2012年02月04日
化学と工業及び年会のお知らせ
先日のエントリは、問題解決したということで削除いたしました。お騒がせいたしました。
さてお知らせ。最近出ました「化学と工業」2月号では「美しい形の分子」という特集を組んでおりますが、そちらに「時代を画した美しい分子」というタイトルで寄稿させていただきました。有機化学美術館館長としては、このテーマは譲るわけにいかないということで、気合いを入れて書かせていただきました(目次PDF)。藤田誠・村田靖次郎・伊丹健一郎・本間善夫の諸先生方と一緒に掲載されております。見かけたらぜひご一読のほど。
(ただ文中で一ヶ所、ミスをしていました。フラーレン以前に知られていた炭素の同素体は黒鉛とダイヤモンドだけと書いたのですが、無定形炭素を忘れていました。こういうのは本になったから初めて気づいたりしますね、なぜか)。

最近ホットな領域であるMOFも美しい構造の一つかと思います。直接関係ないのですが、まあせっかく描いたので。
もうひとつ、筆者は現在日本化学会でまとめている「化学の夢ロードマップ」の編纂のお手伝いをしているのですが、春の化学会年会にてそのパネルディスカッションに出るはめにことになりました。しかも司会めいたことをやらねばならないということで、びっくりするくらい自信がありません。しかし内容の方は、これから化学が進むべき方向を話し合うものでありますので、面白くかつ重要なものであるには間違いありません。ぜひご来場いただければと思いますのでどうぞよろしく。
ということでまた。
さてお知らせ。最近出ました「化学と工業」2月号では「美しい形の分子」という特集を組んでおりますが、そちらに「時代を画した美しい分子」というタイトルで寄稿させていただきました。有機化学美術館館長としては、このテーマは譲るわけにいかないということで、気合いを入れて書かせていただきました(目次PDF)。藤田誠・村田靖次郎・伊丹健一郎・本間善夫の諸先生方と一緒に掲載されております。見かけたらぜひご一読のほど。
(ただ文中で一ヶ所、ミスをしていました。フラーレン以前に知られていた炭素の同素体は黒鉛とダイヤモンドだけと書いたのですが、無定形炭素を忘れていました。こういうのは本になったから初めて気づいたりしますね、なぜか)。

最近ホットな領域であるMOFも美しい構造の一つかと思います。直接関係ないのですが、まあせっかく描いたので。
もうひとつ、筆者は現在日本化学会でまとめている「化学の夢ロードマップ」の編纂のお手伝いをしているのですが、春の化学会年会にてそのパネルディスカッションに出る
ということでまた。
2012年01月29日
発がん物質と抗がん剤の奇妙な関係
2月が近づき、学生諸氏は卒論・修論・D論の時期であると思います。そのへんで、ちょっと思い出した話を。
ヘテロ環の名前というのはたくさんあってなかなか覚えにくいものです。中にはインドールのように二環性の化合物にも固有名がついているものがありますが、下の3つの名前はご存知でしょうか。



これらは5員環2つのものがピロリジジン(pyrrolizidine)、5員環と6員環のものがインドリジジン(indolizidine)、6員環2つのものがキノリジジン(quinolizidine)といい、「イジジン類」と総称されます。実は筆者の修士論文は、このうちピロリジジン骨格の合成のお話でした。なのでこの構造を見ると当時の思い出がよみがえってきて、何やら一口ではいえない気分になったりします(笑)。
これらにそれぞれ特別な名前がついているのは、この骨格を持つ化合物が天然から非常にたくさん見つかっているからで、なんと全アルカロイドの25%がこのイジジン構造を含んでいるということです。あまりに多すぎるためなのか、化合物名もインドリジジン167Bとか223Jとか、電化製品の型番みたいな名前になってしまっているほどです。
そしてこれらイジジン類には、非常に強力な生理作用を示すものがたくさんあります。グリコシダーゼの阻害剤で、家畜に中毒を引き起こすスワインソニン、ヤドクガエルの作るアルカロイド・プミリオトキシンなどが代表的なものです。


スワインソニン(上)、プミリオトキシンB(下)
ピロリジジン骨格を持つものでは、クローバーの一種が作るモノクロタリンという化合物が有名で、これは強い発がん作用を持ちます。これは下部のピロリジジン骨格部分が代謝によって切り離され、これがDNAと結合してしまうことで正常な複製を妨げ、これによってがんが起こると考えられています。

モノクロタリン
さてある研究者が、マメ科植物から抗がん作用のある天然物を探索していた際、有望な物質が見つかってきたことがあります。これがどんな物質か構造解析を行ってみたところ、その正体はなんとモノクロタリンだったということがありました。抗がん剤を探していて発がん物質が引っかかってくるとはどういうことか?全く逆の性質のものではないか?奇妙に思える話ですが、実はこれは必然的な話なのです。
DNAを傷つけてミスコピーを起こさせる物質は、正常な分裂サイクルの制御機構を破壊してしまうために、発がん物質として働きます。では抗がん剤はどんな物質かというと、その多くはDNAを破壊することで、がん細胞の増殖を食い止める物質なのです。すなわち発がん物質と抗がん剤は、DNAを傷つけるという意味では同じことなのです。さじ加減次第で同じ物質が発がん・抗がん両方の作用を持つことは、あり得ることなのです。
福島原発事故で問題となった放射性同位体・ヨウ素131は、甲状腺にたまって付近のDNAを傷つけ、がんを引き起こすことがわかっています。しかし一方で、甲状腺がんの患者に対してヨウ素131を投与し、治療を行うこともあるのです。ただし両者で必要量は全く異なり、治療の際にはずっと大量を投与する必要があります。
あれほど騒がれたヨウ素131を大量投与してがんを治すというのは、何だか非常に不可解な話に聞こえます。しかし人体と化合物あるいは放射線のかかわりは、一筋縄でいかない複雑なものだ、という一つの事例とはいえるでしょう。
冬の夜、もう17年も前に書いた修士論文のことから思い出したお話でした。いま論文に取り組んでいるみなさま、肝心なところで風邪など引かぬよう、ぜひ体に気をつけて頑張って下さい。
* * * * *
ヘテロ環の名前というのはたくさんあってなかなか覚えにくいものです。中にはインドールのように二環性の化合物にも固有名がついているものがありますが、下の3つの名前はご存知でしょうか。



これらは5員環2つのものがピロリジジン(pyrrolizidine)、5員環と6員環のものがインドリジジン(indolizidine)、6員環2つのものがキノリジジン(quinolizidine)といい、「イジジン類」と総称されます。実は筆者の修士論文は、このうちピロリジジン骨格の合成のお話でした。なのでこの構造を見ると当時の思い出がよみがえってきて、何やら一口ではいえない気分になったりします(笑)。
これらにそれぞれ特別な名前がついているのは、この骨格を持つ化合物が天然から非常にたくさん見つかっているからで、なんと全アルカロイドの25%がこのイジジン構造を含んでいるということです。あまりに多すぎるためなのか、化合物名もインドリジジン167Bとか223Jとか、電化製品の型番みたいな名前になってしまっているほどです。
そしてこれらイジジン類には、非常に強力な生理作用を示すものがたくさんあります。グリコシダーゼの阻害剤で、家畜に中毒を引き起こすスワインソニン、ヤドクガエルの作るアルカロイド・プミリオトキシンなどが代表的なものです。


スワインソニン(上)、プミリオトキシンB(下)
ピロリジジン骨格を持つものでは、クローバーの一種が作るモノクロタリンという化合物が有名で、これは強い発がん作用を持ちます。これは下部のピロリジジン骨格部分が代謝によって切り離され、これがDNAと結合してしまうことで正常な複製を妨げ、これによってがんが起こると考えられています。

