らが宣言した「新生モーニング娘。」としての存在感を示し、一つの結果を創り得たと信じています。しかし、これから年末、そして年始とタレントとしての役回りを期待され、活動する彼女達が再びステージに戻ってくるとき、全てが振り出しに戻っていないことを期待します。それでも続くほど彼女達に猶予は残されていない筈ですから。


生まれ変わったモーニング娘。が音楽を届け続けた秋のツアーは5時過ぎには空も街も暗くなってしまう前橋市の、古びた重厚な造りがひたすら印象的なコンサートホールで、彼女達自身とその場に居合わせたファンのみが受け止めて、ひっそりと終わってしまいました。それは終わりではなく、始まりであることを信じて家路へと急ぎました。  
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2005年11月10日

新生モーニング娘。賛歌 〜11月3日札幌にて〜

biei☆平成17年11月3日 札幌1☆

早朝に東京を発ち、午前中には到着した札幌駅のカフェで仕事を片付けコンサート会場に向かった時には二時半を回っていました。曇天ではあるものの、雨上がりの新鮮さに満ちた町並みを秋を惜しむように未だ色彩を放つ木の葉を愛でながら歩いている内に、いつの間にか厚生年金会館に到着していました。

人工的に計画された都市のビジネス街の風景は、日本的な「風土」を感じさせない理知的な印象を振りまいているにも拘らず、開拓以来の年月の蓄積が日本という「風土」に立脚しない独特の重みと温かみとなって感じられ、ビジネスでも観光でもない、つまり札幌という街に目的を持っていない「招かれざる客」である私を心地よく迎えてくれました。

古きよき時代の建物である会場は「イベント」の為の施設というより寧ろ「芸術」という敷居を強調する装置として佇み、周囲の役所やシティホテルが立ち並ぶ環境と共に「モーニング娘。のコンサートの場」というカジュアルで楽しいといった雰囲気に相応しくは無いのですが、寧ろ、以前に比べ(部外者からの視点での見た目から来る敷居という意味で)大人しくなり過ぎたファン印象のファンが集う前庭がそれを助長している様な気がします。

良くも悪くも「部外者を遮断するお祭り」に近かった此れまでの彼女達のコンサートに比べ、会場の雰囲気が落ち着いてきた事はこの北の街でも確かめることが出来ました。


昼夜2公演、どちらにも参加して来ました。此れほど昼夜の印象が変わらないコンサートは彼女達のコンサートでは稀ではないのかと思いました。それは直接的には彼女達に原因があるのではなく、迎えるファンの姿勢に起因するものです。

モーニング娘。のコンサートであるなら、二公演では二公演、四公演では四公演、全てを「参戦」するのが当然であるとの姿勢から、結果的に流れで鑑賞してしまう「熱いファン」が過半数を占める彼女達のライブは、それ故に一回の公演のみでは、流れが掴めないという(これからのファンや将来のファン層にとっての)弊害がありましたが、今回はそれがありません。其々の公演でファンはその回の公演をその場限りの貴重な時間として楽しみ、そんな姿勢に彼女達も良く応えた「ライブらしいライブ」であり、その意味で本当に楽しいライブでした。



☆セットリストに沿って☆


全24曲。細かくて申し訳ありませんが楽曲それぞれについて感じた印象を記します。ライブに参加できない方にライブの気分が伝われば良いなと思います。ライブにこれから行く方にいつもとは別の視点でも彼女達に接して欲しいと思います。何よりモーニング娘。のライブに行ってみたいと思っていただければ幸いです。


オープニング映像

彼女達のいつもの形であるスクリーンでの映像でのメンバー紹介。それ自体の完成度について語る事に意味は無いでしょう。しかし、漫画的でコミカルに過ぎる画作りは結果的に今のモーニング娘。を語るものとしては相応しいとは思えません。その点については後々触れたいと思います。


色っぽい じれったい

何よりデコラティブな衣装が印象的。フィットしない衣装は身体の「キレ」を表現するのが難しいのですが、それぞれがそれぞれの身体表現が出来ている今の10人にとっては、寧ろ華やかさを際立たせる効果が勝っています。キラキラを輝くステージの豪華さはオープニングに相応しく、「ライブに来ないと実感できない」楽しさをイキナリ提示してくれます。


LOVEマシーン

今の10人が自分達がオンタイムで経験していない楽曲を提示するときに共通の感想でもあるのですが、楽曲自体のコンセプトが浮き彫りとなる様な表現です。コミカルですらある振りや歌詞を懸命にそして高いスキルで表現することにより結果として「格好良く」なってしまう醍醐味が味わえます。演じ手側でも勿論聴く側にとっても使い古されてしまっても良いこの楽曲が懐メロではなくこうして「ライブ」として生きている事は驚きです。


