もし、富士山が何らかの原因で汚れるか崩れるかして、見る影もない姿になってしまったとしよう。これではあまりに無残だし、観光資源としても価値がないから、日本国として税金を投入して元の姿に戻すことにした。では、あなたはその費用として、いくらまでなら出してもよいと思えるだろうか。
筆者なら、5億円だといわれたら、それくらいで元に戻るならいいかと思える。もし50億円なら、まあ日本の象徴でもあるし、この程度の支出はやむを得ないかという人も多いと思う。では5000億円といわれたらどうだろう。いや、いくら天下の富士山でもそれはちょっと額が大きすぎる、もう少し安上がりな方法を考えてよ、という人が多いのではないか。
なんでこんなことを書いているかといえば、日本橋の首都高の件である。日本橋は、家康の時代以来日本のあらゆる道路の原点であり、始まりの地であった。しかし50年ほど前、首都高速道路が建設されることになり、この地の風景は一変した。この近辺では日本橋川の川底に橋桁を立てて高架の道路が作られ、日本橋をまたぐ形となってしまったのだ。
川をまたぐ形で日本橋がかかり、その上にクロスして首都高の高架がある。
これが見苦しいという指摘は、ずいぶん以前からあった。というわけで日本橋の首都高(正確には、竹橋JCT~江戸橋JCT間の2.9km)を、地下トンネルとして埋めてしまえという話が進行中なのである。このための経費が約5000億円と試算されているのだ。
日本橋の首都高地下化の話は何度も繰り返されていて、2001年には扇千景国土交通大臣が、2005年には小泉首相が地下化検討の指示を出しているが、その後進展はなかった。ところが、これが2016年頭あたりからまた復活し、国土交通省にて「具体的に検討」する流れになったらしい。
筆者は道路趣味者の一人であるけれど、この件に関しては全く反対である。日本橋の歴史的・文化的価値はよくわかっているつもりだし、国道の原点たる地点なのだからできる限り美しくあってほしいと願うものの、さすがに5000億は出せないだろうと思う。それだけの巨額を突っ込んで首都高をひっぺがしても、現れるのは狭い川と古い橋でしかないというのに。
首都高の橋桁の下を流れる日本橋川
しかしこの話、あまりマスコミで大きく取り上げられるでもなく、粛々と進んでしまいそうな雰囲気である。金額からいえば、大問題となった新国立競技場や豊洲市場に匹敵する規模であるのに、である。豊洲問題に一応のけりをつけた小池都知事が、今度はこちらに噛み付いてきたりはしないかと多少期待したのだが、ニュースによれば
東京都の小池百合子都知事は21日の定例会見で、「歴史とか文化とかを無視した形で、利便性のみを追求してきた。今までのインフラの悪しきモデル――とまで言ってはあれですが、私としては『イケてない』モデル」と述べ、「100年後にも誇れる東京の姿を未来に残していきたい」と意気込みを語った。
だそうで、あーあである。豊洲では地下深くの微量のベンゼンであれだけ大騒ぎしたのに、日本橋に関しては都知事のAIとやらは働かなかったらしい。
(1)首都高の景観
日本橋の首都高が「イケてる」姿かどうかは、いろいろな意見があろうかと思うし、すでにあちこちで論じられているので、筆者としてはあまり踏み込まない。非常に美しいとは思わないが、あれはあれで東京らしい風景であり、都市のエネルギーを感じさせる姿だとは思う。参考までに、いくつかリンクを張っておく。
日本橋川に空を取り戻す会
首都高を「醜い景観」と呼ぶ残念な人たち(北大・岡本亮輔准教授)
