有機化学美術館・分館

HP有機化学美術館のブログ版。タイムリーな話題,短いテーマをこちらで取り上げます。

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マラリア治療薬・アーテミシニン

 今年もノーベル賞の授賞式が近づいてきました。本ブログでも大村智先生の業績については紹介しましたし、受賞の意義について別のところでも解説記事など書いております(なおこちらは、「世界史を変えた薬」の電子書籍版にも収録されています)。

 ですが、今回のもうひとつの授賞対象となった医薬・アーテミシニンについては、これまで触れてきませんでした。いろいろと多忙で、ずっと後回しになってしまっていましたが、これもまた「世界史を変えた薬」の一つでもありますので、ここで解説してみます。

 マラリアは古くから世界最大の感染症のひとつであり、毎年2億人にも及ぶ患者が発生します。病原体のマラリア原虫を持った蚊に刺されることで感染し、間欠的な高熱、腎障害などの症状が出ますが、特に脳症を発すると死亡率が高いため恐れられています。

 アーテミシニンは1972年、中国の屠呦呦らのチームによって、クソニンジンの葉から抽出されました。このクソニンジンという名前は、特異な臭気を持っていること、人参に似た葉を持つことから命名されたそうです。実際には人参とは違ってヨモギ属の植物であり、日本国内でもちょくちょく生えているのだそうです。

kusoninjin
クソニンジン(Wikipediaより)

 クソニンジンは2000年以上も前から、解熱作用を持つ漢方薬として利用されてきました。ここから発見された有効成分がアーテミシニンで、中国語では「青蒿素」(チンハオス)と呼ばれます。論文などでは、「Qinghaosu」の名も併記されていることも少なくありません。

 マラリアの治療薬としては、キニーネ及びその誘導体が古くから用いられてきましたが、これらの薬が効かないマラリア原虫が蔓延し、問題となっています。アーテミシニンはこれら耐性マラリア原虫にも有効な化合物として、注目を集めました。

artemisinin
アーテミシニン(artemisinin)

 ただしアーテミシニン自身は水にも油にも溶けにくく、薬とするにはかなり扱いにくい化合物です。そこで構造を一部変換し、溶解性を上げた形で用いられます。下図は、コハク酸のエステルとすることで水溶性を上げたアーテスネートと呼ばれる化合物です。

artesunate
アーテスネート。緑色がコハク酸部分。

 これらアーテミシニン系の医薬の登場は、マラリア治療を大きく変えています。マラリアによる死亡率は、2000年から2014年の間に42%(アフリカの子供では54%)も低下していますが、ここにアーテミシニン系薬剤は大きく貢献しています。と聞けば、ノーベル賞に値する医薬であることは、誰もが認めるところでしょう。

 しかしこのアーテミシニンがどのようにマラリア原虫を殺すのか、いまだ完全な解明はなされていません。ただ有機化学の心得がある人がアーテミシニンの構造を見れば、誰しも「この部分が何か薬理作用に関わっているのだろうな」と思い至ることでしょう。上図右側の酸素(赤色)が2つ連なっている部分がそれで、専門用語では「エンドペルオキシド」と呼ばれます。天然の化合物で、このような-O-O-結合を持つものは相当に珍しい部類に入ります。実際、アーテミシニンのエンドペルオキシド部分を還元すると、活性は失われます。

 ひとつには、赤血球のヘムの鉄が、このエンドペルオキシド部分と反応して、極めて反応性の高いラジカルを発生させ、これが原虫を殺すという説があります。その他、鉄は関わっていないなどの説もありますが、いずれにしろこのエンドペルオキシド部分が鍵を握っているのは間違いありません。

 というわけで、このエンドペルオキシド部分を持った人工化合物が試され、いくつかは成果を上げつつあります。たとえば下図に示すアルテロランは、インドで第形衫彎音邯海進められているということです。
Arterolane
アルテロラン(arterolane)


