有機化学美術館・分館

HP有機化学美術館のブログ版。タイムリーな話題,短いテーマをこちらで取り上げます。

雑記

ドラマ「厨房のありす」を監修することになりました

 さて、年も押し詰まったこのタイミングに、非常に久方ぶりのブログです。本日は、新しいお仕事の報告などを。

 というのは、来年1月より日テレ系で放送開始のドラマ「厨房のありす」の化学監修を務めることになりました。主役の八重森ありすは「料理は化学です」が口癖の天才料理人、その父は有機化学の教授、また製薬企業もストーリーに絡むなど、なかなかガッツリと化学のお話が出てきまくるストーリーになっております。


 こうした内容のドラマですので、化学や医薬について正確を期さねばならず、筆者に声がかかったという次第です。もちろんテレビドラマの監修などは初めてですが、面白そうなので引き受けることにいたしました。

 劇中に登場する構造式やセリフのチェック、ストーリー設定への協力、主人公の部屋に置かれる分子模型の作成など、さまざまな形で関わっております。先日は、初めてロケの現場に伺い、撮影にも立ち会ってきました。架空の試薬会社のラベルが貼られた試薬、架空の学会のポスターなど細かく作り込まれていて、カメラには映らないようなところまできっちり設定されていることに感心したりしました。

 もちろんプロの役者さんの技倆というのも凄まじいもので、直前まで雑談をしていたものが一瞬でドラマの世界に切り替わり、見る者を引き込んでしまうわけです。名優とはこういうものか、と大変に感銘を受けた次第です。

 というわけで、ドラマ内の研究室のホワイトボードには、筆者の汚い字や雑な構造式などが映り込んでいることと思います。何が描いてあるか、化学系の方は目を皿のようにして見て確認するのも一興かと思います。

 ドラマは2024年1月21日(日)22:30に、日テレ系で放送開始。門脇麦、永瀬廉、大森南朋、前田敦子さんらが出演します。みなさまご覧いただければ幸いです。

あの試薬の意外な使いみち

 有機化学の実験室にはさまざまな試薬があり、それらの特徴をよく知って使い分けることが必要になります。しかしそうした試薬には、実験室外でも意外な使い方をされているものがあります。

 たとえば塩化チオニルは、塩素化剤として最も広く利用される試薬です。アルコールのOH基を塩素に置換して塩化アルキルに、またカルボン酸を酸塩化物へ変換する能力を持ちます。副生成物は塩化水素と二酸化硫黄だけであるため、単に反応液を留去するだけでほぼ純粋な生成物が得られるので、この反応の際に真っ先に検討する試薬といえます。

SOCl2rxn

 この塩化チオニルは、電池の陽極として用いることで、高電圧の電池となることが知られています。陰極として金属リチウムを用いるため、塩化チオニルリチウム電池と呼ばれます。

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塩化チオニルリチウム電池(Wikipediaより)

 塩化チオニルリチウム電池は、長期間にわたって広い温度幅で使える特性があります。このため、水道やガスメーター、防犯装置の電源として用いられます。宇宙開発にも活躍し、現在公開中の映画「オデッセイ」の原作「火星の人」(大変面白いです)にも登場します。ただし、塩化チオニルには腐食性があるため、破損すると危険です。このため塩化チオニルリチウム電池は、組み込み部品として用いられることがほとんどであり、その姿を我々が見る機会はほとんどありません。


 過酸化ベンゾイルも、実験室には常備されている試薬のひとつです。この化合物は不安定なO-O結合を持つため、熱などで開裂してラジカルを発生します。このため、オレフィン重合の開始剤としてよく用いられます。

Bz2O2
過酸化ベンゾイル

 この過酸化ベンゾイルは、ニキビ治療薬としての用途があります。アメリカなどではかなり以前から用いられてきましたが、日本でも2015年にようやく認可され、皮膚科などで処方されるようになりました。この化合物がニキビの原因となる菌を殺すことによって効果を表します。また、ピーリング作用を持ち、角質を除去するはたらきもあるようです。


 もうひとつ、水素化ホウ素ナトリウムも有名な還元剤であり、ケトンやアルデヒドをマイルドな条件でアルコールに変換することができます。使ったことがない有機化学者はいない、というくらいに汎用される試薬でしょう。

