有機化学美術館・分館

HP有機化学美術館のブログ版。タイムリーな話題,短いテーマをこちらで取り上げます。

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幻の化合物トリシアノメタン

 現代の有機化学は、驚くほど複雑な化合物jの合成を可能にしており、もはや作れない化合物は残っていないかのように見えます。しかし、案外単純な構造でありながら、いまだ未踏の化合物もやはり存在しています。

 そうした化合物のひとつであった、トリシアノメタン(別名シアノホルム)の存在が確認されたという報告がありました(論文)。分子式はHC(CN)3と、わずか8原子から成る簡単な構造で、なんでこれが今までできなかったのと思ってしまいます。ちなみに、シアノ基4つのテトラシアノメタン(C(CN)4)は、すでに1969年に合成が報告されています。

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トリシアノメタン

 実のところトリシアノメタンは、最強の有機酸のひとつとして、有機化学の教科書にも載っていた存在でした。シアノ基の強い電子求引性のため、トリシアノメタンの水素はプロトンとして脱離しやすく、その水中でのpKaは-5.1にも達します。硫酸の1段階目のpKaが-3.0ですから、これをはるかに上回る強酸であるわけです。

 そんな興味深い化合物なのに、なぜ合成されていないか?実はその試みは、すでに19世紀から始まっていました。たとえばトリシアノメタンのナトリウム塩と、硫酸など強酸を反応させる方法が試されていますが、これはうまくいきませんでした。一度は単離に成功したかと思われたのですが、解析してみるとできていたのは窒素がプロトン化された「ケチミン」という構造でした。

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ケチミン。ああそう来ましたかという構造。

 また、水分が入る条件でトリシアノメタンを合成しようとすると、H3O+[C(CN)3]-という結晶が得られてしまい、目的のHC(CN)3は得られません(H3O+のpKaは-1.7)。というわけでトリシアノメタンは、これまで120年近くにもわたって化学者たちの挑戦をはね返してきたのです。

 しかし今回、A. J. Kornathらは、ついにトリシアノメタンのしっぽを捕まえることに成功しました。彼らは、トリシアノメタンのカルシウム塩(Ca[C(CN)3]2)に、低温で液体の無水フッ化水素を作用させ、反応後に-78℃で余分なフッ化水素を真空下で除去するという作戦を採りました。

 これによって、無水条件のままトリシアノメタンを得ることに成功しましたが、これが-40℃以上では分解すること、また水分にも弱いため、副生成物であるCa(HF22との分離は不可能でした。結局、混合物のままラマンスペクトルを測定し、目的のトリシアノメタンができていることを確認しています。

 こうした研究は評価が分かれるところだろうと思われますが、不可能化合物を追い詰める化学者たちの執念に、筆者は素直に脱帽します。同時に、ごく簡単に見えて難しい化合物はたくさんあり、研究テーマの種は尽きないと改めて思います。

(参考)The Search for Tricyanomethane (Cyanoform) Chem. Eur. J. 16, 7224(2010)

赤はなぜ色褪せるのか

 街を歩いていると、色あせた古い標識を見かけることがあります。
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 この標識は本来鮮やかな赤色の矢印なのですが、ご覧の通りかなり褪色して薄いピンクのような色合いになっています。これに対し、国道のおにぎりマークや縁取りの青はまだ鮮やかさを保っています。このタイプの標識は、1995年から設置されるようになったものですので、20年ほどで赤だけがずいぶん色褪せてしまっているということになります。

 このように、赤色が他の色より褪色しやすいというのは、ちょくちょくみかける現象です。ひどくなると下の写真のように、肝心なところがきれいに抜けて読めなくなったりします。大事なことは赤で書きたくなりますが、時の流れを考えるとあまり得策でないことがわかります。
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 さて、なぜ赤色はさめてしまいやすいのでしょうか?これは偶然ではなく、それなりの理由があります。まず赤い塗料がなぜ赤く見えるかというと、塗料が赤い光を跳ね返し、青や紫などの光を吸収するからです。青い塗料はこの逆で、青い光を反射して赤などの光を吸収します。

