有機化学美術館・分館

HP有機化学美術館のブログ版。タイムリーな話題,短いテーマをこちらで取り上げます。

有機化学

ドラマ「厨房のありす」を監修することになりました

 さて、年も押し詰まったこのタイミングに、非常に久方ぶりのブログです。本日は、新しいお仕事の報告などを。

 というのは、来年1月より日テレ系で放送開始のドラマ「厨房のありす」の化学監修を務めることになりました。主役の八重森ありすは「料理は化学です」が口癖の天才料理人、その父は有機化学の教授、また製薬企業もストーリーに絡むなど、なかなかガッツリと化学のお話が出てきまくるストーリーになっております。


 こうした内容のドラマですので、化学や医薬について正確を期さねばならず、筆者に声がかかったという次第です。もちろんテレビドラマの監修などは初めてですが、面白そうなので引き受けることにいたしました。

 劇中に登場する構造式やセリフのチェック、ストーリー設定への協力、主人公の部屋に置かれる分子模型の作成など、さまざまな形で関わっております。先日は、初めてロケの現場に伺い、撮影にも立ち会ってきました。架空の試薬会社のラベルが貼られた試薬、架空の学会のポスターなど細かく作り込まれていて、カメラには映らないようなところまできっちり設定されていることに感心したりしました。

 もちろんプロの役者さんの技倆というのも凄まじいもので、直前まで雑談をしていたものが一瞬でドラマの世界に切り替わり、見る者を引き込んでしまうわけです。名優とはこういうものか、と大変に感銘を受けた次第です。

 というわけで、ドラマ内の研究室のホワイトボードには、筆者の汚い字や雑な構造式などが映り込んでいることと思います。何が描いてあるか、化学系の方は目を皿のようにして見て確認するのも一興かと思います。

 ドラマは2024年1月21日(日)22:30に、日テレ系で放送開始。門脇麦、永瀬廉、大森南朋、前田敦子さんらが出演します。みなさまご覧いただければ幸いです。

「C2」が合成された話

有機化学は、いうまでもなく炭素原子を中心とした化学の分野です。炭素は極めて奥深い可能性を持ちますが、やはり一つの元素を世界の化学者がよってたかって200年も研究しているわけですから、炭素だけから成る全く新しい化学種が出てくることは、今やそうそうありません。1985年に登場したフラーレンはその数少ない例の一つであり、だからこそ科学者は驚きと興奮を持ってこれを迎えたわけです。

 しかし最近になり、「C2」という化学種がフラスコ内で作れることが報告されました(論文。オープンアクセスです)。東京大学の宮本和範准教授、内山真伸教授らの研究グループによる成果です。今回はこの何がすごいのか、ちょっと書いてみます。

 水素や窒素、酸素といった元素は、それぞれH2、N2、O2といった二原子分子を作り、これらはいずれも安定に存在します。しかし炭素の二原子分子は、非常に不安定です。二重結合や三重結合はよいのですが、四重結合は存在しにくいのです。

H2etc

 なぜ四重結合ができにくいかを説明するのは難しいのですが、炭素が持っている4本の結合の腕が、全部つながり合うのは非常に無理があるのだと思って下さい。二人の人が両方の手のひらを合わせるのは簡単ですが、両手両足を合わせるのは大変――というようなイメージです。

 なので、C2をどうにかして作り出しても、他の分子と結合したり、C2同士で反応したりしてすぐに他の化合物に変化してしまいます。というわけで今までは、3500度以上の高温状態や、宇宙空間などにC2が存在していることが知られていたのみで、それだけをガラス瓶に取り出してじっくり性質を調べるようなことはできませんでした。

 ということで、C2分子は作り出すことも大変なら、できたことを示すのも工夫が必要になります。今回、研究グループがC2の生成に用いたのは、次のような反応です。

C4_1

 要するに、炭素-炭素三重結合の両端に、それぞれプラスとマイナスに帯電した置換基をつけておき、一方にマイナス電荷を持ったイオンを作用させると、それをきっかけに両方が外れてC2が遊離するという仕掛けです。原理は簡単ですが、実現はそう簡単ではなく、分子設計の妙(と、おそらく膨大な試行錯誤)によるものでしょう。

 では、どうやってC2ができたことを証明したのか?こうした不安定化合物の検出には、昔からよく使われる方法があります。他の化合物と反応させて安定な化合物に変えた上で、ゆっくりと単離して調べる方法です。たとえばジヒドロアントラセンという化合物は、他の化合物に水素原子2つを与えて、安定なアントラセンになりやすい性質があります。この化合物と、発生したC2が反応すると、水素の移動が起こってアセチレンC2H2が生成することがわかりました。

