2010年06月07日
世界を変えた化合物(4) 〜エタノール〜
思い出したように登場するシリーズ「世界を変えた化合物」、今回はエタノール編。
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エタノール
・人類の友
これほどまでに人類の歴史・文化に対して、深い影響を与えてきた化合物はないだろう。この化合物の生産――すなわち酒造りに、人類は飽くなき情熱を傾け続けてきた。
史上初めての酒造は、恐らく発明でなく発見であった。木から落ちた果実が野生の酵母によって発酵し、それを偶然発見したのが始まりといわれる。実際、酵母菌は自然界どこにでもおり、糖さえあればこれをエタノールに変えてしまう。
戒律が厳しいイスラム圏などを除けば、世界に酒のない文化圏はほとんどないといっていい。発酵させる植物自体がないエスキモーも自前の酒を持たないが、彼らはウイスキーなどの輸入酒に目がない。一説には、イスラム教が暑い地域にしか広がっていないのは、寒冷地では体を温める酒なしではやっていけないからだともいう。酒は単なる嗜好品というばかりでなく、時とところによっては命の綱でもあったのだ。

酵母
・酒の登場
酒造りの記録は、紀元前4000年のメソポタミアにまで遡れるという。彼らが作っていたのは大麦麦芽からの酒、すなわちビールの原型だ。発芽した大麦は酵素ジアスターゼを作り、これがデンプンを麦芽糖(マルトース)へと分解する。得られた麦汁を酵母によって発酵させ、二酸化炭素とエタノールへ変えたものがビールだ。すなわちビールの泡とエタノールは、ワンセットで発生する。
C6H12O6 → 2C2H5OH + 2CO2
こうして造られたビールは栄養価が高く、また雑菌の汚染も受けていないことから、安全な主食としての役割も果たしていた。ギザのピラミッドを造った労働者にも報酬としてビールが配られたというから、古代においてビールは通貨でもあったのだ。
ちなみにこの時代のビールは、現在我々が飲むものとはだいぶ違っていたらしい。ホップによって苦みと香りをつけることが一般化したのは意外に遅く、14世紀になってからだ。1516年にはバイエルン公ヴィルヘルム4世から「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」という「ビール純粋令」が出された。この法令は500年を経た今もなお遵守され、ドイツビールの名を高める一助となっている。

ホップの苦味成分・イソフムロン
ワインもまた、ヨーロッパを代表する酒だ。ブドウは大麦のような手間をかけるまでもなく糖分を豊富に含み、果皮には酵母菌もついているから、絞り汁は放っておいても発酵を起こす。ギリシャからローマの人々はさらに製法を洗練し、香料や蜂蜜を加えて飲むといった、現代でいうカクテルさえ楽しんでいた。
ワインはやがてキリスト教と結びつくことにより、歴史の中でさらに重要な地位を築くことになった。ワイン造りにはブドウの種類、製法など膨大なノウハウが蓄積されており、熟成に用いる樽の種類だけで一冊本が書けるほどといわれる。あなたの周りにも、頼みもしないのにワインの蘊蓄を延々と傾けたがる人が一人ぐらいいることだろう。

赤ワイン
我らが日本酒も、ビールやワインと十分に渡り合える奥の深さを持つ。その製法は、デンプンから糖、糖からエタノールへの発酵を一つの槽で行う「並行複発酵」を特徴とし、醸造酒としては世界に類例のない20%ものエタノール濃度を可能にしている。灰を用いた麹の生産、巧みな温度管理による麹カビと乳酸菌の使い分けなど、日本酒の生産工程は現代科学の目から見ても極めて合理的だ。腐敗を防ぐ操作である「火入れ」は、パスツールによる加熱殺菌法の発見に500年も先んじたもので、明治時代に訪れたイギリス人科学者を驚嘆させている。酒造りに関する情熱にかけて、日本人は決して西洋文明に引けをとっていないようだ。
・「酔う」ということ
日本では古来酒は神に捧げるものとされてきたが、イスラム教や仏教などのように飲酒を禁じるか、制限している宗教も数多い。酒は人を不道徳に走らせ、堕落させるという理由だ。では実際問題として、「酔う」とはどういうことなのだろうか?一つには、エタノール分子が神経伝達物質であるγ-アミノ酪酸(GABA)の受容体に結合し、神経細胞の働きを抑制してしまうせいだ。また、同じく神経細胞へのカルシウムイオンの取り込みを抑えるのも、神経の情報伝達を妨げる。これらによって動作や反応が鈍くなる他、理性が働かず感情的になるなどの症状が現れる。神話の八岐大蛇から現代の大臣に至るまで、エタノールのこの作用で失敗した例は数限りない。

GABA
そんな酒を世の中から追放しようという試みは、歴史の中で何度も繰り返されてきた。特に有名なのが、1920年にアメリカで施行された禁酒法だ。ところがこの期間中、もぐりの地下酒場が倍増し、酒の製造量は以前の10%増し、アル・カポネに代表されるギャングも暗躍して、犯罪件数はうなぎ登りになってしまったという。人類を堕落から救おうという13年間の壮大な実験は、全くの逆効果に終わってしまった。