 しかし、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。特に紫外線は、原子と原子の結合を切断し、分子を破壊してしまう力を持ちます。長く屋外に置かれたプラスチックがぼろぼろと劣化するのも、この作用が大きな要因です。下の写真など見ると、紫外線というのは破壊光線であると実感します。

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水銀灯の紫外線によって破れたプラスチック網

 つまり赤色塗料は、高エネルギーの光を吸収するものですから、宿命的に劣化を受けやすいといえます。たとえば下図のような塗料分子は、中央付近に含まれているアゾ基(-N=N-)が発色のために不可欠です。しかしこの部分は、紫外線を受けて空気中の酸素などと反応し、切断されてしまいます。こうなると、光を吸収することができなくなり、色が消えてしまうことになります。

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ピグメントレッド12

 といっても、世の中の赤色塗料が全て経年劣化するわけではありません。たとえば下のようなキナクリドン骨格を持った化合物は、褪色が少ないために自動車の塗装などによく用いられます。分子の平面性が高い上、水素結合によって互いに引きつけ合うので、分子どうしが密に詰まり、酸素などの影響を受けにくいためです。さらに、重ね塗りやコーティングなどを施すことで耐光性はより高まり、色褪せをかなり防ぐことができるようになります。

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 世の中で目に入る一つ一つの現象の陰に、化学は潜んでいます。化学を知り、原子のレベルで考えてみると、ああなるほどと思う事柄は数多いものです。

書籍紹介

 世間では夏休み真っ盛りかと思います。そこで今回は筆者も読書感想文などを。

 ☆ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか

 科学書としては珍しく、世界で100万部を突破したというこの本、日本でもやはり話題になっているようです。著者のウェブサイトに寄せられた難問奇問に、あらゆる科学知識を駆使して全力で答えていくというスタイルです。いわばエクストリームこども電話相談室とでもいうべきでしょうか。

 寄せられた質問は、たとえば以下のようなもの。
・光速の90%の剛速球をバッターに投げたらどうなるか?
・人類総がかりでレーザーポインターで照らしたら月の色は変わる?
・お茶を必死にかき回したら沸騰させられるか?
・肉をどのくらい高い空から落とせば、その熱でステーキが焼けるか?

 こんなもん面白いに決まってるという感じですが、回答も実にバカバカしくも面白い。著者の該博な知識と計算能力には、ほとほと感心します。中には「ヘアドライヤーを1台、1辺が1メートルの密閉された立方体内に置いたとすると、どんなことになるでしょうか?」など、別に大したことにならないんじゃない?という質問もあるのですが、著者は頼みもしないのにドライヤーの出力を上げてゆき、途方もない事態を勝手に招き寄せます。そのサービス精神に感服です。

 化学寄りの質問としては「元素周期表を、現物の元素のキューブを積んで作ったら何が起こる?」という質問があります。いろいろえらいことになりそうだなと思えますが、実際に大惨事になります。まあどうなるかは、本を読んでのお楽しみです。

 有機化学版の「ホワット・イフ?」があっても面白いかなと思いましたが、あまり質問が思い浮かびません。何かあるでしょうか。


☆狂気の科学―真面目な科学者たちの奇態な実験

 東京化学同人のいつもの装丁だなー、と思って通りすぎようとして、タイトルを二度見してしまいました。目次の一部を見るだけで、ヒエッという気分になれます。
バランスのとれた生活/石と石の思考実験/水から木/オジギソウの時計/哲学者の靴下/感電と去勢/科学のためのサウナ/吐き気のしそうな博士号/お腹に穴のある男……

 「奇態な実験」とタイトルにありますが、おかしな実験を行った科学者の話と、実験から明らかになる奇怪な人の心理の話の両方が登場します。たとえば人を防音室で、すりガラスの眼鏡をかけて、手袋をするなどして五感を遮断し、ただ横たわるだけにさせるとどうなるか、自分をキリストだと思い込んでいる精神病者を3人集めて直接話し合わせるとどうなるか、自分の子どもとチンパンジーの仔を同じ条件で育てた男などなど、ほんとにこんなことをやったのかと思うような話がたくさん登場します。

