2007年03月18日

モーニング娘。コンサートツアー2007春 〜セクシー8ビート〜 座間

zama春ツアーの初日、初回に行ってきました。

ツアー初回は、ファン的視点から見れば、事前知識がない新鮮さ、何より久し振りの彼女達との再会、そして、初めてであることから必然となる会場全体の緊迫感など特別なものなのだと思いますが、同時に、ツアーというものはその言葉通り、線として展開していく中で変化し成長していくものであり、作り手側にとっても、そして受け手であるファンにとっても、結果として望んでいるものを探り、評価するのであれば、少なくとも中盤以降のステージをもって受け止めなければならないと思っています。

しかし、今回敢えて初日に向かい、そしてその感想をこうして記すのか。それは、彼女たち自らが「新生モーニング娘。」と自らを発して以降、2005年の夏秋にその発芽が見え隠れし、2006年春、その方向性が明快となり、2006年の秋、極めてタイトにプレゼンテーションされた、「歌手として歌うことで音楽という(モーニング娘。にしか出来ない)空間を提供するという姿勢」。それはある意味、昨年末で完成されたといっても良い位の出来栄えでしたが、それ故に、今後どの様に展開される(しようとしている)のか、その可能性は果たして存在するのか、という事が気になっていましたし、それが一番端的に示されるのは、受けて側の反応がフィードバックされない初回が一番であると思ったからです。

最初にコンサートと終えて一番印象に残ったことを記します。それは「肩の力が抜けたモーニング娘。がそこに居た」という事。そして、「ファン(或いは男性)が求めるモーニング娘。ではなく、自分達が目指したいモーニング娘。を模索し始めている」という事。これは新生モーニング娘。の始まりが終わり、新生モーニング娘。の行き先を探す過渡期に入ったという事なのではないかと受け止めました。


始まりが終わったということ。それは乗り物に例えれば加速度が零となったという事でしょうか。これまでのツアーにおける張り詰めた緊迫感が良い意味で解放され、初日であるにも係わらずより「楽しむこと」にシフトしたという印象がコンサートを通じて全体として流れていました。それはとても新鮮でしたし、彼女達につられていつの間にかリラックスしている自分に気付き、少なからず驚いてしまった位です。モーニング娘。という存在は何事にも、特にコンサートという場面と対峙した場合、気合をもって望むという姿勢(それは良い意味で作用した時季も、悪い意味で作用した時季もありましたが)を堅持してきましたが、それが10年目にして初めて崩れ始めているのであるとしたら、大きな、そして決定的な変化です。勿論、今日一日でそれを判断する訳には行きません。しかしそうであることに期待したい、と思っています。何故なら、それは歌手になりたいという過程への賛同を求めるモーニング娘。から、歌手であることに共感を求めるモーニング娘。への脱皮であることに他ならないし、その事をファンでも、或いは周辺の状況や思惑でもなく、他ならぬ彼女達自身が気付いたという事だからです。


自分達が目指したいモーニング娘。への模索は始まったばかりです。その気配は感じられてもその方向を受け止めることはまだ出来ていません。但し随所に手掛かりとなりそうなヒントが隠されている様な気がするコンサートでした。

誰が見てもテーマが明快に示めされるモーニング娘。のコンサートにおける舞台美術ですが、今回は音符(や音符記号)が具象的に配された白いステージで、いつにも増してシンプルです。ライティングのシンプルさ、PV的に使われるスクリーンと彼女達の何時にもました一体性などが加わって、結果として視線は彼女達個人に比重が置かれることになります。音符を使っているから音楽がテーマなどとは流石に言いませんが、単に歌うだけでも、単に踊るだけでもない、ステージ全体(時に聴衆をも含みますが)が紡ぐ世界観がモーニング娘。のコンサートである訳で、その事を念頭に置けば、その世界観における彼女達自身に比率が重きを成しつつあるということなのではないでしょうか。