モノクロタリン
さてある研究者が、マメ科植物から抗がん作用のある天然物を探索していた際、有望な物質が見つかってきたことがあります。これがどんな物質か構造解析を行ってみたところ、その正体はなんとモノクロタリンだったということがありました。抗がん剤を探していて発がん物質が引っかかってくるとはどういうことか?全く逆の性質のものではないか?奇妙に思える話ですが、実はこれは必然的な話なのです。
DNAを傷つけてミスコピーを起こさせる物質は、正常な分裂サイクルの制御機構を破壊してしまうために、発がん物質として働きます。では抗がん剤はどんな物質かというと、その多くはDNAを破壊することで、がん細胞の増殖を食い止める物質なのです。すなわち発がん物質と抗がん剤は、DNAを傷つけるという意味では同じことなのです。さじ加減次第で同じ物質が発がん・抗がん両方の作用を持つことは、あり得ることなのです。
福島原発事故で問題となった放射性同位体・ヨウ素131は、甲状腺にたまって付近のDNAを傷つけ、がんを引き起こすことがわかっています。しかし一方で、甲状腺がんの患者に対してヨウ素131を投与し、治療を行うこともあるのです。ただし両者で必要量は全く異なり、治療の際にはずっと大量を投与する必要があります。
あれほど騒がれたヨウ素131を大量投与してがんを治すというのは、何だか非常に不可解な話に聞こえます。しかし人体と化合物あるいは放射線のかかわりは、一筋縄でいかない複雑なものだ、という一つの事例とはいえるでしょう。
* * * * *
冬の夜、もう17年も前に書いた修士論文のことから思い出したお話でした。いま論文に取り組んでいるみなさま、肝心なところで風邪など引かぬよう、ぜひ体に気をつけて頑張って下さい。
2012年01月23日
健康と酵素(エンザイム)のこと
いろいろなものが次々に流行し、移り変わりの激しい健康業界ですが、最近のキーワードはどうやら「酵素」であるようです。酵素がらみの商品は、食品・ドリンク・化粧品・風呂などに至るまで広がっており、胃腸機能・神経痛・筋肉痛・冷え性・肩こりの改善、デトックス・ダイエットなど様々な効能が謳われています(まあ何にでも効くと主張するものというのは、実際にはたいてい何にも効かないとしたものですが)。
しかし、この健康業界でいう「酵素」という言葉は、どうも本来の意味からだいぶ外れ、妙な使い方をされるようになっています。まあ不正確というだけならさほどのことでもありませんが、それがトンデモ商法に結びついているとあらば少々問題にすべきでしょう。そしてこの「酵素」は困ったことに、一部の医師などにも信奉者を獲得し、着々と勢力を広げているようです。
本来、酵素という言葉は「生体における反応を触媒するタンパク質」を指します(タンパク質でない酵素というものも存在しますが、ここでは考えなくてよいでしょう)。生物が生きていくために必要な化合物を作ったり、いらなくなったものを壊したりするタンパク質のことです。タンパク質というと一般には肉や大豆などに含まれる栄養素というイメージが強いと思いますが、実際には生体運営機能の大半を担う、大変重要な化合物群なのです。そのうち化学反応を行う機能を持ったものを、特に「酵素」と呼んでいるわけです。
酵素には様々の種類があります。消化酵素は、タンパク質や炭水化物、脂肪など食品成分を消化分解し、体に吸収しやすい形にする役割を持ちます(例えば洗剤に配合されている「酵素」は、汚れの成分であるタンパク質を分解する働きを持つものです)。DNAや脂質を作り出す酵素もありますし、活性酸素など有害成分を消去してくれる酵素もあります。酵素は一つの役目だけに特化したスペシャリストであり、たとえばタンパク質を分解する酵素には、糖や脂肪の分解はできません。また体内でコレステロールを作り出す過程は、自動車を流れ作業で作るようなもので、実に30種以上もの酵素がかかわります。

コレステロールの合成に関わる酵素のひとつ、HMG-CoA還元酵素
アミノ酸別に彩色してある
というわけで、酵素は生体にとって重要ではあるものの、ひとつひとつの機能は限定されたものであり、どれかがたくさんあればより健康になれるというものではありません。時計の部品である歯車やネジをたくさん集めたところで、時間をより正確に計れるようになるわけではないのと同じことです。
一方、健康業界における「酵素」という概念は、これと全く違ったものになっています。酵素健康法的な考え方は昔からありますが、近年これを有名にしたのは「病気にならない生き方」などの大ベストセラーで知られる、医師の新谷弘実氏のようです。著書にあるプロフィールによれば、新谷氏はアルバート・アインシュタイン医科大学の教授で、内視鏡手術の世界的権威であるそうです。

100万部以上のベストセラーとなっている、新谷氏の著書
氏の著書では、酵素のことをなぜか英語名である「エンザイム」と呼んでいます。「病気にならない7つのルール」から少し引用しますと、
まあ酵素がタンパク質であること、生命を保つのに重要であるのはよいのですが、別に酵素は何かあるごとに消費されるわけではなく(壊れもしますが、ちゃんと新たに合成もされます)、なくなってしまうという事態も考えられません。どうも新谷氏の考えるエンザイムというのは、生化学でいう「酵素」とはだいぶ異なり、ストレスや毒物の摂取によって消費され、体によい食物などから取り入れることのできる、「生命の源」的な何かであるようです。
氏の言うように、人間の健康が一物質の増減だけで決まるなら世話はないのですが、残念ながら人の体の仕組みはそんなに単純ではありません。敵の攻撃を受けると減少し、アイテムを取ると回復する、ゲームのキャラクターの体力ゲージとはわけが違うのです。

人間の健康は、こういう単純な話ではない。
しかし、そんなことは一切気にかけることなく新谷節は続きます。
ここに至って、生化学を少しでも学んだ人なら

という顔になろうかと思います。「ミラクル」というとびきりイカしたネーミングはともかく、「原型となる酵素が必要に応じて他の酵素につくり変えられる」などという事実は、どこを探してもありません。酵素を含めたタンパク質は、全てDNAにある設計図の通りに作られ、用済みになればアミノ酸の単位にまで分解されます。これは生化学の基本の基本なのですが、新谷氏は何一つ証拠を示すでもなく、これを根本から否定するという大胆不敵な行為をさらりとやってのけます。
まあ「生命の源ミラクル・エンザイム」なる仮説を提唱するのは勝手ではありますが、それならそれで何か別の名前を考えていただくべきでしょう。全く別個の、生化学上完全に確立した概念である「エンザイム」または「酵素」という名を、勝手に当てはめてもらっては困ります。
新谷氏はこの自ら提唱した「エンザイム」という謎の概念と、生化学でいう「酵素」の特徴をうまくとり混ぜ、もっともらしく話を進めます。完全に嘘っぱちなら信頼する人もそうはいないのでしょうが、このように自分の空想と科学的事実を混ぜて書くというやり方をされると、なかなか判別しづらくやっかいです。天然なのか、わざとやっているのかはわかりませんが、この手法は結果的に極めて(氏にとって)効果的に働いています。
同氏の主張によれば、果物など「エンザイム」を多量に含む食品を摂取することで、健康状態が良くなるということです。仙豆かポーションを摂って体力回復、みたいな話ですが、残念ながらこうはなりません。酵素などタンパク質というものは、食事から生の形で体内に取り込まれることはないからです。巨大分子であるタンパク質は、そのままでは細胞内に取り込めないため、消化されて細かく分解されることで初めて吸収が可能になります。これはどんなタンパク質でも同じです。すなわち、食品中の酵素が体内に入り、そのままの形で働くことはありません。

アイテムで体力が回復するなら苦労はないですけど。
実のところ、他の生物のタンパク質が生体内に入り込むと、大変なことになります。生体は、自分の作り出した以外のタンパク質を見つけると、外敵が侵入したと判断し、免疫機構が発動してしまうのです。これはアレルギーなどを引き起こし、悪くすれば死に至ることもあります(たとえば牛乳は口から飲んでも大丈夫ですが、血管に直接大量注入すれば死んでしまいます)。こうならないよう、食品のタンパク質は消化作用によって、いったん細かな部品単位にまでバラバラにされた上で、体内に吸収されるのです。
その他、新谷氏の本には頭の痛い点が多数見受けられ、提唱する健康法(白米・牛乳・砂糖など白い食品を食べるなとか、コーヒーで浣腸をしろとかいうものだそうです)にも多数の反論・反例・反証があちこちから上がっています。全部にツッコミを入れているときりがないので、ここでは氏の提唱する「エンザイム」というのは、生化学的な意味での「酵素」とは全く別物の空想上の産物で、健康やダイエット効果の根拠も極めて薄そうなものであることだけ指摘しておきます。
だがこの空想は、悪いことにベストセラーとなった氏の著書によって世に広がり、すでに多くの追随者と商品を生み出してしまっています。たとえば「酵素」と入れて検索してみると、上位30位くらいまでほとんどが酵素商品のサイトで、まともな「酵素」について書いているのはウィキペディアなど2〜3ヶ所に過ぎません。

たとえば上にある「お嬢様酵素」なる商品は、あちこちに広告を出して雑誌などにも取り上げられており、ずいぶん売れているように察せられます。何やら野草を元に作ったジュースのたぐいであるようで、効果があるのかどうか筆者は知りませんが、「あなたのダイエットが成功しないのは、体内酵素の不足が原因!?」とかいうフレーズにはアイタタとなってしまいます。