Htransfer

 それだけでは安心できない、もっと証拠を出せという方もおられることでしょう。実際、科学者というのは疑り深いので、ちょっと違った方面からの証拠を複数揃えないと、なかなか「なるほど」と納得してくれません。

 そこで研究グループでは、溶媒などを使わない条件でC2を発生させる実験を行いました。すると黒色の固体が生成し、ここにはフラーレンやグラファイト、カーボンナノチューブなどが含まれていることがわかったのです。C2が互いにつながり合い、これら炭素物質が出来上がったものと考えられます。フラーレンが出来上がる過程で、このC2が原料となっているという説は以前からありましたが、この結果はその強力な傍証といえます。

C2toC60
C2からフラーレンが出来上がる(イメージ)

 とはいえ、今までにもC2分子は観測されていたわけで、全く新しい成果でもないのではないか?また、一瞬で分解してなくなるような不安定な「物質」を作ったのがそんなにすごいことなのか?という見方もあろうかと思います。しかしこれは、化学者の視点から見れば非常に大きなブレイクスルーといえます。

 まず、C2分子はどのような構造をとるか今まで多くの議論がなされていたのですが、今回初めて炭素と炭素が四重結合した分子であることがきちんと確かめられました。炭素が四重結合を作ることは初めて知られたことであり、これだけでも教科書が書き換わる事実です。

 また、今まで観測されていたC2分子は、非常な高温で炭素材料を「破壊」し、その破片として得られたものでした。こうした条件では他の化合物も粉々に分解されてしまいますので、精密な有機合成への応用など望むべくもありません。しかし今回、不安定なC2を非常に温和な条件で発生させられるようになったことで、様々な応用の道が生まれました。

 C2分子が極めて不安定であるということは、裏を返せば反応性が非常に高いということです。これをうまく活かせれば、今までにない化学反応を起こせる可能性が拓けてきます。あの化合物と混ぜればこんな炭素材料ができないか、あの金属元素とはどう反応するだろうか、アレと混ぜて金づちで200回叩くとどうなるだろう――などなど、筆者程度の者でも思いつくことがいくつかあります。おそらく多くの研究者が、自分の研究にC2が応用できないか考えているはずです。

 個人的には、このC2は新型コロナ治療薬などと並び、「Molecule of the year」に選ばれてよい分子と思います。新たに見出された「炭素の新しい顔」が、今後いったいどのような発展を遂げるか、大いに期待したいところです。

カーボンナノベルト合成成功!

先日来、ある化合物の合成成功がテレビのニュースなどで大きく取り上げられています。これは、有機合成関連では珍しいことでしょう。何度か本ブログでも取り上げさせていただいております、名古屋大学の伊丹健一郎教授・瀬川泰知特任准教授らのグループによる「カーボンナノベルト」の合成がそれです(論文)。

 この論文は、「Nature」と並んで科学雑誌の最高峰である「Science」に掲載されました。すなわち有機化学者や化学分野の研究者のみにとどまらず、広く科学者全体が知るべき大きなインパクトのある成果だと認められたということになります。ということで今回は、何がそんなに凄いのかという話を書いてみます。

 今回作り出されたカーボンナノベルトは、下のような化合物です。六角形のベンゼン環が12個連結し、環の形を成しています。
CNV
CNV2
カーボンナノベルト。斜め上及び上から見たところ

 確かに美しい構造ですが、世の中に、ベンゼン環がつながった化合物は山ほどありますし、環を作っているものもたくさんあります。たとえば下図のケクレンもそのひとつで、これは1978年に合成されました。同じベンゼン環12個がつながった分子でも、カーボンナノベルトはケクレンに比べて約40年分もの科学の進歩を必要とするほど難しかったわけです。

kekulene
ケクレン

 なぜそんなに違うのかといえば、カーボンナノベルトは平面でなく曲がっているからという一点に尽きます。ベンゼン環は硬い板のようなもので、なるべく平面であろうとするので、これを丸めて筒状にすることはえらく難儀なことです。また、曲がったベンゼン環は性質が変わるので、通常の平面的なベンゼン環化合物を作る手法が通用しないケースも増えます。

 しかし困ったことにというべきか、こうして曲げられて性質が変化したベンゼン環は、科学者にとって大変魅力的な存在なのです。たとえばカーボンナノチューブは、蜂の巣のようにつながった炭素が筒状に丸まった構造で、強靭さとユニークな電子的性質を併せ持つ素晴らしい材料です。しかし、この長さや太さを制御し、完全に望みのものを創り出すことはいまだ成功しておらず、科学者にとって大きな夢の一つとなっています。

