洗濯物を天日に干せず、部屋干しにしていると何か雑巾のようないやな臭いが残るのは、梅雨時の悩みのひとつでしょう。先日、花王からこの臭いの原因を解明したという発表がありました。これによれば臭いの原因となるのはモラクセラ・オスロエンシス(モラクセラ菌)という細菌で、タオルや衣類などに広く棲んでいるということです。彼らが作り出す臭い成分は4-メチル-3-ヘキセン酸だそうで、カルボン酸と不飽和結合を持っていますから、有機化学者のみなさんなら「こりゃ臭そうだ」と思える構造でしょう。
4M3HA
4-メチル-3-ヘキセン酸

 しかしこの化合物名、どこかで聞いた記憶があるなと思っていたのですが、かのサイコサスペンスの傑作「羊たちの沈黙」に登場する、天才精神科医にして連続殺人鬼であるハンニバル・レクター博士のセリフに出てきたな、と思い当たりました。が、文庫本を探してみたところちょっと違って、”その臭いは3-メチル-2-ヘキセン酸、精神分裂病患者特有の体臭だ”というような文句でした(文庫本には「3-メチル-2-ヘキサノン酸」となっていたのですが、ヘキセン酸が正しいようです。また、今は精神分裂病は統合失調症という呼び名に改められています)。
3M2HA

3-メチル-2-ヘキセン酸

 余談ながら、レクター博士はビリルビン(大便の色素成分)をもじった「ビリー・ルービン」という男が犯人だと捜査陣に告げ、彼らをおちょくるシーンも出てきます。さすが天才レクター博士ですが、原作のトマス・ハリス氏、どこからこんなネタを仕入れているのでしょうか。ただ、このあたりは映画版では変えられているようです。

billirubin
ビリルビン。血液中のヘムが分解してできる


 しかし病気に特有の体臭なんてものがありうるのかと思って少し調べてみたら、ドーパミンが分解して3-メチル-2-ヘキセン酸が生成するのではないか、とする古い文献が出てきました。統合失調症というのはドーパミンの過剰によって発生するという仮説があるので一応つじつまは合いますが、そんな単純なことかなあ?という気もします。下記の通り、ドーパミンはずいぶんとかけ離れた構造ですし、統合失調症患者から特に3-メチル-2-ヘキセン酸は検出されなかったという報告もその後に出ているようで、なにやらこの話は疑わしいようです。
dopamin
ドーパミン

 実は花王のグループから、腋臭(わきが)の臭い成分のひとつがこの3-メチル-2-ヘキセン酸であるとする発表がなされています(ケムステニュースさん記事)。まあ病気がどうこうではなく、単純にわきがの臭いを誤認しただけの話かもしれません。

 それにしても、生乾きの臭いと腋臭の臭いがよく似た物質であるというのもちょっと面白い話です。この手の不快な臭気というものは、こうした短い脂肪酸が原因であるケースが少なくありません。これらは動物の脂肪が細菌によって分解されてできる化合物であり、捕食者あるいは獲物の存在を知らせるシグナルとして重要だったのでしょう。実際、我々の鼻はこれらカルボン酸に対して非常に敏感であることがわかっています(参考:本館「臭い化合物の話」)。臭い物質ひとつとってみても、いろいろと面白い話が出てくるものだと思います。