リスミル派 risumiru school

撮った写真と作った曲の、備忘録的保管庫にしようかなと思っています。
自作曲も聴いてもらえるとうれしいです。

アイヌ語

羊蹄山に登る

羊蹄山に登ってきた。
20110618

登ってきたけれど、実のところ書くことがない。
登って、そして下りてきました。
実にそんな感じがする。
いつものメンバーとの山行は楽しかった。
下りて温泉に行ったり、札幌に帰って混んでいるカレー屋でぞろぞろと並んでハンバーグカレーを食べたり、そういうことの方がなんだか記憶に残っている。
山の中での、こう、ぱっとキャッチーな、こんなことがありました!というようなめぼしい話題がない。
今年春から現在にかけてずっと続いている、もやーっと霞んだようなうじうじした曇天の下を、時に大粒の雨に打たれたりもしながら登ってきた。
下の方はずっと樹林帯で見通しが利かなくて、上の方ではもやが霞んでいて白内障になったらきっとこんな風なんだろう、というような下界の景色しか見られなかった。
真っ青な晴天なら全然違ったのだろう。
僕にとっての羊蹄山は、景色を楽しめないときに登っても円山よりつまらない山だ。
20110618

道中ずっとうぐいすが啼いていて、たまたまなのかそういうものなのか、上にいる個体ほど囀りが上手だった。
姿を見つけられなかったのだけれど、ずいぶん傍で啼いているのもいて、ひとが傍にいてもかまわず啼き続けるほど真剣なんだろうな、と思った。
お花は下の方ではそこそこ咲いていた。
特に桜は僕等の心を慰めた。
羊蹄山は春を迎えていた。
20110618

登ってばっかり、下ってばっかりな山なので、道々心に引っかかる時間が少なくて、それでなんとなく書くことがないような気持ちになるのだろうと思う。
もちろん僕のその時の心境なんかも大いに関係あるのだろうけれど。
そもそもカメラを取り出そうと思うことも少なくて、それでも撮った写真のどれもこれもがぼんやりと霞んでいるようなのばっかりで、振り返ってみても、ああまあそんな感じだったよね、と一人納得する。
風も通らず、蒸し暑い山行だった。

後方羊蹄山と書いたときには「しりべしやま」と読んで、日本書紀にも記述があるという古い地名だ。
アイヌ名はマッカリヌプリ。
マッカリはマクカリが訛ったものらしく、「うしろを廻る」という意味であると更科源蔵が説明している。
尻別川の方から見て羊蹄山のうしろを廻っているマクカリベツ(真狩川)を言い表した言葉のようで、マクカリベツの山だからマッカリヌプリ。
羊蹄山の後ろにあるものは大事だから名前をつけたのだろうが、何の後ろにあるのかはそれほど重要ではなかったらしい。
それとも、これだけ目立つ山なんだから名前をつけることもない、と考えたのだろうか。
確かにあのあたりから眺める羊蹄山は、やま、とだけ言えばそれですんでしまうような威厳がある。

神の子池


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神の子池に行ってきた。


何度か行って何度か写真を撮ったのだけれど、どうもいつもうまく写真が撮れたことがない。
今回の写真も、素晴らしい出来だ!と自画自賛するわけにはいかないものばかりなのだけれど、でも僕が気に入ろうが気に入るまいがブログで神の子池に行きましたー☆なんて記事を書くのだから、写真は必要だろう、と思う。

舗装された道道から林道をしばらく入った先に広い駐車場がある。
林道は固く踏みしめられた土道で、オンロードのバイクでも我慢すれば行けると思う。
僕はここに来るときはいつも明け方に到着するので、この駐車場がどれほど混むのか知らない。
でも早朝でさえ車は何台か来るので、昼頃は混むのだろうなと思う。
気温は5、6度だったと思う。
もうずいぶん寒くなった。

ここがいいのは、駐車場から全然歩かないということだ。
だから人気があるのだろう。
林道の先にある駐車場から歩いて10分、というような場所、主に滝だけれど、そういう場所を他にいくつか知っているけれど、そういうところは観光客みたいなひとはあまり来ない。
そういうふつうの人が来ないようなところは熊だとかにおびえるのだけれど、神の子池はその点気楽でいい。
熊に注意の看板はお約束のように立っているけれど、誰かがいれば話し声を出してくれるので、熊鈴を持たなくてすむ。
なんて他力本願なところで安心する。