 というわけで、よし俺がやってやろうじゃねえかと、多くの科学者がその合成に挑んできました。まずはカーボンナノチューブの薄い輪切りに当たる下図のような分子(シクロパラフェニレン、CPP)が標的となるわけですが、さまざまな合成手法の発達にもかかわらず、トライアルは全て失敗に終わってきました。しかし2008年からようやく、CPPの合成がいくつかのグループによって報告され、カーボンナノチューブの完全制御合成という夢が視野に入ってきました。

cyclacene
シクロパラフェニレン

 ここからカーボンナノチューブへと伸ばすトライアルも行なわれています(過去記事)。ただし、かなり径の揃ったものはできたものの、完全な制御には成功していません。ベンゼン環を結合一本でつなぎ合わせたCPPでは、カーボンナノチューブ合成の際の高熱に耐えられず、壊れたり構造が変化したりしてしまうためと考えられます。

 となれば、もっと丈夫な原料が必要です。考えられるのは、ベンゼン環を辺でつないだ化合物です。上記のカーボンナノベルトはそのひとつですし、下図のようなものも考えられます。実はこれらは、カーボンナノチューブ出現のはるか以前である60年ほど前から、化学者たちによって考えられてきた「夢の分子」でした。

 しかし前述した通り、ベンゼン環は曲がりにくい硬い板のようなものです。ベンゼン環が単結合でぐるりとつながったシクロパラフェニレンに比べて、下図のような化合物は全体にずっと硬いわけで、難易度も格段に上がります。というわけでこれら化合物は、古くから多くの化学者の挑戦を跳ね返してきました。伊丹教授も12年前からこれら化合物の合成を目指しており、さまざまなチャレンジを繰り返しています。
cyclacenecyclophenacene
シクラセン(左)とシクロフェナセン(右)

 ではどうすれば、曲がりにくい板から筒状の形を作れるか?CPPの合成で採用されたのは、いわば「やきもの法」でした。柔らかい粘土を練って輪の形に成形し、火で焼けば硬いリングができあがります。これと同様に、CPPを構成する環の一部を柔らかいシクロヘキサン環として大きな環を形成し、その後に酸化処理をすることで、硬いベンゼン環に変えるという作戦です(詳細はこちらのブログ参照)。

 これに対して、今回合成に成功したカーボンナノベルトは、いわば「木桶法」とでもいえるでしょうか。木桶は、大きな輪(たが)の中に細い木の板を並べ、締め付けて作ります。これと同じように、まずWittig反応を駆使してベンゼン環を6つ大きな輪につなぎ、そのベンゼン環同士の間に結合を作らせることで、新たな6つのベンゼン環を形成するという手法が採られました。

laststep
カーボンナノベルト合成の最終段階(瀬川博士提供)

 瀬川博士によれば、この最終段階が最大の山場であったということです。一気に12ヶ所の結合を切り、6本の結合を作るわけですから、それだけでも大変なことです。しかし何より怖いのは、最後の目標となる化合物が全く未知である点です。

 こうした未知の化合物の合成では、目標とするものがどんな性質なのかはもちろん、どの程度に不安定なのか、さまざまな実験操作に耐えるものなのかわかりませんし、そもそもひずみが大きすぎてこの世に存在し得ない可能性もあります。他の化合物では問題なく進行する反応も、こうした骨格ではまるで通用しなかったりもします。山頂がどんなところか誰も知らない、そもそも山頂へ到達する道があるかどうかさえわからない登山に挑むようなもので、実験者には技術や知識はもちろん、精神力や忍耐力も大いに必要となります。

 この合成ルート自体も、これが最適だと最初からわかっていたわけではなく、20通り以上も試したルートのひとつだそうです。最終段階も、粘り強い検討の末に、ようやく見つけ出された条件でした。しかしこのルートでの合成が始まってからは、わずか10ヶ月でゴールに到達したそうですから、実験担当者の技術と集中力には驚きの一言しかありません。

 しかしある日、「いかにも」な雰囲気の赤い化合物が見えたのでこれを単離し、1H-NMRを測定すると、見事に目指すチャート(2本のシングレット)が得られました。ただし最終的な判定は、分子の形が完全に解明できる、X線結晶解析による他はありません。

 その解析結果の公開の様子がこちら。

 この動画は研究室のサイトに載せられ、かなりのアクセスと反響を集めたようです。研究者もアスリートやサラリーマン同様、目標に向かって走り、ある時は喜び、ある時は凹む人々だということが伝わったのではないでしょうか。

