有機合成の世界では、論文を見て反応を行なってみても、書いてある通りの収率・選択性が出ないことはさほど珍しくありません。論文を書いている方は、何度も同じ反応を繰り返し行なって慣れているからということもあるのでしょうが、やっぱり何度追試してもうまく行かず、悔しい思いをすることも多々あります。

 というわけで、あの国の論文は信用するなとか、あの研究室から出てくる数字は怪しい、などという評判は誰しも聞いたことがあるでしょう。口の悪い人など「○○(教授の名)係数は0.7くらいだ」なんてことを言ったりもします。○○先生の論文に収率80%と書いてあったら、そこに0.7をかけて実際には5割ちょっとくらいと思っておけば間違いない、という意味だそうです。

 とはいえ、こうした再現性の低い論文が表立って取り沙汰されることはほとんどありません。たいていは「うちではうまく行かなかった」でひっそりと終わってしまいます。ところが最近、「この論文に書いてある通りに実験しても、書いてある通りの選択性が出ないぞ!」という論文が出版され、ちょっと話題になっています。論文の主は、イリノイ大学の大御所、Scott Denmark教授です。

 ことの起こりは、2003年にPatrick Henryらが、Organic Letters誌に報告した論文に遡ります。オレフィンに対して塩素あるいは臭素を付加させ、1,2-ジハロアルカンにする反応は、教科書には必ず載っている基本的かつ有用な反応です。Henryらは、不斉パラジウム錯体を触媒として用いることで、この付加反応を高い立体選択性で行えると報告したのです。

dibromo

 反応はWacker酸化に近い条件で行なわれ、選択性は95%ee(97.5:2.5)にも達する、としています。本当であるなら、なかなか利用範囲の広そうな、よい反応だと思えます。ところがDenmarkらが、この反応条件を可能な限り忠実に再現して実験を行なってみても、化学収率はほぼ再現するものの、どの基質でもラセミ体のみが得られ、立体選択性は全く見られなかったという結果になりました。アルゴン雰囲気下で反応を行なったり、反応を途中で止めて確認したりなどしましたが、結果は変わりなかったということです。

 Henryらは、キラルシフト試薬を用いたNMRで光学収率を決めていますが、これらのデータの詳細がHenryらの論文には記載されていないため、事情ははっきりしないようです。責任著者でもあるHenry教授はすでに2008年に世を去っているそうで、過去のデータも出てこないかもしれません。

 論文に書いてあることが再現しなくても、実験者の腕の問題として片付けられてしまうことも多いですし、「再現しない」という完全な証明は(某細胞のケースに見られる通り)、実際上困難です。その意味でDenmarkらがこうした論文を書くのは、なかなか勇気のいることであっただろうと思います。


 これと逆に、「進行しない」とされた反応が、実は間違いなく進行するものであったとわかったケースもありました。1960年、Wittig反応で有名なG. Wittigは、V. Franzenとの共著で、新しいシクロプロパン化反応を報告しました。臭化テトラメチルアンモニウムにフェニルリチウムを作用させ、オレフィンと反応させるというものでした。

Wittig-Franzen

 しかし4年後の1964年、Wittigはこの報告を撤回します。別の教え子にこの反応を試させたところ、全く再現しなかったためでした。Franzenはこのためアカデミックの道に進む夢を絶たれ、企業へと活躍の場を移しています。

 ところが、半世紀以上を過ぎた今年になり、Peter Chenらがこれに類似した反応を報告したのです。Franzenとの主な差は、ニッケル錯体(PPh32NiBr2を加えていることでした。つまりFranzenの実験では、どこからか不純物として入り込んだニッケルが触媒として働き、シクロプロパン化が進んだ可能性が高いと考えられます。

 このシクロプロパン化はなかなか気難しい反応で、触媒の量が0.1〜1mol%だとうまく行きますが、5mol%まで増やすと副反応が優先してしまい、目的物が得られません。こうした性質のため、いろいろ試しても再現が難しかった可能性があります。

 Franzen氏は70代半ばころだと思われますが、もしこの論文を読んだとしたら、いったいどんな思いであったでしょうか。再現性は科学の基本ではありますが、なかなか難しいことでもあります。