 かくして、ひとつの発見を糸口に、多くの医薬が編み出され、マラリアの治療を大きく変えつつあります。膨大な患者が発生していながら、治療薬開発に十分リソースが振り向けられていないこの病気ですが、ノーベル賞をひとつの起爆剤として、さらなる進歩を期待したいところです。

血のにおいの化合物

 またずいぶんと更新の間が空いてしまいました。先月の「世界史を変えた薬」に続き、今月は「国道者」、さらに来年1月にも新刊を控えていて、なかなかてんやわんやな状態です。

 というわけで、今回は身近なところからひとネタ。口の中を切ったり、鼻血が出たりした時、我々は「血のにおい」を感じ取ります。金属的なにおいであるので、「金気臭い」などと表現されたりすることもあります。これはいったい何のにおいなのでしょうか?

 血液は鉄イオンを含んでいますので、そのにおいかと思ってしまいますが、実際には鉄が直接臭っているわけではないそうです。血中のヘモグロビンが、皮脂などの脂肪酸と反応し、分解してできる成分の臭気であることがわかっています。たとえば下に示す1-オクテン-3-オン、トランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナールなどが主成分です。

octenone

blood
(上)1-オクテン-3-オン(下)トランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナール

 と、この話、当ブログの昔からの読者ならば、記憶に引っかかっている話があるかもしれません。「鉄のにおいの正体」というタイトルで、鉄さびが手についた時のにおいについて書きましたが、それと同じような話だからです。1-オクテン-3-オンも、「鉄のにおい」としてその時に紹介しています。

 ちなみにこの1-オクテン-3-オンは、金属臭の他「キノコのにおい」とも表現されます。実際、この化合物のケトンがアルコールに還元された形の1-オクテン-3-オールはマツタケの香り成分として知られ、「マツタケオール」の別名があります。言われてみれば、多少血に近いにおいかもしれません。

matsutakeol
マツタケオール

 もうひとつの「血のにおい」の成分であるトランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナールは、極めて感知されやすいにおい成分であり、空気中に1リットルあたり1.5ピコグラム(1兆分の1.5グラム)含まれていれば、においを感じ取れるのだそうです。言うまでもなく、血のにおいは獲物や敵の居場所を察知するために重要であり、このためこの化合物を鋭敏に感知するようになったと思われます。

 しかしこの化合物、有機化学を学んだ人ならおわかりの通り、かなり不安定そうであり、水分や人体の持ついろいろな物質と反応して、すぐ別のものに変化しそうな構造です。我々が鉄や血のにおいと思っているのはこの化合物ということですが、実際にはまた別の化合物に変化し、それを感知している可能性もありそうです。してみると、「におい」とは一体何であるのか、ちょっと哲学的な気分にさせられる話ではあります。

新刊「世界史を変えた薬」

 さて本日あたりから、筆者の9冊目となる新刊「世界史を変えた薬」が書店に並び始めると思います。筆者の手元には、すでに見本が届いております。

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赤白のカプセルが目印。

 目次は以下のようになっております。
第1章 医薬のあけぼの
第2章 ビタミンC 海の男たちが恐れた謎の病気
第3章 キニーネ 名君を救った特効薬
第4章 モルヒネ 天国と地獄をもたらす物質
第5章 麻酔薬 痛みとの果てしなき闘い
第6章 消毒薬 センメルワイスとリスターの物語
第7章 サルバルサン 不治の性病「梅毒」の救世主
第8章 サルファ剤 道を切り拓いた「赤い奇跡」
第9章 ペニシリン 世界史を変えた「ありふれた薬」
第10章 アスピリン 三つの世紀に君臨した医薬の王者
第11章 エイズ治療薬 日本人が初めて創った抗HIV薬

という感じです。ウェブ連載したものに加筆修正してまとめたものですが、第11章は完全書き下ろしとなっております。

医薬という存在を通じて歴史を眺めてみようという試みであり、まあいってみれば、「炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす」の医薬品バージョンということになります。とはいえ医薬というもの、直接に人間の生命に関わるものですので、より生々しく歴史にも関与してきています。