 テレビニュースなどで大きく取り上げられたのも、この映像があったことが大きそうに思います。めったにない素晴らしい瞬間は、こうして記録に残して外部と共有することが、これからもっと行なわれてもよさそうに思います。

*   *   *   *   *

 これは化学者たちの長年の夢が実った瞬間でもありますが、同時に新たなスタートでもあります。誰かが壁を越えると、それをきっかけに多くの競争者たちが後に続き、一気に新たな領域が切り拓かれることは、歴史上何度も繰り返されてきました。伊丹グループに合成の一番乗りこそ許したが、このまま独走はさせんぞと気勢を上げている研究者は、国内外に数多くいるはずです。

 その勢いで、今後新たなカーボンナノベルトの類縁体や新合成法が続々と報告され、性質が解明されていくことになるでしょう。カーボンナノチューブの制御合成という夢はもちろん真っ先に追求されることでしょうが、その他にも思わぬ応用や意外な展開がたくさん出てくるものと思います。今後繰り広げられるであろう研究者の協力と競争の数々、そして素晴らしい新物質の登場に、筆者として大いに期待したいところです。

多環式芳香族を数え上げる

 さてまたずいぶん更新をサボってしまいました。何を書こうかと思ったのですが、いま筆者は「π造形科学」の広報を務めておりますので、ちょっと芳香族化合物のことを書いてみましょう。

 アルカンの炭素数が増えていくと、異性体の種類も加速度的に増えていくことが知られています。炭素数3までは1種類しかありませんが、その後は一炭素増えるごとにほぼ倍々ペースで増えていきます。炭素数20のイコサンでは約36万種、炭素数30のトリアコンタンでは約41億種、炭素数40のテトラコンタンでは約62兆種の異性体が存在する計算だそうです(こちらなど参考)。

alkanes

 一方、芳香族化合物の基本になるのはベンゼンです。この六角形がたくさんつながったものが、多環式芳香族炭化水素(Polyaromatic Hydrocarbon, PAH)と呼ばれる化合物群で、連結の仕方や数によってさまざまな性質を示します。では、このPAHにはどのくらいの種類があるでしょうか?

 環の数が1個(ベンゼン)及び2個(ナフタレン)の場合、異性体はなく1種類だけです。では環が3つになるとどうか?単純に六角形を3つつないだ図形は、3種類考えられます。しかし右側にある団子型の化合物(フェナレン)では、どう二重結合を配置しても、sp2配置になれない炭素が出てきてしまいます。このため、環の数が3の場合、PAHはアントラセンとフェナントレンの2種類のみということになります。

3rings
アントラセン(右上)、フェナントレン(右下)、フェナレン(右)

 環の数が4つだと、形の上では7種の異性体がありえます。しかし、やはりこのうち一番右にあるひとつだけ、全ての環が芳香環になれません。というわけで、環が4つのとき、PAHの種類としては6種が存在します。

4rings
右の黄色い化合物のみ、芳香環のみで構成できない。

 では環が5つになるとどうでしょうか。早くも筆者の手には負えなくなってきたので、ウィキペディア先生に聞いてみましたところ、5つの正六角形をつないでできる図形は22種だそうです。何でもありますね、ウィキペディア。

5rings

 このうち、筆者の勘定が間違っていなければ、7種類が条件を満たせませんので、PAHになりうるのは15種です(下図)。要するに、水素が結合できる場所が奇数ヶ所である場合は、どうあがいても芳香環にはなれませんので除外できます。ちなみに除外組には、以前取り上げたオリンピセンも含まれます。

5rings_X

 環の数が6つになると、また違った問題が出てきます。6つの六角形を環につないだ、穴あき図形が出てくるのです。これはPAHでいうならコロネンに相当しますので、7環性化合物に分類すべきでしょう。その代わり、6つの環がらせん状につながった、ヘリセンが登場しますので、これをカウントすることにしましょう。

coronene&helicene
コロネン(左)とヘリセン(右)

 すると、6つの六角形から成る図形82種のうち、31種がアウトということになります(だと思います)。ということで、6環性のPAHは51種ということになります(と思います)。

6rings

 環が7つでは333種、8つでは1448種、9つでは6572種、10では30490種の図形が存在するそうで、これらのうちいくつPAHになりうるのか、もう手動では全く追いつきません。アルカンの異性体数え上げでも相当大変ですが、こちらはそれ以上の課題になりそうです。もう計算されているのかどうかわかりませんが、どなたかコンピュータを駆使してチャレンジしてみてはどうでしょうか。先行例がなければ、論文一報くらいになるかもしれません。

