今回はちょっと趣向を変えて小咄、というか有機合成の専門家なら身の毛もよだつような恐ろしい話。以前どこかで見かけたものを、筆者がちょっと脚色したものです。

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有機合成化学における最大の悪夢のひとつは、全合成の最終段階近くまで来て保護基が外れないという事態だろう。よくあるケースだが、ただこれだけのことで今までの営々とした苦労が全て水の泡になるのだからたまらない。さまざまな条件を検討し、必死の苦労を重ねてもダメな時はダメだからこの世界は厳しい。 

ベンジル基という保護基がある。ヒドロキシ基やカルボキシ基の保護基としてよく使われる。ものの本によれば、各種の還元的条件で問題なく外れるとされている。しかし基質が複雑になってくると、どうにもうまく脱保護ができない時も少なくない。

A君もそのケースだった。数十段階を踏んだ全合成の最終工程、これさえ外れれば論文も書けて晴れて卒業できる。しかし無情なことに、ベンジル基は根でも生えたかのように何をやっても切れてくれない。パラジウム炭素による接触還元、Pearlman触媒、Birch還元、DDQ……。卒業の日は迫り、手持ちの基質は少なくなる。A君の表情は憔悴し切り、仲間たちも声をかけづらいほどだった。

らちが開かないと思ったA君は、残りの基質を全て投入して勝負に出ることにした。最強の還元触媒である酸化白金を使い、高圧で水素還元を行う。これでダメなら切れる条件がないだろう、というものだった。眺めていてもどうなるものでもなかったが、とにかくA君は一晩徹夜し、還元装置を祈るような気持ちで見守った。
TLCを打ってみると、とにかく基質は全て別の化合物にきれいに変換されている。震える手で処理を行い、A君は青ざめた表情でNMRとMSを測定した。

翌朝、研究室に学生たちが出てきたところ、A君は机に突っ伏してぐったりしていた。
「どうした……?ベンジル、切れなかったのか?」
ゆっくりと顔を上げたA君は、ヒゲの伸びたうつろな表情で、うめくように言った。

「なあ……誰かシクロヘキシルメチル基の外し方を知らないか?」

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これを読んだ時、筆者はパソコンの前で「うわあああああ」と頭を抱えて絶叫してしまったのですが、あなたはいかがでしょうか。