 改めて、薬というものは人類の思いが最も濃く詰まった化合物であると思います。病苦から逃れるために、人類はこんなことまでやっていたのか、と思うことが書いていてたくさんありました。というわけで、明日以降書店に行きましたら、ぜひ講談社現代新書のコーナーをチェックしてやっていただければ幸いです。

大村智博士にノーベル生理学・医学賞

 さて今月16日、筆者の新刊「世界史を変えた薬 (講談社現代新書)」が発売になります。タイトル通り、モルヒネ、キニーネ、麻酔薬などなど、世界の歴史と医薬の関わりについて書いた本です。興味のある方はご覧いただければ幸いです。

 さてこの本の最終章で、医薬の開発には長らくノーベル賞が出ていないという話を書きました。1950年代くらいまでは、いくつもの医薬がノーベル賞の対象になっていますが、その後は1988年のBlack, Elion, Hitchingsらが唯一の例となっている――という内容です。

 と、その本が出る直前に、久方ぶりの医薬品開発に対する授賞が決まりました。大村智、ウィリアム・C・キャンベル、屠呦呦の3氏に、2015年のノーベル生理学・医学賞が贈られたのです。特に大村先生の授賞は、医薬品研究者出身、かつ東京理科大の後輩に当たる筆者には、大変に嬉しいことです。

 大村博士は山梨大学を卒業後、いったん高校の教員になるものの理科大の大学院に入り直し、山梨大学の助手を務めた後に北里大学へ移るなど、その経歴は異色であり、いわゆるエリートコースを歩んだわけではありません。しかし、ここからが大村博士の真骨頂でした。

 土の中には、1グラムあたり1億ともいわれる細菌が住んでおり、この中には有用な化合物を生産しているものがいます。大村博士は、こうした細菌を培養し、医薬になるものがないか探すという仕事に取り組みます。土は場所によって細かく性質が違い、住んでいる菌も全く異なります。このため、各地の土を集めてくることも重要な仕事です(筆者も会社員時代、ドライブついでに山の中の土を採集してきたものです)。

 この時、どのような作用の化合物を狙うか、またその化合物の作用の有無をどう判定するかは、大変難しい技術になります。大村博士は数々の手法を工夫し、新規な作用を持った化合物を数々発見しました。たとえば下の化合物スタウロスポリンは、プロテインキナーゼと呼ばれる酵素の作用を妨げる作用を持つ、非常に有名な化合物です。これをツールとして用いることで、生化学に多くの発展がもたらされました。

staurosporin
スタウロスポリン

 また、不要になったタンパク質を分解するシステムである、プロテアソームの作用を阻害するラクタシスチンも、大村らが発見したものです。

lactacystin
ラクタシスチン

 ラクタシスチンは、ハーバード大のE. J. Coreyらによって全合成が達成され、その分解によって生ずる下のような4員環ラクトンが活性本体であることが確認されています。Coreyは大村博士に敬意を評し、この化合物に「オオムラライド」の名を与えています。

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オオムラライド

 大村博士の発見した化合物のうち、25種ほどが医薬・研究用試薬として用いられ、人類の幸福と科学の発展を助けています。この素晴らしい実績から、大村博士には「微生物代謝の王」との称号も奉られました。また、生産菌の遺伝子操作によって、有用な化合物を量産させたり、不要な化合物の生産を抑えたりといった技術も編み出しています。

 中でも今回授賞の対象となったのは、イベルメクチンやアベルメクチン(エバーメクチン)など、抗寄生虫薬の発見でした。

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イベルメクチンB1a

 これらの化合物は、川奈のゴルフ場の土から発見されたといいます。イベルメクチンは、アフリカに蔓延するオンコセルカ症やミクロフィラリアといった寄生虫病に著効を示します。しかも極めて安全性が高く、一度経口投与すれば1年は有効という、実に驚くべき効能を持ちます。十分に医療環境の整っていないアフリカ諸国でも安心して使える、素晴らしい薬剤です。

