先日来、ある化合物の合成成功がテレビのニュースなどで大きく取り上げられています。これは、有機合成関連では珍しいことでしょう。何度か本ブログでも取り上げさせていただいております、名古屋大学の伊丹健一郎教授・瀬川泰知特任准教授らのグループによる「カーボンナノベルト」の合成がそれです(論文)。
この論文は、「Nature」と並んで科学雑誌の最高峰である「Science」に掲載されました。すなわち有機化学者や化学分野の研究者のみにとどまらず、広く科学者全体が知るべき大きなインパクトのある成果だと認められたということになります。ということで今回は、何がそんなに凄いのかという話を書いてみます。
今回作り出されたカーボンナノベルトは、下のような化合物です。六角形のベンゼン環が12個連結し、環の形を成しています。
カーボンナノベルト。斜め上及び上から見たところ
確かに美しい構造ですが、世の中に、ベンゼン環がつながった化合物は山ほどありますし、環を作っているものもたくさんあります。たとえば下図のケクレンもそのひとつで、これは1978年に合成されました。同じベンゼン環12個がつながった分子でも、カーボンナノベルトはケクレンに比べて約40年分もの科学の進歩を必要とするほど難しかったわけです。
ケクレン
なぜそんなに違うのかといえば、カーボンナノベルトは平面でなく曲がっているからという一点に尽きます。ベンゼン環は硬い板のようなもので、なるべく平面であろうとするので、これを丸めて筒状にすることはえらく難儀なことです。また、曲がったベンゼン環は性質が変わるので、通常の平面的なベンゼン環化合物を作る手法が通用しないケースも増えます。
しかし困ったことにというべきか、こうして曲げられて性質が変化したベンゼン環は、科学者にとって大変魅力的な存在なのです。たとえばカーボンナノチューブは、蜂の巣のようにつながった炭素が筒状に丸まった構造で、強靭さとユニークな電子的性質を併せ持つ素晴らしい材料です。しかし、この長さや太さを制御し、完全に望みのものを創り出すことはいまだ成功しておらず、科学者にとって大きな夢の一つとなっています。
というわけで、よし俺がやってやろうじゃねえかと、多くの科学者がその合成に挑んできました。まずはカーボンナノチューブの薄い輪切りに当たる下図のような分子(シクロパラフェニレン、CPP)が標的となるわけですが、さまざまな合成手法の発達にもかかわらず、トライアルは全て失敗に終わってきました。しかし2008年からようやく、CPPの合成がいくつかのグループによって報告され、カーボンナノチューブの完全制御合成という夢が視野に入ってきました。
シクロパラフェニレン
ここからカーボンナノチューブへと伸ばすトライアルも行なわれています(過去記事)。ただし、かなり径の揃ったものはできたものの、完全な制御には成功していません。ベンゼン環を結合一本でつなぎ合わせたCPPでは、カーボンナノチューブ合成の際の高熱に耐えられず、壊れたり構造が変化したりしてしまうためと考えられます。
となれば、もっと丈夫な原料が必要です。考えられるのは、ベンゼン環を辺でつないだ化合物です。上記のカーボンナノベルトはそのひとつですし、下図のようなものも考えられます。実はこれらは、カーボンナノチューブ出現のはるか以前である60年ほど前から、化学者たちによって考えられてきた「夢の分子」でした。
しかし前述した通り、ベンゼン環は曲がりにくい硬い板のようなものです。ベンゼン環が単結合でぐるりとつながったシクロパラフェニレンに比べて、下図のような化合物は全体にずっと硬いわけで、難易度も格段に上がります。というわけでこれら化合物は、古くから多くの化学者の挑戦を跳ね返してきました。伊丹教授も12年前からこれら化合物の合成を目指しており、さまざまなチャレンジを繰り返しています。
シクラセン(左)とシクロフェナセン(右)
ではどうすれば、曲がりにくい板から筒状の形を作れるか?CPPの合成で採用されたのは、いわば「やきもの法」でした。柔らかい粘土を練って輪の形に成形し、火で焼けば硬いリングができあがります。これと同様に、CPPを構成する環の一部を柔らかいシクロヘキサン環として大きな環を形成し、その後に酸化処理をすることで、硬いベンゼン環に変えるという作戦です(詳細はこちらのブログ参照)。
これに対して、今回合成に成功したカーボンナノベルトは、いわば「木桶法」とでもいえるでしょうか。木桶は、大きな輪(たが)の中に細い木の板を並べ、締め付けて作ります。これと同じように、まずWittig反応を駆使してベンゼン環を6つ大きな輪につなぎ、そのベンゼン環同士の間に結合を作らせることで、新たな6つのベンゼン環を形成するという手法が採られました。
カーボンナノベルト合成の最終段階(瀬川博士提供)
瀬川博士によれば、この最終段階が最大の山場であったということです。一気に12ヶ所の結合を切り、6本の結合を作るわけですから、それだけでも大変なことです。しかし何より怖いのは、最後の目標となる化合物が全く未知である点です。