NaBH4

 この化合物は、酸やある種の触媒によって分解して水素分子を放出するため、水素源として用いられることがあります。水素はクリーンなエネルギー源であるものの、運搬が難しいというデメリットがありますが、水素化ホウ素ナトリウムはその難点を解決する手段の一つとして期待されています。

 ちょっと意外な用途としては、絵画の修復があります。紙は長い年月の間に、光による黄変、カビなどのシミが発生し、せっかくの絵画を鑑賞不能にしてしまいます。こうした紙を、0.25%ほどの薄い水素化ホウ素ナトリウム水溶液に浸すと、色素成分が分解されて白く戻ることがあるのです。もちろん紙に薬品が残っていると劣化の原因になってしまうので、処置後は純水でよく洗い流す必要があります。


 これらはあくまで有機化学者から見た「意外な用途」であり、他分野の人から見れば「この薬品は有機化学でも使うのか」と思われるものかもしれません。しかし、多くの試薬の性質を熟知した研究者なら、ちょっと頭を柔らかくすれば、他分野での思わぬ応用がひらめく可能性もありそうです。

新元素名は何になるか

 昨年末、日本の科学界に待望のニュースが飛び込みました。森田浩介博士(現・九州大)率いる理研チームが合成・報告した113番元素がIUPACの認定を受け、命名権が同グループに与えられたっというものです。日本はもちろんアジアでも初の快挙であり、科学史上に残るできごとと言ってよいでしょう。

 実はこの時発表されたのは113番だけではなく、115・117・118番元素にも同時に命名権が与えられています。115番と117番は、JINR(ロシアのドゥブナ合同原子核研究所と、米国ローレンス・リバモア研究所、オークリッジ国立研究所の共同研究チーム)が、118番は同じくロシアのドゥブナ合同原子核研究所と、米国ローレンス・リバモア研究所の連合チームに命名権が授与されています(こちら)。

113-118

 さてそうなると、これら新元素の名前は何になるのか。この件に関し、Nature Chemistry誌のブログ「The Sceptical Chymist」で予想が行なわれています(New kids on the p-block)。専門家を招き、オッズなどもつけられて、なかなか本格的です。

 まず語尾ですが、新元素が金属と予測される場合は-iumで終わるようにという規定がありますが、117番はハロゲン、118番は貴ガスの位置です。このため、先輩元素たちに合わせて117番元素は-ine、118番元素は-onで終わる名が予想に挙がっています(もちろん新元素の化学的性質は全くわかっておらず、ハロゲンや貴ガスに分類されるべきものかどうかはまだ不明ですが)。

 語幹の方は、
(1)神話にちなむもの
(2)鉱物名
(3)国名や地名
(4)元素の性質
(5)科学者の名
から取るというガイドラインがあります。といっても、最近の元素は鉱物から得られるわけでもなく、性質もわからないところが多いので、地名か科学者名がほとんどになっています。

 ☆113番元素の名は?
 日本発の新元素である113番元素には、オッズの高い方から順にJaponium、Nipponium、Nihonium、Rikeniumなどの名が挙げられています。ただ、一度元素名として提案されて消えた「幻の元素」の名は使えないということもあるようなので、43番元素に対して一度提案された「ニッポニウム」は不可とされる可能性大です。リケニウムも、理研は地名ではないので外されるのではと思います。

 ニホニウムとかジャポニウムはOKのはずなので、後者が今のところ本命視されています。なんでジャパニウムは候補にならないんだろう、とちょっと疑問ですが。日本神話にちなんで「Amaterasium」も8対1のオッズで、響きは悪くありませんがどうでしょうか。

 謎なのは、6対1というかなり高いオッズで、「Enenraium」が推されていることです。エネンラて何よ、と思って調べたら、「煙々羅」という煙の妖怪がいるのだそうです。いったい、なぜこれが出てきたのやら。それであればヌラリヒョニウムかジバニャニウムとかの方が、よっぽどなじみがあると思いますが。ちなみにオッズ50万対1で、「Godzillium」の名も入っていたりします。

SekienEnenra
妖怪・煙々羅

 ☆115番元素
 先ほど、新元素名は地名か科学者にちなむものがほとんどと書きましたが、最近の元素発見は米ロ独のチームによる寡占状態が続いているため、地名はだいぶ使い尽くされてきた感もあります。先のブログでは大本命として、モスクワにちなむ「Moscovium」が挙げられています。この名前、116番のリバモリウムの時にも提案されているということですが、リベンジは成るでしょうか。