広告の中程には、「ダイエット… 美容… 健康… その答えの鍵が酵素にあると気づいた時、なんだか不思議な安心感につつまれたの。」なるメッセージも出てきます。包まれてなくていいから生化学の教科書
でも読んでくれと筆者などは思うのですが(ついでに「創薬科学入門
」なんかも併せて読むとさらにいいと思います)、ある意味でこの「安心感につつまれた」というのはなかなか意味の深いフレーズである気もします。
これだけ様々な情報が飛び交う世の中であると、一体何が本当で何をどこまで実践すれば効果があるのやら、なかなかわからなくなってきます。そんな中で、「酵素」という一点に絞ったキーワードを提示され、これさえ取り入れればうまく行くと提案されると、人間はつい安心して、それに飛びつきたくなってしまうのであろうと思います。
このブログで何回か引用している「アイデアのちから
」(チップ・ハース&ダン・ハース著)では、アイデアを他人の脳に焼きつけるための6つの条件を挙げています。
ということで、健康業界でいう「酵素」というキーワードは、これをよく満たしていると思えます。人間の健康という複雑なお話を「酵素の増減」という一点に集約してシンプルに説明し、そこから導かれる健康法は意外かつ極めて具体的です。アメリカの医科大学教授という肩書きには大きな信頼性があり、健康やダイエットに効果ありという触れ込みは感情を揺さぶり、自然界の生命力を取り入れるというお話には物語性があります。なるほど、さすがはバカ売れしているだけはある――と、感心している場合でもないのですが。
こうしてはびこってしまった酵素信仰を世の中から「除染」するのは、なかなか容易なことではなさそうです。科学者の側も「相手にしているヒマはない」と、我関せずを決め込むばかりではなく、前述のような相手の心に残る伝え方を勉強して工夫し、しっかり発信をしていくしかないだろう、と今のところ筆者は思っています。
しかし、この健康業界でいう「酵素」という言葉は、どうも本来の意味からだいぶ外れ、妙な使い方をされるようになっています。まあ不正確というだけならさほどのことでもありませんが、それがトンデモ商法に結びついているとあらば少々問題にすべきでしょう。そしてこの「酵素」は困ったことに、一部の医師などにも信奉者を獲得し、着々と勢力を広げているようです。
本来、酵素という言葉は「生体における反応を触媒するタンパク質」を指します(タンパク質でない酵素というものも存在しますが、ここでは考えなくてよいでしょう)。生物が生きていくために必要な化合物を作ったり、いらなくなったものを壊したりするタンパク質のことです。タンパク質というと一般には肉や大豆などに含まれる栄養素というイメージが強いと思いますが、実際には生体運営機能の大半を担う、大変重要な化合物群なのです。そのうち化学反応を行う機能を持ったものを、特に「酵素」と呼んでいるわけです。
酵素には様々の種類があります。消化酵素は、タンパク質や炭水化物、脂肪など食品成分を消化分解し、体に吸収しやすい形にする役割を持ちます(例えば洗剤に配合されている「酵素」は、汚れの成分であるタンパク質を分解する働きを持つものです)。DNAや脂質を作り出す酵素もありますし、活性酸素など有害成分を消去してくれる酵素もあります。酵素は一つの役目だけに特化したスペシャリストであり、たとえばタンパク質を分解する酵素には、糖や脂肪の分解はできません。また体内でコレステロールを作り出す過程は、自動車を流れ作業で作るようなもので、実に30種以上もの酵素がかかわります。

コレステロールの合成に関わる酵素のひとつ、HMG-CoA還元酵素
アミノ酸別に彩色してある
というわけで、酵素は生体にとって重要ではあるものの、ひとつひとつの機能は限定されたものであり、どれかがたくさんあればより健康になれるというものではありません。時計の部品である歯車やネジをたくさん集めたところで、時間をより正確に計れるようになるわけではないのと同じことです。
一方、健康業界における「酵素」という概念は、これと全く違ったものになっています。酵素健康法的な考え方は昔からありますが、近年これを有名にしたのは「病気にならない生き方」などの大ベストセラーで知られる、医師の新谷弘実氏のようです。著書にあるプロフィールによれば、新谷氏はアルバート・アインシュタイン医科大学の教授で、内視鏡手術の世界的権威であるそうです。

100万部以上のベストセラーとなっている、新谷氏の著書
氏の著書では、酵素のことをなぜか英語名である「エンザイム」と呼んでいます。「病気にならない7つのルール」から少し引用しますと、
エンザイムというのは生物の細胞内で作られるタンパク質性のもので、動物も植物も、もちろん私たち人間も、生きるために行うあらゆることにエンザイムを消費しています。
エンザイムがなくなれば、私たちは生命を維持していくことができません。いわばエンザイムは「生命の源」です。
まあ酵素がタンパク質であること、生命を保つのに重要であるのはよいのですが、別に酵素は何かあるごとに消費されるわけではなく(壊れもしますが、ちゃんと新たに合成もされます)、なくなってしまうという事態も考えられません。どうも新谷氏の考えるエンザイムというのは、生化学でいう「酵素」とはだいぶ異なり、ストレスや毒物の摂取によって消費され、体によい食物などから取り入れることのできる、「生命の源」的な何かであるようです。
氏の言うように、人間の健康が一物質の増減だけで決まるなら世話はないのですが、残念ながら人の体の仕組みはそんなに単純ではありません。敵の攻撃を受けると減少し、アイテムを取ると回復する、ゲームのキャラクターの体力ゲージとはわけが違うのです。

人間の健康は、こういう単純な話ではない。
しかし、そんなことは一切気にかけることなく新谷節は続きます。
私たちのからだには5000種類以上のエンザイムがあるといわれます。(中略)ですが私は、つねに5000種類のエンザイムがつくられ続けているのではなく、まず原型となるエンザイムがつくられ、必要に応じてつくり変えられると考えています。(中略)私は、この原型となるエンザイムを「ミラクル・エンザイム」と名づけました。
ここに至って、生化学を少しでも学んだ人なら

という顔になろうかと思います。「ミラクル」というとびきりイカしたネーミングはともかく、「原型となる酵素が必要に応じて他の酵素につくり変えられる」などという事実は、どこを探してもありません。酵素を含めたタンパク質は、全てDNAにある設計図の通りに作られ、用済みになればアミノ酸の単位にまで分解されます。これは生化学の基本の基本なのですが、新谷氏は何一つ証拠を示すでもなく、これを根本から否定するという大胆不敵な行為をさらりとやってのけます。
まあ「生命の源ミラクル・エンザイム」なる仮説を提唱するのは勝手ではありますが、それならそれで何か別の名前を考えていただくべきでしょう。全く別個の、生化学上完全に確立した概念である「エンザイム」または「酵素」という名を、勝手に当てはめてもらっては困ります。
新谷氏はこの自ら提唱した「エンザイム」という謎の概念と、生化学でいう「酵素」の特徴をうまくとり混ぜ、もっともらしく話を進めます。完全に嘘っぱちなら信頼する人もそうはいないのでしょうが、このように自分の空想と科学的事実を混ぜて書くというやり方をされると、なかなか判別しづらくやっかいです。天然なのか、わざとやっているのかはわかりませんが、この手法は結果的に極めて(氏にとって)効果的に働いています。
同氏の主張によれば、果物など「エンザイム」を多量に含む食品を摂取することで、健康状態が良くなるということです。仙豆かポーションを摂って体力回復、みたいな話ですが、残念ながらこうはなりません。酵素などタンパク質というものは、食事から生の形で体内に取り込まれることはないからです。巨大分子であるタンパク質は、そのままでは細胞内に取り込めないため、消化されて細かく分解されることで初めて吸収が可能になります。これはどんなタンパク質でも同じです。すなわち、食品中の酵素が体内に入り、そのままの形で働くことはありません。

アイテムで体力が回復するなら苦労はないですけど。
実のところ、他の生物のタンパク質が生体内に入り込むと、大変なことになります。生体は、自分の作り出した以外のタンパク質を見つけると、外敵が侵入したと判断し、免疫機構が発動してしまうのです。これはアレルギーなどを引き起こし、悪くすれば死に至ることもあります(たとえば牛乳は口から飲んでも大丈夫ですが、血管に直接大量注入すれば死んでしまいます)。こうならないよう、食品のタンパク質は消化作用によって、いったん細かな部品単位にまでバラバラにされた上で、体内に吸収されるのです。
その他、新谷氏の本には頭の痛い点が多数見受けられ、提唱する健康法(白米・牛乳・砂糖など白い食品を食べるなとか、コーヒーで浣腸をしろとかいうものだそうです)にも多数の反論・反例・反証があちこちから上がっています。全部にツッコミを入れているときりがないので、ここでは氏の提唱する「エンザイム」というのは、生化学的な意味での「酵素」とは全く別物の空想上の産物で、健康やダイエット効果の根拠も極めて薄そうなものであることだけ指摘しておきます。
だがこの空想は、悪いことにベストセラーとなった氏の著書によって世に広がり、すでに多くの追随者と商品を生み出してしまっています。たとえば「酵素」と入れて検索してみると、上位30位くらいまでほとんどが酵素商品のサイトで、まともな「酵素」について書いているのはウィキペディアなど2〜3ヶ所に過ぎません。

たとえば上にある「お嬢様酵素」なる商品は、あちこちに広告を出して雑誌などにも取り上げられており、ずいぶん売れているように察せられます。何やら野草を元に作ったジュースのたぐいであるようで、効果があるのかどうか筆者は知りませんが、「あなたのダイエットが成功しないのは、体内酵素の不足が原因!?」とかいうフレーズにはアイタタとなってしまいます。

