有機化学美術館・分館

HP有機化学美術館のブログ版。タイムリーな話題,短いテーマをこちらで取り上げます。

構造

ヤヌスの立方体

 ローマ神話に出てくるヤヌス(Janus)という名の神様をご存知でしょうか。背中合わせになった2つの顔を持ち、出入り口や物事の始まりを司る神なのだそうです。一年の始まりの月を英語で「January」と呼ぶのは、このヤヌス神の名に由来します。

janus
ヤヌスが描かれたコイン(Wikipediaより)

 というわけで、欧米では両面に異なる性質を示すものに「ヤヌス」の名を冠することが多いようです。たとえば「ヤヌセン」と名付けられた炭化水素化合物が存在しており、図に示す通り2つの芳香族の面が向き合った構造です。

janusene
ヤヌセン(janusene)

 最近では、シクロヘキサンの一方の面には6つの水素、もう一方の面には6つのフッ素が結合した、「ヤヌス型シクロヘキサン」が合成され、話題を呼びました(論文)。炭素・水素・フッ素だけでできているのに異例なほど極性が高く、イオンとの強い相互作用が観測される(論文)など、両面性分子ならではのユニークな性質が明らかになりつつあります。Chem-Stationさんに解説記事がありますので、詳しくはそちらを。

cyclohexaneF6_2
cyclohexaneF6_1
all-cis-1,2,3,4,5,6-ヘキサフルオロシクロヘキサン

 そしてこのほど、「ヤヌスキューブ」と銘打たれた化合物が登場しました。群馬大学の海野雅史研究室による成果で、立方体骨格に半分ずつ違う置換基が結合したものです。

januscube
緑がケイ素、赤が酸素。
上半分にフェニル基(橙)、下半分にイソブチル基(水色)が4つずつ結合している

 立方体骨格の分子としてはキュバンがよく知られていますが、これは合成に手間がかかり、自由に置換基を入れるのも面倒です。そこで著者らは、ケイ素と酸素から成る「オクタシルセスキオキサン」という骨格を利用しました。安定で、置換基の導入もしやすいところが利点です。

 ヤヌスキューブ合成法の原理そのものはシンプルで、上半分と下半分の四角形(8員環)を別々に作り、両者を合体させる作戦です。ただし、接合に用いる上下の置換基の組み合わせには工夫を要し、Si-F結合を持ったものとSi-O-Na結合を持ったものとの取り合わせによって、収率よくキューブを得ています。

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接合のようす。黄緑がフッ素、紫がナトリウム

 置換基としてはいろいろなものを導入できそうです。また、堅牢な立方体から向きの決まった置換基が出せますので、うまく互いに引き合う置換基同士を配置すれば、さまざまな構造体を構築できそうです。たとえば筆者は、有機/無機ハイブリッドのゼオライトのようなものができないかななどと思いましたが、みなさんも使いみちを自分なりに考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

赤はなぜ色褪せるのか

 街を歩いていると、色あせた古い標識を見かけることがあります。
sotoba

 この標識は本来鮮やかな赤色の矢印なのですが、ご覧の通りかなり褪色して薄いピンクのような色合いになっています。これに対し、国道のおにぎりマークや縁取りの青はまだ鮮やかさを保っています。このタイプの標識は、1995年から設置されるようになったものですので、20年ほどで赤だけがずいぶん色褪せてしまっているということになります。

 このように、赤色が他の色より褪色しやすいというのは、ちょくちょくみかける現象です。ひどくなると下の写真のように、肝心なところがきれいに抜けて読めなくなったりします。大事なことは赤で書きたくなりますが、時の流れを考えるとあまり得策でないことがわかります。
akanuke2

akanuke1

 さて、なぜ赤色はさめてしまいやすいのでしょうか?これは偶然ではなく、それなりの理由があります。まず赤い塗料がなぜ赤く見えるかというと、塗料が赤い光を跳ね返し、青や紫などの光を吸収するからです。青い塗料はこの逆で、青い光を反射して赤などの光を吸収します。

 しかし、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。特に紫外線は、原子と原子の結合を切断し、分子を破壊してしまう力を持ちます。長く屋外に置かれたプラスチックがぼろぼろと劣化するのも、この作用が大きな要因です。下の写真など見ると、紫外線というのは破壊光線であると実感します。

hakaikousen
水銀灯の紫外線によって破れたプラスチック網

 つまり赤色塗料は、高エネルギーの光を吸収するものですから、宿命的に劣化を受けやすいといえます。たとえば下図のような塗料分子は、中央付近に含まれているアゾ基(-N=N-)が発色のために不可欠です。しかしこの部分は、紫外線を受けて空気中の酸素などと反応し、切断されてしまいます。こうなると、光を吸収することができなくなり、色が消えてしまうことになります。

