学界を二分するほどの論争というのは、生物学や天文学ではたまにあっても、有機化学の世界ではあまり聞かないように思います。実験ではっきりと結果が出しやすいジャンルだからなのでしょうか。

 しかし、以前には有機化学の世界にも、ノーベル賞受賞者が両陣営の旗頭に立った大論争がありました。カルボカチオンの構造をめぐる論争がそれです。

 炭素の陽イオン、すなわちカルボカチンは、転位反応や隣接基関与など独特の反応性を示します。このことから、単純に結合の腕を一本切っただけではない構造であると考えられました。たとえば下図のようなカルボカチンは、メチル基が「橋かけ」して安定化されているという仮説が提唱されます。これは「非古典的カルボカチオン」と呼ばれ、多くの実験結果を説明できることから、広く受け入れられるようになってゆきました。

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右側が「非古典的」と呼ばれる構造

 これに疑問を投げかけたのが、有機ホウ素化学の巨匠であるH. C. Brownでした。彼は1950年代後半、この非古典的カルボカチオンによる説明を否定する論文をアメリカ化学会誌に投稿したものの、レフェリーとの60通にもわたる手紙のやりとりを繰り返した末、結局掲載を拒絶されてしまいました。

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H. C. Brown (ノーベル財団ウェブサイトより)

 1961年に開かれたシンポジウムで、S. Winsteinは非古典派の主張を述べますが、Brownは先の60通の手紙の束を示しながら自説を声高に主張します。そこに「そのレフェリーは自分だ」とJ. D. Roberts教授が名乗り出たといいますから、この超異例の事態に会場が大いに盛り上がったことは想像に難くありません(筆者であれば「てめえだったのかこの野郎」とつかみかかりたくなるところですが)。この後も論戦は続き、カルボカチオンの構造は60〜70年代有機化学の大きな焦点となってゆきました。

 やがて論争のポイントは、2-ノルボルニルカチオンの構造に絞られてゆきます。これが古典的構造か非古典的構造なのか、実際に取り出して「ほれ見ろ」とできればいいのですが、何しろカルボカチオンは寿命の短い中間体ですから、単離もままなりません。

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古典的(上)及び非古典的(下)ノルボルニルカチオンの構造

 さてそうこうしているうちに、非古典派の旗頭であったWinsteinが1969年に死去、代わってG. A. Olahが登場します。Olahは、超酸などを駆使してカルボカチオンを発生させ、実際にNMRなどでカルボカチオンの実体を観測することに成功しました。こうして証拠が蓄積された結果、ついに1986年にBrownは白旗を上げ、30年近くにもわたった論戦は決着を見ることになります。Olahはカルボカチオンの化学を開拓した功績により、1994年にノーベル化学賞を単独受賞しています。

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G. A. Olah (ノーベル財団ウェブサイトより)

 そしてつい最近、なんと論争の焦点となった2-ノルボルニルカチオンのX線結晶解析がなされました(論文)。論文には、論争開始当初から非古典派の闘将であった、P. v. R. Schleyerも名を連ねています。こんなものが安定な結晶になるのかと驚きましたが、 [C7H11]+[Al2Br7]- を40Kという低温で結晶解析し、下図のような構造を得ています。ご覧の通り、みごとに非古典的カルボカチオン説を支持する構造です。

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 これ以上の証拠はなく、まさにぐうの音も出ない結果です。実際には、細かく温度を変化させながら解析を行うなど、現代技術と職人技の融合があればこそであったようです。それにしても論争開始から半世紀以上、「終戦」からも27年経ってからのこの結果、科学者の執念とは何とも凄いものだと、改めて思わざるを得ません。BrownとWinsteinの両師も、今ごろ天国でこの成果を見て、いやいや大したものだと笑っているかもしれません。