いろいろなものが次々に流行し、移り変わりの激しい健康業界ですが、最近のキーワードはどうやら「酵素」であるようです。酵素がらみの商品は、食品・ドリンク・化粧品・風呂などに至るまで広がっており、胃腸機能・神経痛・筋肉痛・冷え性・肩こりの改善、デトックス・ダイエットなど様々な効能が謳われています(まあ何にでも効くと主張するものというのは、実際にはたいてい何にも効かないとしたものですが)。

 しかし、この健康業界でいう「酵素」という言葉は、どうも本来の意味からだいぶ外れ、妙な使い方をされるようになっています。まあ不正確というだけならさほどのことでもありませんが、それがトンデモ商法に結びついているとあらば少々問題にすべきでしょう。そしてこの「酵素」は困ったことに、一部の医師などにも信奉者を獲得し、着々と勢力を広げているようです。

 本来、酵素という言葉は「生体における反応を触媒するタンパク質」を指します(タンパク質でない酵素というものも存在しますが、ここでは考えなくてよいでしょう)。生物が生きていくために必要な化合物を作ったり、いらなくなったものを壊したりするタンパク質のことです。タンパク質というと一般には肉や大豆などに含まれる栄養素というイメージが強いと思いますが、実際には生体運営機能の大半を担う、大変重要な化合物群なのです。そのうち化学反応を行う機能を持ったものを、特に「酵素」と呼んでいるわけです。

 酵素には様々の種類があります。消化酵素は、タンパク質や炭水化物、脂肪など食品成分を消化分解し、体に吸収しやすい形にする役割を持ちます(例えば洗剤に配合されている「酵素」は、汚れの成分であるタンパク質を分解する働きを持つものです)。DNAや脂質を作り出す酵素もありますし、活性酸素など有害成分を消去してくれる酵素もあります。酵素は一つの役目だけに特化したスペシャリストであり、たとえばタンパク質を分解する酵素には、糖や脂肪の分解はできません。また体内でコレステロールを作り出す過程は、自動車を流れ作業で作るようなもので、実に30種以上もの酵素がかかわります。

HMG-CoA
コレステロールの合成に関わる酵素のひとつ、HMG-CoA還元酵素
アミノ酸別に彩色してある

というわけで、酵素は生体にとって重要ではあるものの、ひとつひとつの機能は限定されたものであり、どれかがたくさんあればより健康になれるというものではありません。時計の部品である歯車やネジをたくさん集めたところで、時間をより正確に計れるようになるわけではないのと同じことです。

 一方、健康業界における「酵素」という概念は、これと全く違ったものになっています。酵素健康法的な考え方は昔からありますが、近年これを有名にしたのは「病気にならない生き方」などの大ベストセラーで知られる、医師の新谷弘実氏のようです。著書にあるプロフィールによれば、新谷氏はアルバート・アインシュタイン医科大学の教授で、内視鏡手術の世界的権威であるそうです。

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100万部以上のベストセラーとなっている、新谷氏の著書

 氏の著書では、酵素のことをなぜか英語名である「エンザイム」と呼んでいます。「病気にならない7つのルール」から少し引用しますと、
エンザイムというのは生物の細胞内で作られるタンパク質性のもので、動物も植物も、もちろん私たち人間も、生きるために行うあらゆることにエンザイムを消費しています。
 エンザイムがなくなれば、私たちは生命を維持していくことができません。いわばエンザイムは「生命の源」です。

 まあ酵素がタンパク質であること、生命を保つのに重要であるのはよいのですが、別に酵素は何かあるごとに消費されるわけではなく(壊れもしますが、ちゃんと新たに合成もされます)、なくなってしまうという事態も考えられません。どうも新谷氏の考えるエンザイムというのは、生化学でいう「酵素」とはだいぶ異なり、ストレスや毒物の摂取によって消費され、体によい食物などから取り入れることのできる、「生命の源」的な何かであるようです。

 氏の言うように、人間の健康が一物質の増減だけで決まるなら世話はないのですが、残念ながら人の体の仕組みはそんなに単純ではありません。敵の攻撃を受けると減少し、アイテムを取ると回復する、ゲームのキャラクターの体力ゲージとはわけが違うのです。

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人間の健康は、こういう単純な話ではない。

 しかし、そんなことは一切気にかけることなく新谷節は続きます。
私たちのからだには5000種類以上のエンザイムがあるといわれます。(中略)ですが私は、つねに5000種類のエンザイムがつくられ続けているのではなく、まず原型となるエンザイムがつくられ、必要に応じてつくり変えられると考えています。(中略)私は、この原型となるエンザイムを「ミラクル・エンザイム」と名づけました。

 ここに至って、生化学を少しでも学んだ人なら
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という顔になろうかと思います。「ミラクル」というとびきりイカしたネーミングはともかく、「原型となる酵素が必要に応じて他の酵素につくり変えられる」などという事実は、どこを探してもありません。酵素を含めたタンパク質は、全てDNAにある設計図の通りに作られ、用済みになればアミノ酸の単位にまで分解されます。これは生化学の基本の基本なのですが、新谷氏は何一つ証拠を示すでもなく、これを根本から否定するという大胆不敵な行為をさらりとやってのけます。

