昨年3月、Google傘下の企業が開発した人工知能「AlphaGo」が、世界トップクラスの囲碁棋士イ・セドル九段(韓国)を4−1で降し、世界に衝撃を与えたことは記憶に新しいと思います。筆者も囲碁が趣味でアマ4段くらいは打ちますので、なりゆきを興味深く見守っておりました。

 そして昨年末、また動きがありました。ウェブの囲碁対戦サイトに「GodMoves(神の一手)」、「刑天」「Master」と名乗る謎の打ち手が登場、トッププロを破る実力を見せつけて、世界中がその正体探しに躍起になるという、リアル「ヒカルの碁」状態になったのです。その打ち筋や、考慮時間のあまりの短さからして、これらはいずれも幽霊ならぬ人工知能(AI)であろうというのが大方の推測でした。

 このうち「Master」に関しては、「AlphaGo」の進化バージョンであることが最近明らかにされました。しかしこのMasterの実力たるや、世界のトップ棋士に対してなんと60戦全勝の成績を収めたといいますから、もはや人類は完全にぶっちぎられてしまったとしかいいようがありません。世界ランキング1位の柯潔九段や、日本の六冠王井山裕太棋聖が、二子かもしかすると三子のハンデをつけねば勝負にならないというのはちょっと信じられないのですが、現実はすでにそこまで進んでいるようです。

 囲碁というゲームが、人類がコンピュータに勝てる最後の盤上競技として残っていたのは、「感覚」による部分が大きいゲームであったからです。「正確に先は読み切れないが、とりあえずこのあたりに打っておくしかない」とか、「このラインまでは踏み込んでも大丈夫だろう」といった、目分量や勘が重要なゲームであり、この部分はコンピュータの苦手とするところでした。

 しかし2016年に登場したAlphaGoは、「深層学習」という手法により、この感覚的な部分で人間を上回ることに成功しました。今まで人類が何千年の研究を積み重ね、こういう手はありえないと思っていた手をAIは連発し、トッププロを撃破してしまいました。そのあまりに異質な打ち筋に、筆者などなんだか足元の地面が崩されるような、原初的な恐怖に近い感情を感じたものです。

 その後、プロ棋士の意見など見ていると、どうやら人類は囲碁というゲームを、実際よりずっと狭く捉えていたのではないか、ということのようです。AIは、人間が碁を勉強するときのように、定石を覚えたり、攻めや守りといった概念を理解したりということはせず、全く別のアプローチで進化しました。さらに自己対戦によって研鑽を重ね、新たな手法をクリエイトする段階にまで至ったのです。


 当然ながら、AIは囲碁だけでなく、今後いろいろな分野に進出してくることになります。サイエンスの世界は、最も大きく影響を受けることでしょう。莫大な利益につながる製薬産業の分野が、いの一番にターゲットになることは間違いなく、すでにその動きも始まっています。

 具体的にAIがどのようなアプローチで創薬に関わるかは、素人の筆者には想像がつきません。今のコンピュータはタンパク質の構造に適合させる形でドラッグデザインをしますが、AIはたとえば過去の特許データだけをもとにブラッシュアップして化合物をデザインするとか、まったく違ったアプローチをとるのだろうと思います。副作用や代謝生成物の予測など、現状では難しいこともAIはやってのけるのかもしれません。

 囲碁の名人を打ち負かすのと、画期的な医薬を設計するのとどっちが難しいか、単純に比較はできないでしょうが、莫大な資金と頭脳がこれから投じられるであろうことを思えば、そう遠くない将来にAI創薬も実現することでしょう。世界の製薬企業がGoogleにまとめてひれ伏するような日さえ、来ないとも限りません。

 となれば、AIは有機半導体やら触媒のデザインにも応用されていくでしょうし、新反応を新しく創出するようなことも行なわれるでしょう。現在の我々がまったく想像もしないような元素を用いた、どうしてこの構造が有効なのかと思うような機能性化合物が、たくさん登場するのではないでしょうか。おそらく数年のうちに、こうした論文が学会誌をにぎわすようになるのではと思います。

 そうなった時、サイエンスはどうなるのか――現在の棋士たちが感じているように、科学者たちは「我々はサイエンスというものを間違えて、あるいはずいぶん狭く捉えていた」と思うのかもしれません。ずいぶんと科学に対する考え方の転換を迫られることになるのでは、と思えます。

 すでに囲碁界では、棋士たちがAlphaGoの打ち筋に学び始め、「AIっぽい手」が流行しています。AIの考えていることのすべてはわからないにせよ、何とかそのエッセンスを取り込み、実力の向上に役立てようとしています。たぶん人類の打ち方も、今後数年で大きく変わっていくことでしょう。

 科学の世界でも同様に、AIによって考え方や手法が大きく進歩するところは多いでしょうが、AIが出した答えの解釈に四苦八苦したり、正しいかどうか検証のしようがないといった状況も出てくるでしょう。結局「なんでかはわからないけど、AI様がそうおっしゃっているからそうしよう」となってしまわないか、そうした先にいったい何が待っているのか、いろいろと思うところの多い新年であります。