広告の中程には、「ダイエット… 美容… 健康… その答えの鍵が酵素にあると気づいた時、なんだか不思議な安心感につつまれたの。」なるメッセージも出てきます。包まれてなくていいから生化学の教科書
これだけ様々な情報が飛び交う世の中であると、一体何が本当で何をどこまで実践すれば効果があるのやら、なかなかわからなくなってきます。そんな中で、「酵素」という一点に絞ったキーワードを提示され、これさえ取り入れればうまく行くと提案されると、人間はつい安心して、それに飛びつきたくなってしまうのであろうと思います。
このブログで何回か引用している「アイデアのちから
(1)Simple(単純明快である)
(2)Unexpected(意外性がある)
(3)Concrete(具体的である)
(4)Credential(信頼性がある)
(5)Emotional(感情に訴える)
(6)Story(物語性がある)
ということで、健康業界でいう「酵素」というキーワードは、これをよく満たしていると思えます。人間の健康という複雑なお話を「酵素の増減」という一点に集約してシンプルに説明し、そこから導かれる健康法は意外かつ極めて具体的です。アメリカの医科大学教授という肩書きには大きな信頼性があり、健康やダイエットに効果ありという触れ込みは感情を揺さぶり、自然界の生命力を取り入れるというお話には物語性があります。なるほど、さすがはバカ売れしているだけはある――と、感心している場合でもないのですが。
こうしてはびこってしまった酵素信仰を世の中から「除染」するのは、なかなか容易なことではなさそうです。科学者の側も「相手にしているヒマはない」と、我関せずを決め込むばかりではなく、前述のような相手の心に残る伝え方を勉強して工夫し、しっかり発信をしていくしかないだろう、と今のところ筆者は思っています。
2012年01月15日
細菌VS人類の丁々発止〜バンコマイシン耐性菌は退治できるか?
ここのところ医薬ネタ、ディープな学術系のネタをあまり書いていなかった気がします。久々に近着論文からひとつ紹介してみましょう。
医薬史上最大の発見は何かといえば、やはりペニシリンを初めとする抗生物質であろうと思います。長く人類を苦しめてきた細菌感染症のほとんどを、一気に解決してしまったわけですから、その功績はノーベル賞をいくつ出しても惜しくないほど巨大なものといえるでしょう。

ペニシリン
しかしその抗生物質の地位は、近年揺らぎ始めています。細菌たちは環境に合わせて自らの構造を変化させつつあり、その結果抗生物質の効かない「耐性菌」が続々と登場しているのです。たとえばある種の菌は、ペニシリンの効き目のタネであるβ-ラクタム部分を破壊する「β-ラクタマーゼ」という酵素を作っており、このためこの種の抗生物質が効かなくなっています(参考:抗生物質の危機(1) 〜「魔法の弾丸」の誕生〜、抗生物質の危機(2) 〜魔法の終わる時〜)
2000年前後には、長い間耐性菌が出現せず「最後のゴールキーパー」と思われていたバンコマイシンに耐性菌が出現し、医療関係者に衝撃を与えました。そしてこの耐性のメカニズムがまた、実に驚くべきものでした。

バンコマイシン
バンコマイシンは、細菌の細胞壁にあるリジン-D-アラニン-D-アラニンという部分に結合し、その合成を阻害します。要は、細菌の体を包む重要な外壁を作らせないことで、菌の増殖を防ぐ医薬です。この結合の中でキーポイントになるのは下図の黄色い矢印で示したところの水素結合で、これがないと結合力は100倍以上低下する――すなわち、抗生物質として効き目がなくなってしまうことがわかっています。

バンコマイシン(黄緑)が、リジン-D-アラニン-D-アラニン(灰色)に結合することで、細胞壁合成を阻害する。
ところがバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)では、この位置のアラニンが乳酸に置き換わっており、アミド結合がエステル結合に変化しています。つまりバンコマイシンは、この変異ペプチドに対しては上記の鍵となる水素結合が作れず、効き目がなくなってしまうのです。

耐性菌では、アラニンが乳酸に置き換わっている
これを初めて知った時には筆者は本当に驚愕しましたし、会社のセミナーで発表した時も、先輩たちが「ウソだろう!」と声を挙げたことを覚えています。ヒ素細菌とまでは行きませんが、こんな基本的なシステムを変換してまで細菌は生き延びようとするのか――と、まあまさに敵ながらあっぱれという気がしたものです(余談ながら、ヒ素細菌の話は発表後にあちこちから疑問の声が挙がり、それに対するNASA側からのこれといった新証拠も出てこず、どうやら尻すぼみで終わっていきそうな案配です)。
しかし人間側も、感心しているばかりでは仕方がありません。この細菌の驚くべき仕組みに対抗策を考え出してきたのは、米国スクリプス研究所のD. L. Bogerらのグループです。細菌がアミドをエステルに変えてバンコマイシンの魔の手から逃れようとするなら、こちらはバンコマイシンを改造してエステルに結合するようにし、耐性菌をやっつけてやろうという発想です(論文はこちら)。
具体的には、鍵となる水素結合を作るバンコマイシンのアミド酸素をNHにする、すなわちこの場所をアミジン結合にすることで、エステルと水素結合させようということです。
この結果、新たに作り出された改変バンコマイシンは、通常の細菌に対しては効能が若干落ちたものの、耐性菌に対しては通常のバンコマイシンに比べて数百倍の効能を示し、理論の正しさが実証されたとのことです。細菌もやるものだけれど、人類も知恵比べで負けるわけにはいかないというところでしょうか。
もちろんこの改変バンコマイシンは合成に手間がかかりすぎますし、医薬として実際の局面で使えるかはまだ全く未知数です。とはいえ耐性菌に対抗するための足がかりとして重要な仕事であり、現代合成化学・医薬化学の実力を示す見事な成果には間違いありません。
ただし、細菌の進化は素速く、どんな薬剤にもいつか必ず耐性菌は現れます。この永遠のいたちごっこをどうしのいでいくか、今後人類にとって大きな課題であることを、我々は意識していなければならないでしょう。さらなる研究の進展に期待したいと思います。
医薬史上最大の発見は何かといえば、やはりペニシリンを初めとする抗生物質であろうと思います。長く人類を苦しめてきた細菌感染症のほとんどを、一気に解決してしまったわけですから、その功績はノーベル賞をいくつ出しても惜しくないほど巨大なものといえるでしょう。

ペニシリン
しかしその抗生物質の地位は、近年揺らぎ始めています。細菌たちは環境に合わせて自らの構造を変化させつつあり、その結果抗生物質の効かない「耐性菌」が続々と登場しているのです。たとえばある種の菌は、ペニシリンの効き目のタネであるβ-ラクタム部分を破壊する「β-ラクタマーゼ」という酵素を作っており、このためこの種の抗生物質が効かなくなっています(参考:抗生物質の危機(1) 〜「魔法の弾丸」の誕生〜、抗生物質の危機(2) 〜魔法の終わる時〜)
2000年前後には、長い間耐性菌が出現せず「最後のゴールキーパー」と思われていたバンコマイシンに耐性菌が出現し、医療関係者に衝撃を与えました。そしてこの耐性のメカニズムがまた、実に驚くべきものでした。

バンコマイシン
バンコマイシンは、細菌の細胞壁にあるリジン-D-アラニン-D-アラニンという部分に結合し、その合成を阻害します。要は、細菌の体を包む重要な外壁を作らせないことで、菌の増殖を防ぐ医薬です。この結合の中でキーポイントになるのは下図の黄色い矢印で示したところの水素結合で、これがないと結合力は100倍以上低下する――すなわち、抗生物質として効き目がなくなってしまうことがわかっています。

バンコマイシン(黄緑)が、リジン-D-アラニン-D-アラニン(灰色)に結合することで、細胞壁合成を阻害する。
ところがバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)では、この位置のアラニンが乳酸に置き換わっており、アミド結合がエステル結合に変化しています。つまりバンコマイシンは、この変異ペプチドに対しては上記の鍵となる水素結合が作れず、効き目がなくなってしまうのです。

耐性菌では、アラニンが乳酸に置き換わっている
これを初めて知った時には筆者は本当に驚愕しましたし、会社のセミナーで発表した時も、先輩たちが「ウソだろう!」と声を挙げたことを覚えています。ヒ素細菌とまでは行きませんが、こんな基本的なシステムを変換してまで細菌は生き延びようとするのか――と、まあまさに敵ながらあっぱれという気がしたものです(余談ながら、ヒ素細菌の話は発表後にあちこちから疑問の声が挙がり、それに対するNASA側からのこれといった新証拠も出てこず、どうやら尻すぼみで終わっていきそうな案配です)。
しかし人間側も、感心しているばかりでは仕方がありません。この細菌の驚くべき仕組みに対抗策を考え出してきたのは、米国スクリプス研究所のD. L. Bogerらのグループです。細菌がアミドをエステルに変えてバンコマイシンの魔の手から逃れようとするなら、こちらはバンコマイシンを改造してエステルに結合するようにし、耐性菌をやっつけてやろうという発想です(論文はこちら)。
具体的には、鍵となる水素結合を作るバンコマイシンのアミド酸素をNHにする、すなわちこの場所をアミジン結合にすることで、エステルと水素結合させようということです。
この結果、新たに作り出された改変バンコマイシンは、通常の細菌に対しては効能が若干落ちたものの、耐性菌に対しては通常のバンコマイシンに比べて数百倍の効能を示し、理論の正しさが実証されたとのことです。細菌もやるものだけれど、人類も知恵比べで負けるわけにはいかないというところでしょうか。
もちろんこの改変バンコマイシンは合成に手間がかかりすぎますし、医薬として実際の局面で使えるかはまだ全く未知数です。とはいえ耐性菌に対抗するための足がかりとして重要な仕事であり、現代合成化学・医薬化学の実力を示す見事な成果には間違いありません。
ただし、細菌の進化は素速く、どんな薬剤にもいつか必ず耐性菌は現れます。この永遠のいたちごっこをどうしのいでいくか、今後人類にとって大きな課題であることを、我々は意識していなければならないでしょう。さらなる研究の進展に期待したいと思います。
2012年01月07日
似ているけれど違うもの
化合物の性質というのは、構造に依存して決まります。なので似た構造の物質は、まあ基本的に似た性質を持つといってよいでしょう。たとえばペンタン・ヘキサン・ヘプタンといったアルカン類は、沸点などは分子量に応じて変わるものの、いずれも可燃性の透明な液体です。見た目や化学的な方法によって区別することも、かなり困難でしょう。