 有名なミルグラム実験やサブリミナル実験の真相、ダーウィンは40年がかりでミミズの生態を研究し、「ミミズには聴覚がない」という結果に落ち着いた話など、よく集めたなあと感心するばかりです。科学とは何なのか、人間の好奇心はどこまで行くのか。一読の価値ありです。まあ、装丁はもうちょっと工夫してもよかったんじゃ、という気はしますが。

 筆者の本「世界史を変えた医薬品」(仮)も、10月刊行を目指して準備中です。ご期待いただければ幸いです。と、今回はこのへんで。

 

アルギン酸で「つまめる水」を作る

”夏休みの自由研究に!手でつまめる水「Ooho」を作ろう!”という記事を見かけました。下の動画にある通り、ただの水がまるでゼリーかスライムのように、手で持ってつまみ上げられる状態になるというものです。



 作り方は上記リンク先に詳しく載っています通り、アルギン酸ナトリウムの水溶液と、塩化カルシウムまたは乳酸カルシウムの水溶液を別個作っておき、前者の溶液を後者の中に落とすだけで、簡単に作れるそうです。確かにこれは楽しそうですね。どちらも食品添加物などとして使われるほど安全なものですし、アマゾンなどでも手頃な価格で入手可能(アルギン酸ナトリウム塩化カルシウム乳酸カルシウム)ですので、確かに夏休みの自由研究によさそうです。

 創案者は、単におもちゃとしてではなく、ペットボトルなどを必要としない、新しい水の運搬手段としてこれを提案しているようです。表面を覆う膜ごと食べてしまえばOKですから、確かに優れたアイディアといえそうです。

 さて、この紹介だけで終わってしまっても何ですので、なぜこれが固まるのか解説してみましょう。アルギン酸は、海藻などから得られる成分です。アルギン酸(Alginic acid)の名は、海藻を意味する「Algae」から来ています。アミノ酸のアルギニン(Arginine)は、たまたま日本語で発音した時に似ているだけで、直接の関係はありません。

 アルギン酸の正体は多糖類、つまり糖がたくさんつながった化合物の一種です。コンブやワカメなどは表面がヌルヌルしていますが、そのぬるぬる成分こそ、このアルギン酸塩です。実は、人間の軟骨などに見られるコンドロイチンやヒアルロン酸なども、アルギン酸とよく似た構造です。こうした生体由来のぬるぬる成分は、多糖類であることが多いのです。

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アルギン酸。糖が長く連結している。

 ただ、これらが通常の多糖類(セルロースやキチンなど)と違うところは、分子内にカルボン酸のユニットを持っている点です。普通のグルコースなどの糖にある-CH2OHの部分が酸化され、-COOHに変わっているのです。

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左が通常の糖、右がアルギン酸の成分の糖

 販売されている粉末状のアルギン酸はナトリウム塩となっており、1つのカルボキシ基に1つのナトリウムイオン(Na+)が結合しています。しかしカルシウムを加えると、これは2価のイオンであるため、2つのカルボキシ基を橋渡しして長いアルギン酸の鎖同士を結びつけます。こうしてできた網目に、水分子を大量に抱え込むため、柔軟かつ丈夫で透明な膜ができあがるのです。

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カルシウム(金色)によって橋渡しされ、丈夫なネットワークとなる

 こうしたアルギン酸に代表される多糖類は、食品の増粘剤などとして利用される他、人工イクラの製造などにも使われます。生命は適材適所で優れた機能を持った化合物をうまく利用していますが、人間もまたこれらを取り出し、うまく活用している実例といえそうです。まあ理屈はともかく、涼しげな夏の遊びとして、子どもといっしょにいろいろ工夫してみてはいかがでしょうか。

最大の芳香環

 有機化学において、「芳香族性」という概念は非常に重要です。π電子が(4n+2)個集まって環を成すと、全体が安定化するというもので、6員環のベンゼンはその典型です。

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ベンゼン

 さて、その(4n+2)のnを大きくしていくとどうなるか?たとえばn=3の14員環を炭化水素で作ると、あまり安定な芳香環にはなりません。光や空気の影響を受け、室温ではすぐ分解してしまいます。環の内側の水素が反発して、分子全体が平面性を失うため、理想的な共鳴状態から外れるためです。n=4の18員環になると、十分なサイズがあるため平面性を保つことができ、芳香族性を示すようになります。