こうした未知の化合物の合成では、目標とするものがどんな性質なのかはもちろん、どの程度に不安定なのか、さまざまな実験操作に耐えるものなのかわかりませんし、そもそもひずみが大きすぎてこの世に存在し得ない可能性もあります。他の化合物では問題なく進行する反応も、こうした骨格ではまるで通用しなかったりもします。山頂がどんなところか誰も知らない、そもそも山頂へ到達する道があるかどうかさえわからない登山に挑むようなもので、実験者には技術や知識はもちろん、精神力や忍耐力も大いに必要となります。
この合成ルート自体も、これが最適だと最初からわかっていたわけではなく、20通り以上も試したルートのひとつだそうです。最終段階も、粘り強い検討の末に、ようやく見つけ出された条件でした。しかしこのルートでの合成が始まってからは、わずか10ヶ月でゴールに到達したそうですから、実験担当者の技術と集中力には驚きの一言しかありません。
しかしある日、「いかにも」な雰囲気の赤い化合物が見えたのでこれを単離し、1H-NMRを測定すると、見事に目指すチャート(2本のシングレット)が得られました。ただし最終的な判定は、分子の形が完全に解明できる、X線結晶解析による他はありません。
その解析結果の公開の様子がこちら。
この動画は研究室のサイトに載せられ、かなりのアクセスと反響を集めたようです。研究者もアスリートやサラリーマン同様、目標に向かって走り、ある時は喜び、ある時は凹む人々だということが伝わったのではないでしょうか。
テレビニュースなどで大きく取り上げられたのも、この映像があったことが大きそうに思います。めったにない素晴らしい瞬間は、こうして記録に残して外部と共有することが、これからもっと行なわれてもよさそうに思います。
これは化学者たちの長年の夢が実った瞬間でもありますが、同時に新たなスタートでもあります。誰かが壁を越えると、それをきっかけに多くの競争者たちが後に続き、一気に新たな領域が切り拓かれることは、歴史上何度も繰り返されてきました。伊丹グループに合成の一番乗りこそ許したが、このまま独走はさせんぞと気勢を上げている研究者は、国内外に数多くいるはずです。
その勢いで、今後新たなカーボンナノベルトの類縁体や新合成法が続々と報告され、性質が解明されていくことになるでしょう。カーボンナノチューブの制御合成という夢はもちろん真っ先に追求されることでしょうが、その他にも思わぬ応用や意外な展開がたくさん出てくるものと思います。今後繰り広げられるであろう研究者の協力と競争の数々、そして素晴らしい新物質の登場に、筆者として大いに期待したいところです。
この論文は、「Nature」と並んで科学雑誌の最高峰である「Science」に掲載されました。すなわち有機化学者や化学分野の研究者のみにとどまらず、広く科学者全体が知るべき大きなインパクトのある成果だと認められたということになります。ということで今回は、何がそんなに凄いのかという話を書いてみます。
今回作り出されたカーボンナノベルトは、下のような化合物です。六角形のベンゼン環が12個連結し、環の形を成しています。
カーボンナノベルト。斜め上及び上から見たところ
確かに美しい構造ですが、世の中に、ベンゼン環がつながった化合物は山ほどありますし、環を作っているものもたくさんあります。たとえば下図のケクレンもそのひとつで、これは1978年に合成されました。同じベンゼン環12個がつながった分子でも、カーボンナノベルトはケクレンに比べて約40年分もの科学の進歩を必要とするほど難しかったわけです。
ケクレン
なぜそんなに違うのかといえば、カーボンナノベルトは平面でなく曲がっているからという一点に尽きます。ベンゼン環は硬い板のようなもので、なるべく平面であろうとするので、これを丸めて筒状にすることはえらく難儀なことです。また、曲がったベンゼン環は性質が変わるので、通常の平面的なベンゼン環化合物を作る手法が通用しないケースも増えます。
しかし困ったことにというべきか、こうして曲げられて性質が変化したベンゼン環は、科学者にとって大変魅力的な存在なのです。たとえばカーボンナノチューブは、蜂の巣のようにつながった炭素が筒状に丸まった構造で、強靭さとユニークな電子的性質を併せ持つ素晴らしい材料です。しかし、この長さや太さを制御し、完全に望みのものを創り出すことはいまだ成功しておらず、科学者にとって大きな夢の一つとなっています。
というわけで、よし俺がやってやろうじゃねえかと、多くの科学者がその合成に挑んできました。まずはカーボンナノチューブの薄い輪切りに当たる下図のような分子(シクロパラフェニレン、CPP)が標的となるわけですが、さまざまな合成手法の発達にもかかわらず、トライアルは全て失敗に終わってきました。しかし2008年からようやく、CPPの合成がいくつかのグループによって報告され、カーボンナノチューブの完全制御合成という夢が視野に入ってきました。
シクロパラフェニレン