衣装についても具体的な点は指摘できないのですが、何かこれまでの流れとは異なるなという印象です。とにかく薄着に終始します。それは端的に言えば露出度が高いということですが、想像通り、結果的にSEXYに結びつくということはありません。スポーツ選手おいて顕著であると思いますが、肉体を晒す事により言外に伝わる個人、彫塑的な効果より歌手としての彼女達がクローズアップされます。実際的な効果を申し上げれば、重ね着による衣装チェンジという手法を最小限に留めているということでもあります。結果として、彼女達が歌に合わせて世界観を提示するのではなく、彼女達自身が主体となって歌を提示するという効果を生んでいます。

セットリスト、曲目ついては、初回であるという効果が効いているのかも知れませんので印象は異なってくるかも知れませんが、少なくとも今回のコンサートのみでという限定となってしいますが変化を感じました。それは、モーニング娘。のコンサートにおいて顕著であった「ノセてなんぼ」「ノッてなんぼ」という世界観、或いは「知っているという前提に基づいた強固な関係性と馴れ合い、そしてステイタスの形成」という、結果はあまりに対極であるとは言え、例えばクラブそのもの成り立ちや、それにおけるDJと客との間にも似た関係性からの脱却を志向し始めているという事です。

所謂モーニング娘。らしい曲、聴衆との(合いの手やお決まりの応援スタイルを通しての)物理的一体感を訴求する楽曲を決して否定はしていません。また逆に、ソロや少人数による楽曲における歌や歌声、そして歌以前に歌う人その人の主張という歌手としてスタイルに固執する訳でもないのです。モーニング娘。という「枠」を広げようとするかのごとく、バラエティに富んでいるという表現したら良いでしょうか。(それを誘うが如くのプレゼンテーションも含めて)ファンとのお決まりの曲があるかと思えば、歌を歌として聴かせようという曲もある、加えて、楽しいけれどノルというより聴いてしまう曲もあれば、その様な心構えが無いのにいつの間にか体で聴いている(つまりノッている)曲もあったりします。様々な提示が様々な手法をもってプレゼンされるので、一貫した印象や、終始ノンストップで盛り上がるという感じではないのです。そういう意味では、コンサートで発散しようとして乗り込んだファンが居たとしたら拍子抜けするかも知れませんが、そんな人達を含めて結果的に楽しかったという印象を持って会場を出ることが出来ると思います。それはつまり、モーニング娘。を楽しむつもりが、いつの間にか音楽を楽しんでいたという事なのです。

この様な勝手に受け止めたヒントからモーニング娘。模索しているモーニング娘。の姿を思い切って表現してしまえば、それは、「彼女達其々がモーニング娘。となる前にモーニング娘。になりたいと思った、そのモーニング娘。を目指している」という事なのではないかと思っています。彼女達は私も、そして多くのファンがそうであるように男性ではありません。一人の今日よりも明日に希望を意味出せる本当に若い、そしてそんな希望を実現できる才能をもった女性が夢見たモーニング娘。を今実現しようとしているのではないかと思うのです。それは決してファンを裏切るという姿勢ではありませんが、ファンに阿るという姿勢でないことは確かです。

17日、曇りの予報が外れ、日が差し込んだ、座間の住宅地の真ん中で出会えた彼女達は諦めては居ませんでした。妥協もしていませんでした。寧ろ未だモーニング娘。が先を目指しで進んでいるという事を教えてくれました。そしてその事は、モーニング娘。のファンであるという事が、決して馴れ合いでも余興でもなく、増して単なる応援でもない、現在進行形であることの証であり、それが何より嬉しい事でした。

既にモーニング娘。とは過去の存在であるとの認識は当たり前となっています。移り変わりの激しい世の中で10年も続けていれば、或いは超然たる個というカリスマでは無いのならば、それは当然の事といえます。寧ろ現在進行形であるという意志にとっては「モーニング娘。」という記号は時に障害となるかも知れません。しかし彼女達は過去に甘んじる事もなく、現状に妥協することもなく、音楽という楽しみを楽しみとして伝えることに前向きです。その事を敢えて言えば唯一受け止めることが出来る機会を得ているファンは幸せであり、同時に、そうであることを伝える役割を担わされている事に気付いて欲しいと思います。