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[14]アヌレン(左)と[18]アヌレン(右)

 とはいえ、環のサイズが大きくなってくると、全体として歪みやすくなり、安定性は低下してきます。そこで小さな環を組み込んでやれば分子は丈夫になり、安定性を増します。ポルフィリンはその典型で、18π系の安定な芳香族化合物となります。

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ポルフィリン

 この調子でサイズを大きくしていくことも、もちろんできます。たとえば、ピロール環6つを含む「ルビリン」(下図)は、全体として26π電子系となっています(論文)。ルビリンの名は、この化合物がルビーのような赤色であることから来ています。

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ルビリン

 さらに大きな環を見たいという方には、こちらはいかがでしょうか。2001年に合成されたオクタフィリンは、34π電子系を持っています(論文)。このへんになると、チオフェン環があっちこっちを向いてしまうのですね。

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オクタフィリン。黄色は硫黄またはセレン。

 となると、どこまで大きな芳香環が作れるのか、気にかかってくるのが人情というものではないでしょうか。え、筆者だけですか。実はこのほど、50π電子系を持ったモンスター芳香環が登場しました。これを報告したのは、ポルフィリン化学の第一人者である京都大学の大須賀篤弘教授と、韓国・延世大学のDongho Kim教授らのグループです(論文)。

 こちらの化合物、ピロール環12個を含む骨格を持ちます。52π電子系の化合物をDDQで酸化することで、芳香族性を示す50π化合物が得られます。これは8の字状にねじれていますが、酸性にするとテトラプロトン化されて、より平面に近い骨格となります(下図)。

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ドデカフィリンの構造。緑の球はペンタフルオロフェニル基を表す。

 というわけで、分子のギネスブックに掲載されるべき化合物がまた増えたようです。しかし論文の末尾では「Further attempts to realize much larger aromatic expanded porphyrins are in progress in our laboratory.」(意訳:まだまだ行くでぇ!)とありますので、さらに大きなものが出てきそうです。芳香環の限界はどのあたりなのか、ポルフィリンの世界はどこまで広がるのか、実に楽しみではあります。

粉塵爆発のこと

 27日、台湾でイベント中に起きた爆発事故は、多くの怪我人を出す大規模なものであったようです。イベントは、コーンスターチに各種の色を着けた粉を客席に向けて噴射する「カラーパーティー」と呼ばれるもので、この粉が爆発を起こしたものと見られています(動画)。

 こうした、着色した粉を用いるイベントは、「Color run」などの名でブームとなっており、世界各国で行われているようです。日本でも毎月のように開催され、多くの参加者が詰めかけています。


チリで行われたカラー・ラン

 しかし、なぜこの台湾のイベントでのみ爆発が起きたのか、どこの台所にもあるコーンスターチがなぜ爆発炎上したか、おそらくいろいろな条件が重なってのことだったと思われます。

 粉塵爆発は、文字通り粉末状の物品が爆発することです。爆発しうる粉末の種類はいろいろで、小麦粉や砂糖、木やアルミニウム、コピー機のトナーなどさまざまな粉末が爆発した例が知られています。最も恐ろしいのは炭鉱などで発生する「炭塵」で、1963年には三池炭鉱で炭塵の爆発事故が起き、458名もの死者を出す大惨事となりました。また、穀類を貯蔵する「サイロ」が爆発した事故も、数多く起きています。

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2008年、米ジョージア州での砂糖精製工場の爆発事故

 こうした身近な品がなぜ爆発するか?何であれ、物体は粉にすると表面積が大きくなります。1cm四方の立方体の表面積は6cm2に過ぎませんが、これを0.1mmの立方体に切り刻んでやると、0.01^2×6×10^6で、合計の表面積は600cm2、つまりもとの100倍にもなります。一粒の麦も、粉に挽いてやると表面積は何百倍にもなってしまうわけです。