ラヴ&ピィ〜ス!HEROがやって来たっ。

此処最近のモーニング娘。のテーマソングと言っても良い曲。明るく元気、リズミカルでノリ易い曲。という意味では「ライブに参戦する」ファン向けの楽曲であることは確かです。オープニングからの3曲で徐々にテンポアップしていく構成もあって会場の雰囲気は最高潮になるのですが、強調しておきたいのはメンバーは単にノッて飛ばしているのではないということ。歌うことが盛り上げることに繋がることを忘れていません。一緒にジャンプしている人は当然、呆然と煌びやかなステージを眺めている人も楽しめます、ノレます。


恋は発想 Do The Hustle!

新曲(のカップリング)。敢えて言えば難解な曲です。モーニング娘。のファンで、彼女達のライブを楽しんできたファンにとっては新たなバリエーションとして受け容れ易い曲だと思います。でもそれは、つまり聴くものを選ぶという事でもあります。今回のライブの流れでは問題ない曲だと思いますが、いまの10人に相応しい楽曲かといえば疑問で結果的に新曲でなくて良かったなと思ったりもします。


ザ☆ピ〜ス!

この楽曲は前曲「恋は発想」の系譜、シングル曲でありながらライブピースとして効果を発揮する曲だと思います。個人のキャラクターがチームより勝っていたリリース当時のプレゼンテーションに比べ真逆な表現になっています。此処のフレーズがバラバラに輝くことがこの楽曲の魅力であると了解していましたが、この10人はメロディーラインの美しさを教えてくれました。


恋のダンスサイト(昼)

誤解を恐れずに言えば、少なくともライブにおいて、歌い手自身ではなく、この楽曲自体の魅力を素直に提示してくれたのはこのツアーにおける10人のモーニング娘。であると思います。勢いや迫力、またはその背景となる「想い」ではなく、表面的なコミカルさとその裏に見え隠れする狂気と狂喜とをそのままに表現してくれた事でこの楽曲の素晴らしさに改めて出会えた気がします。


恋愛レボリューション21(夜)

この曲も会場は盛り上がりますが、前提としてノルのではなく、出来ればメロディーがラインとして繋がることを大切に歌う彼女達の歌に呼応して盛り上がって欲しいと思います。それほどに上手いと思います。いまのモーニング娘。は。


恋の始発列車

当時(デビューからセカンドアルバムリリース位まで)のモーニング娘。の楽曲はソロでも歌える楽曲を多人数で敢えて歌い、声や歌う人数の変化で楽曲に彩を添えるというスタイルでした。でも実はこの様なスタイルが一番似合うのは今の10人(この楽曲では特にメンバーの中でも安定感のある6人に絞られているが故に)であると実感できます。個性のよさではなく楽曲のよさを1人で歌うのではなく多人数で歌うことのよさ、つまりモーニング娘。という存在のよさが表れています。


バイセコー大成功!

名演による名曲が続く中。残念と思う曲のひとつです。楽曲に魅力が無いという訳でも、歌っている3人が力不足ということでもなく、この曲で3人の「かわいらしさ」を表現しようとした演出意図に疑問を感じます。楽曲は難解で難しく、寧ろクールに完璧に歌いきって初めてコミカルさが表現出来るものであると思います。この流れでこの三人でかわいらしい楽しさを表現するのであれば選曲は例えば「友達(♀)が気に入っている男からの伝言」位がちょうど良いのでは。


ラストキッス

エースという言葉で表現することが似合っているのかは別として今のモーニング娘。で歌でも振りでもリードしている高橋さんと田中さん、その二人に近づきたいとの意志を明確にしている亀井さんの3人によって控えめな歌唱で提示されるこの楽曲はこのライブの一つの到達点です。楽曲のよさを大切にし、十分に届けながら、しかし同時にライブの動的な「揺れ」や緊張感を失わない醍醐味は他に代えがたい魅力となって聴く者に届きます。


男友達

本当は以外でもなんでもないのですが、リーダーたる吉澤さんのほのぼのとした人のよさが溢れる優しい曲になっています。吉澤さんの為の楽曲である誤解してしまう位に吉澤さんの世界が展開されます。ユニットにおいては基本的に脇を固めるポジションに居る彼女がソロでは個性的なシンガーとして音楽を届けることが出来る。ファンにとっては当たり前として受け止められてしまうのでしょうが、とても贅沢なことであると思わずには居られません。付け加えて、ためらわない潔さが適度なバラバラ感となって、プロのバックダンサーの様な脇役的な詰らなさとは正反対な活気溢れるフリを見せてくれる6期7期の4人にも注目です。


