人間は尊敬されるからこそ付託に応えたいと思うもの

 私は20年間の教師生活とその後のカウンセラー生活を通して、1つの考えを持つに至りました。

 それは尊敬できない相手と一緒にいるべきではないということです。

 教師として教室を経営していた私は、数百人の生徒とその親たちと付き合ってきました。教えやすい子供というのは、頭が良くても悪くても関係ない。大事なのは親が私という教師に対して尊敬の念を持っているかどうかです。

 こんなことを言うと「教師を尊敬せえ」と偉そうに言っているように聞こえるかもしれませんが、「尊敬しろ」と命令しているわけではありません。

 うまく行く子供さんというのは、親が内面で「この先生なら尊敬して任せられる」と感じているんです。親の方に不信感とか打算などがない。すると子供は安心して私のところに通うんですね。

 心の障害がないので、気持ちよく付き合えるし安心して学びに専念できる。

 親御さんが自然と私に尊敬の念を持っているとそれが教師である私にどういう影響を与えるかと言いますと、「ああ、こんなに信頼して任せてくださるんだなあ。ありがたいなあ」と私は思ってくるんです。そして「この付託に応えたい」と頑張る気持ちになるわけです。

 私も不完全な人間ですので弱点だらけです。ここがダメ、あそこがダメと言われればその通りなんです。そういう弱点だらけの人間である私に任せてくれているのだから、何とかできるだけのことをして、この人の役に立ちたいと思うわけなんです。

 つまり弱点にもかかわらず、私を信頼し付託してくれているということ、尊敬の念で来られていることが、私をものすごく謙虚にするわけです。何とか頑張って裏切りたくないという感情に自然となるんです。

 ところが、最初から私に対して不信感や嫌悪感や軽蔑で来られると、何をやっても満足してもらえないだろうと思ってやる気を失うんです。この人たちと一緒に働いても、いいものを共に創造していけそうにないと感じるんです。

 私に対する尊敬のない親の子供を教えてきた経験、そして私自身が尊敬していない教師や医師に通い続けてうまく行かなかった経験の両方を通して、尊敬できない相手と共同で何かをするということは双方にとってよくないという結論に達したのです。

 もしあなたが親で、お子さんをどこかの先生に預けようと思うなら、あなたの中でその先生への基本的信頼や尊敬があるのかどうかを吟味していただきたい。

 大事な我が子を託すわけですから、心底尊敬できている相手でなければ、子供にとっても失礼ですし、先生にとっても失礼です。

 尊敬できない教師になぜ我が子を送るのですか? 我が子をダメにしたいんですか? そうでしょう?

 「この先生は尊敬できない」と本当に思うなら、別の先生を探すべきです。それが先生への礼儀です。

 軽蔑する人に習いに行くべきではありません。基本中の基本です。

 私も以前は、自分が心の底で相手のことをどう感じているかに気づいていませんでした。無頓着だったんです。自分が相手を本当に尊敬しているかどうかに無自覚な人は世の中に少なからずいらっしゃるだろうと思います。
 
 気づいていない自分の気持ちに気づくことは、自分と相手の双方の利益になります。

 さて、尊敬し合う人間関係においては、何か問題が起きても、根底に信頼がありますから、協力して解決していけます。多少の利害の不一致があっても、交渉して解決できるわけです。

 ところが、根底ではお互いのことを嫌っている人間関係においては、問題が起きたとき、そもそも尊敬し合っていませんから、嫌悪感や不信感が半端なく出てきます。

 たとえば、基本的に私のことを尊敬してくれているなあという相手が「こういうことは困る」と不満を正直に話してくれたら、「ああ、聞いてあげたい」と自然に思うんです。抵抗なく相手の利益を考えたいと感じるんです。

 ところが、基本的に私のことを軽蔑しているなあという相手が私に対して不満を言ってきたら、その不満を協力して解決しようという気持ちにそもそもなれません。そこまでして維持したい関係だと感じていないからです。不満を言われること自体に不愉快になります

