彼等の一年ぶりのシングルは思いもかけずCMとのタイアップという形で私に届けられました。その事自体には、特に肯定や否定の感覚を抱くほど彼等との接点を持たない私ですが、それが幸いだったのか、不幸であったのか、それすら結論が出ないままに打ちのめされました。シングルを(正確にはそのジャケットを)街のショップで見かけ手に取り、購入し、帰宅の後に取り出し、歌詞カードを眺めつつ、再生するという過程、その全てが発見と裏切りとの連続でした。
「会いにきたよ」というリフレイン、情緒的な映像(CMでもPVにおいても)との隙のない融合により固着された先入観は、それ故にこの曲に触れた前提のない聴衆に対しては、違和感なく、そして心地よく空気としての音楽を提供するのでしょう、しかし、彼等と共に歩んできたファン、先行する情報に心が揺れていたファンにとっては、改めて、シングルを購入するという過程で別の体験が待っているのではないか。
彼等のファンといえる程の資格のない私ですが、そんな想像をしています。
表題曲における「君」「僕」「俺」それは如何様にも解釈が可能です。しかし、ジャケットで提示された「オブジェ」という明快な画像が提示されつつ、カップリングとセットで聴くとき、「ふたりがひとつ」「ひとりがふたつ」と繰り返される言葉と対峙するとき、そして、加えて更なる音源と接するとき、如何様にも解釈が可能だったそれが、其々の置かれた状況により、一つの回答を導きうるのです。もちろん、皆が、同じ結論に達することは無い筈です。しかし、其々が確固たる結論に辿り着けるのです。
このシングルを聴くのではなく、勿論、聞くのでもなく、買って頂ければ幸いです。歌はそれ自身が既に音楽です。その事を否定はしません。でも、このシングルと出会えたなら、音楽は依然データではない事、空間を演出する空気でもなく、それを発する人間が聴いて欲しい、しかしそれがどこに居るのか判らない「人」に、なぜ?その意味も考えずに、とめられない意志に突き動かされて紡ぎだす贈り物であることを改めて思い知る事が出来るはずです。手に入れた全てに思いも、意味も見出せるものなのです。
人は音楽に何を求めるのでしょう?
徹底的な絶望と絶対的な孤独を甘んじて受け入れ、しかし尚、それでも尚、前に進もうとする意思が人生なのだとすれば、そんな自分を否定することも肯定することも無く、ただ、鏡の如く自分自身を映し出してくれる者。私はそう思っています。
「涙のふるさと」は私にとっての大切な音楽です。