空、本当に取り戻すべき? 日本橋と首都高、日本らしいのは(首都高研究家・清水草一氏)
日本橋について思うこと(写真家・大山顕氏他)
東京・日本橋 首都高の地下化構想 景観論議、深める好機(毎日新聞)
ただ、みなさんそんなに日本橋に思い入れがあるんですか、とは思う。富士山などと違って、遠くの住人には関わりのない話だし、東京都民だって「ない方がスッキリするんじゃない?」程度で、どうしても首都高をどけろという人が、地元民以外にそんなにいるとは思えない。首都高撤去を求める署名が44万人分集まったというが、署名をした人たちは5000億円かかると知った上だったのだろうか。
ちなみに舛添前知事は、
舛添要一@MasuzoeYoichiというご意見だそうだけれど、もし日本橋を広重の浮世絵みたいにしたいのであれば、首都高よりはるかに高くそびえ立っている、周辺のビル群を全部破壊するほうが先だろう。明治44年にできた現在の日本橋も、江戸時代風の木造に戻さねばなるまい。日本橋の首都高を地下に移し、広重が描いたような、素晴らしい「お江戸日本橋」を復活させる。これも、私が知事時代に全力をあげてきた政策ですが、国交省もその方向で動きました。https://t.co/sBVJ5t3839関係者の努力に感謝。「世界一の都市、東京」実現への躍動を感じます。
2017/07/21 13:37:55
初代歌川広重「江戸名所日本橋」(国立国会図書館ウェブサイトより)
そもそも、なぜ日本橋の首都高ばかり目の敵にするのか、筆者には疑問である。日本橋よりはるかに多くの観光客が集まる渋谷や秋葉原や六本木、さらにはずっと歴史のある京都や大阪にも高速道路は通っているが、これらを地下に埋めろという話はあまり聞いたことがない。世界遺産である、五箇山の合掌造集落付近には東海北陸道の橋桁が威圧的に張り出していて、風情ぶち壊しであると筆者の目には見えたが、こちらはどうでもよいのか。
日本橋付近は「コレド日本橋」を始めとした新しいビルが建ち、盛んに再開発が進められている。首都高の地下化の話も、これとリンクした事柄のようだ。「日本橋の大家さん」ともいわれる不動産会社の株価がずいぶん動くんではという話もあるようで、首都高地下化もその筋の意図が働いた結果なのだろう。だからダメ、とは別に言わないが、ドライバーや納税者、一般市民のためになる話なのだろうか。
(2)地下化費用
ただ、首都高自体は建設から半世紀を経て、改修が必要なのは事実だ。この区間を普通に改修するなら、約1400億円かかると試算されているから、5000億円かけて地下化する場合との差額は、約3600億円ということになる。だが、ほんとにそれで済むのだろうか。
首都高研究家の清水草一氏は、「現在は資材や人件費が高騰しているため、これ(5000億円)を大きく超えることは確実」と指摘している。元東京都知事で、道路公団民営化の指揮を取った猪瀬直樹氏も、
猪瀬直樹/inosenaoki@inosenaokiという見解のようだ。当該区間には半蔵門線、銀座線など4本の地下鉄が通っており、これを避けて通らねばならない。後述のように、かなりの高低差をクリアする必要もあるから、「針の穴を通すような」難工事になるという(参考)。となれば、想定外の事態が起きて費用が高騰する可能性も高いだろう。これは何度も浮かんでは消えている情緒的な話。数千億ではなく1兆円どころかそれ以上かかるのでそこまでの費用対効果はない、と結論は出ています。2012年の報告書は、地元の要望があったので検討致しました...