上から炭素数5のペンタン、6のヘキサン、7のヘプタン
ところがこの3つ、においをかぐとどれがどれか簡単にわかるのです。人間の鼻というのはなかなか大したもので、炭素原子一つ分の違いを見事に区別してのけるのです。におい以外にも、似たような化合物が生体にとっては全く別の作用を示すことはよくあるのです。
分子式が違うどころか、鏡像異性体で香りが異なるものも数多くあります。たとえばリモネンはS体がレモン、R体がオレンジの香りです。


レモンの香りのS-リモネン、オレンジの香りのR-リモネン。
味の方でいうと、印象的な例としてネオヘスペリジンという化合物があります。これは芳香族化合物に2つの糖がついたかなり大きな分子ですが、一方は砂糖の350倍という強力な甘味を示すのに対し、もう一方は無味なのだそうです。本当か?と思うような話ですが、味覚の受容体というのはこんな細かな差を見事に見分けるのですね。


上の化合物は砂糖の350倍の甘さ、下は無味。
似た分子だからこそ全く違う性質を示す、というケースはままあり、これは薬や毒の世界で頻出します。酢酸とフルオロ酢酸の例は、本館でも以前に書きました。前者は食品として重要であるのに、後者が猛毒であるケースです。
よく似ているが、一方がビタミンで、一方が抗がん剤という組み合わせもあります。葉酸とメトトレキサート(下図)は、間違い探しの問題にしたいくらいそっくりですが、前者は不足すると貧血などを起こす重要なビタミン(様物質)、後者はリウマチや白血病の治療に使われる医薬です。葉酸は体内で還元されてテトラヒドロ葉酸になってから働きますが、よく似たメトトレキサートはこのプロセスに入り込み、ブロックしてしまうのです。いわば毒の一種といえますが、これを逆用してがんの治療に用いているというわけです。


葉酸(上)とメトトレキサート(下)
薬局で普通に売られている咳止め薬の主成分は、コデインというアルカロイドです。実はこれは、有名な麻薬であるモルヒネに、メチル基がひとつついただけのものです。


コデインとモルヒネ
実はコデインは、体内で代謝を受けてこのメチル基が外れ、モルヒネとなって作用します。えっ?麻薬が体内でできてるの?とちょっとびっくりしてしまいますが、このために作用が適切に弱められ、安全に使用できるのです。
体内物質には、この他にもよく似ているけれど全く違う作用を示すものがたくさんあります。プロスタグランジン類などはちょっとした構造の差で驚くほど作用が変化しますし、ステロイドホルモンなどにもこうした例がたくさんあります。
「○○は毒薬に似た構造だから危険だ」「××は△△と同じ構造を含んでいるから危ない」という言い回しはよく見かけますが、話はそう簡単ではありません。似た顔をしているからといって性格が似ているわけではないのと同じで、化合物はそれぞれが千差万別です。わかりやすいだけの単純な議論に惑わされないようにしたいものです。



上から炭素数5のペンタン、6のヘキサン、7のヘプタン
ところがこの3つ、においをかぐとどれがどれか簡単にわかるのです。人間の鼻というのはなかなか大したもので、炭素原子一つ分の違いを見事に区別してのけるのです。におい以外にも、似たような化合物が生体にとっては全く別の作用を示すことはよくあるのです。
分子式が違うどころか、鏡像異性体で香りが異なるものも数多くあります。たとえばリモネンはS体がレモン、R体がオレンジの香りです。


レモンの香りのS-リモネン、オレンジの香りのR-リモネン。
味の方でいうと、印象的な例としてネオヘスペリジンという化合物があります。これは芳香族化合物に2つの糖がついたかなり大きな分子ですが、一方は砂糖の350倍という強力な甘味を示すのに対し、もう一方は無味なのだそうです。本当か?と思うような話ですが、味覚の受容体というのはこんな細かな差を見事に見分けるのですね。


上の化合物は砂糖の350倍の甘さ、下は無味。
似た分子だからこそ全く違う性質を示す、というケースはままあり、これは薬や毒の世界で頻出します。酢酸とフルオロ酢酸の例は、本館でも以前に書きました。前者は食品として重要であるのに、後者が猛毒であるケースです。
よく似ているが、一方がビタミンで、一方が抗がん剤という組み合わせもあります。葉酸とメトトレキサート(下図)は、間違い探しの問題にしたいくらいそっくりですが、前者は不足すると貧血などを起こす重要なビタミン(様物質)、後者はリウマチや白血病の治療に使われる医薬です。葉酸は体内で還元されてテトラヒドロ葉酸になってから働きますが、よく似たメトトレキサートはこのプロセスに入り込み、ブロックしてしまうのです。いわば毒の一種といえますが、これを逆用してがんの治療に用いているというわけです。


葉酸(上)とメトトレキサート(下)
薬局で普通に売られている咳止め薬の主成分は、コデインというアルカロイドです。実はこれは、有名な麻薬であるモルヒネに、メチル基がひとつついただけのものです。


コデインとモルヒネ
実はコデインは、体内で代謝を受けてこのメチル基が外れ、モルヒネとなって作用します。えっ?麻薬が体内でできてるの?とちょっとびっくりしてしまいますが、このために作用が適切に弱められ、安全に使用できるのです。
体内物質には、この他にもよく似ているけれど全く違う作用を示すものがたくさんあります。プロスタグランジン類などはちょっとした構造の差で驚くほど作用が変化しますし、ステロイドホルモンなどにもこうした例がたくさんあります。
「○○は毒薬に似た構造だから危険だ」「××は△△と同じ構造を含んでいるから危ない」という言い回しはよく見かけますが、話はそう簡単ではありません。似た顔をしているからといって性格が似ているわけではないのと同じで、化合物はそれぞれが千差万別です。わかりやすいだけの単純な議論に惑わされないようにしたいものです。
2012年01月02日
謹賀新年2012
さとうです。明けましておめでとうございます。
本年も当ブログをよろしくお願い申し上げます。昨年は一応単著を一冊、共著を一冊出せたのですが、今年はさらにペースを上げて執筆をできればと思っております。
さて今年は2012年ということで、何かこの数字にちなんだ話題はないか考えてみました。で、この数字を20・12と分けてみると、何か見覚えのある組み合わせであることに気づきます。

そうそう、これですこれ。フラーレンことC60というのは、なんと6員環20枚と、5員環12枚でできているのです。ということで今年は国際フラーレン年とでもしてみてはどうでしょうか。言い出すのが遅いですかそうですか。まあでも、ちょっと記念イベントなどやるにはふさわしいのではという気もします。
ということで、お正月でお時間のある方は、正6角形20枚と正五角形12枚を切り抜き、フラーレンの模型など作る作業に打ち興じてみてはいかがでしょうか。もし折り紙で作ってみたいという方は、こちらにあるフランシス・オウさん作の「135度ユニット」が筆者のおすすめです。90枚も作るのはしんどいという方には、こちらなどいかがでしょうか。ご飯を用意するだけで、手軽にフラーレン気分に浸れます。

海苔の川島屋のサイトより
ということで、相変わらずしょうもないことばかり言っておりますが、本年もよろしくお願いいたします。
本年も当ブログをよろしくお願い申し上げます。昨年は一応単著を一冊、共著を一冊出せたのですが、今年はさらにペースを上げて執筆をできればと思っております。
さて今年は2012年ということで、何かこの数字にちなんだ話題はないか考えてみました。で、この数字を20・12と分けてみると、何か見覚えのある組み合わせであることに気づきます。

そうそう、これですこれ。フラーレンことC60というのは、なんと6員環20枚と、5員環12枚でできているのです。ということで今年は国際フラーレン年とでもしてみてはどうでしょうか。言い出すのが遅いですかそうですか。まあでも、ちょっと記念イベントなどやるにはふさわしいのではという気もします。
ということで、お正月でお時間のある方は、正6角形20枚と正五角形12枚を切り抜き、フラーレンの模型など作る作業に打ち興じてみてはいかがでしょうか。もし折り紙で作ってみたいという方は、こちらにあるフランシス・オウさん作の「135度ユニット」が筆者のおすすめです。90枚も作るのはしんどいという方には、こちらなどいかがでしょうか。ご飯を用意するだけで、手軽にフラーレン気分に浸れます。

海苔の川島屋のサイトより
ということで、相変わらずしょうもないことばかり言っておりますが、本年もよろしくお願いいたします。
2011年12月31日
レクイエム2011
今年は日本にとって、忘れがたい大きな悲劇のあった一年でした。改めて、亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思います。また世界でも多くの著名人が世を去った一年であり、世界史の節目となるような年であったと感じます。
化学の世界においても、多くの方が鬼籍に入られました。幾人か筆者の知る範囲で、その業績を振り返ってみようと思います。
○1月3日 William von Eggers Doering 1917-2011