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ピグメントレッド12

 といっても、世の中の赤色塗料が全て経年劣化するわけではありません。たとえば下のようなキナクリドン骨格を持った化合物は、褪色が少ないために自動車の塗装などによく用いられます。分子の平面性が高い上、水素結合によって互いに引きつけ合うので、分子どうしが密に詰まり、酸素などの影響を受けにくいためです。さらに、重ね塗りやコーティングなどを施すことで耐光性はより高まり、色褪せをかなり防ぐことができるようになります。

quinacridone

 世の中で目に入る一つ一つの現象の陰に、化学は潜んでいます。化学を知り、原子のレベルで考えてみると、ああなるほどと思う事柄は数多いものです。

究極の分子敷き詰め

 近年、半導体や発光特性など、さまざまな機能を持った有機分子が多数報告されるようになりました。より優れた性質を引き出すための分子設計も研究が進んでおり、さまざまな骨格の機能性分子が登場しています。

 しかし、化合物の性能を決めるのは、何も分子の構造だけではありません。たとえば有機半導体などは、平面の基盤の上に薄膜を作って用いられることがほとんどです。この薄膜の出来が悪いと、化合物は持っているポテンシャルを発揮できません。ランダムにあちこちを向いて並んでいるのではなく、分子どうしが引きつけ合ってきちんと平面に並んでいれば、多くの面で有利になります。

 タイル張りの床のように、どこまでも一定のパターンで分子が並んでいくのが理想ですが、なかなかこうは行きません。薄膜は、ひとつの分子の周りに次の分子が並び、次々に成長してでき上がります。しかし、薄膜は1ヶ所のみから広がるのではなく、いくつかのポイントから同時進行で広がっていきます。このため、薄膜はいくつかの領域(ドメイン)に分かれてしまうのです。

domain
ドメインのできる様子の概念図

 ドメインがあると、薄膜の強度は低くなり、境界からひび割れたり剥がれたりしやすくなります。また、有機半導体などでは、分子から分子へ電子が飛び移っていくことで電流が流れますが、ドメインがあると、その境目では電子がうまく移動できなくなり、伝導度が下がることになります。しかし、完全に欠陥のない薄膜を作る方法は、今まで知られていませんでした。

 しかしごく最近、東工大の福島教授のグループから、この「完全敷き詰め」を実現した報告がなされました(Science 2015, 348, 1122)。マジックの種になったのは「トリプチセン」と呼ばれる分子で、図のように3枚羽根のプロペラに似た形をしています。硬く変形しにくい構造であるため、今までにも機能性分子の構築に用いられてきました(参考)。
trypticene
トリプチセン

 福島らは、トリプチセンの3枚のベンゼン環から、同じ方向に長いアルキル鎖が伸びた分子をデザインしました。トリプチセンの3枚羽根は、お互いに羽根の間にはまり込み、密に詰まったネットワークとなるのです。
(RO)3tryp
3本のアルキル鎖を持つトリプチセン


 この膜を放射光X線解析と呼ばれる手法で調べたところ、ドメイン境界を持たず、隅から隅までが全て規則的に並んでいることがわかりました。いろいろな方法で膜を作っても、全て完璧な単一ドメインとなっているのだそうです。

 どうしてこうなるのか?他の分子と同じように、いくつかの分子から同時進行で膜が広がってゆくのですが、ドメイン同士が出会うと互いに融合し、向きが自然に揃うことがわかりました。こうした構造は過去に例がなく、トリプチセン骨格の整列力の強さがわかります。単一ドメインでセンチメートル単位の薄膜が作れるといいますから、いわば畳をたくさんばらまいたら、ユーラシア大陸の果てまで畳が自発的に整列したことに相当します。

tiling
トリプチセン敷き詰めを上から見たところ

 アルキル鎖は簡単に取り替えが可能ですから、この先端に機能性の分子を取り付ければ、欠陥のない大面積の配列を作れることになります。また、アルキル鎖は3本でなく2本でも配列が可能ということですから、並べうる分子の自由度はさらに高くなりそうです。