2017/07/21 18:21:35
https://t.co/tFzOM51St5 #NewsPicks
ボストン市内を横断する高速道路を地下化した「ビッグディグ・プロジェクト」では、当初25億ドル程度と見られていた費用が、最終的に6倍近い146億ドルに膨れ上がって大きな批判を浴びた。ちなみに東京オリンピックの費用も、立候補時には約3500億円といっていたものが、2兆円だの3兆円だのという話になっている。このへんを見ていると、日本橋地下化が5000億で収まる可能性は相当に低いだろうなと思える。
今のところ地下化費用は、国や都、首都高速株式会社に加え、利益を受ける周辺の企業などにも応分の負担を求める方向だという。その配分はこれからの話し合いだろうが、予想より費用が膨らんだら、結局のところ税金で補填する他なくなるのではないか。納税者の一人としては、冗談じゃねえなあと思わざるをえない。
(3)ドライバーの立場から
で、この件で疑問なのは、景観の話、経済の話はずいぶんなされているけれど、実際に走る立場からの話がほとんど出てきていないように思える点だ。道路は鑑賞してもらってもよいし、経済を支えるものでもあるけれど、やはり第一に走るものであり、ドライバーのものだろう。
首都高を走る一人として、たとえば5000億円投じるにしても、今より格段に安全で走りやすい道路になるというのなら、ある程度納得もできる。だが、長いトンネルは心理的圧迫感が強く、苦手だという人は多い。筆者も、山手トンネル内の合流などは、かなり怖いと感じる方だ。
首都高・山手トンネル(Wikipediaより)
地上20メートルの高架から、一気に地下深くまで潜り、また地上に出るとなると、かなりの急勾配にならざるを得ない。ご存知の通り、上り坂は速度が落ちやすく、渋滞の原因となる。トンネルの心理的圧迫感もあるから、より渋滞は起きやすくなると思える。大きな事故が起きた場合の処理なども、トンネルでは面倒になるだろう。
まして今回の区間は首都高でも屈指の交通量(約13万台/日)がある区間であり、その先には渋滞の名所・箱崎JCTが待っている。5000億円をわざわざ投じて、渋滞ポイントを新たに作りましたというのでは、ドライバーとしては目も当てられない。
ドライバー視点の議論がなされていないというのは、景観の話も同じだ。首都高を走りながら見下ろす東京の街の眺めは、なかなか他で見られるものではない。他国にも都市高速道路というのは例がほとんどないから、大都市のビル群を縫うように駆け抜けながら眺める夜景などは、東京が世界にアピールしうる観光資源だと思う。
この日本橋付近の区間も、ビル街の中を道路が駆け抜け、これぞ東京というべき風景だ。首都高を地下化するということは、ドライバーや同乗者から、この景観の一切を奪うということに他ならない。首都高の景観について論ずるなら、「首都高を観る」視点だけではなく、「首都高から観る」視点もぜひ考慮してほしいものと思う。
wikipediaより、首都高1号線
では地下化案にはメリットはないのか?ドライバーにとっての地下化案のメリットは、清水氏が前出の記事で指摘している通り、工事期間中の渋滞が少なく済むことだろう。地下化案なら、現状の首都高をそのまま生かしながら、地下で工事が進められる。これは小さくないメリットとは思うが、5000億円以上の費用に見合うとは、筆者には思えない。
また一般的には、高架よりも地下を通したほうが震災には強くなる。ただしそれならば、この区間だけを地下化してもさほどの意味はなく、首都高全体を埋めてしまわねばならない。これには百兆円単位の金がかかるだろうし、長期的な都市計画のもと考えるべき話だろう。
(4)首都高撤去論について
では結局どうすべきか。これに関して、最近ある記事が注目を受けた。地元日本橋で老舗和菓子店を営む、細田安兵衛氏のインタビューだ。90年にわたって日本橋を見守ってきた氏の論考は切れ味鋭く、一読に値する。そして細田氏の意見は、地下化でも修繕して現状維持でもなく、日本橋の首都高を「撤去せよ」というものだ。
日本橋を愛する細田氏が、このような意見を唱えるのはよく理解できるし、一本筋が通った見解には大いに敬服した。そして撤去して済むなら、安上がりでもあるし跡地のスペースも活用できるし、一番いいに決まっている。ただ筆者としては、首都高撤去案にはとても賛成し難い。都心環状線の重要部分をぶった切ってしまうのは、影響が大きすぎると思える。