Doering博士(ChemistryViewsより)
20世紀有機化学の巨人・Woodwardと共にキニーネの全合成を果たし、天然物全合成の時代を切り開いた人物です。その他、ブルバレンの研究などもよく知られるところでしょう。同年生まれのWoodwardが62歳の若さで世を去ったのに対し、Doeringはそれより30年以上も長生きし、90歳を過ぎても現役の研究者であり続けました。最初の論文が1939年、最後の論文が2008年といいますから、70年に渡って活躍したことになります。まさに記録的というべきでしょう。
晩年、キニーネ全合成の論文に不完全であるとの疑惑がかけられ、それをWoodwardの最後の弟子・Robert Williamsが解決した件は大きな話題を呼びました(詳細はこちら)。まさに化学の歴史の生き証人が、世を去ったことになります。
○3月22日 David Gin 1967-2011

Gin博士
逆に若くして惜しまれつつ世を去ったのがDavid Gin博士、44歳でした。まさにこれから本領を発揮しようという年齢での突然の死去は、世界中を驚かせました。エクチナサイジン743の全合成が特に有名ですが、論文から窺い知れるその才能はまさに惜しんでも余りあります。詳細はChem-Stationさんの記事の方で。
○3月31日 Emanuel Vogel 1927-2011

Vogel博士
E. Vogel博士は、芳香族化合物、中でもポルフィリンの誘導体研究で知られた化学者です。これら化合物の美しい色合いを愛したようで、写真にあるケースを見せてプレゼンに用いていたとのことです。下図にあるような化合物もVogel博士の「作品」で、本サイトでも幾度か取り上げています。


メタノ[10]アヌレンとポルフィセン
○4月14日 William Lipscomb Jr. 1919-2011

W. Lipscomb博士
構造化学の巨人Lipscomb博士も、今年世を去った一人です。Linus Paulingに学んで原子の結合に興味を持ち、当時大きな問題であったホウ素化合物の結合の謎を解明、この功績で1976年のノーベル化学賞を受賞しまています。また門下からR. Hoffmann、T. Steitz、A. Yonathの3人のノーベル賞受賞者を輩出するなど、名伯楽でもありました。厳しい立ち振る舞いから「カーネル」の称号を奉られていたということですが、一方でユーモアの持ち主でもあり、イグノーベル賞のプレゼンターを長く務めるなどの一面もありました。
○9月30日 Ralph M. Steinman 1943-2011

Steinman博士
化学分野ではありませんが、世界を驚かせたといえばこの人でしょう。10月3日、ノーベル生理学・医学賞の受賞が発表されながら、そのわずか4日前に膵臓がんで死去していたというものです。ノーベル賞は存命者のみを対象とするという規定がありますが、この場合特例で受賞が認められました。自ら発見した樹状細胞で治療を続け、死の直前には「月曜のノーベル賞発表までは頑張らないとな」と家族に語っていたとのことで、朗報がわずかに届かなかったのはなんとも残念なことでした。
もちろんここに挙げなかった化学者にも、大きな功績を残した方が多数ありました。謹んで、彼らのご冥福をお祈り申し上げます。
化学の世界においても、多くの方が鬼籍に入られました。幾人か筆者の知る範囲で、その業績を振り返ってみようと思います。
○1月3日 William von Eggers Doering 1917-2011

Doering博士(ChemistryViewsより)
20世紀有機化学の巨人・Woodwardと共にキニーネの全合成を果たし、天然物全合成の時代を切り開いた人物です。その他、ブルバレンの研究などもよく知られるところでしょう。同年生まれのWoodwardが62歳の若さで世を去ったのに対し、Doeringはそれより30年以上も長生きし、90歳を過ぎても現役の研究者であり続けました。最初の論文が1939年、最後の論文が2008年といいますから、70年に渡って活躍したことになります。まさに記録的というべきでしょう。
晩年、キニーネ全合成の論文に不完全であるとの疑惑がかけられ、それをWoodwardの最後の弟子・Robert Williamsが解決した件は大きな話題を呼びました(詳細はこちら)。まさに化学の歴史の生き証人が、世を去ったことになります。
○3月22日 David Gin 1967-2011

Gin博士
逆に若くして惜しまれつつ世を去ったのがDavid Gin博士、44歳でした。まさにこれから本領を発揮しようという年齢での突然の死去は、世界中を驚かせました。エクチナサイジン743の全合成が特に有名ですが、論文から窺い知れるその才能はまさに惜しんでも余りあります。詳細はChem-Stationさんの記事の方で。
○3月31日 Emanuel Vogel 1927-2011

Vogel博士
E. Vogel博士は、芳香族化合物、中でもポルフィリンの誘導体研究で知られた化学者です。これら化合物の美しい色合いを愛したようで、写真にあるケースを見せてプレゼンに用いていたとのことです。下図にあるような化合物もVogel博士の「作品」で、本サイトでも幾度か取り上げています。


メタノ[10]アヌレンとポルフィセン
○4月14日 William Lipscomb Jr. 1919-2011

W. Lipscomb博士
構造化学の巨人Lipscomb博士も、今年世を去った一人です。Linus Paulingに学んで原子の結合に興味を持ち、当時大きな問題であったホウ素化合物の結合の謎を解明、この功績で1976年のノーベル化学賞を受賞しまています。また門下からR. Hoffmann、T. Steitz、A. Yonathの3人のノーベル賞受賞者を輩出するなど、名伯楽でもありました。厳しい立ち振る舞いから「カーネル」の称号を奉られていたということですが、一方でユーモアの持ち主でもあり、イグノーベル賞のプレゼンターを長く務めるなどの一面もありました。
○9月30日 Ralph M. Steinman 1943-2011

Steinman博士
化学分野ではありませんが、世界を驚かせたといえばこの人でしょう。10月3日、ノーベル生理学・医学賞の受賞が発表されながら、そのわずか4日前に膵臓がんで死去していたというものです。ノーベル賞は存命者のみを対象とするという規定がありますが、この場合特例で受賞が認められました。自ら発見した樹状細胞で治療を続け、死の直前には「月曜のノーベル賞発表までは頑張らないとな」と家族に語っていたとのことで、朗報がわずかに届かなかったのはなんとも残念なことでした。
もちろんここに挙げなかった化学者にも、大きな功績を残した方が多数ありました。謹んで、彼らのご冥福をお祈り申し上げます。
2011年12月30日
アミノ酸の名前の由来(3)
ということでアミノ酸の名前の由来パート3(パート1、パート2もどうぞ)。
ヒドロキシ基を持ったアミノ酸・セリンの名は、ギリシャ語の「絹」を意味する「serus」に由来します。もちろん絹から最初に得られたためで す。中国語では「絲氨酸」。

セリン
トレオニン(スレオニン)は、セリンにひとつメチル基が加わった構造で、2つの不斉点を持ちます。この名は、関連性のある構造を持つ糖・トレオースからつけられました。中国語では「蘇氨酸」で、これは音訳でしょうか。

トレオニン
トレオースはあまり有名でない四炭糖ですが、そのジアステレオマーであるエリトロースとともに、立体配置の基準とされてきた重要な化合物です。 トレオースから誘導されると見なされる配置がthreo、エリトロースから誘導されるのがerythro配置とされます。

D-トレオース(左)とD-エリトロース(右)
ちなみにトレオースの名がどこから来ているかといえば、類似の構造を持つ化合物・酒石酸の別名であるthrearic acidから取られています。ではこの名前がどこから来ているか……は、まあそのうち調べておくとします、はい。
アミノ基が環に組み込まれた変わり種のアミノ酸・プロリンの語源は何か?実はこれ、2-ピロリジンカルボン酸(2-pyrrolidinecarboxylic acid)を縮めて作った言葉だそうです。まあ言われてみれば、という名前ですね。中国語では「脯氨酸」だそうで、これも音訳でしょうか。

プロリン
ヒスチジンはイミダゾール環を持つアミノ酸で、酵素の活性中心や金属への配位子など特殊かつ重要な役割を担っています。というわけであまりあちこちに転がっているものではなく、20種のアミノ酸中、タンパク質内における出現頻度は最少だそうです。ヘモグロビンの加水分解物に水銀または銀を作用させて初めて分離され、ギリシャ語の「組織」を意味する言葉にちなんで名付けられました。中国語では「組氨酸」。

ヒスチジン
タンパク質を構成するアミノ酸中、一番大きなものであるトリプトファンは、1901年にカゼイン(牛乳のタンパク質)を分解することで始めて分離されました。このためギリシャ語の「壊され、現れる」という言葉から来ているということです。トリプトファンもまた、セロトニンなどの伝達物質、各種アルカロイドの原料として重要です。中国語では「色氨酸」。これもよくわかりませんが、あるいはインドール環がインディゴなど染料の基本骨格であるからでしょうか。

トリプトファン
最後のアミノ酸リジンも、トリプトファンと同じくカゼインの加水分解物から発見されています。このためその名はギリシャ語の「ほどく」を意味す る「lusis」から取られました。分析を意味するanalysis、加水分解を意味するhydrolysisなどと同じルーツを持つ言葉という ことになります。中国語では「頼氨酸」で、これも音訳でしょうか。まあしかし、リジンもトリプトファンも「分解物」みたいないい加減な名前がつけられていたわけで、発見された時点ではこれほど重要な化合物と思われていなかったのかもしれません。