 アルキル鎖がびっしり生えた表面は、いわば高密度のブラシに似ており、極めて平滑な炭化水素表面とみなすこともできます。アルキル鎖の代わりに、フッ素で覆われた鎖や、親水性の鎖を導入するとどうなるかとか、いろいろアイディアを膨らませてみたくなります。

 ごちゃごちゃ工夫を重ねた複雑な構造でなく、とにかくシンプルな分子、シンプルなアイディアで画期的な成果を実現したことが、大変に魅力的です。広く応用が利く、ロバストな方法となりそうで、今後の展開を注目すべき成果かと思います。

カルボカチオン論争の決着

 学界を二分するほどの論争というのは、生物学や天文学ではたまにあっても、有機化学の世界ではあまり聞かないように思います。実験ではっきりと結果が出しやすいジャンルだからなのでしょうか。

 しかし、以前には有機化学の世界にも、ノーベル賞受賞者が両陣営の旗頭に立った大論争がありました。カルボカチオンの構造をめぐる論争がそれです。

 炭素の陽イオン、すなわちカルボカチンは、転位反応や隣接基関与など独特の反応性を示します。このことから、単純に結合の腕を一本切っただけではない構造であると考えられました。たとえば下図のようなカルボカチンは、メチル基が「橋かけ」して安定化されているという仮説が提唱されます。これは「非古典的カルボカチオン」と呼ばれ、多くの実験結果を説明できることから、広く受け入れられるようになってゆきました。

nonclassical
右側が「非古典的」と呼ばれる構造

 これに疑問を投げかけたのが、有機ホウ素化学の巨匠であるH. C. Brownでした。彼は1950年代後半、この非古典的カルボカチオンによる説明を否定する論文をアメリカ化学会誌に投稿したものの、レフェリーとの60通にもわたる手紙のやりとりを繰り返した末、結局掲載を拒絶されてしまいました。

brown
H. C. Brown (ノーベル財団ウェブサイトより)

 1961年に開かれたシンポジウムで、S. Winsteinは非古典派の主張を述べますが、Brownは先の60通の手紙の束を示しながら自説を声高に主張します。そこに「そのレフェリーは自分だ」とJ. D. Roberts教授が名乗り出たといいますから、この超異例の事態に会場が大いに盛り上がったことは想像に難くありません(筆者であれば「てめえだったのかこの野郎」とつかみかかりたくなるところですが)。この後も論戦は続き、カルボカチオンの構造は60〜70年代有機化学の大きな焦点となってゆきました。

 やがて論争のポイントは、2-ノルボルニルカチオンの構造に絞られてゆきます。これが古典的構造か非古典的構造なのか、実際に取り出して「ほれ見ろ」とできればいいのですが、何しろカルボカチオンは寿命の短い中間体ですから、単離もままなりません。

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古典的(上)及び非古典的(下)ノルボルニルカチオンの構造

 さてそうこうしているうちに、非古典派の旗頭であったWinsteinが1969年に死去、代わってG. A. Olahが登場します。Olahは、超酸などを駆使してカルボカチオンを発生させ、実際にNMRなどでカルボカチオンの実体を観測することに成功しました。こうして証拠が蓄積された結果、ついに1986年にBrownは白旗を上げ、30年近くにもわたった論戦は決着を見ることになります。Olahはカルボカチオンの化学を開拓した功績により、1994年にノーベル化学賞を単独受賞しています。

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G. A. Olah (ノーベル財団ウェブサイトより)

 そしてつい最近、なんと論争の焦点となった2-ノルボルニルカチオンのX線結晶解析がなされました(論文)。論文には、論争開始当初から非古典派の闘将であった、P. v. R. Schleyerも名を連ねています。こんなものが安定な結晶になるのかと驚きましたが、 [C7H11]+[Al2Br7]- を40Kという低温で結晶解析し、下図のような構造を得ています。ご覧の通り、みごとに非古典的カルボカチオン説を支持する構造です。

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 これ以上の証拠はなく、まさにぐうの音も出ない結果です。実際には、細かく温度を変化させながら解析を行うなど、現代技術と職人技の融合があればこそであったようです。それにしても論争開始から半世紀以上、「終戦」からも27年経ってからのこの結果、科学者の執念とは何とも凄いものだと、改めて思わざるを得ません。BrownとWinsteinの両師も、今ごろ天国でこの成果を見て、いやいや大したものだと笑っているかもしれません。



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