不斉反応は今や星の数ほどありますが、中でも不斉水素化反応は元祖にして今でも最も重要なもののひとつです。原理的にシンプルで、工業スケールの合成も比較的容易であるため、アミノ酸の生産などによく用いられています。

 この不斉水素化に有用な触媒として開発されたのが野依良治教授(現・理研理事長)のBINAPで、この功績で2001年のノーベル化学賞を受賞したのは記憶に新しいところです。BINAPは基質を選ばず多くのオレフィン類を高い不斉収率で水素化することに成功し、それまでの常識を塗り替えた優れた触媒です。

 しかしこれに代わる触媒も長らく研究が続けられてきました。そして2001年に高砂香料のチームによって開発された配位子「SEGPHOS」は、各種反応に非常に優秀な成績を収めており、ついにBINAPを超えたかとも言われています。

SEGPHOS
(SEGPHOS配位子)

BINAPはビナフチル骨格を持ちますが、ご覧のようにSEGPHOSはこれをビピペロニル骨格に置き換えた構造です。これはBINAPより狭い二面角を持つ配位子を設計すべく、コンピュータによる理論計算で導き出された構造です。

 最近では右側フェニル基をさらに修飾するなど工夫が加えられ、不斉水素化以外にも様々な反応に応用されるようになっています(参考:PDFファイル)。今やSEGPHOSは、不斉反応を試みる際の最も有力な選択肢のひとつに成長したといっていいでしょう。すでに医薬品中間体などの製造にも適用され、大きな成果を挙げているようです。

 ところで、この「SEGPHOS」という名前はどこから来ているのでしょうか?ちょっと調べてみたところ、高砂工業のサイトに由来が解説されていました。

BINAPはその能力の高さと分子の美しさを蝶に例えられます。SEGPHOSは蝶よりも高く、そして速く、分子から分子へと滑空する「かもめ」に因んでいます。

だそうで、”SEaGull PHOSphine”の略ということのようです。
しかし蝶よりも高く速く飛ぶ動物ならばハチでもワシでもいいのに、なぜわざわざかもめが出てきたんだろう……と思っていたのですが、この化合物の3Dグラフィックを描いていてふと気がつきました。
SEGPHOS上
(SEGPHOSを上から見たところ)

 この図の中央部分が、「かもめ」に見立てられたのではないか?と思ったのですがいかがでしょうか。真相は開発者に聞いてみないとわかりませんが、何となくこれが事実に近いのでは、と筆者は勝手に思っています。

 親が子供につける名前と同じように、化合物の名前には開発者の願いが込められています。日本企業で生まれたSEGPHOS配位子が、さらに化学の世界を高く遠く翔ぶよう、筆者も大いに期待したいところです。