リジン
最後にちょっと余談。リジンは4つのメチレン鎖の先にアミノ基がくっついた、ひょろ長い側鎖を持ちます。何でこんな無駄に長い側鎖なのか、筆者 は以前疑問に思っていました。実際、リジンはアスパラギン酸から11段階もかかって生合成されています。ひとつ短い側鎖を持つオルニチンはグルタ ミン酸から5段階であり、こちらを採用する方がずっと手間がかからなかったはずです。しかしなぜ自然は、合成の面倒なリジンをタンパク質構成アミノ酸と して採用したのでしょうか?
で、筆者はある日オルニチンの誘導体を扱う機会があり、この時その疑問が氷解しました。オルニチンというアミノ酸は意外に扱いが厄介で、油断すると側鎖のアミノ基がカルボキシ基と反応し、ちょうど6員環のラクタムを形成してしまうのです。リジンは7員環になるため、この副反応が起きません。なるほど、だから自然は面倒なリジンを採用したのか、とちょっと感動しました。もちろん確証があるわけではありませんが、この理由はたぶん正しいだ ろうなと勝手に思っています。


オルニチンとそのラクタム
となると他のアミノ酸はどういう根拠で選ばれたのか?アスパラギン酸とグルタミン酸の両方が必要なのか?バリンとロイシンとイソロイシンは似たような構造だけど、全てなければタンパク質の機能は成り立たないのか?アミノ酸の構造式を見ながら、こんな思案をめぐらしてみるのも一興ではないかと思う次第で す。
参考文献:「人体の分子 の驚異―身体のモーター・マシン・メッセージ
」
ヒドロキシ基を持ったアミノ酸・セリンの名は、ギリシャ語の「絹」を意味する「serus」に由来します。もちろん絹から最初に得られたためで す。中国語では「絲氨酸」。

セリン
トレオニン(スレオニン)は、セリンにひとつメチル基が加わった構造で、2つの不斉点を持ちます。この名は、関連性のある構造を持つ糖・トレオースからつけられました。中国語では「蘇氨酸」で、これは音訳でしょうか。

トレオニン
トレオースはあまり有名でない四炭糖ですが、そのジアステレオマーであるエリトロースとともに、立体配置の基準とされてきた重要な化合物です。 トレオースから誘導されると見なされる配置がthreo、エリトロースから誘導されるのがerythro配置とされます。

D-トレオース(左)とD-エリトロース(右)
ちなみにトレオースの名がどこから来ているかといえば、類似の構造を持つ化合物・酒石酸の別名であるthrearic acidから取られています。ではこの名前がどこから来ているか……は、まあそのうち調べておくとします、はい。
アミノ基が環に組み込まれた変わり種のアミノ酸・プロリンの語源は何か?実はこれ、2-ピロリジンカルボン酸(2-pyrrolidinecarboxylic acid)を縮めて作った言葉だそうです。まあ言われてみれば、という名前ですね。中国語では「脯氨酸」だそうで、これも音訳でしょうか。

プロリン
ヒスチジンはイミダゾール環を持つアミノ酸で、酵素の活性中心や金属への配位子など特殊かつ重要な役割を担っています。というわけであまりあちこちに転がっているものではなく、20種のアミノ酸中、タンパク質内における出現頻度は最少だそうです。ヘモグロビンの加水分解物に水銀または銀を作用させて初めて分離され、ギリシャ語の「組織」を意味する言葉にちなんで名付けられました。中国語では「組氨酸」。

ヒスチジン
タンパク質を構成するアミノ酸中、一番大きなものであるトリプトファンは、1901年にカゼイン(牛乳のタンパク質)を分解することで始めて分離されました。このためギリシャ語の「壊され、現れる」という言葉から来ているということです。トリプトファンもまた、セロトニンなどの伝達物質、各種アルカロイドの原料として重要です。中国語では「色氨酸」。これもよくわかりませんが、あるいはインドール環がインディゴなど染料の基本骨格であるからでしょうか。

トリプトファン
最後のアミノ酸リジンも、トリプトファンと同じくカゼインの加水分解物から発見されています。このためその名はギリシャ語の「ほどく」を意味す る「lusis」から取られました。分析を意味するanalysis、加水分解を意味するhydrolysisなどと同じルーツを持つ言葉という ことになります。中国語では「頼氨酸」で、これも音訳でしょうか。まあしかし、リジンもトリプトファンも「分解物」みたいないい加減な名前がつけられていたわけで、発見された時点ではこれほど重要な化合物と思われていなかったのかもしれません。

リジン
最後にちょっと余談。リジンは4つのメチレン鎖の先にアミノ基がくっついた、ひょろ長い側鎖を持ちます。何でこんな無駄に長い側鎖なのか、筆者 は以前疑問に思っていました。実際、リジンはアスパラギン酸から11段階もかかって生合成されています。ひとつ短い側鎖を持つオルニチンはグルタ ミン酸から5段階であり、こちらを採用する方がずっと手間がかからなかったはずです。しかしなぜ自然は、合成の面倒なリジンをタンパク質構成アミノ酸と して採用したのでしょうか?
で、筆者はある日オルニチンの誘導体を扱う機会があり、この時その疑問が氷解しました。オルニチンというアミノ酸は意外に扱いが厄介で、油断すると側鎖のアミノ基がカルボキシ基と反応し、ちょうど6員環のラクタムを形成してしまうのです。リジンは7員環になるため、この副反応が起きません。なるほど、だから自然は面倒なリジンを採用したのか、とちょっと感動しました。もちろん確証があるわけではありませんが、この理由はたぶん正しいだ ろうなと勝手に思っています。


オルニチンとそのラクタム
となると他のアミノ酸はどういう根拠で選ばれたのか?アスパラギン酸とグルタミン酸の両方が必要なのか?バリンとロイシンとイソロイシンは似たような構造だけど、全てなければタンパク質の機能は成り立たないのか?アミノ酸の構造式を見ながら、こんな思案をめぐらしてみるのも一興ではないかと思う次第で す。
参考文献:「人体の分子 の驚異―身体のモーター・マシン・メッセージ
2011年12月18日
お知らせ3点
先日「化学コミュニケーション賞」というものを受賞した旨報告いたしましたが、それに関連してこのような書籍が出ることになりました。

というような本でありまして、日本化学連合会長・副会長の御園生・中井両先生他、豪華執筆陣に紛れ込ませていただきました。筆者は最終章にて、「有機化学美術館の13年」と題した文を書かせていただいております。趣味で始めたHPづくりがやがて本業になるまで、13年間の道のりを振り返ってみました。予想通り他の先生方の書いている内容から思い切り浮いていますが、まあご覧いただければ幸いです。
また東大化学GCOEブログにて、「はやぶさ」の持ち帰った小惑星「イトカワ」のサンプルの分析に当たった長尾敬介教授のインタビューを掲載しました。1マイクログラムにも満たない、ホコリほどもない小片から太陽系の歴史を解き明かす研究とはどんなものであったのか。自分で書いておいて何ですが、これは必見です。
また同じブログで、以前に西原研究室によるペックマン色素の研究を掲載したのですが、月刊化学の1月号に坂本良太博士らによるこの仕事の解説が掲載されております。ブログに記事を掲載したことがきっかけになったとのことで、謝辞にも筆者の名前を入れていただいております。もちろん研究の内容が優れていたからこそではありますが、こうしてよい仕事がより人目に触れるお手伝いをできたことは、筆者にとって嬉しい限りです。
ということで、筆者もぼちぼち活動していますというお知らせでした。

化学コミュニケーション 「社会のための化学」推進に向けて
わが国初の入門書!「化学」を正しく理解し、伝えるためにいま何が必要か
【執筆陣】御園生誠/青山聖子/伊藤卓/時実象一/瀬田重敏/佐藤健太郎/中井武
というような本でありまして、日本化学連合会長・副会長の御園生・中井両先生他、豪華執筆陣に紛れ込ませていただきました。筆者は最終章にて、「有機化学美術館の13年」と題した文を書かせていただいております。趣味で始めたHPづくりがやがて本業になるまで、13年間の道のりを振り返ってみました。予想通り他の先生方の書いている内容から思い切り浮いていますが、まあご覧いただければ幸いです。
また東大化学GCOEブログにて、「はやぶさ」の持ち帰った小惑星「イトカワ」のサンプルの分析に当たった長尾敬介教授のインタビューを掲載しました。1マイクログラムにも満たない、ホコリほどもない小片から太陽系の歴史を解き明かす研究とはどんなものであったのか。自分で書いておいて何ですが、これは必見です。
また同じブログで、以前に西原研究室によるペックマン色素の研究を掲載したのですが、月刊化学の1月号に坂本良太博士らによるこの仕事の解説が掲載されております。ブログに記事を掲載したことがきっかけになったとのことで、謝辞にも筆者の名前を入れていただいております。もちろん研究の内容が優れていたからこそではありますが、こうしてよい仕事がより人目に触れるお手伝いをできたことは、筆者にとって嬉しい限りです。
ということで、筆者もぼちぼち活動していますというお知らせでした。
アミノ酸の名前の由来(2)
さて前回に続き、アミノ酸の名前の由来の話。
化合物の名前で最もよくあるのは、それが得られた動物や植物の名をとるというケースです。たとえばアスパラギンやアスパラギン酸の名前は、誰にでも見当がつくであろう通り、アスパラガスから発見されたことにちなみます。中国語ではアスパラギン酸が天冬酰胺、天冬氨酸。アスパラガスの属するクサスギカズラ科の植物のことを中国で「天門冬」というそうで、それが由来でしょう。「酰胺」はアミドを意味します。