 ロシアにちなむ元素には、すでにルテニウム(ロシアの古名Rutheniaから)があります。また、ルシウム(Russium)は、すでに19世紀に一度提案されて消えているようです。アメリカの研究所にちなむTennessium、Oakridgiumも挙がっていますが、アメリカ側の寄与が小さいと見られているのか、オッズは高くありません。

 ☆科学者の名
 というわけで、科学者名由来の新元素名がつけられる可能性はかなり高いと思われます。113番元素に対しては、物理学者仁科芳雄にちなむ「Nishinium」が候補になっています。日本の著名な核物理学者には湯川秀樹、長岡半太郎、南部陽一郎などもいますが、理研の大先達である仁科が有力ということでしょう。筆者も、人命由来ならニシニウムが本命かと思います。

225px-Yoshio_Nishina2
日本の現代物理学の父・仁科芳雄

 他にも、いまだ元素名になっていない大物学者はたくさんいます。先のブログでは、ベルセリウス、アボガドロ、モーズリー、パウリ、ポーリングなどにちなむ名が挙げられています。シュレーディンガーやハイゼンベルクといった超大物もまだ元素名にはなっていませんが、これだと名前が長くなりすぎるのが問題かもしれません。

 日本ではあまり有名ではありませんが、98〜109番あたりの元素合成に大きく貢献した科学者、アルバート・ギオルソが選ばれる可能性はかなりありそうに思います。米国からの意見が通るようなら、ギオルシウムの名が周期表に刻まれることになるでしょう。

 候補には挙がっていませんが、118番元素に対しては、貴ガス発見に多大な貢献をしたW. Ramsayにちなんで「Ramsayon」の名はどうかと個人的には思います。第7の貴ガスに、最もふさわしい名前ではないでしょうか。

 というわけで筆者の予想をまとめますと、

 113番:ジャポニウム(Jp)
 115番:モスコビウム(Ms)
 117番:ギオルシン(Gi)
 118番:ラムゼイオン(Rm)

 てな感じでありますが、みなさまのご意見はいかがでしょうか。

自著を振り返ってみる(1)

 さて昨年は2冊の本を出版し、筆者の単著はこれで累計10冊の大台に乗りました。いつの間にかずいぶん書いてきたものだなと思います。ということでこの機会に、ここまで出してきた本を、裏話など交えつつ振り返ってみようかと思います。

 ・有機化学美術館へようこそ ‾分子の世界の造形とドラマ
 2007年5月刊の、記念すべき処女作。旧サイトを元に加筆修正したものです。それまでにも2度ほど「サイトを書籍化しませんか」という声はかけていただいていたのですが、三度目の正直で日の目を見ました。

 今見ると書き手として未熟だなと思うところも多々ありますが、カラーページも充実しており、美術館の名に恥じない出来と思います。これだけ面白分子を大々的に扱った本はそれまでなかったし、その後も類書は出ていません。出来上がった本を手にとった時、書店に並んでいるのを見た時の感動は、生涯忘れることはないでしょう。

 まだ会社に務めていたころに出した本なので、手続きやら認可やらいろいろ面倒だったのも、今となってはよい思い出です。3万部くらい売れたら会社を辞めてライターになってやろうと思っていたのですが、残念ながら1万部少々でした。まあ結局、この本が出た半年後に退職してしまったのですが(笑)。

勤めが終わってから、毎日遅くまで構造式をしこしこと描いたものでした。

 ・化学物質はなぜ嫌われるのか ‾「化学物質」のニュースを読み解く
 2008年6月刊行。1冊めと同じ、技術評論社の「知りたい!サイエンス」レーベルからです。専業ライターになって初めての本で、それだけに気合も入りました。各種の化学物質を取り上げ、その危険性について世間での誤解を解くコンセプトで書いています。こういう本はミスがあった場合を考えると非常に恐いのですが、科学的に見てここまでは大丈夫と見たら、思い切って踏み込むことにしたのがよかったと思います。

 この本は、タイトルをどうするかで出版社側とずいぶんもめた記憶があります。実はタイトルというものは書き手が自由に決められるものではなく、営業政策やらいろいろにらみ合わせて、編集会議で決まります(もちろん意見は聞かれますが)。書き手にとって著書は可愛いわが子同然なので、納得の行く題名をつけたいところなのですが、この本に関してはこれがベストであったか、今もわかりません。