氏は、日本橋で乗り降りしている車はほとんどなく、全部通過交通だということを撤去論の根拠に挙げている。だが、たとえば山手線の駒込駅や田端駅の乗降客数が少ないからといって、この区間の線路を撤去せよという人はいないだろう。上野から池袋に行く人も、日暮里から新宿に行く人もたくさんいるのだから。
また、日本橋の首都高は昔はずいぶん渋滞していたが、今はすうすう通っているともおっしゃっているが、そうもいえない。渋滞情報など見ていると、この区間は朝から夕方までだいたいオレンジ(混雑)か赤色(渋滞)になっている。中央環状線開通前よりはずいぶんましになっているだろうが、竹橋JCT~江戸橋JCT間の交通量が、今も首都高屈指であることは変わっていない。
中央環状線・外環・圏央道が開通し、そちらの料金を下げれば日本橋を通る車はいなくなるとも述べておられるが、中央環状線とて容量があり余っているわけではなく、現状でも渋滞だらけだ。外環の大泉から先(関越~東名間)はいまだ着工の見込みさえ立っていないし、圏央道での迂回は多くの場合遠回りになりすぎる。
都内の鉄道が一ヶ所止まっただけで、しわ寄せがあちこちに及んで大混乱になるのは、首都圏在住の方ならよくご存知の通りだ。日本橋の首都高を撤去し、一日13万台の車が他に回るとなれば、これと同じことが起こる。これら多数の車を遠回りさせ、渋滞を我慢させてまで、日本橋の空は取り戻されるべきものなのだろうか。
日本は車社会ではなくなるとも言っておられるが、それは東京だけの話だ。地方の住民に車は必須だし、物流の大半もトラックが担っている。この現状が、あと数年で大幅に変わることはないだろう。20年、30年先には首都高の撤去も検討課題になるだろうが、さすがに今はまだその時期ではないと思える。
(5)結論
ということで、筆者としてはこの区間の首都高は、普通に改修して費用を最小限にとどめるべきだと考える。前述した通り、筆者も道路好きの一人であるから、日本の道路の原点たる日本橋にはできるだけ美しい姿でいてほしいとは思うが、やはり物事には優先順位というものがある。
これから首都高は老朽化であちこち修繕しなければならないだろうし、全国には整備が進まぬまま「酷道」のまま放置され、住民が難儀している道がいくらでもある。それを放り出して、日本橋だけに金をかけるべきとは、筆者には思えないのである。
東京都にしたところで、都知事は満員電車ゼロとか待機児童ゼロとかブラック企業いろいろな政策を掲げていたと思ったが、解決に向けて進展しているとは聞かない。1000億円もあれば、ゼロとはいわぬまでもずいぶんいろいろなことができることだろう。貧困に苦しむ人も、十分な教育を受けられない人もたくさんいる。みんなで日本橋川から空を眺めることは、これらの問題よりも優先されるべき課題なのだろうか。
筆者は本業がサイエンスライターだから言っておくと、ここ数年日本の科学技術の失速が世界中から指摘されている(一例)。若手研究者の地位は不安定だし、トップどころも雑事に追われて研究に手が回らない。このことは諸外国に対し、日本は投資先、留学先、提携先として不適格な国という印象を強く与えてしまっている。
いま、日本中の大学や研究機関全てに対する助成金(科研費)の総額は、2284億円だ(平成29年度)。別に5000億とは言わない。50億円もここに回して分配してくれれば、素晴らしい研究を成し遂げてくれる若手がいくらでもいることは保証できる。多くのドライバーが望んでも頼んでもいないトンネルを掘るよりは、ずっとよい金の使い方だと筆者は信じる。
長々と書いてきてしまったが、しょせんは一介の道路好きによる、素人の私見でしかないのも事実だ。プロの目で見た時、費用はどのくらいになる可能性があるのか、渋滞はどうなるのか、メリットはどの程度あるのか、きちんと根拠を示してシミュレートし、示してほしい。いつの間にか、なんとなくことが進み、気がつけば膨大な額が投じられているという事態はもう見飽きた。
「品格ある国づくり」「美しく文化的な都市空間」といったポエムや、経済効果だの満足度だのといったガバガバな数値なんぞは別に見たくもない。5000億から1兆という今の日本にとって貴重な資金を、いかに使うのが最も適切なのか、結論ありきではなくゼロベースで議論し、納得の行く結果を出してほしいと願う。