ここからカーボンナノチューブへと伸ばすトライアルも行なわれています(過去記事)。ただし、かなり径の揃ったものはできたものの、完全な制御には成功していません。ベンゼン環を結合一本でつなぎ合わせたCPPでは、カーボンナノチューブ合成の際の高熱に耐えられず、壊れたり構造が変化したりしてしまうためと考えられます。
となれば、もっと丈夫な原料が必要です。考えられるのは、ベンゼン環を辺でつないだ化合物です。上記のカーボンナノベルトはそのひとつですし、下図のようなものも考えられます。実はこれらは、カーボンナノチューブ出現のはるか以前である60年ほど前から、化学者たちによって考えられてきた「夢の分子」でした。
しかし前述した通り、ベンゼン環は曲がりにくい硬い板のようなものです。ベンゼン環が単結合でぐるりとつながったシクロパラフェニレンに比べて、下図のような化合物は全体にずっと硬いわけで、難易度も格段に上がります。というわけでこれら化合物は、古くから多くの化学者の挑戦を跳ね返してきました。伊丹教授も12年前からこれら化合物の合成を目指しており、さまざまなチャレンジを繰り返しています。
シクラセン(左)とシクロフェナセン(右)
ではどうすれば、曲がりにくい板から筒状の形を作れるか?CPPの合成で採用されたのは、いわば「やきもの法」でした。柔らかい粘土を練って輪の形に成形し、火で焼けば硬いリングができあがります。これと同様に、CPPを構成する環の一部を柔らかいシクロヘキサン環として大きな環を形成し、その後に酸化処理をすることで、硬いベンゼン環に変えるという作戦です(詳細はこちらのブログ参照)。
これに対して、今回合成に成功したカーボンナノベルトは、いわば「木桶法」とでもいえるでしょうか。木桶は、大きな輪(たが)の中に細い木の板を並べ、締め付けて作ります。これと同じように、まずWittig反応を駆使してベンゼン環を6つ大きな輪につなぎ、そのベンゼン環同士の間に結合を作らせることで、新たな6つのベンゼン環を形成するという手法が採られました。
カーボンナノベルト合成の最終段階(瀬川博士提供)
瀬川博士によれば、この最終段階が最大の山場であったということです。一気に12ヶ所の結合を切り、6本の結合を作るわけですから、それだけでも大変なことです。しかし何より怖いのは、最後の目標となる化合物が全く未知である点です。
こうした未知の化合物の合成では、目標とするものがどんな性質なのかはもちろん、どの程度に不安定なのか、さまざまな実験操作に耐えるものなのかわかりませんし、そもそもひずみが大きすぎてこの世に存在し得ない可能性もあります。他の化合物では問題なく進行する反応も、こうした骨格ではまるで通用しなかったりもします。山頂がどんなところか誰も知らない、そもそも山頂へ到達する道があるかどうかさえわからない登山に挑むようなもので、実験者には技術や知識はもちろん、精神力や忍耐力も大いに必要となります。
この合成ルート自体も、これが最適だと最初からわかっていたわけではなく、20通り以上も試したルートのひとつだそうです。最終段階も、粘り強い検討の末に、ようやく見つけ出された条件でした。しかしこのルートでの合成が始まってからは、わずか10ヶ月でゴールに到達したそうですから、実験担当者の技術と集中力には驚きの一言しかありません。
しかしある日、「いかにも」な雰囲気の赤い化合物が見えたのでこれを単離し、1H-NMRを測定すると、見事に目指すチャート(2本のシングレット)が得られました。ただし最終的な判定は、分子の形が完全に解明できる、X線結晶解析による他はありません。
その解析結果の公開の様子がこちら。
この動画は研究室のサイトに載せられ、かなりのアクセスと反響を集めたようです。研究者もアスリートやサラリーマン同様、目標に向かって走り、ある時は喜び、ある時は凹む人々だということが伝わったのではないでしょうか。
テレビニュースなどで大きく取り上げられたのも、この映像があったことが大きそうに思います。めったにない素晴らしい瞬間は、こうして記録に残して外部と共有することが、これからもっと行なわれてもよさそうに思います。
* * * * *
これは化学者たちの長年の夢が実った瞬間でもありますが、同時に新たなスタートでもあります。誰かが壁を越えると、それをきっかけに多くの競争者たちが後に続き、一気に新たな領域が切り拓かれることは、歴史上何度も繰り返されてきました。伊丹グループに合成の一番乗りこそ許したが、このまま独走はさせんぞと気勢を上げている研究者は、国内外に数多くいるはずです。
その勢いで、今後新たなカーボンナノベルトの類縁体や新合成法が続々と報告され、性質が解明されていくことになるでしょう。カーボンナノチューブの制御合成という夢はもちろん真っ先に追求されることでしょうが、その他にも思わぬ応用や意外な展開がたくさん出てくるものと思います。今後繰り広げられるであろう研究者の協力と競争の数々、そして素晴らしい新物質の登場に、筆者として大いに期待したいところです。