 不満を一緒に解消しようという協力体制ができる以前の問題がそこにあるんです。

尊敬があってはじめて不満を解消できる

 たとえば、レストランの場合で考えてみましょう。

 基本的に私が心の底から尊敬し感謝しているレストランがあったとします。たまたまそこで困ったことが起きて、正直に話すことで解決したいと思うわけです。そうすると、私は単に不満を伝えるだけでなく、根底にある私からの尊敬もレストラン側に伝わります。レストランへの真の思いやりを持って不満を伝えるのですから。そうすると、レストラン側は快く応じてくれるか、たとえ応じられなくても、私の気持ちを尊重してくれるでしょう。


 それに対して、私が尊敬していないレストランに対して不満を言う場面を想像してみてください。不満を表明するときに、根底にある私の不信や嫌悪や軽蔑が一緒になって相手に伝わります。そうすると、相手は否定されているだけだと感じるでしょう。

 このように、尊敬していないレストランに不満を言うということ自体、お互いを不愉快にするだけのマイナス行為だと言えます。黙ってそこを去って、尊敬できるレストランを探す方が自分にとってもスッキリするし、相手もその方がありがたいのです。

 
軽蔑する相手には不満を伝えないことが礼儀だと私は考えています。軽蔑する相手に不満を伝えることは、ポジティブなものを何も生まないのです。

 不満を解消するためのコミュニケーションをとることが意味を持つのは、そもそも相手との間に相互尊敬があるときなのです。尊敬がないなら、コミュニケーションは嫌悪のぶつけ合いになるだけです。

尊敬していない相手との恋愛や結婚は終結させる

 さて、恋愛や結婚の問題にも同じことが言えます。

 多くの女性は「ダメ男」と別れようとしない。心の中で夫を軽蔑している。「尊敬できない」とはっきり口に出す。けれども別れない。そして夫についてここが酷い、あそこがダメだと批判し続ける。

 軽蔑している相手だと分かったら、その時点で別れるべきだと思います。尊敬している相手であれば、不満を一緒に創造的に解決していける可能性があります。

 けれど、軽蔑している相手に不満を分かってもらおうとするのは苦しいし虚しい。

 求める相手をそもそも間違っているんです。

 あなたが尊敬できる教師や医師やパートナーに向かうと、相手はあなたの尊敬によってプラスの状態になるので、あなたの利益のために行動したいと思えます。つまりプラスの気持ちで相手に向かうからこそ、相手の中にプラスのものを刺激しプラスのものを引き出せるんです。

 尊敬できる相手に向かうことで、相手もあなたによって助けられ、プラスの自分を出せる。相手のプラスが出てくるから、自分も潤ってくる。このようにプラスの循環が生まれます。

 あなたが軽蔑する教師や医師やパートナーに向かうと、相手はあなたの軽蔑によってマイナスの状態になるので、あなたの利益のために行動したいというプラスの状態になることが難しくなります。相手にも自分にも大損です。心底いいと思えない相手と付き合うと、双方を傷つけるんです。お互いにマイナスを引き出し合ってしまうからです。

 さて、相互尊重に基づいた創造的な関係を維持できてきた場合でも、時とともにその関係の有用性が消滅し、お互いの成長に寄与できなくなることがあります。新しい人間関係へと移行する時期です。感謝してお別れしましょう。

 目的を達成した人間関係は維持できなくなるのが自然の流れです。人間関係は長く続けばいいというものではありません。

 「互いにプラスを引き出し合える相手とだけ、またプラスを引き出し合える期間だけ付き合う」というのが人間関係のルールだと考えます。


好みに合わないレストランには行かないのが礼儀
尊敬できない教師には我が子を送らないのが礼儀
尊敬できないパートナーとは別れるのが礼儀

尊敬できる相手であって初めて
対立を一緒に解決してでも維持したい大事な関係だという
根本的な感じ方ができる

尊敬できない相手なら
不満をその人との間で解決するだけの
価値がそもそもない

プラスを与え合う相手でなければ
付き合ってはならない