禁酒法時代を舞台とした映画「アンタッチャブル」
もしエタノールが今見つかった物質であったら、飲用などまず許されなかっただろう。しかしエタノールの作用が多くの人々の心を揺り動かし、人類の文化を豊かにしてきてくれたのは紛れもない事実だ。こんなにも簡単な物質が、このような作用を持っていたことこそ、まさに神の恩寵かもしれない。人の運命を様々に変えるちょっと困った物質エタノールは、これまでも、そしてこれからも、人類の最大の友であり続けることだろう。
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エタノール
・人類の友
これほどまでに人類の歴史・文化に対して、深い影響を与えてきた化合物はないだろう。この化合物の生産――すなわち酒造りに、人類は飽くなき情熱を傾け続けてきた。
史上初めての酒造は、恐らく発明でなく発見であった。木から落ちた果実が野生の酵母によって発酵し、それを偶然発見したのが始まりといわれる。実際、酵母菌は自然界どこにでもおり、糖さえあればこれをエタノールに変えてしまう。
戒律が厳しいイスラム圏などを除けば、世界に酒のない文化圏はほとんどないといっていい。発酵させる植物自体がないエスキモーも自前の酒を持たないが、彼らはウイスキーなどの輸入酒に目がない。一説には、イスラム教が暑い地域にしか広がっていないのは、寒冷地では体を温める酒なしではやっていけないからだともいう。酒は単なる嗜好品というばかりでなく、時とところによっては命の綱でもあったのだ。

酵母
・酒の登場
酒造りの記録は、紀元前4000年のメソポタミアにまで遡れるという。彼らが作っていたのは大麦麦芽からの酒、すなわちビールの原型だ。発芽した大麦は酵素ジアスターゼを作り、これがデンプンを麦芽糖(マルトース)へと分解する。得られた麦汁を酵母によって発酵させ、二酸化炭素とエタノールへ変えたものがビールだ。すなわちビールの泡とエタノールは、ワンセットで発生する。
こうして造られたビールは栄養価が高く、また雑菌の汚染も受けていないことから、安全な主食としての役割も果たしていた。ギザのピラミッドを造った労働者にも報酬としてビールが配られたというから、古代においてビールは通貨でもあったのだ。
ちなみにこの時代のビールは、現在我々が飲むものとはだいぶ違っていたらしい。ホップによって苦みと香りをつけることが一般化したのは意外に遅く、14世紀になってからだ。1516年にはバイエルン公ヴィルヘルム4世から「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」という「ビール純粋令」が出された。この法令は500年を経た今もなお遵守され、ドイツビールの名を高める一助となっている。

ホップの苦味成分・イソフムロン
ワインもまた、ヨーロッパを代表する酒だ。ブドウは大麦のような手間をかけるまでもなく糖分を豊富に含み、果皮には酵母菌もついているから、絞り汁は放っておいても発酵を起こす。ギリシャからローマの人々はさらに製法を洗練し、香料や蜂蜜を加えて飲むといった、現代でいうカクテルさえ楽しんでいた。
ワインはやがてキリスト教と結びつくことにより、歴史の中でさらに重要な地位を築くことになった。ワイン造りにはブドウの種類、製法など膨大なノウハウが蓄積されており、熟成に用いる樽の種類だけで一冊本が書けるほどといわれる。あなたの周りにも、頼みもしないのにワインの蘊蓄を延々と傾けたがる人が一人ぐらいいることだろう。

赤ワイン
我らが日本酒も、ビールやワインと十分に渡り合える奥の深さを持つ。その製法は、デンプンから糖、糖からエタノールへの発酵を一つの槽で行う「並行複発酵」を特徴とし、醸造酒としては世界に類例のない20%ものエタノール濃度を可能にしている。灰を用いた麹の生産、巧みな温度管理による麹カビと乳酸菌の使い分けなど、日本酒の生産工程は現代科学の目から見ても極めて合理的だ。腐敗を防ぐ操作である「火入れ」は、パスツールによる加熱殺菌法の発見に500年も先んじたもので、明治時代に訪れたイギリス人科学者を驚嘆させている。酒造りに関する情熱にかけて、日本人は決して西洋文明に引けをとっていないようだ。
・「酔う」ということ
日本では古来酒は神に捧げるものとされてきたが、イスラム教や仏教などのように飲酒を禁じるか、制限している宗教も数多い。酒は人を不道徳に走らせ、堕落させるという理由だ。では実際問題として、「酔う」とはどういうことなのだろうか?一つには、エタノール分子が神経伝達物質であるγ-アミノ酪酸(GABA)の受容体に結合し、神経細胞の働きを抑制してしまうせいだ。また、同じく神経細胞へのカルシウムイオンの取り込みを抑えるのも、神経の情報伝達を妨げる。これらによって動作や反応が鈍くなる他、理性が働かず感情的になるなどの症状が現れる。神話の八岐大蛇から現代の大臣に至るまで、エタノールのこの作用で失敗した例は数限りない。