 まあ「生命の源ミラクル・エンザイム」なる仮説を提唱するのは勝手ではありますが、それならそれで何か別の名前を考えていただくべきでしょう。全く別個の、生化学上完全に確立した概念である「エンザイム」または「酵素」という名を、勝手に当てはめてもらっては困ります。

 新谷氏はこの自ら提唱した「エンザイム」という謎の概念と、生化学でいう「酵素」の特徴をうまくとり混ぜ、もっともらしく話を進めます。完全に嘘っぱちなら信頼する人もそうはいないのでしょうが、このように自分の空想と科学的事実を混ぜて書くというやり方をされると、なかなか判別しづらくやっかいです。天然なのか、わざとやっているのかはわかりませんが、この手法は結果的に極めて(氏にとって)効果的に働いています。

 同氏の主張によれば、果物など「エンザイム」を多量に含む食品を摂取することで、健康状態が良くなるということです。仙豆かポーションを摂って体力回復、みたいな話ですが、残念ながらこうはなりません。酵素などタンパク質というものは、食事から生の形で体内に取り込まれることはないからです。巨大分子であるタンパク質は、そのままでは細胞内に取り込めないため、消化されて細かく分解されることで初めて吸収が可能になります。これはどんなタンパク質でも同じです。すなわち、食品中の酵素が体内に入り、そのままの形で働くことはありません。

Potions
アイテムで体力が回復するなら苦労はないですけど。

 実のところ、他の生物のタンパク質が生体内に入り込むと、大変なことになります。生体は、自分の作り出した以外のタンパク質を見つけると、外敵が侵入したと判断し、免疫機構が発動してしまうのです。これはアレルギーなどを引き起こし、悪くすれば死に至ることもあります(たとえば牛乳は口から飲んでも大丈夫ですが、血管に直接大量注入すれば死んでしまいます)。こうならないよう、食品のタンパク質は消化作用によって、いったん細かな部品単位にまでバラバラにされた上で、体内に吸収されるのです。

 その他、新谷氏の本には頭の痛い点が多数見受けられ、提唱する健康法(白米・牛乳・砂糖など白い食品を食べるなとか、コーヒーで浣腸をしろとかいうものだそうです)にも多数の反論・反例・反証があちこちから上がっています。全部にツッコミを入れているときりがないので、ここでは氏の提唱する「エンザイム」というのは、生化学的な意味での「酵素」とは全く別物の空想上の産物で、健康やダイエット効果の根拠も極めて薄そうなものであることだけ指摘しておきます。

 だがこの空想は、悪いことにベストセラーとなった氏の著書によって世に広がり、すでに多くの追随者と商品を生み出してしまっています。たとえば「酵素」と入れて検索してみると、上位30位くらいまでほとんどが酵素商品のサイトで、まともな「酵素」について書いているのはウィキペディアなど2〜3ヶ所に過ぎません。

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 たとえば上にある「お嬢様酵素」なる商品は、あちこちに広告を出して雑誌などにも取り上げられており、ずいぶん売れているように察せられます。何やら野草を元に作ったジュースのたぐいであるようで、効果があるのかどうか筆者は知りませんが、「あなたのダイエットが成功しないのは、体内酵素の不足が原因!?」とかいうフレーズにはアイタタとなってしまいます。

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 広告の中程には、「ダイエット… 美容… 健康… その答えの鍵が酵素にあると気づいた時、なんだか不思議な安心感につつまれたの。」なるメッセージも出てきます。包まれてなくていいから生化学の教科書でも読んでくれと筆者などは思うのですが(ついでに「創薬科学入門」なんかも併せて読むとさらにいいと思います)、ある意味でこの「安心感につつまれた」というのはなかなか意味の深いフレーズである気もします。

 これだけ様々な情報が飛び交う世の中であると、一体何が本当で何をどこまで実践すれば効果があるのやら、なかなかわからなくなってきます。そんな中で、「酵素」という一点に絞ったキーワードを提示され、これさえ取り入れればうまく行くと提案されると、人間はつい安心して、それに飛びつきたくなってしまうのであろうと思います。
このブログで何回か引用している「アイデアのちから」(チップ・ハース&ダン・ハース著)では、アイデアを他人の脳に焼きつけるための6つの条件を挙げています。
(1)Simple(単純明快である)
(2)Unexpected(意外性がある)
(3)Concrete(具体的である)
(4)Credential(信頼性がある)
(5)Emotional(感情に訴える)
(6)Story(物語性がある)

 ということで、健康業界でいう「酵素」というキーワードは、これをよく満たしていると思えます。人間の健康という複雑なお話を「酵素の増減」という一点に集約してシンプルに説明し、そこから導かれる健康法は意外かつ極めて具体的です。アメリカの医科大学教授という肩書きには大きな信頼性があり、健康やダイエットに効果ありという触れ込みは感情を揺さぶり、自然界の生命力を取り入れるというお話には物語性があります。なるほど、さすがはバカ売れしているだけはある――と、感心している場合でもないのですが。

 こうしてはびこってしまった酵素信仰を世の中から「除染」するのは、なかなか容易なことではなさそうです。科学者の側も「相手にしているヒマはない」と、我関せずを決め込むばかりではなく、前述のような相手の心に残る伝え方を勉強して工夫し、しっかり発信をしていくしかないだろう、と今のところ筆者は思っています。