アスパラギンとアスパラギン酸
それよりひとつ炭素鎖の長いグルタミン・グルタミン酸はどうか?これらは小麦のグルテンから得られました。グルテンは小麦に含まれるタンパク質で、小麦粉を水で練った時の粘りのもとになります。グルタミン酸のナトリウム塩は、昆布や鰹節などのうまみ成分として有名であり、その重要性は改めていうまでもないでしょう。ちなみに中国語ではグルタミンが穀酰胺、グルタミン酸が穀氨酸。
また体内で発生するアンモニアは有害ですので、生体はこれをグルタミン酸に結合させてグルタミンとして運搬します。アミノ酸の使い道もいろいろです。


グルタミンとグルタミン酸
タンパク質を構成するアミノ酸ではありませんが、これらによく似た化合物としてテアニンがあります。グルタミンの側鎖の窒素にエチル基が結合した構造で、グルタミン酸Naなどと並ぶうま味成分のひとつです。あらゆる植物の中でも、この化合物をたくさん作っているのは茶とその近縁種だけで、リラックス効果があるなどとされて近年注目される成分です。テアニン(theanine)の名は、茶を意味するtheaから取られています。中国語では、期待を裏切らず「茶氨酸」だそうです。

テアニン
硫黄を含むアミノ酸・システインの由来はちょっと変わっていて、膀胱結石から最初に得られたため、ギリシャ語の「膀胱」から名づけられています。医学用語などでは、膀胱に関する言葉に「cyst-」の接頭語を持つものがあります。

システイン
システインは酸化を受けてS-S結合を作り、二量体(シスチン)になることのできる特別な性質を持ちます。これはタンパク質同士を結びつけ、しっかりした構造を作るために役立ちます。髪の毛や爪の成分であるケラチンはこのシスチンをたくさん含んでいるため、非常に丈夫です。髪や爪を燃やすと臭いのは、シスチンが分解してできる硫黄酸化物のにおいによります。中国語では、シスチンが「胱氨酸」、システインは「半胱氨酸」。うむ、なるほど。

シスチン
もう一つ硫黄を含むアミノ酸として、メチオニンがあります。これは側鎖にメチルチオ基(CH3S)を含むため、methyl-thioを縮めてつけられました。中国語では「甲硫氨酸」。甲はメチル基、硫はイオウです。
メチオニンはタンパク質内ではあまりこれといった役割がありませんが、単独ではなかなか重要な役目があります。

メチオニン
DNAやタンパク質は、メチル基が結合することでその性質を大きく変えることが知られています。例えば遺伝子の発現制御にはこのDNAメチル化反応が大きくかかわっており、近年盛んに研究が行われています。このメチル化反応で用いられるのが、メチオニンのS-メチル基なのです。

(S-アデノシルメチオニン。メチオニンとアデノシンからこの化合物ができ、この上方のメチル基が他の化合物に転移してメチル化が行われる。)
チロシンは、フェニルアラニンにひとつヒドロキシ基が生えた構造です。この化合物は、チーズから最初に発見されたため、ギリシャ語で「チーズ」を意味する「tyros」から名をとっています。まあこういうのはたいていギリシャ語かラテン語なのですね、やはり。中国語では「酪氨酸」。「酪」はチーズを意味します。

チロシン
チロシンの親戚筋にも、重要な物質があります。チロシンにひとつ余計なヒドロキシ基が増えたドーパ(DOPA、レボドパなどとも)はそのひとつです。フェニルアラニンにヒドロキシ基が二つついているため、DiOxyPhenylAlanineを略してDOPAの名がついたのでしょう。中国語では正式名称が「3,4-二羟苯丙氨酸」ですが、「多巴」という音訳語が使われるようです。

ドーパ(DOPA)
ドーパは酵素によってCO2が切り取られ、ドーパミンになります(DOPA+amine)。このれは脳内の伝達物質として非常に重要です。このように、アミノ酸が変化して重要な物質が作られている例は非常にたくさんあります。生体は、豊富にあるアミノ酸という材料を有効に利用して、様々な物質を効率よく造り出す術を知っているのです。

ドーパミン
ということでパート3に続きます。
化合物の名前で最もよくあるのは、それが得られた動物や植物の名をとるというケースです。たとえばアスパラギンやアスパラギン酸の名前は、誰にでも見当がつくであろう通り、アスパラガスから発見されたことにちなみます。中国語ではアスパラギン酸が天冬酰胺、天冬氨酸。アスパラガスの属するクサスギカズラ科の植物のことを中国で「天門冬」というそうで、それが由来でしょう。「酰胺」はアミドを意味します。


アスパラギンとアスパラギン酸
それよりひとつ炭素鎖の長いグルタミン・グルタミン酸はどうか?これらは小麦のグルテンから得られました。グルテンは小麦に含まれるタンパク質で、小麦粉を水で練った時の粘りのもとになります。グルタミン酸のナトリウム塩は、昆布や鰹節などのうまみ成分として有名であり、その重要性は改めていうまでもないでしょう。ちなみに中国語ではグルタミンが穀酰胺、グルタミン酸が穀氨酸。
また体内で発生するアンモニアは有害ですので、生体はこれをグルタミン酸に結合させてグルタミンとして運搬します。アミノ酸の使い道もいろいろです。


グルタミンとグルタミン酸
タンパク質を構成するアミノ酸ではありませんが、これらによく似た化合物としてテアニンがあります。グルタミンの側鎖の窒素にエチル基が結合した構造で、グルタミン酸Naなどと並ぶうま味成分のひとつです。あらゆる植物の中でも、この化合物をたくさん作っているのは茶とその近縁種だけで、リラックス効果があるなどとされて近年注目される成分です。テアニン(theanine)の名は、茶を意味するtheaから取られています。中国語では、期待を裏切らず「茶氨酸」だそうです。

テアニン
硫黄を含むアミノ酸・システインの由来はちょっと変わっていて、膀胱結石から最初に得られたため、ギリシャ語の「膀胱」から名づけられています。医学用語などでは、膀胱に関する言葉に「cyst-」の接頭語を持つものがあります。

システイン
システインは酸化を受けてS-S結合を作り、二量体(シスチン)になることのできる特別な性質を持ちます。これはタンパク質同士を結びつけ、しっかりした構造を作るために役立ちます。髪の毛や爪の成分であるケラチンはこのシスチンをたくさん含んでいるため、非常に丈夫です。髪や爪を燃やすと臭いのは、シスチンが分解してできる硫黄酸化物のにおいによります。中国語では、シスチンが「胱氨酸」、システインは「半胱氨酸」。うむ、なるほど。

シスチン
もう一つ硫黄を含むアミノ酸として、メチオニンがあります。これは側鎖にメチルチオ基(CH3S)を含むため、methyl-thioを縮めてつけられました。中国語では「甲硫氨酸」。甲はメチル基、硫はイオウです。
メチオニンはタンパク質内ではあまりこれといった役割がありませんが、単独ではなかなか重要な役目があります。

メチオニン
DNAやタンパク質は、メチル基が結合することでその性質を大きく変えることが知られています。例えば遺伝子の発現制御にはこのDNAメチル化反応が大きくかかわっており、近年盛んに研究が行われています。このメチル化反応で用いられるのが、メチオニンのS-メチル基なのです。

(S-アデノシルメチオニン。メチオニンとアデノシンからこの化合物ができ、この上方のメチル基が他の化合物に転移してメチル化が行われる。)
チロシンは、フェニルアラニンにひとつヒドロキシ基が生えた構造です。この化合物は、チーズから最初に発見されたため、ギリシャ語で「チーズ」を意味する「tyros」から名をとっています。まあこういうのはたいていギリシャ語かラテン語なのですね、やはり。中国語では「酪氨酸」。「酪」はチーズを意味します。

チロシン
チロシンの親戚筋にも、重要な物質があります。チロシンにひとつ余計なヒドロキシ基が増えたドーパ(DOPA、レボドパなどとも)はそのひとつです。フェニルアラニンにヒドロキシ基が二つついているため、DiOxyPhenylAlanineを略してDOPAの名がついたのでしょう。中国語では正式名称が「3,4-二羟苯丙氨酸」ですが、「多巴」という音訳語が使われるようです。

ドーパ(DOPA)
ドーパは酵素によってCO2が切り取られ、ドーパミンになります(DOPA+amine)。このれは脳内の伝達物質として非常に重要です。このように、アミノ酸が変化して重要な物質が作られている例は非常にたくさんあります。生体は、豊富にあるアミノ酸という材料を有効に利用して、様々な物質を効率よく造り出す術を知っているのです。

ドーパミン
ということでパート3に続きます。