 売り上げは前作とあまり変わりありませんでしたが、これをきっかけにあちこち講演などにも呼んでいただき、多少なりと化学物質に対する世間の理解に貢献できたかなと思っています。また、評論家の宮崎哲弥氏に週刊文春のコラムで「掛け値なしの名著である!」と激賞いただき、ライターとして非常に自信になりました。これが次の仕事につながり、飛躍のきっかけともなったので、思い出深い一冊です。この週刊文春は、今も大事に保管してあります。

フリーとなり、気楽ながらも迫り来る貧困の恐怖に怯えながら書いていました。

 ・医薬品クライシス―78兆円市場の激震 (新潮新書)
 2010年1月刊。東京大学で働いているときに出した本で、初めての完全書き下ろしでした。古巣の医薬品業界について書いた本で、大型医薬品の特許が一斉に切れる「2010年問題」をテーマとしています。医薬がなぜ効くか、創薬の過程、副作用の問題、医薬品業界の現状分析、なぜ薬が生まれなくなったかなど、ちょっと詰め込み過ぎたかというくらいに書きました。

 ちょうど経済誌などで2010年問題が取り沙汰されていた時期でもあり、3万部を超える売れ行きとなりました。またこれで科学ジャーナリスト賞をいただき、大学に拾っていただいた先生に多少なりと恩返しをすることができたのも嬉しかったです。講演など、いろいろな仕事を呼んできてくれた孝行息子でもあります。まあNHKの生番組にまで引っぱり出されるはめとなり、青い顔でもごもごしゃべって多方面からツッコミをいただいたような、若干苦い記憶もあるにはありますが。


ライターとして何とかやっていけるのではと、希望を持つことができた一冊。

 ・創薬科学入門—薬はどのようにつくられる?
 2011年11月刊。フリーのライターになってからすぐ、オーム社の「MedicalBio」誌に連載の枠をいただき、創薬に関する記事を書きました。本書はこれをまとめたものです。

 製薬企業のプロのメディシナルケミストが読む教科書というよりも、学生さんや薬理担当者などが読む感じをイメージして書いています。あまり堅苦しくなく、読み物としての要素も加えました。またFBDDや抗体技術など、(当時の)最新技術についてもできる限り盛り込んでいます。

 本書は、アメリカでベンチャーを立ち上げて「レスキュラ」「アミティザ」という2つの新薬を送り出した、久能祐子先生に監修をいただき、その創薬過程について最終章で書いていただいております。この章だけでも、本書を手にとっていただく価値があると思います。


連載媒体となった「MedicalBio」誌は、その後休刊となっています。

 ・「ゼロリスク社会」の罠 〜「怖い」が判断を狂わせる
 2012年9月刊。化学物質の話をメインに、少し広くリスク論について扱っています。人がリスクを読み間違える心理、「天然=安全安心」という思い込み、トランス脂肪酸やメタミドホス、ホメオパシー療法の話などを通じ、「ゼロリスク信仰」の危うさについてできる限りわかりやすく書いてみました。

 最終章では、放射性物質についてと、そのリスクについての解説も行なっています。あの時期にこのテーマの本を執筆するとなると、やはり触れないわけに行かないかということで、ずいぶん思い悩みながら書いた記憶があります。予想通り多方面から多くの意見をいただき、反省することも多々ありました。しかしその後長く読み継いでいただいているようであり、書いた意義はそれなりにあったのではと思うことにしています。


大学の仕事が忙しかったこともあり、ずいぶん難産でした。

 ということで残り5冊はまた次回。

血のにおいの化合物

 またずいぶんと更新の間が空いてしまいました。先月の「世界史を変えた薬」に続き、今月は「国道者」、さらに来年1月にも新刊を控えていて、なかなかてんやわんやな状態です。

 というわけで、今回は身近なところからひとネタ。口の中を切ったり、鼻血が出たりした時、我々は「血のにおい」を感じ取ります。金属的なにおいであるので、「金気臭い」などと表現されたりすることもあります。これはいったい何のにおいなのでしょうか?