 この薬で2億人が病から解放され、年間4万人が失明を免れており、病気の撲滅も間近といいますから、その人類に対する貢献度は絶大です。ノーベル賞の対象となるのも、全く当然といえるでしょう。


 そして大村博士の凄いところは、研究者として大成功しているのみならず、人生の大成功者でもある点です。製薬企業であるメルク社などと組んで、医薬となる化合物を発見するたびにロイヤリティを獲得、その総額は250億円にも上っています。この潤沢な資金で研究を推進した他、病院や専門学校などを建設、北里研究所の運営にも関わっています。美術にも造詣が深く、個人としのコレクションを収めた韮崎大村美術館まで建てているということですから、実に見事な金の稼ぎ方、使い方という他ありません。

 人類に、科学に、教育に、地域の発展に、素晴らしい貢献を果たした大村博士が、最高の栄誉に輝いたことは、実に喜ばしいことと思います。その歩んだ道は、多くの研究者や関係者に、重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

参考文献 「大村智 - 2億人を病魔から守った化学者」 馬場錬成 著 中央公論新社

ノーベル化学賞予想

 さて今年もノーベル賞の季節がやってまいりました。5日の生理学・医学賞を皮切りに、6日物理学賞、7日化学賞が順次発表される予定です。

 筆者の専門分野である有機化学方面には、しばらくノーベル賞が出ていませんが、今年辺りそろそろという期待がかかっています。というのは、過去の受賞を見てみると、下のようにだいたい5年周期で有機分野が受賞しているので、今年あたりそろそろと思えるわけです(以下敬称略)。 
 1990 E. J. Corey 有機合成理論および方法論の開発
 1994 G. A. Olah カルボカチオン化学への貢献
 2001 Sharpless, 野依良治, Knowles 不斉触媒の開発
 2005 Chauvin, Grubbs, Schrock オレフィンメタセシスの開発
 2010 Heck, 根岸英一, 鈴木章 クロスカップリング反応の開発
 
 では有機化学の中だと、どの分野に賞が出るか?筆者の勝手な予想を書いてみます。

 ・合成反応開発
 最近3回はこの分野に出ているので、ある意味本命といえます。近年の大きな潮流を作り出している有機触媒でB. ListやD. W. C. MacMillan、C-H結合活性化でR. G. Bergmannや村井真二などの各氏が候補に挙がりそうです。ただし、最近の化学賞は社会的応用が重視される傾向にあるので、このへんのジャンルはまだちょっと受賞には早いかもしれません。

 ちょっとニュアンスは異なりますが、クリックケミストリーは化学の広い分野に影響を与えており、十分に受賞資格があると思います。受賞すれば2度めとなるK. B. Sharplessの他、V. V. Fokin, C. R. Bertozziなどが候補に挙がるでしょうか。

 安定カルベンの化学もまた多くのジャンルにインパクトを与えており、A. J. Arduengo IIIを個人的には推したいところです。ただし、このジャンルの先鞭をつけたH. W. Wanzlickはすでに亡くなっており、これがどう影響するか。

 ・天然物全合成
 K. C. Nicolaou, S. J. Danishefskyらをはじめビッグネームがそろっていますが、最近の流れを見ているともはやこの分野には厳しいでしょうか。個人的にはなくなってほしくない分野ですが。

 ・有機電子材料
 有機半導体、有機磁性体、有機ELなど発展の著しいジャンルで、そろそろこの方面に出る可能性もあろうかと思います。かといって誰が受賞するかとなるとちょっと難しいのですが、有機ELの開祖であるC. W. Tangが有力だとは思います。

 ・超分子化学
 いわゆる自己組織化は、科学の広い分野に通用する概念です。J. F. Stoddart, J. Rebek Jr., G. M. Whitesidesといったあたりがトップランナーですが、結晶スポンジ法というインパクトの大きな応用を示した藤田誠に一票を投じたいところです。