そっと口づけて ギュッと抱きしめて

吉澤さんに続いて、10人の歌手の集団であるモーニング娘。のソロとしての魅力の提示。現在は時としてセンター、時としてポイントでの効果的な歌声で縦横無尽にモーニング娘。を支える藤本さんの名曲は凄いの一言。シングルの中でも特に難曲であるこの曲を堂々と歌い、一人で会場全体をリードしてしまいます。面白いのはソロの時より表現の多様性を身に付け、より楽曲の雄大な世界観が表現できている事です。


涙が止まらない放課後

バイセコーから少人数の構成、或いはソロで楽曲に合わせた個性的な表現がハイレベルで次々と提示され全く飽きる事がありません。今の10人の中では歌手としては正直脇役としてのポジションが似合う紺野さんのソロによるこの楽曲も彼女のやさしくてのんびりとして、そして不安定な個性が徹底的に表現されていて印象的です。何より所謂モーニング娘。的な世界観とはまるで正反対である事がとても面白く、ライブの句読点として効果的です。


Memory 青春の光

正直言います。この曲がリリースされた時から、この曲自体の魅力をモーニング娘。から提示されるとは思っていませんでした。先輩達によるこの楽曲の表現が稚拙であるとか未熟であるという事ではないのですが、実力に対し不釣合いな楽曲に挑む姿がこの楽曲の魅力であると思い込んでいたのです。しかし、この楽曲の流れの中で自然と提示され、背伸びしているという感覚はゼロです。


シャボン玉

田中さんが居ることでヴォーカル合戦となるこの楽曲は、ライブで聴いてこその曲です。この曲に限ってはメンバーも観客を向いていないかもしれません。自分が歌うフレーズが明らかに前のメンバーの歌い方の影響を受けている。お互いがお互いを意識ながら張り合っている姿を目の当たりにして、観客の一人に過ぎない私はある意味孤独ですが、その孤独感もまたライブの楽しさではないでしょうか。


初めてのロックコンサート

「見せ場」という言葉を発してのイントロについては、首を捻りたい心境ですが、そんな蟠りは簡単に忘れてしまう位の魅力を放つ小品に仕上がっています。5期の4人はチームワークに優れたヴォーカリスト集団に生まれ変わったモーニング娘。の中核を支えています。今のモーニング娘。の個性は実は5期の個性と言っても良い位です。そんな4人が地味だけれど、しっかりと丁寧に歌うこの曲が私は好きです。


パパに似ている彼

「恋の始発列車」同様にソロでも歌える位にメロディーラインが大切となる楽曲は今のモーニング娘。にとっては最も得意とするところです。様々な場面で様々な人達によって歌われてきたこの曲ですが、原曲の魅力を素直に引き出すという意味においては今の10人は最適な10人であると思います。聴いている内に10人のことを忘れて楽曲を楽しんでいる。もちろんそれは彼女達に対する賛辞です。


AS FOR ONE DAY

この楽曲がリリースされた当時(それは実は最近のことですが)楽曲自体決して悪くないのに、CDの音源で聴く限りもっと浸透しても良い曲なのにという残念な気持ちが続いていました。ライブにおいて瞬間瞬間の輝きは見出せるものの、楽曲全体としての印象が散漫になってしまうという印象がありました。しかし、今回のライブではタイトに演じられ時に荒っぽい場面があっても一本のラインが通っている為、楽曲を素直に楽しめます。


Mr.Moonlight 〜愛のビッグバンド〜

今回のライブの中で最も注目すべき、そして最も楽しい、掛け値なしに楽しいステージを提供してくれるのがこの曲です。およそ歌謡曲、ポップミュージックに興味が無くても、例え、モーニング娘。という存在を知らなくても、極端に言えば日本語を理解していなくても、このステージを見れば思う存分に楽しむことが出来る。それは決してオーバーな表現ではなく、それだけの凄い説得力がこのステージには存在していると確信しています。街を行き交う人々に「騙されたと思って見てくれ」と懇願したくなるくらいです。此れだけ事が出来る彼女達に、その結果として未来は開かれるべきだと願いたいし、こんな楽しい時間を体験できたファンはその事に感謝し、そして広げる努力しても良いのではないかと思います。ちょっと説教もしたくなるような素晴らしいステージです。


