今年もフィギュアスケートの季節がやってきました。といっても筆者はこの方面にはうとく、たまにニュースで見て「浅田真央はずいぶん背が伸びたなあ」と驚く程度なのですが。

 聞くところによれば、フィギュアスケートというのは番狂わせが非常に起きにくい競技なのだそうです。これは、フィギュアが他の競技のように何秒、何mというはっきりした数字で結果が出る競技ではなく、審査員が見て点数を決める競技であるからだといわれます。審査員たちはもちろん訓練を積んだ専門家ですが、やはり先入観というものは避けられないもののようで、有力選手はよほどはっきりしたミスをしない限り高い得点がつきやすいといいます。これを心理学用語で「ハロー効果」「後光効果」などというそうです。薬の臨床試験のようにダブルブラインド法で審査でもできればいいのでしょうが、当然そういうわけにもいかないのでしょう。

 論文の審査にもそういう現象があるか、といえば恐らくないとはいえないでしょう。大先生の論文をリジェクトというのは心苦しい――という心理が働くこともあるのかもしれません。
筆者もメールマガジンに載せる「注目論文」を選ぶ時には、どうしてもJACSやAngewandteに載っているものはよい論文に見えますし、有名教授の書いたものはやはりありがたく見えてしまいます。

 さてこのたび、そのハロー効果の頂点ともいえるNature誌に、超大物Barry Trost教授のブリオスタチン16の全合成の論文が掲載されました。全合成の論文がNatureに載るのはせいぜい半年に一度程度ですから、この研究は極めて高い評価を受けたということになります。

 ブリオスタチンはフサコケムシという海洋生物から単離されたマクロライドで、強い抗ガン活性を持ちます。現在白血病の治療薬として臨床試験が進行中である他、虚血性脳疾患などにも有効である可能性が示され、近年注目が集まっている化合物です。

bryostatin16
(ブリオスタチン16)

ブリオスタチンは3つのヒドロピラン環を持ち、この立体制御が鍵になります。またそのうち2つは3置換のエキソオレフィンを持っており、このE-Z制御にも手を焼きます。この部分の構築が全合成の山場であり、また見せ場にもなりえます。

Trostの論文では、彼らの合成が「アトムエコノミーに優れている」という点が強調されています。アトムエコノミーとは「原子効率」とも訳され、次のように定義されます。

 アトムエコノミー (%) = (目的物の分子量)/(反応物の分子量) × 100

要するに、反応の前後でどれだけの原子が無駄にならずに使われたかを示す指標です。Diels-Alder反応などでは(触媒などを無視すれば)100%となりますし、Wittig反応はPh3P=Oが副生成物としてできてくるので、原子効率としてはかなり損になります。
このアトムエコノミーという考え方は1991年にTrost自身が提唱したものですが、近年グリーンケミストリーの観点からさらにクローズアップされるようになってきています。

Trostの全合成では、ヒドロピラン部分の構築にルテニウム・パラジウム・金・銀と貴金属を次々と投入し、ほとんど原子のロスがないみごとな合成を実現しています。詳しい合成スキームはこちらをご覧下さい(手抜き)。

なるほど、さすがNatureに載るだけのことはあるなあ……と思っていたのですが、上記ブログ(TotallySynthetic.com)では、これがNatureに載る価値のある論文かどうか、激しい議論が行われているようです。反対派の意見を読むと、確かにそれはそうだなあと思わせる部分もあります。アトムエコノミーを謳っているわりには大きな保護基もずいぶん使われているし、収率がかなり悪い場所もあります。原子のロスは減っているかもしれませんが、その分重金属を9種類も使っているので環境への負担はかえって大きいのではないか、という意地悪な見方もできるでしょう。

とはいえ、今まで困難であったテトラヒドロピラン部分の立体・幾何異性を短工程で制御して合成している点は、やはり極めて高く評価されるべきと思います。今までのブリオスタチン類の最短合成ルートはEvansらの合計72段階(最長直線ルート42段階)であったのに対し、Trostは合計39段階・最長直線26段階とほぼ半分の工程で完成しています。これだけの短縮は素晴らしい成果と思うのですが、読者の皆様のご意見はいかがでしょうか。

しかし筆者としては、有名ジャーナルに載った大先生の論文だからといって鵜呑みにして有り難がるのでなく、きちんと批評的精神をもって読み込まねばならないのだな、と改めて反省させられた次第です。
全合成が優れたものであるか、そうでないかの判定は難しいものがあります。アトムエコノミー・工程数などといったファクターだけでなく、もう少し客観的に分析できる指標があればいいと思うのですが、これはまた機会を見て書いてみたいと思います。