 ・日本人の受賞は?
 PCP/MOFも近年大注目のジャンルで、北川進らが候補に挙げられますが、もう少し応用が出てきてからかもしれません。また、物理学賞の有力候補によく挙がる細野秀雄・十倉好紀なども、化学賞に入ってくる可能性もありそうです。ナノカーボン分野の飯島澄男、中村栄一といったところも、いつでも可能性ありでしょう。

 このあたりの先生方に獲っていただくと、筆者にもいろいろ仕事が回ってきそうなのですが(笑)、果たしてどうなりますか。当日を楽しみに待ちたいと思います。

幻の化合物トリシアノメタン

 現代の有機化学は、驚くほど複雑な化合物jの合成を可能にしており、もはや作れない化合物は残っていないかのように見えます。しかし、案外単純な構造でありながら、いまだ未踏の化合物もやはり存在しています。

 そうした化合物のひとつであった、トリシアノメタン(別名シアノホルム)の存在が確認されたという報告がありました(論文)。分子式はHC(CN)3と、わずか8原子から成る簡単な構造で、なんでこれが今までできなかったのと思ってしまいます。ちなみに、シアノ基4つのテトラシアノメタン(C(CN)4)は、すでに1969年に合成が報告されています。

TCM
トリシアノメタン

 実のところトリシアノメタンは、最強の有機酸のひとつとして、有機化学の教科書にも載っていた存在でした。シアノ基の強い電子求引性のため、トリシアノメタンの水素はプロトンとして脱離しやすく、その水中でのpKaは-5.1にも達します。硫酸の1段階目のpKaが-3.0ですから、これをはるかに上回る強酸であるわけです。

 そんな興味深い化合物なのに、なぜ合成されていないか?実はその試みは、すでに19世紀から始まっていました。たとえばトリシアノメタンのナトリウム塩と、硫酸など強酸を反応させる方法が試されていますが、これはうまくいきませんでした。一度は単離に成功したかと思われたのですが、解析してみるとできていたのは窒素がプロトン化された「ケチミン」という構造でした。

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ケチミン。ああそう来ましたかという構造。

 また、水分が入る条件でトリシアノメタンを合成しようとすると、H3O+[C(CN)3]-という結晶が得られてしまい、目的のHC(CN)3は得られません(H3O+のpKaは-1.7)。というわけでトリシアノメタンは、これまで120年近くにもわたって化学者たちの挑戦をはね返してきたのです。

 しかし今回、A. J. Kornathらは、ついにトリシアノメタンのしっぽを捕まえることに成功しました。彼らは、トリシアノメタンのカルシウム塩(Ca[C(CN)3]2)に、低温で液体の無水フッ化水素を作用させ、反応後に-78℃で余分なフッ化水素を真空下で除去するという作戦を採りました。

 これによって、無水条件のままトリシアノメタンを得ることに成功しましたが、これが-40℃以上では分解すること、また水分にも弱いため、副生成物であるCa(HF22との分離は不可能でした。結局、混合物のままラマンスペクトルを測定し、目的のトリシアノメタンができていることを確認しています。

 こうした研究は評価が分かれるところだろうと思われますが、不可能化合物を追い詰める化学者たちの執念に、筆者は素直に脱帽します。同時に、ごく簡単に見えて難しい化合物はたくさんあり、研究テーマの種は尽きないと改めて思います。

(参考)The Search for Tricyanomethane (Cyanoform) Chem. Eur. J. 16, 7224(2010)

赤はなぜ色褪せるのか

 街を歩いていると、色あせた古い標識を見かけることがあります。
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 この標識は本来鮮やかな赤色の矢印なのですが、ご覧の通りかなり褪色して薄いピンクのような色合いになっています。これに対し、国道のおにぎりマークや縁取りの青はまだ鮮やかさを保っています。このタイプの標識は、1995年から設置されるようになったものですので、20年ほどで赤だけがずいぶん色褪せてしまっているということになります。

 このように、赤色が他の色より褪色しやすいというのは、ちょくちょくみかける現象です。ひどくなると下の写真のように、肝心なところがきれいに抜けて読めなくなったりします。大事なことは赤で書きたくなりますが、時の流れを考えるとあまり得策でないことがわかります。
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akanuke1