一人でサイエンス

 Nature誌やScience誌などで、有機合成関係の論文を見かける機会が増えてきました。90年代ごろには、両誌に有機分野の論文が載ることはきわめてまれで、Nicolaouのタキソール全合成(Nature 367, 630 (1993).)や、村井らの触媒的C-H結合活性化反応(Nature 366, 529 (1993).)など、文字通り歴史的な論文がたまに掲載される程度でした。筆者など、ちょっと生物学分野に偏り過ぎなんじゃないの、と思っていたものです。

 しかし最近では、毎週のように――はちょっと言い過ぎかもしれませんが、かなりたくさん有機分野の論文が掲載されるようになりました。その分、なんでこれがNature、Scienceなんだろかと思うようなこともありますが、まあ筆者の見る目がないのでしょう。

 こうした超一流誌に掲載される論文は、大人数が投入された大型プロジェクトが多くなります。分野をまたがった共同研究などでは、著者が20人くらいになることも珍しくありません。余談ながら論文の著者数の世界記録は、Phys. Rev. Lett.誌に載ったヒッグス粒子に関する報告で、なんと5154人が著者として掲載されています。33ページの論文のうち、著者名と所属機関の表記だけで24ページを占めているということで、いろいろと桁違いのお話です。

 ところが、大学などに所属せず、自宅の物置きでたった一人で行なった研究で、Science掲載を果たした人物もいます。ホロトキシンという化合物を発見した、島田恵年氏がその人です。

holotoxin
ホロトキシン

 島田氏は、京都大学薬学部の学生であったころ、母の「ナマコが水虫に効く」という言葉を聞き、試したところこれが本当に有効であったそうです。島田氏は大学院を中退し、自宅の物置きでナマコから有効成分を抽出する実験に取り組み、10年かかってホロトキシンを結晶化することに成功したのです。この結果をまとめた論文は、1969年にみごとScience誌掲載を果たしました(こちらで見られます)。

 島田氏はこのホロトキシンを「ホロスリン」の名で水虫薬として商品化し、現在でもホロスリン製薬から発売されています。在野の一化学者の果たした快挙といえると思います。

 前述のヒッグス粒子のようなビッグサイエンスが幅を利かす現代にあっては、こうした小規模で地道な研究が、世間をあっといわせる成果を挙げるのはなかなか難しいのが現実です。とはいえ、金と人をかけるばかりではない、鋭いアイディアの研究も見てみたいと思う次第です。

(参考)「海の生き物からの贈り物~薬と毒と~」 化学工業日報社
海洋天然物化学について一般向けに書かれた本ですが、上記のようなエピソードも満載で、大変に面白い本です。著者は,DPPAやTMSジアゾメタンの開発で知られる、塩入孝之先生です。

実は行く反応、行かない反応

 有機合成の世界では、論文を見て反応を行なってみても、書いてある通りの収率・選択性が出ないことはさほど珍しくありません。論文を書いている方は、何度も同じ反応を繰り返し行なって慣れているからということもあるのでしょうが、やっぱり何度追試してもうまく行かず、悔しい思いをすることも多々あります。

 というわけで、あの国の論文は信用するなとか、あの研究室から出てくる数字は怪しい、などという評判は誰しも聞いたことがあるでしょう。口の悪い人など「○○(教授の名)係数は0.7くらいだ」なんてことを言ったりもします。○○先生の論文に収率80%と書いてあったら、そこに0.7をかけて実際には5割ちょっとくらいと思っておけば間違いない、という意味だそうです。

 とはいえ、こうした再現性の低い論文が表立って取り沙汰されることはほとんどありません。たいていは「うちではうまく行かなかった」でひっそりと終わってしまいます。ところが最近、「この論文に書いてある通りに実験しても、書いてある通りの選択性が出ないぞ!」という論文が出版され、ちょっと話題になっています。論文の主は、イリノイ大学の大御所、Scott Denmark教授です。

 ことの起こりは、2003年にPatrick Henryらが、Organic Letters誌に報告した論文に遡ります。オレフィンに対して塩素あるいは臭素を付加させ、1,2-ジハロアルカンにする反応は、教科書には必ず載っている基本的かつ有用な反応です。Henryらは、不斉パラジウム錯体を触媒として用いることで、この付加反応を高い立体選択性で行えると報告したのです。

dibromo

 反応はWacker酸化に近い条件で行なわれ、選択性は95%ee(97.5:2.5)にも達する、としています。本当であるなら、なかなか利用範囲の広そうな、よい反応だと思えます。ところがDenmarkらが、この反応条件を可能な限り忠実に再現して実験を行なってみても、化学収率はほぼ再現するものの、どの基質でもラセミ体のみが得られ、立体選択性は全く見られなかったという結果になりました。アルゴン雰囲気下で反応を行なったり、反応を途中で止めて確認したりなどしましたが、結果は変わりなかったということです。