 血液は鉄イオンを含んでいますので、そのにおいかと思ってしまいますが、実際には鉄が直接臭っているわけではないそうです。血中のヘモグロビンが、皮脂などの脂肪酸と反応し、分解してできる成分の臭気であることがわかっています。たとえば下に示す1-オクテン-3-オン、トランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナールなどが主成分です。

octenone

blood
(上)1-オクテン-3-オン(下)トランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナール

 と、この話、当ブログの昔からの読者ならば、記憶に引っかかっている話があるかもしれません。「鉄のにおいの正体」というタイトルで、鉄さびが手についた時のにおいについて書きましたが、それと同じような話だからです。1-オクテン-3-オンも、「鉄のにおい」としてその時に紹介しています。

 ちなみにこの1-オクテン-3-オンは、金属臭の他「キノコのにおい」とも表現されます。実際、この化合物のケトンがアルコールに還元された形の1-オクテン-3-オールはマツタケの香り成分として知られ、「マツタケオール」の別名があります。言われてみれば、多少血に近いにおいかもしれません。

matsutakeol
マツタケオール

 もうひとつの「血のにおい」の成分であるトランス-4,5-エポキシ-(E)-2-デセナールは、極めて感知されやすいにおい成分であり、空気中に1リットルあたり1.5ピコグラム(1兆分の1.5グラム)含まれていれば、においを感じ取れるのだそうです。言うまでもなく、血のにおいは獲物や敵の居場所を察知するために重要であり、このためこの化合物を鋭敏に感知するようになったと思われます。

 しかしこの化合物、有機化学を学んだ人ならおわかりの通り、かなり不安定そうであり、水分や人体の持ついろいろな物質と反応して、すぐ別のものに変化しそうな構造です。我々が鉄や血のにおいと思っているのはこの化合物ということですが、実際にはまた別の化合物に変化し、それを感知している可能性もありそうです。してみると、「におい」とは一体何であるのか、ちょっと哲学的な気分にさせられる話ではあります。

大村智博士にノーベル生理学・医学賞

 さて今月16日、筆者の新刊「世界史を変えた薬 (講談社現代新書)」が発売になります。タイトル通り、モルヒネ、キニーネ、麻酔薬などなど、世界の歴史と医薬の関わりについて書いた本です。興味のある方はご覧いただければ幸いです。

 さてこの本の最終章で、医薬の開発には長らくノーベル賞が出ていないという話を書きました。1950年代くらいまでは、いくつもの医薬がノーベル賞の対象になっていますが、その後は1988年のBlack, Elion, Hitchingsらが唯一の例となっている――という内容です。

 と、その本が出る直前に、久方ぶりの医薬品開発に対する授賞が決まりました。大村智、ウィリアム・C・キャンベル、屠呦呦の3氏に、2015年のノーベル生理学・医学賞が贈られたのです。特に大村先生の授賞は、医薬品研究者出身、かつ東京理科大の後輩に当たる筆者には、大変に嬉しいことです。

 大村博士は山梨大学を卒業後、いったん高校の教員になるものの理科大の大学院に入り直し、山梨大学の助手を務めた後に北里大学へ移るなど、その経歴は異色であり、いわゆるエリートコースを歩んだわけではありません。しかし、ここからが大村博士の真骨頂でした。

 土の中には、1グラムあたり1億ともいわれる細菌が住んでおり、この中には有用な化合物を生産しているものがいます。大村博士は、こうした細菌を培養し、医薬になるものがないか探すという仕事に取り組みます。土は場所によって細かく性質が違い、住んでいる菌も全く異なります。このため、各地の土を集めてくることも重要な仕事です(筆者も会社員時代、ドライブついでに山の中の土を採集してきたものです)。

 この時、どのような作用の化合物を狙うか、またその化合物の作用の有無をどう判定するかは、大変難しい技術になります。大村博士は数々の手法を工夫し、新規な作用を持った化合物を数々発見しました。たとえば下の化合物スタウロスポリンは、プロテインキナーゼと呼ばれる酵素の作用を妨げる作用を持つ、非常に有名な化合物です。これをツールとして用いることで、生化学に多くの発展がもたらされました。

staurosporin
スタウロスポリン

 また、不要になったタンパク質を分解するシステムである、プロテアソームの作用を阻害するラクタシスチンも、大村らが発見したものです。

lactacystin
ラクタシスチン

 ラクタシスチンは、ハーバード大のE. J. Coreyらによって全合成が達成され、その分解によって生ずる下のような4員環ラクトンが活性本体であることが確認されています。Coreyは大村博士に敬意を評し、この化合物に「オオムラライド」の名を与えています。

omuralide
オオムラライド

 大村博士の発見した化合物のうち、25種ほどが医薬・研究用試薬として用いられ、人類の幸福と科学の発展を助けています。この素晴らしい実績から、大村博士には「微生物代謝の王」との称号も奉られました。また、生産菌の遺伝子操作によって、有用な化合物を量産させたり、不要な化合物の生産を抑えたりといった技術も編み出しています。