直感2 〜逃した魚は大きいぞ!〜

一般に浸透したモーニング娘。らしさ、「明るく、元気、そしてパワフル、何より楽しいお祭り騒ぎ」が素直に表現された曲。であるからといって決して単純ではなく、転調を繰り返すメロディーは複雑きわまるフォーメーションチェンジなど彼女達のスキルの高さを如術に示してくれる楽曲です。ライブでは文句なしに楽しい曲ですが、シングルとなったとき幾ら年末を特番を意識したにせよ、歌番組での画面やPVの制約、音源だけで魅力が伝わるか不安ではあります。原曲を知り尽くしたファンを敢えて切ってでもモーニング娘。らしさを訴求しようとする姿勢には共感しますが。


女子かしまし物語2

本編ラストMC前。此処まで一気呵成に続けてきた訳で、メンバーとファンが一体となってそれぞれを称え合うかの様な雰囲気に包まれる楽しい曲。この楽曲がライブにおいてこの様な効果を発揮するとは思いもよりませんでした。良い意味で力が抜け、ラストに向けた小休止ともいえます。


THEマンパワー!!!

この楽曲にこれほど好印象を抱くことになるとは思いませんでした。発表当時はモーニング娘。の他のシングルの例に漏れず極めて丁寧に作られているとは思いましたが、音楽的には乏しい動機、或いは要素を徹底的に装飾し、肥大化させた作り物的な強引さを感じていましたし、フリなどの表現もいつの間にか定着してしまったモーニング娘。らしさばかりが強調されて押し付けられているような感じを抱いていました。今回のライブでは抑えた表現がなされ曲の骨格が明快に伝わり、アッサリした感じが逆にこの曲には合っていると思います。


ここにいるぜぇ!

本編ラストのこの曲も、前曲同様にあっさりと演じられます、ラストであるが故に、或いは極めて「仕掛け」の多い楽曲の特徴もあって、もっと粘っこい表現になってもよいのですが、これは今の10人の個性なのでしょうか。それとも意識しているのでしょうか、あえて逸脱することを拒みながら、適度な高揚感を伴い歌います。バランスがとにかく良いという印象で、爽やかに終了します。


ふるさと

これまで様々な形で歌い継がれてきたこの楽曲にも新たな光が与えられました。リリース当時から1人で歌うことが前提であり、歌う人が如何に解釈し表現し得るかがこの楽曲のスタイルであると勝手に承知していましたが、今回は基本的に全員で歌い、部分的にソロが挿入される何時ものモーニング娘。のスタイル。これは単に逆にしたのではなく、ソロで歌うに相応しい曲でも10人で歌えることを、そして10人で歌うことによってソロとは異なった魅力が表現できることを図らずも示しています。一人の女性の独白だった楽曲がファンを含めたその場全員のそれぞれのふるさとへの思いへと変化しました。リリース時の意図を尊重する意味でも、これからも歌い継ぐという意思の表れとしても、この意外に大きい変化は歓迎できるものです。


Go Girl 〜恋のヴィクトリー〜

本当の意味でのラストは、何よりも楽しかったという印象が残るライブに相応しい、この何よりも楽しい曲で締めくくりです。リリース当時はあまりに王道的に楽しさばかりが強調され、また何時の間にかモーニング娘。のセオリーとなってしまった各メンバーの「見せ場」に乏しいこの曲はモーニング娘。が歌う曲としての意味が問われがちな曲でしたが、今回のメンバーにより今回のライブの締めくくりとしてはピッタリです。メンバーそれぞれとではなくモーニング娘。と楽しんだライブであったこと実感しながら幕を閉じます。




☆10人のヴォーカリスト☆


今のモーニング娘。はチームとしてまとまっています。10人の固まりとして、つまりモーニング娘。として全体を俯瞰することが容易に出来るのです。勿論、個々人の魅力の乏しいという意味ではなく、個々人の魅力が個人の輝きに完結するのではなく、モーニング娘。というグループの魅力に還元されているという意味です。