 Henryらは、キラルシフト試薬を用いたNMRで光学収率を決めていますが、これらのデータの詳細がHenryらの論文には記載されていないため、事情ははっきりしないようです。責任著者でもあるHenry教授はすでに2008年に世を去っているそうで、過去のデータも出てこないかもしれません。

 論文に書いてあることが再現しなくても、実験者の腕の問題として片付けられてしまうことも多いですし、「再現しない」という完全な証明は(某細胞のケースに見られる通り)、実際上困難です。その意味でDenmarkらがこうした論文を書くのは、なかなか勇気のいることであっただろうと思います。


 これと逆に、「進行しない」とされた反応が、実は間違いなく進行するものであったとわかったケースもありました。1960年、Wittig反応で有名なG. Wittigは、V. Franzenとの共著で、新しいシクロプロパン化反応を報告しました。臭化テトラメチルアンモニウムにフェニルリチウムを作用させ、オレフィンと反応させるというものでした。

Wittig-Franzen

 しかし4年後の1964年、Wittigはこの報告を撤回します。別の教え子にこの反応を試させたところ、全く再現しなかったためでした。Franzenはこのためアカデミックの道に進む夢を絶たれ、企業へと活躍の場を移しています。

 ところが、半世紀以上を過ぎた今年になり、Peter Chenらがこれに類似した反応を報告したのです。Franzenとの主な差は、ニッケル錯体(PPh32NiBr2を加えていることでした。つまりFranzenの実験では、どこからか不純物として入り込んだニッケルが触媒として働き、シクロプロパン化が進んだ可能性が高いと考えられます。

 このシクロプロパン化はなかなか気難しい反応で、触媒の量が0.1〜1mol%だとうまく行きますが、5mol%まで増やすと副反応が優先してしまい、目的物が得られません。こうした性質のため、いろいろ試しても再現が難しかった可能性があります。

 Franzen氏は70代半ばころだと思われますが、もしこの論文を読んだとしたら、いったいどんな思いであったでしょうか。再現性は科学の基本ではありますが、なかなか難しいことでもあります。

血のにおいの化合物

 またずいぶんと更新の間が空いてしまいました。先月の「世界史を変えた薬」に続き、今月は「国道者」、さらに来年1月にも新刊を控えていて、なかなかてんやわんやな状態です。

 というわけで、今回は身近なところからひとネタ。口の中を切ったり、鼻血が出たりした時、我々は「血のにおい」を感じ取ります。金属的なにおいであるので、「金気臭い」などと表現されたりすることもあります。これはいったい何のにおいなのでしょうか?

 血液は鉄イオンを含んでいますので、そのにおいかと思ってしまいますが、実際には鉄が直接臭っているわけではないそうです。血中のヘモグロビンが、皮脂などの脂肪酸と反応し、分解してできる成分の臭気であることがわかっています。たとえば下に示す1-オクテン-3-オン、トランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナールなどが主成分です。

octenone

blood
(上)1-オクテン-3-オン(下)トランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナール

 と、この話、当ブログの昔からの読者ならば、記憶に引っかかっている話があるかもしれません。「鉄のにおいの正体」というタイトルで、鉄さびが手についた時のにおいについて書きましたが、それと同じような話だからです。1-オクテン-3-オンも、「鉄のにおい」としてその時に紹介しています。

 ちなみにこの1-オクテン-3-オンは、金属臭の他「キノコのにおい」とも表現されます。実際、この化合物のケトンがアルコールに還元された形の1-オクテン-3-オールはマツタケの香り成分として知られ、「マツタケオール」の別名があります。言われてみれば、多少血に近いにおいかもしれません。

matsutakeol
マツタケオール

 もうひとつの「血のにおい」の成分であるトランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナールは、極めて感知されやすいにおい成分であり、空気中に1リットルあたり1.5ピコグラム(1兆分の1.5グラム)含まれていれば、においを感じ取れるのだそうです。言うまでもなく、血のにおいは獲物や敵の居場所を察知するために重要であり、このためこの化合物を鋭敏に感知するようになったと思われます。