 中でも今回授賞の対象となったのは、イベルメクチンやアベルメクチン(エバーメクチン)など、抗寄生虫薬の発見でした。

ivermectin
イベルメクチンB1a

 これらの化合物は、川奈のゴルフ場の土から発見されたといいます。イベルメクチンは、アフリカに蔓延するオンコセルカ症やミクロフィラリアといった寄生虫病に著効を示します。しかも極めて安全性が高く、一度経口投与すれば1年は有効という、実に驚くべき効能を持ちます。十分に医療環境の整っていないアフリカ諸国でも安心して使える、素晴らしい薬剤です。

 この薬で2億人が病から解放され、年間4万人が失明を免れており、病気の撲滅も間近といいますから、その人類に対する貢献度は絶大です。ノーベル賞の対象となるのも、全く当然といえるでしょう。


 そして大村博士の凄いところは、研究者として大成功しているのみならず、人生の大成功者でもある点です。製薬企業であるメルク社などと組んで、医薬となる化合物を発見するたびにロイヤリティを獲得、その総額は250億円にも上っています。この潤沢な資金で研究を推進した他、病院や専門学校などを建設、北里研究所の運営にも関わっています。美術にも造詣が深く、個人としのコレクションを収めた韮崎大村美術館まで建てているということですから、実に見事な金の稼ぎ方、使い方という他ありません。

 人類に、科学に、教育に、地域の発展に、素晴らしい貢献を果たした大村博士が、最高の栄誉に輝いたことは、実に喜ばしいことと思います。その歩んだ道は、多くの研究者や関係者に、重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

参考文献 「大村智 - 2億人を病魔から守った化学者」 馬場錬成 著 中央公論新社

ノーベル化学賞予想

 さて今年もノーベル賞の季節がやってまいりました。5日の生理学・医学賞を皮切りに、6日物理学賞、7日化学賞が順次発表される予定です。

 筆者の専門分野である有機化学方面には、しばらくノーベル賞が出ていませんが、今年辺りそろそろという期待がかかっています。というのは、過去の受賞を見てみると、下のようにだいたい5年周期で有機分野が受賞しているので、今年あたりそろそろと思えるわけです(以下敬称略)。 
 1990 E. J. Corey 有機合成理論および方法論の開発
 1994 G. A. Olah カルボカチオン化学への貢献
 2001 Sharpless, 野依良治, Knowles 不斉触媒の開発
 2005 Chauvin, Grubbs, Schrock オレフィンメタセシスの開発
 2010 Heck, 根岸英一, 鈴木章 クロスカップリング反応の開発
 
 では有機化学の中だと、どの分野に賞が出るか?筆者の勝手な予想を書いてみます。

 ・合成反応開発
 最近3回はこの分野に出ているので、ある意味本命といえます。近年の大きな潮流を作り出している有機触媒でB. ListやD. W. C. MacMillan、C-H結合活性化でR. G. Bergmannや村井真二などの各氏が候補に挙がりそうです。ただし、最近の化学賞は社会的応用が重視される傾向にあるので、このへんのジャンルはまだちょっと受賞には早いかもしれません。

 ちょっとニュアンスは異なりますが、クリックケミストリーは化学の広い分野に影響を与えており、十分に受賞資格があると思います。受賞すれば2度めとなるK. B. Sharplessの他、V. V. Fokin, C. R. Bertozziなどが候補に挙がるでしょうか。

 安定カルベンの化学もまた多くのジャンルにインパクトを与えており、A. J. Arduengo IIIを個人的には推したいところです。ただし、このジャンルの先鞭をつけたH. W. Wanzlickはすでに亡くなっており、これがどう影響するか。

 ・天然物全合成
 K. C. Nicolaou, S. J. Danishefskyらをはじめビッグネームがそろっていますが、最近の流れを見ているともはやこの分野には厳しいでしょうか。個人的にはなくなってほしくない分野ですが。

