デイヴィッド ホックニー 著『秘密の知識』 その3鎌倉観光

2007年05月02日

デイヴィッド ホックニー 著『秘密の知識』 その4

その1その2その3に引き続き、この本の紹介については今回で最後です。

かなーりオススメ!
秘密の知識 巨匠も用いた知られざる技術の解明秘密の知識 巨匠も用いた知られざる技術の解明
デイヴィッド ホックニー David Hockney 木下 哲夫

by G-Tools


この本の面白さを知人に紹介したところ、「それじゃあ、過去の巨匠は天才というわけではなかったということよね。なぞるだけなんて、なんだかがっかり。」という反応……。私の説明不足をあわてて補足したのですが、ホックニーは本の中で「光学機器は絵を描かない」と何度も強調しているんです。
光学機器は優れた補助装置にはなったとしても、実際に描くのは画家の目と手なわけで、普通の人が真似をしてもうまく描けるわけではない、というところは最初に強調しておくべきでした……。


画家が光学機器を使うのは「ごまかし」であり、わたしの意見にしたがうと芸術家を天賦の才の持ち主とする考えが成り立たなくなるのがお気に召さない。ここではっきりさせておきたいのだが、紙に絵を描くのは光学機器ではなく画家の手であり、それには非凡な技量を必要とする。光学機器を使ったからといって、絵を描くのが少しでも易しくなることはない。自分でも使ってみたから、わたしにはそれがよくわかる。


ちなみに、どちらも光学機器だけど「カメラ・オブスクラ」と「カメラ・ルシーダ」(本の表紙になっているもの)はまったく違うもので、各々発展系があるようなので、詳しくは下記をご参照くださいませ。

カメラ・オブスクラ
http://www.pharmaquiz.ch/anime/CameraObscura.php ←カメラ・オブスクラの原理を説明するフラッシュアニメーション (英語)はわかりやすい!

カメラ・ルシーダ

※なお、本書の後半には、光学理論の原理が古代ギリシャにあることや、ファイユームの肖像画に影が描かれていることにまで触れていて、光で投影した映像とのつながりを示唆しています。


以下は、ホックニーが、光学機器の使用年代とからめて論じている部分のピックアップです。うーん、刺激的〜。


ルネサンス後期の絵画は初期の絵画のものと比べて実物にはるかによく似ていると気づいたところから出発した私たちは、こうして具体的な議論に入れるようになった。現実の忠実な写実への転換は、1420年代終わりから1430年代の初めにかけて、フランドル地方で突然に生じた。ほかに説明のつけようがあるだろうか。カンピンやファン・エイクなどの画家が、どうしていきなりずっと「モダン」で、「写真のように見える」絵を描き始めたのだろう。今日のわたしたちは、レンズを透して投射される映像に慣れ親しんでいる。カメラは「現実界」の像をフィルムに投射できるからこそ、機能する。カンピンとファン・エイクもこのように映し出された世界を目にしたのだろうか。
ロベルト・カンピンについては、salvastyle.comのページをどうぞ。
ヤン・ファン・エイクについては、salvastyle.comのページをどうぞ。



(略)これは画家がレンズを透して見た映像に影響された結果だとわたしは思う。初めてそれが起きたのは1430年頃、ところはフランドル地方だった。ほかの画家たちもそうした絵を見て、たちまち影響を受ける。新たな芸術の影響が世間に広まる。ギルドに加盟する職人の間では、その方法が噂の種になった。ゆっくりと、話が外にもれはじめる。しかしいくつかの例外(たとえば、アントネッロ・ダ・メッシーナなど)を除いて、「秘密」がヨーロッパ北部から外に出ることはなかった。ところがヒューホー・ファン・デル・フースの「ポルティナリの祭壇画」が1480年代にフィレンツェに送られてからというもの、イタリア美術にも光学機器の使用を裏づける特徴が目につくようになる。
ヒューホ・ヴァン・デル・フースについては、salvastyle.comのページをどうぞ。
すべての画家が光学機器を使用した、といっていてるのではなく、そうした絵をみることによって影響を受ける、ということ。。。
日本でも、かつて影はあまり描かれていませんでしたが、ひとたび流行るととたんに影のある絵が増えましたよね?