 しかしこの化合物、有機化学を学んだ人ならおわかりの通り、かなり不安定そうであり、水分や人体の持ついろいろな物質と反応して、すぐ別のものに変化しそうな構造です。我々が鉄や血のにおいと思っているのはこの化合物ということですが、実際にはまた別の化合物に変化し、それを感知している可能性もありそうです。してみると、「におい」とは一体何であるのか、ちょっと哲学的な気分にさせられる話ではあります。

ノーベル化学賞予想

 さて今年もノーベル賞の季節がやってまいりました。5日の生理学・医学賞を皮切りに、6日物理学賞、7日化学賞が順次発表される予定です。

 筆者の専門分野である有機化学方面には、しばらくノーベル賞が出ていませんが、今年辺りそろそろという期待がかかっています。というのは、過去の受賞を見てみると、下のようにだいたい5年周期で有機分野が受賞しているので、今年あたりそろそろと思えるわけです(以下敬称略)。 
 1990 E. J. Corey 有機合成理論および方法論の開発
 1994 G. A. Olah カルボカチオン化学への貢献
 2001 Sharpless, 野依良治, Knowles 不斉触媒の開発
 2005 Chauvin, Grubbs, Schrock オレフィンメタセシスの開発
 2010 Heck, 根岸英一, 鈴木章 クロスカップリング反応の開発
 
 では有機化学の中だと、どの分野に賞が出るか?筆者の勝手な予想を書いてみます。

 ・合成反応開発
 最近3回はこの分野に出ているので、ある意味本命といえます。近年の大きな潮流を作り出している有機触媒でB. ListやD. W. C. MacMillan、C-H結合活性化でR. G. Bergmannや村井真二などの各氏が候補に挙がりそうです。ただし、最近の化学賞は社会的応用が重視される傾向にあるので、このへんのジャンルはまだちょっと受賞には早いかもしれません。

 ちょっとニュアンスは異なりますが、クリックケミストリーは化学の広い分野に影響を与えており、十分に受賞資格があると思います。受賞すれば2度めとなるK. B. Sharplessの他、V. V. Fokin, C. R. Bertozziなどが候補に挙がるでしょうか。

 安定カルベンの化学もまた多くのジャンルにインパクトを与えており、A. J. Arduengo IIIを個人的には推したいところです。ただし、このジャンルの先鞭をつけたH. W. Wanzlickはすでに亡くなっており、これがどう影響するか。

 ・天然物全合成
 K. C. Nicolaou, S. J. Danishefskyらをはじめビッグネームがそろっていますが、最近の流れを見ているともはやこの分野には厳しいでしょうか。個人的にはなくなってほしくない分野ですが。

 ・有機電子材料
 有機半導体、有機磁性体、有機ELなど発展の著しいジャンルで、そろそろこの方面に出る可能性もあろうかと思います。かといって誰が受賞するかとなるとちょっと難しいのですが、有機ELの開祖であるC. W. Tangが有力だとは思います。

 ・超分子化学
 いわゆる自己組織化は、科学の広い分野に通用する概念です。J. F. Stoddart, J. Rebek Jr., G. M. Whitesidesといったあたりがトップランナーですが、結晶スポンジ法というインパクトの大きな応用を示した藤田誠に一票を投じたいところです。

 ・日本人の受賞は?
 PCP/MOFも近年大注目のジャンルで、北川進らが候補に挙げられますが、もう少し応用が出てきてからかもしれません。また、物理学賞の有力候補によく挙がる細野秀雄・十倉好紀なども、化学賞に入ってくる可能性もありそうです。ナノカーボン分野の飯島澄男、中村栄一といったところも、いつでも可能性ありでしょう。

 このあたりの先生方に獲っていただくと、筆者にもいろいろ仕事が回ってきそうなのですが(笑)、果たしてどうなりますか。当日を楽しみに待ちたいと思います。

赤はなぜ色褪せるのか

 街を歩いていると、色あせた古い標識を見かけることがあります。
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 この標識は本来鮮やかな赤色の矢印なのですが、ご覧の通りかなり褪色して薄いピンクのような色合いになっています。これに対し、国道のおにぎりマークや縁取りの青はまだ鮮やかさを保っています。このタイプの標識は、1995年から設置されるようになったものですので、20年ほどで赤だけがずいぶん色褪せてしまっているということになります。

 このように、赤色が他の色より褪色しやすいというのは、ちょくちょくみかける現象です。ひどくなると下の写真のように、肝心なところがきれいに抜けて読めなくなったりします。大事なことは赤で書きたくなりますが、時の流れを考えるとあまり得策でないことがわかります。
akanuke2

akanuke1

 さて、なぜ赤色はさめてしまいやすいのでしょうか?これは偶然ではなく、それなりの理由があります。まず赤い塗料がなぜ赤く見えるかというと、塗料が赤い光を跳ね返し、青や紫などの光を吸収するからです。青い塗料はこの逆で、青い光を反射して赤などの光を吸収します。