最後に、17日の彼女達について一言だけ。

光井愛佳さん
本来一番に触れるべき新メンバー、ツアーデビューとなる彼女に敢えて触れなかったのは、新人として評価するのは失礼であると感じるほどに九分の一として機能してからです。モーニング娘。を形作る芯(メイン)を形成する歌い手としてモーニング娘。の幅を広げてくれたことに感謝しますし、彼女を迎えることが出来たモーニング娘。は幸せです。

久住小春さん
新人らしい新人として未だ新鮮ですが、この新鮮さはこのままずっと保たれるのではないかと思ったりしています。訓練では習得できない存在感は実は今のモーニング娘。に欠けている存在感です。コミカルな歌唱が今はモーニング娘。におけるスパイスですが、将来それがモーニング娘。という枠を突き抜けるか否か、楽しみです。

田中れいなさん
現在のモーニング娘。において彼女は決して中心ではありません。その明るい声質は貴重なスパイスとして大切に機能しています。しかし、何より、一瞬たりとも気を抜かないステージ上の姿は実は後輩の見本であり、先輩への突き上げであり、モーニング娘。をモーニング娘。として成り立たせている原動力なのです。助かります。

道重さゆみさん
田中さんと並んでモーニング娘。のセカンドラインともいえる明るい声担当です。彼女は明らかに迷っています。しかし、その迷いを迷いのまま表現してしまっても、それが魅力となる不思議な個性を持っています。このまま迷い続けて下さい。迷って迷って迷いぬいて、それでも結論を出さずに走り続けてください。そんなあなたは格好良いのですがら。

亀井絵里さん
道重さんとは逆に迷いを脱しつつある。いや迷いより意思が勝っているという言い方が適切かもしれません。あらゆる意味でモーニング娘。のスタンダードであり、彼女が巣短ダートであるということはモーニング娘。がかなりのレベルにあるという証明でもあります。ただ、その安定した強い意思が今まで通り歌に向かうことを祈っています。

藤本美貴さん
藤本美貴という歌手が既に藤本美貴で完結しているということに世間は気付くべきであると思います。そしてその上で彼女がモーニング娘。のメンバーで居続けることの危うさと大切さにファンは気付くべきであると思います。モーニング娘。無くしても彼女は存在しますが少なくとも今のモーニング娘。にとって彼女は不可欠の存在です。

新垣里沙さん
モーニング娘。であるというより、年齢なりの女性として抜群の安定度を誇る彼女は、徐々にその存在感を増しつつあり、今ではかなりメインに近いヴォーカリストとしても活躍しています。此処まで到達した実力と努力は賞賛しますが、これ以上先が今は見えにくいという事実もまた受け容れるべきでしょう。どう解決するか楽しみです。

高橋愛さん
彼女がモーニング娘。の中心で居ることを認めつつ、彼女が中心のモーニング娘。という形が見え難かったのは過去のことと行って良いでしょう。ここ一年で急速に輝きだした彼女はいつの間にかモーニング娘。という枠を越え、高橋愛として存在を主張し始めています。彼女が居るモーニング娘。に私は可能性を感じ、期待を込めています。

吉澤ひとみさん
このツアーで脱退する彼女は主役の一人です。確実に主役に相応しい存在として振舞っていましたが、既にリーダーとしての役割は少なくとも精神的には終えている様です。モーニング娘。のリーダーではなく、一人の歌手としてモーニング娘。に貢献する彼女を実は初めて見た気がします。そしてそんな彼女はとても魅力的な歌手です。


9人其々を見つめて、改めて今のモーニング娘。が充実していることを思い知らされます。そして同時にそれは決してファンの贔屓目だけではないと思いたい気持ちです。


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