我々有機合成屋が最もよく使う有機塩基に、トリエチルアミンがあります。合成が簡単で安価であり、沸点も適当で扱いやすいからでしょう。下図のように、窒素にエチル基が3つ結合した構造です。

Et3N
トリエチルアミン分子

 これに似た化合物で、N,N-ジイソプロピルエチルアミン(DIPEAまたはDIEAと略され、Hunig's baseとも呼ばれる)があります。何が違うのかといえば、DIPEAは立体的に混み合っているせいでN-アルキル化を受け付けないのです。このアミンの窒素原子に結合できるのはプロトンだけなので、求核性の低い塩基として各種反応の際に重宝するのです。

iPr2NEt
DIPEA分子

 ところが先日ある特許を眺めていたら、「この化合物は、トリエチルアミン・トリn-プロピルアミン・トリイソプロピルアミンなどの三級アミンと容易に塩を形成し……」という記述にぶつかりました。トリイソプロピルアミンなんてものは聞いたことがないが、DIPEAでも十分混み合っているというのに、そんな化合物が安定に存在しうるのか?カタログをめくってみても、トリイソプロピルアミンという化合物はやはり売っていません。

 ちょっと気になったので調べてみたところ、確かにすでに合成されており、1991年に詳しい構造が確認されたそうです(Angew. Chem. Int. Ed. 30 (1991) 187-190)。ちなみにこの分子は、この号のAngewante Chemie誌の表紙を飾る栄誉に浴しています。

iPr3N
(トリイソプロピルアミン。構造をわかりやすくするため、水素原子は省略)

 合成法はというと、まずジイソプロピルアミン塩酸塩・アセトアルデヒド・シア化カリウムからStrecker反応によって2-(ジイソプロピルアミノ)-プロピオニトリルを作ります。ここにメチルグリニャール試薬(MeMgCl)を作用させるとシアノ基がメチル基に置き換わり、目的のトリイソプロピルアミンが得られるという筋書きです。そんな置換反応が起こるとは知りませんでした。

 さて出来上がったトリイソプロピルアミンを各種機器分析で調べてみると、面白いことがわかりました。ご存知の通り、通常窒素は押しつぶしたピラミッドのような三角錐構造をとります。ところがこのトリイソプロピルアミンでは、窒素がほぼ平面に近い正三角形構造をとっていたのです。

 通常の三角錐構造をとっていたのではイソプロピル基同士がぶつかってしまうので、これを避けるために平面的な正三角形にならざるを得ないということなのでしょう。窒素のローンペアは通常のsp3混成ではなく、純粋なp軌道に近い形になって窒素の上下に広がっているものと推測されます。こんなことが起こるものなんですね(まあこのへんは理論計算で予測されていた通りだったようですが)。なおC-N結合の距離は146pmと、通常のアミンとほとんど変わらないそうです。

 となるとトリイソプロピルアミンは塩基として働くことができるのか、という疑問が出てきます。この論文の最後で、超強酸であるHSbCl6との塩が合成されたとの記述が出てきますが、詳しい構造の解析は残念ながらここではまだなされていません。まあ単純に普通のアミン類と同じように振る舞って、通常の塩を作るような化合物ではなさそうです。

 では最初に出てきた特許は何だったのか――。やってもいない実験の結果を、勢いで書いてしまったというのが実際のところかもしれません。中にはトリ-tert-ブチルアミンなんてことを書いている特許も結構たくさんあるようで、これはさすがにいくらなんでも無理というものでしょう。よく確かめもせず滅多なことを書いてしまわぬよう、気をつけたいものです。


<追記>
といいながら、自分もミスしておりました。上記の1991年の論文は構造確認のみであり、合成例はそれ以前にあったようです(引用論文によれば1962年)。ご指摘がありましたので修正いたします。