デューラーは1505年の夏から1507年初めにかけてのヴェネツィア滞在中に、光学機器に出会ったのではないかとわたしは思う。デューラーにこの手法を手ほどきしたのはジョヴァンニ・ベッリー二かもしれない。ベッリーニは当時の記録によると、貴族に扮しアントネッロ・ダ・メッシーナのモデルを務めて、作画の秘密を学んだともいわれ、またデューラーのヴェネツィア滞在中は後継者として援助を惜しまなかった(アントネッロはすでに見たように、ネーデルランドの技法をイタリアに紹介した)。
ジョヴァンニ・ベッリーニについては、salvastyle.comのページをどうぞ。



1590年代の半ばのある時点で、カラヴァッジョはレンズを手に入れた。おそらくは有力な庇護社であったデル・モンテ枢機卿から授けられたのだろう。枢機卿はガリレオに望遠鏡の改善法を助言したほどであるから、光学に詳しかったはずであり、レンズも何枚か所有していたにちがいない。
カラヴァッジョについては、salvastyle.comのページをどうぞ。 《リュートを弾く若者》のリュートについて、ホックニーはデューラーの装置で描くには難しい、と述べています。


↓最後に、鏡のレンズを用いて得た映像の特徴! 頭に入れておくことにしましょ……。

鏡のレンズを用いて得た映像にはきわだった特徴がある。真正面から見た図であること、明暗の著しい対照とまぎれもない一体感、暗い背景と浅い奥行き感。こうした特徴はすべて装置の限界に起因する。これまでに見たように、画家たちは多様な要素を「コラージュ」してこうした限界を克服し大きな絵を作り上げたもの、各要素を真正面から、また間近に見て描くことに関しては相変わらずだった。すべてが空間のなかに自然に配置されていると思わせたのは、構図を工夫する画家の才の働きにほかならない。
口径が大きく、質の高いレンズができ、凸面鏡に取って代わると(16世紀のどこかの時点)、鏡のレンズで映像を得る術にすでに長けていた画家は、レンズの明確な利点を見抜いただろう。視界が広まるのである。レンズに切り替える画家が何人か現れたが、その過程を最も明確に示すのはカラヴァッジョの作品である。カラヴァッジョのレンズの使い方はじつに想像力に富んだものであったので、その影響はたちまちヨーロッパ全土にひろまり、若手の画家たちはカラヴァッジョの作品を見、その信奉者(カラヴァジェスキ)に学ぼうと、巡礼のようにイタリアに足を運んだ。


続きにあるのは個人的なメモ。

<メモ>
イブン・アル・ハイサム 965-1038年
アルハゼン、アルハーゼン(Alhacen 、Alhazen)とも。965年にペルシャを支配するシーア派の王朝、ブワイフ朝の支配下のバスラで生まれた。彼はバグダードで科学を学び、おそらくエジプトのカイロで没した。Thesaurus opticus (光学の書)は、1572年にラテン語に翻訳された。太陽光を集めてシラクサ沖の軍艦を燃やすアルキメデスの装置が描かれている。ピンホール型カメラ・オブスクラーを明確に説いた最古の文章。
http://ja.wikipedia.org/wiki/イブン・アル・ハイサム


クロエ・ツェルウィック 1980年 『ガラス小史』
ヴェネツィアのガラス職人のギルドが結成されたのは13世紀の初めのことである。1291年、ガラス造りに携わる者たちは当局に強制され、市内から近海のムラノ島に転居した。これは火元になる恐れのある炉を市内から排除するのと、ガラス職人の効率的な管理を目的としたものだった。
〜ヴェネツィアのガラス職人はムラノ島を離れることを禁じられていた。脱出は死罪に相当する犯罪であった。逃亡したガラス職人を執拗に追求する刺客にまつわる話も伝わっており、なかにはプラハの城門まで追いつめた例もあるという。
〜フィレンツェ人アントネッリにより、ガラス職人に技術を手ほどきする初の書物がようやく刊行されるのは17世紀に入ってからのことである。ネッリの著書『ガラスの技法』は1612年に出版され、長く門外不出とされた秘密を万人の手に届くものにした。


ブリタニカ 1883年
ヴァンサン・ド・ボーウ゛ェは1250年頃に。ガラスと鉛を用いた鏡が「透明度が高く、陽光をもっとも反射する」と記している。〜ヴェネツィアでは1317年にガラスを鏡にする術を知る「ドイツの匠」が地元の職人3名に極意を教示するとの合意を破り、彼らの手元に使い道のない大量の明礬と煤の混合物を残し立ち去る事件が起き、早くもこの時期に鏡の製法に世間の注目が集まった。
ところがガラス製の鏡が初めて商業ベースに乗ったのは、そのヴェネツィアだった。その後およそ1世紀の間、進取の気性に富むヴェネツィア共和国は高収益のこの事業を独占し、周辺地域の羨望の的となる。1507年のこと、ムラノ島の住人2人が、それまでドイツのガラス製造業者が門外不出としてきたガラス製の完璧な鏡の製造法を会得したと申し出て、鏡を20年間独占的に製造する券ウィを取得した。1564年、特権を享受したヴェネツィアの鏡製造業者たちが、会社を設立する。


ジャンバティスタ・デラ・ポルタ 1563年
『自然の脅威』を著し、光学機器による映像の投影に関する多くの記述を残した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ

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