2006年03月27日

モーニング娘。を発見する旅〜コンサートツアー2006春・仙台〜

sendai既に何度、彼女達に出会うため杜の都を訪れたか、その正確な回数は判りません。何時もながら、駅からコンサート会場のあるサンプラザホールに向かう新しくとして人工的な町並みと広すぎる一直線に伸びた歩道(計画的でありながら、店舗の利己的な看板群に侵食されつつある、都市計画的に云えば見るも無残な景観は、それ故に、人間的なスケール間を皮肉にも留めています)は、あまりにも没個性的であり、同様に無機質を極める新幹線という移動手段も相まって、その絶対的な距離にも係わらず、遠くまで来たという感慨を抱かせることは絶対ありませんでした。しかし、この特徴の無い風景は同時にモーニング娘。という音楽といっしょに記憶されているが故に、1人恥ずかしながら心を躍らされてしまうのです。本日もそれは変わることが在りませんでした。

この歳になって、期待に胸膨らませる機会がすっかり少なくなりました。そんな生活に彼女達は今も音楽を届けてくれるのか。錆付いて、閉じてしまった感性に訴えてくれるのか。昨年末終了したツアーを「始まりの始まり」と期待した彼女達を確認する為の今年初めてのツアー参加でした。

しかし、そんな余りにもファン的で、個人的で、そして感傷的な思いは、コンサート会場に訪れた聴衆を前に自分達の音楽を音楽だけを届けた彼女達を前にしてあっさりと打ち砕かれました。彼女達は既に「応援の対象」では無くなっていました。そこに訪れた人々を楽しませる、そこに訪れた人に共感される、そこに訪れた人の憧れとなる、完全ある表現者として歌い、踊っているのです。昨年「新生モーニング娘。」と連呼していた彼女達、そして今年「新生モーニング娘。」言わなくなった彼女達を恥ずかしながら発見する旅となりました。

それぞれに個性的な歌い手がその個性を戦わせるのではなく、お互いを補いながらチームとしての完成度を目指す。理想的でありながら実現は難しい、そしてモーニング娘。が誕生して以来、ずっと目指してきた筈の目的が、決して無理する事無く、受け止める側にとって自然に伝わってくる奇跡。誰もが主役になり、誰もが脇役になる自在性と多様性。高度な技術を保持しながらそれを感じさせない開放感。目の前に居る10人は正にプロの歌手そのものであり、同時に他の歌手では絶対に表現できない個性を備えた唯一無二の存在でした。既に知っている、受け止めていると思っていたモーニング娘。というグループの魅力を改めて発見したのです。

10人の歌手としての個性について少し触れます。それはモーニング娘。の歌を圧倒的歌唱力でベースとして支えながら、同時に個性的であることを維持している藤本さん。その藤本さんに大いなる影響を受け、無個性なスタイルから力強いヴォーカルに変身し同時に藤本さんに対抗しうる存在感を示す高橋さん。この二人がモーニング娘。の楽曲の伝統である情念的な表現を担当する中心的役割を担当します。対して、明るく可愛らしい良く通る声をもち技術的にも表現の多様さについても申し分のない田中さんは先に挙げた二人を明快な対象を示し一方の主役です。新垣さんと亀井さんは技巧に長けた渋さで時にメインを、時に脇役に、起用に様々な役割をこなします。コンサートにおいてこの二人の自在さは大きな武器です。元気な太い躊躇いのない声の小川さん、通らないけれどそれ故に表情のある色っぽさが魅力の紺野さんの二人は専門性の高い個性的なヴォーカリストです。道重さんと久住さんは今のところ色がありません。色の無さが今は10人の中で相対的な魅力になっています。しかし、彼女達が歌う(口パクでしょうけれど)「レインボーピンク」のような自分自身の嗤うような達観したスタイルが実現出来ればより楽しくなると思います。今後に期待します。リーダーの吉澤さんはヴォーカリストとしてもリーダー的です。一旦メインで歌いだすとその場を占領してしまうくらいの存在感を放ちます。力強かったり、元気だったりする10人の中で実はもっとも女性的な印象を感じたりします。

繰り返しますが、10人がかなり高いレベルで拮抗しています。誰がセンターでメインで歌ってもそれぞれの個性で引っ張っていけています。何より全員がメインであろうと、脇役であろうと気を抜くことが無い(見ている側にそう感じさせない)という状態がプロらしさを感じます。直接的に歌っていようがそうでなかろうが常に歌手として振舞っている。そのようなチームは出来るようで出来ないものです。