 ・有機電子材料
 有機半導体、有機磁性体、有機ELなど発展の著しいジャンルで、そろそろこの方面に出る可能性もあろうかと思います。かといって誰が受賞するかとなるとちょっと難しいのですが、有機ELの開祖であるC. W. Tangが有力だとは思います。

 ・超分子化学
 いわゆる自己組織化は、科学の広い分野に通用する概念です。J. F. Stoddart, J. Rebek Jr., G. M. Whitesidesといったあたりがトップランナーですが、結晶スポンジ法というインパクトの大きな応用を示した藤田誠に一票を投じたいところです。

 ・日本人の受賞は?
 PCP/MOFも近年大注目のジャンルで、北川進らが候補に挙げられますが、もう少し応用が出てきてからかもしれません。また、物理学賞の有力候補によく挙がる細野秀雄・十倉好紀なども、化学賞に入ってくる可能性もありそうです。ナノカーボン分野の飯島澄男、中村栄一といったところも、いつでも可能性ありでしょう。

 このあたりの先生方に獲っていただくと、筆者にもいろいろ仕事が回ってきそうなのですが(笑)、果たしてどうなりますか。当日を楽しみに待ちたいと思います。

アルギン酸で「つまめる水」を作る

”夏休みの自由研究に!手でつまめる水「Ooho」を作ろう!”という記事を見かけました。下の動画にある通り、ただの水がまるでゼリーかスライムのように、手で持ってつまみ上げられる状態になるというものです。



 作り方は上記リンク先に詳しく載っています通り、アルギン酸ナトリウムの水溶液と、塩化カルシウムまたは乳酸カルシウムの水溶液を別個作っておき、前者の溶液を後者の中に落とすだけで、簡単に作れるそうです。確かにこれは楽しそうですね。どちらも食品添加物などとして使われるほど安全なものですし、アマゾンなどでも手頃な価格で入手可能(アルギン酸ナトリウム塩化カルシウム乳酸カルシウム)ですので、確かに夏休みの自由研究によさそうです。

 創案者は、単におもちゃとしてではなく、ペットボトルなどを必要としない、新しい水の運搬手段としてこれを提案しているようです。表面を覆う膜ごと食べてしまえばOKですから、確かに優れたアイディアといえそうです。

 さて、この紹介だけで終わってしまっても何ですので、なぜこれが固まるのか解説してみましょう。アルギン酸は、海藻などから得られる成分です。アルギン酸(Alginic acid)の名は、海藻を意味する「Algae」から来ています。アミノ酸のアルギニン(Arginine)は、たまたま日本語で発音した時に似ているだけで、直接の関係はありません。

 アルギン酸の正体は多糖類、つまり糖がたくさんつながった化合物の一種です。コンブやワカメなどは表面がヌルヌルしていますが、そのぬるぬる成分こそ、このアルギン酸塩です。実は、人間の軟骨などに見られるコンドロイチンやヒアルロン酸なども、アルギン酸とよく似た構造です。こうした生体由来のぬるぬる成分は、多糖類であることが多いのです。

alginic
アルギン酸。糖が長く連結している。

 ただ、これらが通常の多糖類(セルロースやキチンなど)と違うところは、分子内にカルボン酸のユニットを持っている点です。普通のグルコースなどの糖にある-CH2OHの部分が酸化され、-COOHに変わっているのです。

sugar
左が通常の糖、右がアルギン酸の成分の糖

 販売されている粉末状のアルギン酸はナトリウム塩となっており、1つのカルボキシ基に1つのナトリウムイオン(Na+)が結合しています。しかしカルシウムを加えると、これは2価のイオンであるため、2つのカルボキシ基を橋渡しして長いアルギン酸の鎖同士を結びつけます。こうしてできた網目に、水分子を大量に抱え込むため、柔軟かつ丈夫で透明な膜ができあがるのです。

AlginicCa
カルシウム(金色)によって橋渡しされ、丈夫なネットワークとなる

 こうしたアルギン酸に代表される多糖類は、食品の増粘剤などとして利用される他、人工イクラの製造などにも使われます。生命は適材適所で優れた機能を持った化合物をうまく利用していますが、人間もまたこれらを取り出し、うまく活用している実例といえそうです。まあ理屈はともかく、涼しげな夏の遊びとして、子どもといっしょにいろいろ工夫してみてはいかがでしょうか。