GABA
そんな酒を世の中から追放しようという試みは、歴史の中で何度も繰り返されてきた。特に有名なのが、1920年にアメリカで施行された禁酒法だ。ところがこの期間中、もぐりの地下酒場が倍増し、酒の製造量は以前の10%増し、アル・カポネに代表されるギャングも暗躍して、犯罪件数はうなぎ登りになってしまったという。人類を堕落から救おうという13年間の壮大な実験は、全くの逆効果に終わってしまった。

禁酒法時代を舞台とした映画「アンタッチャブル」
もしエタノールが今見つかった物質であったら、飲用などまず許されなかっただろう。しかしエタノールの作用が多くの人々の心を揺り動かし、人類の文化を豊かにしてきてくれたのは紛れもない事実だ。こんなにも簡単な物質が、このような作用を持っていたことこそ、まさに神の恩寵かもしれない。人の運命を様々に変えるちょっと困った物質エタノールは、これまでも、そしてこれからも、人類の最大の友であり続けることだろう。
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この記事へのコメント
1. Posted by ソラ 2010年06月09日 19:33
「☆異能の脇役・フッ素の素顔(3)」にあるテフロン加工の製品の空焚きについてなのですが、
鳥に対しては非常に有害なようです。
検索すると空焚きをしたら飼っていた鳥が死んだという話がよく見つかります。
ダイオキシンと同じく種差が激しいようです。
種差といえば同じページにあるモノフルオロ酢酸も、イヌは人の数十倍から100倍も感受性が高いという性質があるようです。
TCA回路は動物の基本的なシステムなのに不思議ですね。
鳥に対しては非常に有害なようです。
検索すると空焚きをしたら飼っていた鳥が死んだという話がよく見つかります。
ダイオキシンと同じく種差が激しいようです。
種差といえば同じページにあるモノフルオロ酢酸も、イヌは人の数十倍から100倍も感受性が高いという性質があるようです。
TCA回路は動物の基本的なシステムなのに不思議ですね。
2. Posted by 通りがかりの人 2010年06月10日 12:47
イスラム教で、飲酒が禁止されているのは、呑んだ後の喉の乾きで貴重な水を浪費しないためとも。
反対に、吸うと暑さを不快に感じなく、何を食べても美味しく感じる大麻は、宗教的にはオッケーだったりしますしね。
燃料として使う動物の糞では、寄生虫がいる豚肉を中までしっかり火が通らないから禁止(水を大量に呑む動物でもある)されたとの説もあって、有る意味科学的な宗教でも有ったみたいです。
個人的には、御神酒あがらぬ神はなしって国に生まれて感謝です。(^w^)
反対に、吸うと暑さを不快に感じなく、何を食べても美味しく感じる大麻は、宗教的にはオッケーだったりしますしね。
燃料として使う動物の糞では、寄生虫がいる豚肉を中までしっかり火が通らないから禁止(水を大量に呑む動物でもある)されたとの説もあって、有る意味科学的な宗教でも有ったみたいです。
個人的には、御神酒あがらぬ神はなしって国に生まれて感謝です。(^w^)
3. Posted by ソラ 2010年06月11日 00:00
というか「アル・コール」「アル・カリ」などもともとアラビア語ですし。
ムハンマド以前は結構飲酒があったのでしょうか。
ムハンマド以前は結構飲酒があったのでしょうか。
4. Posted by 亜留間次郎 2010年06月18日 11:40
イスラム教が暑い地域にしか広がっていないわけではありませんよ、ちゃんとロシアにもイスラム教はあります。
しかも、スターリン政権下でもちゃんと存続していました。
ロシアのイスラム教は戦後になると汎アラブ主義としてソビエトの援助を受けるイスラム諸国へ共産主義とセットで輸出されています。
アラスカにもイスラム教徒はいますし、
寒いからといって酒が必要なわけでもなく、
トルコ人は温暖な地域のイスラム教徒なのに酒飲んだりしてあまり当てにはなりません。
そもそも、アルなんとかで始まっている化学物質はイスラム科学で発見された物なんですが、
ヨーロッパが科学用語をラテン語から持ってきているのに対してイスラム科学ではアラビア語から持ってきているので、アルなんとかが沢山あります。
しかも、スターリン政権下でもちゃんと存続していました。
ロシアのイスラム教は戦後になると汎アラブ主義としてソビエトの援助を受けるイスラム諸国へ共産主義とセットで輸出されています。
アラスカにもイスラム教徒はいますし、
寒いからといって酒が必要なわけでもなく、
トルコ人は温暖な地域のイスラム教徒なのに酒飲んだりしてあまり当てにはなりません。
そもそも、アルなんとかで始まっている化学物質はイスラム科学で発見された物なんですが、
ヨーロッパが科学用語をラテン語から持ってきているのに対してイスラム科学ではアラビア語から持ってきているので、アルなんとかが沢山あります。