kaminoko ike 4(fin)
ただでさえキレイな場所に来て、深く考えず自分の気に入った場所でシャッターを切ると、webでたくさんupされている写真と同じような写真になることが多い。
でもそれは僕はそういうものだろうと、ある程度肯定している。
立ち位置が制限されている場所で、通りすがりの自分を意識すれば当然のことだ。
ウェーダーを着込んでざぶざぶと池の中に入っていけば、あまり見たことのないおもしろいアングルから写真も撮れるだろうけれど、僕は当然のようにそれをしないし、他の多くのみなさんだってそんなことはしない。
できるけどしない。
誰かの写真を見て、これを撮るためにはこういうことをしたのだろうな、と気づくことがたまにある。
ひとはひとだし僕には関係のないことだけれど、でも僕はそういう写真にはあまり興味を惹き起こされない。
写真を気に入るということは、その写真を撮った人はこういうひとなのかな、と想像する感情を気に入るということだろうと思う。
そういう風に思うと、僕の写真は、僕がつまらないひとだからつまらないのだなあ、と思う。
とはいえ、では僕は僕のことを気に入ってもらうために写真を撮っているのかというとそうとも言い切れず、このあたりはぐるぐるどろどろと経巡って、要するにそういうワケのわからないところが趣きというものではないか、などとしたり顔をする。
いつから僕はこんなにイヤミなヤツになったのだ。

kaminoko ike 3
映り込みを調整したいので、CPLを使っている。
一眼レフではCPLを使うことが多い。
ほとんど手持ちでは撮らず三脚を立てることが多いので、暗くなることを気にしなくていいから、というのもあるし。
ただその後のレタッチで、ギトギトというかくどくなる感じもあって、一長一短だろうな、とは思っている。
ギトギトだなあ、と思いつつ、でもそういうジャンクなフードをイートしたくなることはあるでしょう!?とも思うので、そうさそれが要するに趣きさ、ということにしている。
撮っているときにファインダー越しの景色がキレイに見えるので、ついつい使ってしまうのだ。
でも、つけないテイクも一枚一緒に撮っておくべきかな、というのが、僕の正直な気持ち。
そのテイクは使われないことが多いのだけれど。
それもまた趣きだ。

kaminoko ike 2
池のそばに看板が立っていて、「先人たちは、この不思議な青い池を神さまからの贈り物「神の子池」と云い伝えています」と書かれている。
摩周湖と同じ伏流水があふれてできた池、と言われているらしく、摩周湖はアイヌ語でカムイ・ト、神の湖という意味を持つ名前なので、同じ水源を持つ小さい池は神の子、らしい。
平凡社の日本地名歴史大系北海道の地名によると、マシウはアイヌ語に由来する地名、と記されている。
同書によると松浦武四郎の戊午日誌がその根拠としてあげられていて、以下の一文が引用されている。
マとは游ぐと云儀、シユウとは鍋の事。此沼川口なくして丸るこき故に、鍋の如き沼にて、其傍に有る山夕日に沼えうつるは、人が此沼を游ぐが如きに見ゆるなり、鍋を游ぐと云を合して号しと云。又むかし義経卿の用ひ給ひし鍋此洞に在りしによつてとも云り。何れが是なるやをしらず
しかし更科源蔵は「アイヌはカムイ・ト(魔神の湖)とよび、摩周岳をカムイ・ヌプリ(魔神の山)と呼んでいてマシウとは言わなかった。」とはっきり書いている。
マシウと呼ぶようになったのは安政あたりからの和人の記録の中で、日本人のつけた名のようである、とも書いている。
安政あたりに北海道の記録を書いていた和人なんてのがそうごろごろいるはずもなく、この和人というのはそのまま武四郎を指しているような気もするのだが、とするとこの戊午日誌に書かれているようなことについて、更科源蔵は懐疑的だったようである。
武四郎自身は、何れが是なのかは知らない、と正直に書いているのだけれども、義経伝説と絡んでくるあたりで、確かにどれが本当なんですか、という気はする。
摩周という言葉がある以上誰かがそう呼んでいた、あるいは呼んだのは確かなのだろう。
ただなんとなく語感から受ける印象として、個人的に、外周の丸さをイメージして付けられた言葉、という感じがする。
摩周湖を見たときに印象に残るのは、浜辺がなくて、囲まれた山々からストンと窪地になっている外周部の景色なのだ。
アイヌの人々は摩周湖のことをカムイ・トと呼んでいました、と言いつつ、一方で、マシウはアイヌ語、というあたりなかなかの堂々巡り具合で、趣だこれぞ趣きだな、と一人静かに興奮する。

kaminoko ike 1
僕の写真だからもちろんレタッチはしているけれど、実際に見たときの色合いも、その驚くべき青、蒼、碧に心打たれる。
世の中には森の奥でいつもこんな色をさせている沼がある、という感覚がこの池を思い出すたびに思い起こされて、そのイメージは僕の脳のどこかでいつもゆらゆらと蒼く光っているような気がする。
そう言う意味で僕にとってのこの池は、確かに実在するのだけれどイメージ上にしか存在しない不思議な場所、のような気がしている。
ちょっとうまく言い表せていないけれども。