その様な彼女達にライブ会場で接するとグループとしての素晴らしさに先ずは目を奪われます。それは彼女達が発するもの受け止める姿勢として正しいものだと思います。

しかし、その様な今のモーニング娘。であるからこそ、それを構成する個性溢れるモーニング娘。にとっての脇役であるメンバー個人個人の魅力を語ることが大切だと思います。


吉澤ひとみさん

リーダーと呼ぶ事が相応しい人として圧倒的な存在感を放っています。何よりも素晴らしいと思うのは、誰が見てもリーダーであると思わざるを得ないにも係わらず、一般的なリーダーらしさである威厳や支配、高圧といった親しみにくさが全く無く、彼女の個性である鷹揚さ、ほのぼのとした雰囲気、やさしさをもってリーダーとなっていることでしょう。その事が今のモーニング娘。の自然体な雰囲気を作っている大きなファクターだと思います。脇で支え、時に中心で個性的なヴォーカリストとして曲に華を添える存在。楽曲より自身の個性が前面に出るヴォーカルスタイルはモーニング娘。の中では少し以前のスタイルなのですが、彼女自身が強烈な個性を放つ存在ではないので、結果的に今のモーニング娘。にとても良く溶け込んでいます。これからも「新生モーニング娘。」を導いていって欲しいと思います。


高橋愛さん

今のモーニング娘。におけるセンターの一角を占める彼女は、歴代のモーニング娘。のセンターとは異なり、少なからず脇からサポートする役回りを担っています。しかも面白いのは脇に回った時点ですっかり脇役として周囲に溶け込んでしまうことです。私は、これは彼女の欠点であるとは思っていません。10人が縦横無尽に役回りを交代する今のモーニング娘。にとっては、とても「らしい」センターヴォーカリストだと思います。単に個性で輝くのではなく、歌唱にしても、フリにしても技術、基礎を大切にする彼女のプロらしさを私は物足りないとは感じません。むしろそのままに磨いて欲しいと願っています。


紺野あさ美さん

正直言えば今のメンバーの中では歌えていない人の1人でしょう。しかし、その事を自分自身でしっかりと受け止めていて、将来、もっともっと歌えるようになる事に対し諦めていない人でもあります。どんな曲でもセンターを張れるという訳ではありませんが、脇役としてフリに徹したときはスタイルの良さも寄与して意外にクールでシャープな動きがステージに締りを与えていてとても重要な役割を担っています。そして、センターで歌うとき彼女の個性的な声はモーニング娘。の一つの個性として十分に魅力的です。1人の歌手では此処まで幅広い世界観は提示できない訳で、モーニング娘。が10人のヴォーカリストであることを実感させてくれる人です。


小川麻琴さん

紺野さんとは間逆な人。しっかりと歌え、そして踊れる基礎、実力、素質がありながら、そこに依存するのではなく、自身の個性をもって10人のなかでもポジションを得ようと努力する人です。彼女が仮にソロの歌手であったならこれほどの努力をする事は無かったでしょう、でも一方でソロであったならこれほどまでに変身することが出来なかったでしょう。何かと中途半端な印象が付きまとう今の彼女ですが、特にダンスについては、フリにそって確り踊るという意味ではなく身体で何かを表現するという真の意味での実力においてメンバー随一だと思います。彼女自身このまま脇役で終わることに納得はしていないでしょうが、これほど歌え、そして踊れる人が脇役で居て、時に前面に出て場をさらう事の格好良さは今のモーニング娘。の大きな魅力だと思っています。


新垣里沙さん

モーニング娘。を名前だけしか知らない人、いや暫くモーニング娘。から遠ざかっていたファンすら今のモーニング娘。において新垣さんがセンターの一翼を担っていることは知らないと思います。嘗て無い位の安定度を誇る「新生モーニング娘。」においてもヴォーカルについてもフリについても、何よりステージ上での様々な表現においての安定度は随一です。いかなる環境、状況においてもプロらしい結果を提示してくれる彼女。既に与えられているパートによって十分に評価されている彼女ですが、チームのリーダーとしてではなく、プロの歌手としてのモーニング娘。をこれからも支えて、そして引っ張っていって欲しいと思います。印象やイメージではなく、行動によってファンに支持されるに至った彼女はこれからも信頼できる存在です。いや、信頼させていただきます。


藤本美貴さん

彼女が、プロのソロの歌手として相当な実力を備えている彼女がモーニング娘。のメンバーとして、それも決して突出した存在ではなく、10分の1として存在していてくれることに感謝しています。ソロとして前面に出たときは圧倒的な存在感を放つものの、脇に回った時には年上のメンバーとしてサポートに徹する姿勢は、チームとしてのモーニング娘。を壊す事無く、同時にチームとしてのモーニング娘。の多様性、奥深さに繋がっています。しかし、実は、精神的にも、フィジカル面でも好不調の波が激しい彼女にとっては、どんなときも他の9人が居てくれる今の環境が楽なのかも知れません。不調なときは他のメンバーに助けられ、しかし好調なときは大爆発してモーニング娘。の盛り上げる。そんな意外性は今のモーニング娘。のスパイスです。