 しかし、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。特に紫外線は、原子と原子の結合を切断し、分子を破壊してしまう力を持ちます。長く屋外に置かれたプラスチックがぼろぼろと劣化するのも、この作用が大きな要因です。下の写真など見ると、紫外線というのは破壊光線であると実感します。

hakaikousen
水銀灯の紫外線によって破れたプラスチック網

 つまり赤色塗料は、高エネルギーの光を吸収するものですから、宿命的に劣化を受けやすいといえます。たとえば下図のような塗料分子は、中央付近に含まれているアゾ基(-N=N-)が発色のために不可欠です。しかしこの部分は、紫外線を受けて空気中の酸素などと反応し、切断されてしまいます。こうなると、光を吸収することができなくなり、色が消えてしまうことになります。

pigmentred12
ピグメントレッド12

 といっても、世の中の赤色塗料が全て経年劣化するわけではありません。たとえば下のようなキナクリドン骨格を持った化合物は、褪色が少ないために自動車の塗装などによく用いられます。分子の平面性が高い上、水素結合によって互いに引きつけ合うので、分子どうしが密に詰まり、酸素などの影響を受けにくいためです。さらに、重ね塗りやコーティングなどを施すことで耐光性はより高まり、色褪せをかなり防ぐことができるようになります。

quinacridone

 世の中で目に入る一つ一つの現象の陰に、化学は潜んでいます。化学を知り、原子のレベルで考えてみると、ああなるほどと思う事柄は数多いものです。

最大の芳香環

 有機化学において、「芳香族性」という概念は非常に重要です。π電子が(4n+2)個集まって環を成すと、全体が安定化するというもので、6員環のベンゼンはその典型です。

benzene
ベンゼン

 さて、その(4n+2)のnを大きくしていくとどうなるか?たとえばn=3の14員環を炭化水素で作ると、あまり安定な芳香環にはなりません。光や空気の影響を受け、室温ではすぐ分解してしまいます。環の内側の水素が反発して、分子全体が平面性を失うため、理想的な共鳴状態から外れるためです。n=4の18員環になると、十分なサイズがあるため平面性を保つことができ、芳香族性を示すようになります。

annulene
[14]アヌレン(左)と[18]アヌレン(右)

 とはいえ、環のサイズが大きくなってくると、全体として歪みやすくなり、安定性は低下してきます。そこで小さな環を組み込んでやれば分子は丈夫になり、安定性を増します。ポルフィリンはその典型で、18π系の安定な芳香族化合物となります。

porphyrin
ポルフィリン

 この調子でサイズを大きくしていくことも、もちろんできます。たとえば、ピロール環6つを含む「ルビリン」(下図)は、全体として26π電子系となっています(論文)。ルビリンの名は、この化合物がルビーのような赤色であることから来ています。

rubyrin
ルビリン

 さらに大きな環を見たいという方には、こちらはいかがでしょうか。2001年に合成されたオクタフィリンは、34π電子系を持っています(論文)。このへんになると、チオフェン環があっちこっちを向いてしまうのですね。

octaphyrin
オクタフィリン。黄色は硫黄またはセレン。

 となると、どこまで大きな芳香環が作れるのか、気にかかってくるのが人情というものではないでしょうか。え、筆者だけですか。実はこのほど、50π電子系を持ったモンスター芳香環が登場しました。これを報告したのは、ポルフィリン化学の第一人者である京都大学の大須賀篤弘教授と、韓国・延世大学のDongho Kim教授らのグループです(論文)。

 こちらの化合物、ピロール環12個を含む骨格を持ちます。52π電子系の化合物をDDQで酸化することで、芳香族性を示す50π化合物が得られます。これは8の字状にねじれていますが、酸性にするとテトラプロトン化されて、より平面に近い骨格となります(下図)。

50pi
ドデカフィリンの構造。緑の球はペンタフルオロフェニル基を表す。

 というわけで、分子のギネスブックに掲載されるべき化合物がまた増えたようです。しかし論文の末尾では「Further attempts to realize much larger aromatic expanded porphyrins are in progress in our laboratory.」(意訳:まだまだ行くでぇ!)とありますので、さらに大きなものが出てきそうです。芳香環の限界はどのあたりなのか、ポルフィリンの世界はどこまで広がるのか、実に楽しみではあります。
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