 さて、なぜ赤色はさめてしまいやすいのでしょうか?これは偶然ではなく、それなりの理由があります。まず赤い塗料がなぜ赤く見えるかというと、塗料が赤い光を跳ね返し、青や紫などの光を吸収するからです。青い塗料はこの逆で、青い光を反射して赤などの光を吸収します。

 しかし、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。特に紫外線は、原子と原子の結合を切断し、分子を破壊してしまう力を持ちます。長く屋外に置かれたプラスチックがぼろぼろと劣化するのも、この作用が大きな要因です。下の写真など見ると、紫外線というのは破壊光線であると実感します。

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水銀灯の紫外線によって破れたプラスチック網

 つまり赤色塗料は、高エネルギーの光を吸収するものですから、宿命的に劣化を受けやすいといえます。たとえば下図のような塗料分子は、中央付近に含まれているアゾ基(-N=N-)が発色のために不可欠です。しかしこの部分は、紫外線を受けて空気中の酸素などと反応し、切断されてしまいます。こうなると、光を吸収することができなくなり、色が消えてしまうことになります。

pigmentred12
ピグメントレッド12

 といっても、世の中の赤色塗料が全て経年劣化するわけではありません。たとえば下のようなキナクリドン骨格を持った化合物は、褪色が少ないために自動車の塗装などによく用いられます。分子の平面性が高い上、水素結合によって互いに引きつけ合うので、分子どうしが密に詰まり、酸素などの影響を受けにくいためです。さらに、重ね塗りやコーティングなどを施すことで耐光性はより高まり、色褪せをかなり防ぐことができるようになります。

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 世の中で目に入る一つ一つの現象の陰に、化学は潜んでいます。化学を知り、原子のレベルで考えてみると、ああなるほどと思う事柄は数多いものです。

書籍紹介

 世間では夏休み真っ盛りかと思います。そこで今回は筆者も読書感想文などを。

 ☆ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか

 科学書としては珍しく、世界で100万部を突破したというこの本、日本でもやはり話題になっているようです。著者のウェブサイトに寄せられた難問奇問に、あらゆる科学知識を駆使して全力で答えていくというスタイルです。いわばエクストリームこども電話相談室とでもいうべきでしょうか。

 寄せられた質問は、たとえば以下のようなもの。
・光速の90%の剛速球をバッターに投げたらどうなるか?
・人類総がかりでレーザーポインターで照らしたら月の色は変わる?
・お茶を必死にかき回したら沸騰させられるか?
・肉をどのくらい高い空から落とせば、その熱でステーキが焼けるか?

 こんなもん面白いに決まってるという感じですが、回答も実にバカバカしくも面白い。著者の該博な知識と計算能力には、ほとほと感心します。中には「ヘアドライヤーを1台、1辺が1メートルの密閉された立方体内に置いたとすると、どんなことになるでしょうか?」など、別に大したことにならないんじゃない?という質問もあるのですが、著者は頼みもしないのにドライヤーの出力を上げてゆき、途方もない事態を勝手に招き寄せます。そのサービス精神に感服です。

 化学寄りの質問としては「元素周期表を、現物の元素のキューブを積んで作ったら何が起こる?」という質問があります。いろいろえらいことになりそうだなと思えますが、実際に大惨事になります。まあどうなるかは、本を読んでのお楽しみです。

 有機化学版の「ホワット・イフ?」があっても面白いかなと思いましたが、あまり質問が思い浮かびません。何かあるでしょうか。


☆狂気の科学―真面目な科学者たちの奇態な実験

 東京化学同人のいつもの装丁だなー、と思って通りすぎようとして、タイトルを二度見してしまいました。目次の一部を見るだけで、ヒエッという気分になれます。
バランスのとれた生活/石と石の思考実験/水から木/オジギソウの時計/哲学者の靴下/感電と去勢/科学のためのサウナ/吐き気のしそうな博士号/お腹に穴のある男……