 固体の化学反応は、表面で起こります。燃焼、つまり空気中の酸素との化学反応は、物体の表面積が広ければ、それだけ速く進行します。小麦の粒は火を近づけてもそう燃えませんが、小麦粉は一気に燃えてしまうわけです。また、粉にすることで水分が抜け、乾燥して燃えやすくなるという要因もあるでしょう。というわけで、普通なら「可燃物」と思わないようなものでも、細かい粉末にすると予想をはるかに超える燃え方をすることがあるのです。

 爆発が起こるためには、一粒の粉が燃えるだけでなく、次々に近くの粉に燃え広がる必要があります。つまり、空気中に高い濃度で粉が舞っていなければ、爆発は起きません。屋外でのイベントでは、粉がすぐ散ってしまいますが、台湾のケースでは締めきった屋内で大量の粉を噴射していたため、危険な濃度になってしまったものと思われます。恐らくは、ここに電気機器からの火花などが引火して、一挙に火が回ったのでしょう。

 (追記)台湾のイベントは屋内でなく、屋外のプールであったようです。訂正いたします。


粉末の発火実験(大音量注意)

 前述の通り、屋外でのイベントでは粉末が危険な濃度になる可能性は低いでしょうが、危険について検証を行う必要はありそうです。もちろんこうしたイベント以外でも、大量の可燃性粉末を扱う場合には、粉塵爆発という可能性を頭に入れておくべきと思われます。

「多角形百科」刊行

 気がつけばもうすぐ300万アクセスですね。ブログ移行が2006年5月、100万アクセスが2011年5月、200万アクセスが2013年6月でしたから、最近は安定したペースということになるのでしょうか。まだまだ頑張ってまいりますのでよろしくお願い申し上げます。

 さて筆者の手元には、丸善から刊行された「多角形百科」の見本が届いております。細矢治夫・宮崎興二両先生の編集で、準結晶研究で著名な蔡 安邦教授をはじめ豪華な執筆陣のこの本に、筆者も共著者のひとりとして紛れ込んでおります。

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こちらが表紙。

 この本、「百科」の名に恥じず、家紋や切手、建築などに現れる多角形や、草木や結晶など自然界に見られるパターンなどを極めて幅広く取り扱っています。先日取り上げた多角形の敷き詰め、折り紙やパズルの話題なども詳しく解説してあり、その筋の方には堪えられない構成となっております。

 筆者は有機化学のセクションを担当させていただきました。ポルフィリンなど、広い意味で正多角形に近い化合物はたくさんあるのですが、ここでは炭素原子のみが正多角形を成している化合物に絞って書きました。興味深い構造のものがたくさんあり、図だけ眺めても面白いのではと思います。
pyramidane
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ピラミダン(上)とウラノセン(下)

 少々お高い本ですが、図書館か大きな書店ででも探してご覧いただければ幸いです。ではでは。

究極の分子敷き詰め

 近年、半導体や発光特性など、さまざまな機能を持った有機分子が多数報告されるようになりました。より優れた性質を引き出すための分子設計も研究が進んでおり、さまざまな骨格の機能性分子が登場しています。

 しかし、化合物の性能を決めるのは、何も分子の構造だけではありません。たとえば有機半導体などは、平面の基盤の上に薄膜を作って用いられることがほとんどです。この薄膜の出来が悪いと、化合物は持っているポテンシャルを発揮できません。ランダムにあちこちを向いて並んでいるのではなく、分子どうしが引きつけ合ってきちんと平面に並んでいれば、多くの面で有利になります。

 タイル張りの床のように、どこまでも一定のパターンで分子が並んでいくのが理想ですが、なかなかこうは行きません。薄膜は、ひとつの分子の周りに次の分子が並び、次々に成長してでき上がります。しかし、薄膜は1ヶ所のみから広がるのではなく、いくつかのポイントから同時進行で広がっていきます。このため、薄膜はいくつかの領域(ドメイン)に分かれてしまうのです。

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ドメインのできる様子の概念図

 ドメインがあると、薄膜の強度は低くなり、境界からひび割れたり剥がれたりしやすくなります。また、有機半導体などでは、分子から分子へ電子が飛び移っていくことで電流が流れますが、ドメインがあると、その境目では電子がうまく移動できなくなり、伝導度が下がることになります。しかし、完全に欠陥のない薄膜を作る方法は、今まで知られていませんでした。