亀井絵里さん

元来器用な彼女は、モーニング娘。の一面であるバラエティでの活躍が目立ちます。歌以外の場面に置いてはすでにメンバーをリードしているといっても良い位ですし、それが寄与し個人としての人気も高まっています。モーニング娘。のメンバーの中では珍しく、場を読み、その上で自分を演じることが出来る都会的な人です。今の状況に対し満足しても本来十分な筈なのに、彼女は歌に対し諦めていません。安定感に欠く面があるとはいえ嵌まれば歌唱の面に置いても実力を発揮する彼女はセンターの周囲で虎視眈々とセンターを狙い努力し、ライバル心をむき出しにして頑張っています。彼女のこのステージ上での姿勢がモーニング娘。に緊張感を与えています。このまま諦める事無く続けて欲しいと思います。それがモーニング娘。のためにも彼女自身のためにもなる事ですから。


道重さゆみさん

歌えていないモーニング娘。のメンバーの1人です。そしてその事を自分自身で理解し、その事に満足していない彼女です。彼女の個性は「かわいい」という事の様ですが、それは残念ながらモーニング娘。の中においては個性にはならないのです。いや、実はステージ上での戸惑いつつも常に真剣で全力投球の彼女は寧ろ迫力が在るし、時に信頼感すら感じるときがあります。乱暴かも知れませんが、このまま迷い続けて欲しいと思います。諦めたり、誤魔化したり、妥協したりしない彼女は、長身でスタイルの良い恵まれた身体もあって実はステージの上で、脇役であるにも係わらずそうとうに輝いています。モーニング娘。は10人です。誰もが「歌える」必要は無いのです。誰もがステージで輝いていることが大切なのです。


田中れいなさん

新生モーニング娘。のセンターは田中さんです。最初から約束されたセンターではありません。歌手としての才能や声質がセンターとして恵まれていた訳ではありません。努力と実力でいつの間にかその場所に彼女は立っていました。センターであるからといって常にステージの中心に立っている訳でも、他のメンバーと比べ突出したパートを与えられている訳ではありません。でも、ライブに足を運べば判ります。開始から終了まで一瞬たりとも隙を見せず、また、人の前で歌うということを常に意識し、同時に他のメンバーの動きを把握しつつ、浮き上がらない微妙なレベルでアドリブを入れライブ感を煽る姿。そんな彼女は一番輝いているし、そんな彼女を見て他のメンバーも明らかに影響されている。ステージの上で歌うこと以外、決して器用な人ではありません。でも良いと思います。モーニング娘。は歌手なのですから。彼女がモーニング娘。を歌手として呼び戻してくれたのですから。


久住小春さん

若しかしたら、作り手側はこんな筈ではなかったと思っているのではないでしょうか。期待されて加入した新人は、しかし、歌に真剣な先輩からは新人として扱われ、同時に10分の1の存在として機能することを求められました。ファンはスターとして受け容れるのではなく、新人がどんな実力、個性を備えているか期待しつつしかし、冷静に判断することを選択しました。メンバーもファンも彼女を特別扱いすることはありませんでした。しかし同時に、抵抗無く受け容れたことも事実です。ある意味不遇な彼女ですが、私は幸せだったと思います。期待に押しつぶされることもなく、不当に排除されるわけでもなく、豊富な活躍の場と目指すべき先輩達の姿とを与えられ、自分のペースで基礎を取得できたのですから。個性やキャラクターではなく先ずは歌うこと、踊ることが前提であると思い知らされた彼女は、今は未熟でも、大きく伸びる可能性を秘めていると思います。なにしろ、少なくとも現時点で既にステージに溶け込んでいるのですから。




☆新生モーニング娘。の誕生☆

私が、この10人の彼女たちを何故に「新生モーニング娘。」であると思うのか、その理由を記させて頂きます。

以前、私が彼女達の形容する言葉として「歌に挑むチーム」という表現を使った事があります。なぜ人の前で歌いとして踊るのか、なぜソロではなくチームなのか、なにより自分は歌手なのかと自己を見つめながら、レコーディングでもTV番組でもなく、ライブでファンと共に様々な思いを開放するのがモーニング娘。であると思っていました。それはある意味「歌手ではないが誰よりも歌手になりたい歌い手」という事であり、そうであるが故に「歌手よりも歌手らしい」魅力に溢れていたと思います。

