今から5年半ほど前、「最後の怪物・マイトトキシン攻略開始」というタイトルの記事を書いたことがあります。マイトトキシンは、分子量3422、環の数が32、不斉炭素の数が98と、生体高分子を除く天然物として最大であり、かつ最強レベルの毒性(タンパク毒を除く)を持った、まさに怪物と称すべき化合物です。その人工的全合成に、何人かの研究者が挑んでいるというお話でした。完成すれば、化学史上に残る金字塔となるのは間違いありません。

maitotoxin
マイトトキシン。クリックで拡大

 怪物攻略に最も近づいているのは、長らく天然物全合成の第一人者として君臨したK. C. Nicolaou教授です。彼らはすでに、もっと小さなサイズの類縁化合物(といっても十分巨大ですが)であるブレベトキシンA, Bなどの合成に成功しており、これら化合物合成の十分な経験を積んでいます。

brevetoxin
ブレベトキシンB。Nicolaouらが1995年に全合成

 Nicolaouらは1996年ごろからマイトトキシンの合成に取り組み始め、いくつかの小さな部分構造の合成を報告しています。その後一時期、構造に関する疑義などもあって、彼らはこのプロジェクトを再優先のものとしていませんでした。しかし2007年から再度スパートをかけ始め、次々と大きな部分構造の合成を達成しています。そのようすをまとめたのが下図ですが、その馬力たるや実に恐るべしとしか言いようがありません。

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部分構造合成のようす。クリックで拡大。

 2014年には、すでに作った2つの部分構造を結合させ、Q環からA'環までの11の環を含んだ、大きなフラグメントの合成を報告しました。マラソンで言えば、長く苦しい走りの末、ついにゴールの競技場が見えてきたといったところでしょうか。

 ということで、歴戦の名将Nicolaouの猛攻の前に、さしもの最難関天然物マイトトキシンも陥落する日が近いか――と思った矢先、この史上最大のプロジェクトがストップを余儀なくされているという記事が、「ChemistryWorld」誌に掲載されました。原因はといえば、研究資金が尽きたためということです。2012年をもって、このプロジェクトに対するNIH(アメリカ国立衛生研究所)からの資金が、打ち切られてしまったのです。

 Nicolaouはこれに関し、「アルツハイマー症や神経変性疾患の治療薬開発にも結びつく研究であるのに」と、NIHの視野の狭さを非難しています。こうした基礎研究に対する補助が、厳しくなっている事情はあちらも同じであるようです。個人的には、マイトトキシンの完成をぜひ見てみたくはありますので、いま流行りのクラウドファンディングなり何なりで、どうにかできないのかと思えます。

 それにしても、天下のNicolaouが資金不足に悩むとは――。タキソールなど、天然物全合成華やかなりしころに学生時代を送った者としては、時代の変化の激しさに、何やらため息が出てしまう思いがします。