多くの人にとってモーニング娘。は「アイドル」でしょう。そして、ファン以外の人々にとっては過去に一世を風靡し、いまも粘り強く、メンバーを代えて活動を続けている「過去のアイドル」でしょう。ファンにとってはとくに贔屓とするメンバー一人を中心とした「応援の対象」なのではないでしょうか。

確かに、全くの素人が誰よりも歌手に成りたいが歌手以前の存在として、歌ではなく、歌いたい気持ちを表現したが故にその「精神的部分」が共感され活動が許された時期がありました。それ故に生じた個性的な個性が支持された時期もありました。そんな芸能の世界では少し異質な彼女達が「若い女性」であるが故に結果として現れる「画としての華やかさ」が製作者側にもてはやされた時期もありました。それは偶然であったとはいえモーニング娘。という存在にとって幸運な時期の連続であったと思います。しかしそれらが全て過去のものとなったとき「モーニング娘。」という看板は足枷としてしか機能しなくなっていました。つまり、ファンでない人々にとっては「(過去の)アイドル」でしかなく、ファンにとってはいつまでも「応援する対象」でしかないという状況です。

その様な閉塞感の中で(新生の)モーニング娘。である彼女達は何を目指せば良いのか、彼女達が昨年提示した音楽に大いなる可能性を受け止めた1人のファンとして一緒に共有して行きたいと思っていました。

確かに今も彼女達の状況は閉塞しています。しかし、今日仙台で発見したモーニング娘。は既に次の段階に生まれ変わっていました。状況は閉塞していても、その根源となる彼女達はいつの間にか「歌手」として成長していました。

未熟さに妥協するのでもなく、一生懸命に振舞うのでもなく、固定されたファンと馴れ合うのでもなく、仕事として割り切るのでもなく、何より目前に居るファン頼るのでも、対峙するのでもなく、プロとして自ら主導者として演じ、楽しみ、そして何より相手を楽しませる「10人の歌手」がそこに居ました。プロフィールや楽屋落ち、そこに至る背景など余分な情報が一切必要ない歌のみを届ける「10人の歌手」が居ました。歌手としての存在を維持し証明する為にビジネスとして歌うのではない、歌手であることにプライドを持ち歌うことに妥協しない「10人のプロ」が居ました。

ファンすらも知らないうちにモーニング娘。は変わっています。10人の若い女性。派手で、しかし流行に沿わない衣装を身にまとう10人の女性。実際にステージに立っている事以外、全て他人より与えられた環境に身を任せている10人の女性。確かに一見すれば今もモーニング娘。はアイドルに見えるかも知れません。でも裏を返せばそれは、(勿論振りを含めて)歌うことのみに集中している本当の歌手とも言えなくはないでしょうか。

これは想像でしかないのですが、自分が「推す」個人を応援しようと臨んだファンの方も結果的にモーニング娘。を楽しんでいた、頑張る彼女達を見ようと駆けつけたファンも結果的にモーニング娘。の歌を楽しんでいた、そんな、コンサートであり、そんなモーニング娘。であったと思います。「確実に楽しいけれど、でも今までとは違う感覚」を受け止めた筈。

実は今のモーニング娘。を本当に楽しめるのはモーニング娘。のファンでない、でもポップミュージックのファンである方々なのかも知れません。いやそう確信しています。モーニング娘。のファンとしては勿論、ポップミュージックを愛する音楽のファンとして今の10人のモーニング娘。を推薦します。

残念ながら、今のモーニング娘。はコンサート以外に自分達の音楽を提示する機会を失っています(CDの音源だけでは彼女達の魅力が伝わりにくいという大きな問題も横たわっていますが)。ファンの方はもう一度まわりに居る友人を誘ってみて下さい。ファンでない方(この文章を読んでいただいている可能性は少ないですが)は騙されたと思って一度会場に足を運んでください。想像とは違う、モーニング娘。を発見できる筈です。想像出来ない音楽を発見するかも知れません。

忙しい中確保できた休日にトンボ帰りで参加した仙台のコンサートは嬉しい誤算に出会えた発見の旅となりました。モーニング娘。の皆さん、ありがとうございました。


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