あちこちからニュースが飛び込んできて、何かと騒がしい昨今です。アメリカではボストンマラソンでの爆発テロという大きな悲劇の後、「リシン」という毒物が上院議員の元に送られたと報道されています。さらにオバマ大統領のところにもリシンらしき物質が送りつけられたとのことで、9・11後に炭疽菌テロの行われた、2001年を思わせる状況となってきました。

 さてこのリシンとは、いったいどんな物質でしょうか。これはタンパク性の猛毒で、トウゴマという植物の種子から得られるものです。単離されたのは1888年といいますから、かなり古くから知られていたタンパク質のひとつです。

tougoma
トウゴマ(ヒマ)の種子

 英語では「ricin」という綴りです。日本語で表記すると区別がつきませんが、アミノ酸のリシン(リジンとも)は「lysine」ですので、全くの別物です。

lysine
リジン(lysine)

 さてこのリシンは、旧ソ連などで暗殺に使われた毒薬として有名です。ブルガリア出身の作家G・マルコフ氏は、当時の共産政府の方針に異を唱え、ロンドンに亡命してきていました。1978年のある日、彼はバス停で二人の紳士とすれ違った時、太股に傘を突き刺されます。その夜からマルコフ氏は体調を崩し、3日後に吐血して入院先の病院で亡くなりました。

markov
ゲオルギー・マルコフ氏

 同じ時期のパリでも、同じくブルガリアから亡命してきていたV・コストフ氏が、同じようにすれ違いざまに傘を背中に突き立てられていました。彼はたまたま無事だったのですが、マルコフ氏のニュースを聞いてあわてて病院へ行ってみたところ、背中の刺し傷跡から直径1.7ミリほどの金属球が見つかったのです。球は中空で、ここに問題のリシンが詰められていました。穴はワックスでフタがされており、これが体温で溶けると中からリシンがにじみ出てきて、犠牲者の命を奪うという仕掛けでした。

 この手段で、1970年代から80年代にかけて、少なくとも6人が暗殺されているということです。トウゴマは「ひまし油」の原料として大量に栽培されており、リシンはその副産物として容易に手に入る猛毒なのです。

ricin
リシン

 リシンのLD50は、吸入の場合で0.003mg/kg程度といわれます。つまり体重50kgの人であれば、わずか0.15mgを吸い込んだだけで、50%が亡くなるということになります。1.7mmの小さな金属球に仕込まれた量でも、大の大人を殺すのに十分すぎるほどの量であるわけです。毒物として有名な青酸カリのLD50さえ10mgほどですから、リシンとはまるで比べものになりません。この毒性の高さは、ボツリヌス菌の毒素ボツリヌストキシン、破傷風毒素テタヌストキシンなどに次ぐもので、世界5大毒素のひとつに数えられています。
 
 リシンは上図に示す通り、分子量約65000の糖タンパク質です。細胞内にはリボソームという小さな器官があり、タンパク質の合成を受け持っています。リシンは細胞内に入ると、このリボソームを作るRNAの塩基をひとつ切り離し、タンパク質合成機能を失わせてしまいます。このため生命維持に必要なタンパク質が合成できなくなり、死に至るという仕組みです。リシンの注入から、死に至るまでかなり時間がかかるのは、このメカニズムのせいです。逃げる時間を稼げますから、これは暗殺者にとっては都合のよい性質でしょう。

 何より厄介なことに、リシンには今なお解毒剤が知られていません。微量を撃ち込まれればそれで終わりという、実に恐るべき毒なのです。何者がリシンを手に入れ、送っているのか現段階では全くわかりませんが、ともかく今は犠牲者が出ないことを祈るのみです。

 参考文献
毒と薬の科学―毒から見た薬・薬から見た毒」 船山信次 著 朝倉書店
毒の事件簿 〜歴史は毒でつくられる〜 」 齋藤勝裕 著 技術評論社