その様な視点で支えられていたモーニング娘。は、いつの間に「歌手ではない女の子たち」と(特にファン意外の人達に)思われるようになってしまったのでしょうか。

新鮮さが伴うとき、人は先入観無く隅々まで見てくれます。その時点では「歌手に人一倍なりたい気持ちが夢を掴みつつある」という状態に気付き応援してくれます。しかし、一旦商業的な成功を収めたかの様に見え、居て当たり前の存在となってしまうと、視点は「レッテル」を貼られるという事になります。その時点で、残念ながらモーニング娘。は、歌手になりたい歌手らしい人達であったが故に、それが逆効果となって、結果的に「歌手ではない人達、或いは所謂アイドルというカテゴリーの一種」と認識されてしまった様です。そうなってしまうとそこからの脱却は極めて困難です。

膨大なファンを抱え、多数のライブを開催しても集客が可能なモーニング娘。はそれだけでも十分な存在であることは認めるべきですが、一方で、上記のような状況下、新たなファンの開拓が進まず、活動規模や範囲が頭打ち傾向にあることは事実です。望外な成功を収めた結果、袋小路に嵌ってしまったということでしょうか。

極めて厳しい表現を許されるならば、そのような状況下で彼女たちは敢えて「歌手でありたい」という意志の拘るのではなく、周囲が求める、或いは勝手に決めてしまったモーニング娘。という存在に応えるべく頑張ったが為に、より一層行き場を無くしてしまったと云えるのではないかと思います。

しかし、周囲の過大な期待に常に直面していた4期までのメンバーとは異なり、5期以降のメンバーはモーニング娘。としての活動においては先輩達に依存出来、またその活動範囲も縮小して来たが故に、確実にこなさなければならないライブ(歌でありフリであり)のスキルアップに集中できたこともあり、先輩達とは異なり比較的音楽に集中出来る環境にあったと思います。新たな環境でいつの間にか新たな才能が育まれていたのです。

デビュー以来突き進み、そして成功した拡大への流れが収束し、新たなスタンスでモーニング娘。に係わったメンバーが彼女達の個性を発揮し始めたということです。本来終わるはずのモーニング娘。がメンバーを常に入れ替えるというスタイルを選択した為にいつの間にか生まれ変わっていたのです。

先輩達が蓄積した楽曲という手段とライブ(或いはそれを経験して来たファン)という宝物と受け継ぎ、客観的にそれらを見つめ新たな音楽として紡ぎ直すことの出来る「新生モーニング娘。」の誕生です。



☆モーニング娘。を歌手として応援しませんか☆


モーニング娘。は生まれ変わったと思います。正に「新生モーニング娘。」であると思います。そんな彼女達は紛れもなく10人の歌手です。

いま彼女達が紡いでいる素晴らしいライブに、接するという機会を得た幸運なファンはそのことを是非広めて欲しいと思います。

卒業した先輩を応援するなと申し上げているのではありません。卒業した先輩より今のモーニング娘。の方が価値があると申し上げているのでもありません。

そうではなく、先輩達が築いたモーニング娘。という価値を確りと今も、そしてたぶん未来にも受け継ぎ、その上で、新たな価値観、音楽を楽しいときを過ごす空間として提示できる歌手としての価値を備えつつありながら、一方でモーニング娘。という価値によってその世界が広めにくい環境にある彼女達に、今以上に活躍の場を与えて欲しいのです。

それだけのチームになれる可能性を今の10人は間違いなく秘めています。彼女達は、楽曲が本来持っている魅力をそのままに再現できる技術を備え、その上でエンターテイメントとして観客を楽しませる意志と魅力にとんだ個性的なアーティストであることを恥ずかしがることなく、遠慮することなく、自信を持って薦めて欲しいのです。そうすることで、モーニング娘。というレッテルに縛られた未来のファンを覚まして欲しいのです。