 「奇態な実験」とタイトルにありますが、おかしな実験を行った科学者の話と、実験から明らかになる奇怪な人の心理の話の両方が登場します。たとえば人を防音室で、すりガラスの眼鏡をかけて、手袋をするなどして五感を遮断し、ただ横たわるだけにさせるとどうなるか、自分をキリストだと思い込んでいる精神病者を3人集めて直接話し合わせるとどうなるか、自分の子どもとチンパンジーの仔を同じ条件で育てた男などなど、ほんとにこんなことをやったのかと思うような話がたくさん登場します。

 有名なミルグラム実験やサブリミナル実験の真相、ダーウィンは40年がかりでミミズの生態を研究し、「ミミズには聴覚がない」という結果に落ち着いた話など、よく集めたなあと感心するばかりです。科学とは何なのか、人間の好奇心はどこまで行くのか。一読の価値ありです。まあ、装丁はもうちょっと工夫してもよかったんじゃ、という気はしますが。

 筆者の本「世界史を変えた医薬品」(仮)も、10月刊行を目指して準備中です。ご期待いただければ幸いです。と、今回はこのへんで。

 

アルギン酸で「つまめる水」を作る

”夏休みの自由研究に!手でつまめる水「Ooho」を作ろう!”という記事を見かけました。下の動画にある通り、ただの水がまるでゼリーかスライムのように、手で持ってつまみ上げられる状態になるというものです。



 作り方は上記リンク先に詳しく載っています通り、アルギン酸ナトリウムの水溶液と、塩化カルシウムまたは乳酸カルシウムの水溶液を別個作っておき、前者の溶液を後者の中に落とすだけで、簡単に作れるそうです。確かにこれは楽しそうですね。どちらも食品添加物などとして使われるほど安全なものですし、アマゾンなどでも手頃な価格で入手可能(アルギン酸ナトリウム塩化カルシウム乳酸カルシウム)ですので、確かに夏休みの自由研究によさそうです。

 創案者は、単におもちゃとしてではなく、ペットボトルなどを必要としない、新しい水の運搬手段としてこれを提案しているようです。表面を覆う膜ごと食べてしまえばOKですから、確かに優れたアイディアといえそうです。

 さて、この紹介だけで終わってしまっても何ですので、なぜこれが固まるのか解説してみましょう。アルギン酸は、海藻などから得られる成分です。アルギン酸(Alginic acid)の名は、海藻を意味する「Algae」から来ています。アミノ酸のアルギニン(Arginine)は、たまたま日本語で発音した時に似ているだけで、直接の関係はありません。

 アルギン酸の正体は多糖類、つまり糖がたくさんつながった化合物の一種です。コンブやワカメなどは表面がヌルヌルしていますが、そのぬるぬる成分こそ、このアルギン酸塩です。実は、人間の軟骨などに見られるコンドロイチンやヒアルロン酸なども、アルギン酸とよく似た構造です。こうした生体由来のぬるぬる成分は、多糖類であることが多いのです。

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アルギン酸。糖が長く連結している。

 ただ、これらが通常の多糖類(セルロースやキチンなど)と違うところは、分子内にカルボン酸のユニットを持っている点です。普通のグルコースなどの糖にある-CH2OHの部分が酸化され、-COOHに変わっているのです。

sugar
左が通常の糖、右がアルギン酸の成分の糖

 販売されている粉末状のアルギン酸はナトリウム塩となっており、1つのカルボキシ基に1つのナトリウムイオン(Na+)が結合しています。しかしカルシウムを加えると、これは2価のイオンであるため、2つのカルボキシ基を橋渡しして長いアルギン酸の鎖同士を結びつけます。こうしてできた網目に、水分子を大量に抱え込むため、柔軟かつ丈夫で透明な膜ができあがるのです。