今月のお知らせ

 更新の間が開いております。前回の続きを書かねばならんところですが、その前に今月のお知らせなど。

 「子供の科学」4 月号では、「元素選抜総選挙」という実に攻めた感じの特集が組まれておりますが、実は筆者が執筆を担当しております。未来の社会を作る元素はなにか、読者たちの投票で決定する予定です。ノーベル賞の天野浩先生を初めとした、トップ研究者の「推し元素」のコーナーもあります。

 この号には、「KoKa手帳2015」が付録でついていますが、周期表や単位、日本や世界の地理、英単語や拡張子に至るまで、重要な情報がコンパクトにまとまっていて、大人でも重宝する出来です。毎度のことながら、実に侮りがたい雑誌です。


定価は751円也。

 東京化成の「TCIメール」には、「2種類の元素でできた化合物」というマニアな話を書きました。炭素と酸素だけでいくつくらいの化合物ができるものか、ちょっとみなさんも考えてみてください。

 和光純薬の「Wako Organic Chemical News」には、イオン液体の話について書いています。こちらは実用的な話に絞って書いています。

 また、このほど文庫化された喜多喜久氏の「桐島教授の研究報告書 - テロメアと吸血鬼の謎」では、巻末の解説を書かせていただきました。小説の解説など初めてでしたが、楽しく書くことができました。喜多氏といえば、現役の有機化学の研究者であり、化学を題材とした多くの小説を出しておられるので、ご存じの方も多いと思います。本作はどちらかといえば生物学寄りですが、しっかりした本格ミステリで、専門家もそうでない方も楽しめると思います。ぜひご一読を。


表紙はこちら。

 拙著「炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす」の韓国版・台湾版も出版の運びとなりました。ついに筆者もアジア進出です。自分の本なのにさっぱり読めないとか、「改変歴史的元素之王」ってかっこいいなあとか、佐藤健太郎ってハングルだとこうなるのかとか、しょうもないことにいろいろ感心しています。韓国や台湾に友達のいる方は、お勧めいただければ幸いです。

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左が台湾版、右が韓国版

 薬剤師向けのサイト「薬+読」でも連載を行なっており、近く「危険ドラッグの話(2)」が掲載予定です。薬剤師もそうでない方もチェックのほどを。

 その他、中学・高校の化学の教科書に書いたりとか、インタビューして回ったりとか、ラジオに出たりとか、国道ムックに関わったりとか、「図解 武器と戦争の世界史」なるムックに寄稿したりとか、多方面で活動しておりますので、いろいろ生暖かく見守っていただければ幸いです。

各種お知らせ

いろいろと面白い化合物の発見などの話題があるようなのですが、新年一発目の更新はお知らせを。

先月発売しました「化学で「透明人間」になれますか? 人類の夢をかなえる最新研究15 (光文社新書)」、ぼちぼちと読了の報告が届いております。自分で言うのも何ですが、読みやすくて面白い本であります。ただ、スペースの関係ですとか、構造式を羅列すると敬遠されるかという思いから、登場する化合物の分子構造はあまり載せておりません。



と、なんといつもお世話になっております「生活環境化学の部屋」主宰の本間善夫先生が、この本に出てくる分子の紹介ページを作ってくださいました。こういうことは自分でやらねばいかんのですが。もしこの本を見て「どういう分子なんだろ」と思ったら、こちらをご参照いただければ幸いです。

また1月24日には、その本間先生の主催されている「サイエンスカフェにいがた」にて、一席ぶってまいります。といっても今回は化学の話でなく、国道のお話になります。各国道巡りのお話、さらに地元新潟の国道いついても、いろいろと語ってくる予定でおります。お時間のある方は、ご来訪いただければ幸いです。お申込み方法や場所などは、こちらのページにて。

poster
カフェのポスター(クリックで拡大)

もうひとつ、こちらでは告知を忘れておりましたが、「マイナビ薬剤師」内の読み物コンテンツ「薬+読」にて、薬に関するエッセイの連載を始めております。タイトルは「佐藤健太郎の薬にまつわるエトセトラ」。この他にも、特に薬剤師さんには有用なコンテンツがたくさんありますので、ご覧になってはいかがでしょうか。

ということで2015年も、よろしくお願いいたします。
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