 しかしごく最近、東工大の福島教授のグループから、この「完全敷き詰め」を実現した報告がなされました(Science 2015, 348, 1122)。マジックの種になったのは「トリプチセン」と呼ばれる分子で、図のように3枚羽根のプロペラに似た形をしています。硬く変形しにくい構造であるため、今までにも機能性分子の構築に用いられてきました(参考)。
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トリプチセン

 福島らは、トリプチセンの3枚のベンゼン環から、同じ方向に長いアルキル鎖が伸びた分子をデザインしました。トリプチセンの3枚羽根は、お互いに羽根の間にはまり込み、密に詰まったネットワークとなるのです。
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3本のアルキル鎖を持つトリプチセン


 この膜を放射光X線解析と呼ばれる手法で調べたところ、ドメイン境界を持たず、隅から隅までが全て規則的に並んでいることがわかりました。いろいろな方法で膜を作っても、全て完璧な単一ドメインとなっているのだそうです。

 どうしてこうなるのか?他の分子と同じように、いくつかの分子から同時進行で膜が広がってゆくのですが、ドメイン同士が出会うと互いに融合し、向きが自然に揃うことがわかりました。こうした構造は過去に例がなく、トリプチセン骨格の整列力の強さがわかります。単一ドメインでセンチメートル単位の薄膜が作れるといいますから、いわば畳をたくさんばらまいたら、ユーラシア大陸の果てまで畳が自発的に整列したことに相当します。

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トリプチセン敷き詰めを上から見たところ

 アルキル鎖は簡単に取り替えが可能ですから、この先端に機能性の分子を取り付ければ、欠陥のない大面積の配列を作れることになります。また、アルキル鎖は3本でなく2本でも配列が可能ということですから、並べうる分子の自由度はさらに高くなりそうです。

 アルキル鎖がびっしり生えた表面は、いわば高密度のブラシに似ており、極めて平滑な炭化水素表面とみなすこともできます。アルキル鎖の代わりに、フッ素で覆われた鎖や、親水性の鎖を導入するとどうなるかとか、いろいろアイディアを膨らませてみたくなります。

 ごちゃごちゃ工夫を重ねた複雑な構造でなく、とにかくシンプルな分子、シンプルなアイディアで画期的な成果を実現したことが、大変に魅力的です。広く応用が利く、ロバストな方法となりそうで、今後の展開を注目すべき成果かと思います。

アントラキノンと「完璧な赤」

 さて前回は、アントラキノン骨格を持った染料アリザリン(アカネ)について書きました。日本を含め、世界各国で赤色のもととして重用された化合物です。
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アカネ色素アリザリン

 しかしそれを上回るほどもてはやされたのが、16世紀にアメリカ大陸からもたらされた「コチニール」という染料です。これをヨーロッパに持ち帰ったのは、アステカ帝国を征服したスペイン人エルナン・コルテスでした。
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コルテスの肖像(wikipediaより)

 コチニールは布への定着性が高く、鮮やかで深い赤色に染まるのが特徴です。ボイルの法則で知られ、化学という分野を切り拓いた一人であるロバート・ボイルは、「コチニールからは”完璧な緋色”が得られる」と絶賛しています。この色は「カーマイン」と呼ばれ、そのもととなる化合物は「カルミン酸」(carminic acid)と名付けられています。

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カルミン酸。背景色はカーマインレッド。

 この素晴らしい染料にヨーロッパ諸国は熱狂し、多くの王や富豪が競ってこれを手に入れようと努めました。フィレンツェの大富豪で、ルネサンスのパトロンとして有名なコジモ・デ・メディチも、コチニールで染めた服を愛用していたとされます。
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コジモ・デ・メディチ(wikipediaより)

 この画期的な染料のもとは何なのか、スペインはこれを秘匿していたため、他の諸国にとって長い間その正体は謎で、植物の種か鉱物かと諸説が乱れ飛ぶ有り様でした。自作の顕微鏡で多くの微生物や精子を発見したレーウェンフックも、コチニールの正体は果実であると断言しています。しかし実はコチニールのもとは、サボテンにつく昆虫の一種カイガラムシでした。