この一連の写真を撮るときに、僕はカメラの設定ミスという重大な失敗をしでかしております。
それも含めての趣きを愛でる写真、ということでひとつ穏便にお願いしたい、そのように考えておる今日この頃です。
なんか△×だなあこのカメラ、と思っていたら実は自分が設定を間違っているのだから、まずは自分を疑って生きていくに越したことはない。
今日の反省終わり。

なぜか北広島に行く

夕べはちょっと夜更かししてしまって、それで今朝は昼も近くなって起き出した。
天気予報では雨が降ると言っていたような気がして、窓の外を見ると風が強そうだった。
とりあえずテキパキとお湯を沸かしお茶を入れ、飲む。
顔を洗って、遅く起きてしまったのでお昼ご飯の調達を実施せん、と家を出た。
自転車で、近くのお弁当屋さんに向かったのだが、お店は閉まっていた。
このお店はもうおなじみさんで、なにか急なイベントが発生するとこういうことがよくあるということを知っているので、あまり驚かない。
ううむどうしようか、と自転車をこぎながら考える。
なんとなくサイクリングロードに出てはみたけれど、行き先にあてがあるわけでもない。
先週は友達とこのサイクリングロードで北広島に行きましょう、なんて約束をしていたのだけれど、あいにく雨が降って中止になってしまった。
北広島ねえ。
予報に反して天気は案外よいのだけれど、向かい風が強くて、北広島方面へ行くにはちょっと難儀しそうだ。
でも行く当てもなく、だらだらとこぐ。

このサイクリングロードは線路ぞいにあって、途中線路のすぐそばを並走するようなところもある。
そういうところで汽車が走っていくのをながめながら、こぐ。
最近は、北海道でも電車、とちゃんと言うようになったのだろうか。
僕はいまだに汽車汽車、と言ってしまう。
ディーゼル車ばっかりだからそれでもいいんだよ、なんて優しい友達は昔言ってくれたけれど、それでいいのかどうか、僕にはよくわからない。
久しぶりの道だけれど、まむしが確認されました注意してください、なんて看板が立っていて、ほほうイオチイオチ、と一人ごちる。
余市町の語源となったこのアイヌ語は、ヘビが多いところ、という意味だったはずで、そもそもは「それが多いところ」なはずだけれど、「それ」とはヘビのことなはずだ。
ただ家に帰って例のコタン生物記を読んでみたところ、ヤマカガシのことをクンネカムイ、黒い神様と呼んだそうなので、直接名前を言うのも憚られた畏怖の対象は、マムシではなくヤマカガシのことだったのかもしれない。
僕はどういうわけか、二輪車に乗っているときにヘビを踏んづけたことが二、三度あって、今回も踏んづけたらどうしようと思って恐々としていたけれど、祈りが通じたか、マムシは僕の前には姿を現さなかった。

行く当てがないまま、なぜか僕は北広島へ自転車でひた走っている。
いかん俺はなにをしているんだ、という思いがさっきから激しく脳裏を渦巻く。
僕には今日したかったことがあって、それはそれほど楽しいとは思わないけれど、僕にとってはやらなければならないと強く思うことであって、それをやりたいがためにご飯を調達して腹ごしらえをするつもりだったのに、なぜか今僕は自転車で北広島を目指している。
いかん俺はなにをしているんだ、と思いながら、そんな自転車で遠出はつらいでしょう自転車買わないのですか、と言われたが、この向かい風でしかも全般的に登り基調のこの道を、ものすごくゆっくりとは言えひた走っているのだからこれで十分だなやはり、などと幾ばくかの満足感も感じる。
気温は高くて、空は晴れている。
天気予報ははずれたようだ。

そんな感じでだらだら走って、北広島まで行ってしまった。
帰りは全般的に下りで、楽だった。

お弁当を買うだけのつもりだったので、カメラはおろか小銭入れくらいしか持って行かなかった。
そういう徒歩の延長、みたいなところでつきあえる自転車が、僕は好きだ。
写真は撮りたかったと思うけれど、まあ、楽しかった。
でも、俺はなにをしているんだ、と、今でも思っている。
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rsmr

元リスミル隊長です。
今は一介のrisumiruです。

写真撮るのと音楽が好きです。
山の中でうろうろするのが好きです。
川を釣りあがっていくのも好きです。
リスが見れれば最高です。

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