☆平成17年11月3日 札幌2☆

楽しい、そして濃密なライブの余韻に浸りながら会場をあとにしました。ライブの感想を語り合う人たちの声が耳に入ります。その中から印象に残ったシーンを二つ。


小学生の女の子が「楽しかったね〜」と満面の笑みを湛えながらジャレつかれ歩けなくなってしまった母親の困惑しながらも発した笑顔。


そして、


二十歳前後の娘。に「モーニング娘。って凄い体力だね」と真顔で感想を言われ、「羨ましいね」と返しつつ苦笑するしかない初老の母親。


そんな、そんな素敵なライブでした
  
Posted by roukenchikuka at 23:00Comments(0)TrackBack(2)ライブ

2005年08月01日

Call me YOSHIKA  そして、モーニング娘。のこと

Call me基本的にモーニング娘。さんとその周辺を取り上げているこのBlogですが、時に他の方の楽曲も取り上げます。勿論、個人的に気に入った曲を取り上げるという事は前提ですし、私自身当然、モーニング娘。の楽曲のみを聴いている分けではなく、他のアーティストとの相対の中で彼女達を受け止めている訳で、その当たりのスタンスを忘れない様にという自身への戒めであったりもします。そうでないと、歌手としての「モーニング娘。」に対して、なにより失礼ですし。加えて、取り上げることよって彼女達が奏でる音楽が相対的に浮かび上がってくるのではないかという事もひそかに期待していたりします。


前置きが長くなりましたが、既に発売されて数ヶ月が経つYOSHIKA氏のメジャーデビュー曲である「Call me」です。この曲がマーケットでどのような評価を得ているのか知りません。しかし私の生活には必要な曲です。この曲を表現するに一番相応しい形容詞は「必要な曲」なのです。

全編に渡って都会的であり、お洒落、そして且つポップです。ある意味、この曲を説明する言葉はそれだけかもしれません。彼女自身のヴォーカルは隅々まで神経が往き渡っていて、手を抜く所が無いのにも係わらす、自由です。何より力が入っているとか歌に歌意外の意識を忍ばせているとは一切感じさせない迫らないクールさが特徴です。ポップミュージックというジャンルに技術や基礎は必ずしも必要ないと考えている私ですが、この様な表現出来るのは音楽を楽しむという姿勢に加えて、絶対的な技術を備えていることが前提となる事は認めざるを得ません。

歌詞は、声を発する切っ掛けに過ぎないし、(つまり、聴き手が意識してアプローチしない限り、言葉の意味を意味として伝えることは無いということです。)アレンジも極めて繊細で有りながら、音は届くのではなく、そこで鳴っているという感じを保持します。

つまり楽曲を構成する全てが上質、丁寧であるにも係わらず、聴くものにそれ以上のものを感じさせない、迫ってこないのです。その意味で都会的で都会的です。加えてこの楽曲に特徴的なのは、プライベートで展開されるミュージシャンのセッションをその音が洩れて来る隣室で聞いている様な心地よいライブ感をも兼ね備えているということで、その意味でお洒落なのです。

コラボレイトとはいえヒットを飛ばし(この楽曲も嫌いでは在りませんでしたが、プロデュース先行で企画戦略が垣間見えるが故に、曲のジャンルにも掛からず思いの他音以外のファクターが力強く迫ってくる楽曲でした)商業的にも期待をされてのデビューだと思います。当然力は入って然るべきです。にも係わらず、このリラックスした雰囲気はどうしてなのでしょう?偶然なのか、それとも此れしか表現手段を持ちえていないのか(これはそうではないことを先行したコラボレイトで証明済みですが)或いは、ここまで多様性をもちえるほどにマーケットが成熟してきたのでしょうか。何れでもないと思います。市場全体が(永遠に続くかもしれない)過渡期にある今、試行錯誤を続ける作り手の混乱の中で放たれたささやかな「チャレンジ」なのでしょう。

少なくとも私は受け止めました。様々なファクターに追い捲られて自由を失いながらクールさを保ち生きている都市生活者としての私を救ってくれています。そしてそれは私に「必要な音楽」です。この曲が存在するということ、それがリリースされる環境が此処に今あるということに、そしてなにより、私がこの楽曲に出会えたということに、感謝しています。


此処からは、モーニング娘。の音楽についてもう少し。彼女達の音楽は、此処で取り上げた「必要な音楽」とは対極にあるものです。強いて申し上げれば「求める音楽」という事になるでしょうか。決して、稚拙であるとか、黎明であるとか、未熟であるという意味ではなく語義通りに「歌手でありたい歌手」が放つ存在証明としての音が、「音楽」として受け手に伝わるときの揺さ振られる様な躍動と相互作用は決して「救い」ではなく、また生活の一部や連動でもなく、非日常的な体感であり、それは私にとっては求める対象です。

如何に楽曲に救われようと、私がYOSHIKA氏のファンであり得ない事、そして私が如何に時に楽曲に不満を抱こうが、モーニング娘。が放つ楽曲ファンであると認識している事の差は此処にあります。
  
Posted by roukenchikuka at 01:26Comments(0)TrackBack(0)楽曲