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サボテンにつくカイガラムシの採集の様子(wikipediaより)

 というわけで、メキシコではサボテンが大規模に栽培され、カイガラムシを養殖するプラントが成立していました。500グラムのコチニールを得るには7万匹のカイガラムシを集めねばならず、またデリケートな虫でもあったので、コチニールは非常に高価につきました。

 というわけでコチニールを積んだ船を海賊が襲ったり、各国が新大陸にスパイを送り込んだりと、大西洋を股にかけた争奪戦が数世紀にわたって繰り広げられることになります。今の感覚では、なんでたかが染料ごときをそうまでして奪い合うのかと思えてしまいますが、この時代に赤色をまとうことは、誰の目にもわかる形で権力と高貴さを示すことだったのです。

 長きにわたって西洋文化に君臨した「完璧な緋色」が没落するのは19世紀後半、有機合成による染料が登場してからのことです。石炭やタールを原料として作られるこれら染料は、安価で鮮やかな発色、堅牢な染めあがりで、見る間にコチニールを駆逐していきました。

 消え去ったかに見えたコチニールですが、実は今もある分野で生き残っています。食品添加物として、今もかまぼこなどに使われているのです。また、赤いリキュールとして有名なカンパリなども、長らくコチニールで色付けされていました(現在では合成着色料に置き換わっています)。

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かまぼこのピンク色はコチニール由来。

 虫が原料と聞くとちょっと気持ちが悪いですが、安全性は確認されており、食べても問題はないと考えられます。これから紅白のかまぼこを食べる機会があったら、歴史を動かしたこの赤色に、思いを致してみるのも一興ではないでしょうか。

参考:
完璧な赤―「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語」A. B. グリーンフィールド著 早川書房
色―世界の染料・顔料・画材 民族と色の文化史」A. バリション著 マール社

アントラキノンとアカネ色素

 以前、何かの映画で、主人公が病院に行ったところ赤い点滴をされ、自分はガンだと悟るシーンがありました。アドリアマイシン(ドキソルビシン)などの抗ガン剤は、医薬としては珍しく真っ赤な色がついており、主人公はそのことを知っていたのです。

adriamycin
アドリアマイシン

 ご覧の通り、この化合物は4つの6員環が横につながっていますが、赤色の原因になっているのはこのうち左側3つの環です。この骨格をアントラキノンといい、ベンゼン環3つがつながったアントラセンが酸化されてできます。アントラキノン単独では黄色ですが、ここに酸素原子がいくつか結合すると、赤い色を呈するのです。

anthraquinone
アントラキノン

 この骨格を持った有名な色素としては、アカネ科植物の根から得られるアリザリンがあります。赤い色は昔から貴重であり、洋の東西を問わずアカネは重要な染料のもととなってきした。王や高位の聖職者、軍服などがこのアカネで染められており、18世紀フランスでは国家の富の源泉として、政府が染色産業を保護育成したほどでした。

alizarin
アカネ色素アリザリン。背景色はアカネの色。

 19世紀に入り、有機化学が進展してくると、アリザリンを化学合成しようという試みが始まります。これをやってのけたのが、合成紫色染料「モーブ」の開発者であるウィリアム・ヘンリー・パーキンでした。彼はタールから得られるアントラセンを酸化することで、見事アリザリンを作り出したのです。

anthracene
アントラセン

 が、パーキンはこの特許を得ることができませんでした。たった一日違いで、アリザリンの製法の特許はドイツのBASF社の手に落ちていたのです。同社はこれをきっかけに成長し、現在まで続く巨大化学企業として君臨することになります。

 実はこの影で、もう一人泣いていた人物がいます。昆虫学の大家として有名な、アンリ・ファーブルがその人です。彼は、天然のアカネからアリザリンを精製する方法を研究し、事業化にまでこぎつけていたのです。しかし彼の方法は、安価なコールタールが原料であるBASF法に敗れ、撤退を余儀なくされます。まあこれがきっかけとなってファーブルは昆虫の研究に力を入れ、有名な「昆虫記」の誕生に結びついたわけですから、何が幸いするかわかったものではありません。

 アントラキノン骨格を持った赤色染料は他にもありますので、こちらはまた次回。
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