AlginicCa
カルシウム(金色)によって橋渡しされ、丈夫なネットワークとなる

 こうしたアルギン酸に代表される多糖類は、食品の増粘剤などとして利用される他、人工イクラの製造などにも使われます。生命は適材適所で優れた機能を持った化合物をうまく利用していますが、人間もまたこれらを取り出し、うまく活用している実例といえそうです。まあ理屈はともかく、涼しげな夏の遊びとして、子どもといっしょにいろいろ工夫してみてはいかがでしょうか。

最大の芳香環

 有機化学において、「芳香族性」という概念は非常に重要です。π電子が(4n+2)個集まって環を成すと、全体が安定化するというもので、6員環のベンゼンはその典型です。

benzene
ベンゼン

 さて、その(4n+2)のnを大きくしていくとどうなるか?たとえばn=3の14員環を炭化水素で作ると、あまり安定な芳香環にはなりません。光や空気の影響を受け、室温ではすぐ分解してしまいます。環の内側の水素が反発して、分子全体が平面性を失うため、理想的な共鳴状態から外れるためです。n=4の18員環になると、十分なサイズがあるため平面性を保つことができ、芳香族性を示すようになります。

annulene
[14]アヌレン(左)と[18]アヌレン(右)

 とはいえ、環のサイズが大きくなってくると、全体として歪みやすくなり、安定性は低下してきます。そこで小さな環を組み込んでやれば分子は丈夫になり、安定性を増します。ポルフィリンはその典型で、18π系の安定な芳香族化合物となります。

porphyrin
ポルフィリン

 この調子でサイズを大きくしていくことも、もちろんできます。たとえば、ピロール環6つを含む「ルビリン」(下図)は、全体として26π電子系となっています(論文)。ルビリンの名は、この化合物がルビーのような赤色であることから来ています。

rubyrin
ルビリン

 さらに大きな環を見たいという方には、こちらはいかがでしょうか。2001年に合成されたオクタフィリンは、34π電子系を持っています(論文)。このへんになると、チオフェン環があっちこっちを向いてしまうのですね。

octaphyrin
オクタフィリン。黄色は硫黄またはセレン。

 となると、どこまで大きな芳香環が作れるのか、気にかかってくるのが人情というものではないでしょうか。え、筆者だけですか。実はこのほど、50π電子系を持ったモンスター芳香環が登場しました。これを報告したのは、ポルフィリン化学の第一人者である京都大学の大須賀篤弘教授と、韓国・延世大学のDongho Kim教授らのグループです(論文)。

 こちらの化合物、ピロール環12個を含む骨格を持ちます。52π電子系の化合物をDDQで酸化することで、芳香族性を示す50π化合物が得られます。これは8の字状にねじれていますが、酸性にするとテトラプロトン化されて、より平面に近い骨格となります(下図)。

50pi
ドデカフィリンの構造。緑の球はペンタフルオロフェニル基を表す。

 というわけで、分子のギネスブックに掲載されるべき化合物がまた増えたようです。しかし論文の末尾では「Further attempts to realize much larger aromatic expanded porphyrins are in progress in our laboratory.」(意訳:まだまだ行くでぇ!)とありますので、さらに大きなものが出てきそうです。芳香環の限界はどのあたりなのか、ポルフィリンの世界はどこまで広がるのか、実に楽しみではあります。
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あの薬がなければ、この薬があの時代にあれば、世界の地図と歴史は変わっていた?


がん治療、石油・金、若返り、宇宙旅行……現代の化学で、どこまで実現している?


筆者初の国道本。ふだん見慣れた道路の楽しみ方を伝授する、国道マニア入門書。


炭素の化合物はいかに人類の歴史を振り回してきたのか。有機化学から眺める世界史。


「危ないもの」はどこまで危ないのか?化学物質、代替医療、放射能をめぐるリスクについて解説。


薬はどのように創り出されるか、
わかりやすく解説。


共著、1章を担当。
「有機化学美術館の13年」収録。


医薬品業界の2010年問題について。
科学ジャーナリスト賞受賞。


ニュースを賑わす化学物質の、
いったい何がよく何が悪いのか?


美しい画像で綴る、
有機化合物たちのエピソード。
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