私は愛を動機として生きています。

 愛を動機として生きていると言うと、何か大袈裟なことのように聞こえるかもしれません。

 けれども、これは誰にでもできることだと私は思っています。

 愛を動機として生きるとは、仏陀やキリストのような特別な存在しかなし得ない高尚なことだと思う方もいらっしゃるでしょう。

 実際は、意図さえあればできることです。

 まず、あらゆる人の幸せを願うというところから始めます。(人間だけでなく生きとし生けるもの幸せを願うのでももちろん構いません。)

 誰に対しても「傷つける」という意図を持たないと決めるのです。

 自分の存在が、世界全体にとってプラスの貢献ができるようにという気持ちを人生の根幹に据えます。

 何をするにしても、自分のためになるか、誰か他の存在のためになるか、どちらかの動機で行い、悪意をもって自分に対しても他者に対しても接しないと決めます。

 これだけです。

 愛というのは、それを向ける対象に対して「幸せであって欲しい」という気持ちがあることだと言えます。

 愛は、あらゆる善意の源です。

 ただ、愛は自分にも他人にも強制してはいけません。愛は自発的で能動的なものであり、またどのような形で与えられるかは、その場その場で違います。

 相手の求めに応えられなくても、そこに愛がないとは限りません。応えないことが自分への愛だったり、相手への愛でもあることがあるのです。

 例えば、自分の限界を超えた要求なら、「それは私には無理です」と言って断ることは、自分への愛です。相手への悪意から断るわけではない。自分を大事にするために断るんです。

 相手の望みに応えてしまうと、相手を甘やかしてダメにしてしまうという場合もあります。そういう場合は、相手のことを考えて断るのが愛です。相手を本当の意味で大事にしたいから断るんです。

 このように、何もしないことが愛であることもあります。相手の幸せを願うからこそ何もしないということもあるのです。

 自分が必要としている愛を拒んで、他者だけに愛を与えるという禁欲精神を美化することに私は賛成ではありません。イエスは「隣人を汝と同じように愛せ」と言ったのであって、「隣人を汝自身よりも愛せ」とは言っていないのです。


 つまり、「他者を大事にすると同じぐらい自分自身も大事にせよ」というメッセージが隠されていると私は考えているんです。

 愛を動機として生きるということは、自分も含めたすべての人を愛するということであって、除外する人が出てくるなら、それは愛ではありません。

 エーリッヒ・フロムは、家族だけ愛して、その他の人は愛さないとすれば、それは愛ではないと言っています。本当の愛というのは、生き方の全体に関わることであって、対象が限定されるものではないのです。

 愛を動機として生きるということを別の言い方で表現すれば、「人間愛を生きる」となります。

 仕事において「愛を動機として生きる」「人間愛を生きる」とはどういうことか、少しお話ししましょう。

 自分が仕事をすることで、相手の幸福に貢献したい。そういう気持ちが根底にある。そして、その気持ちに反することは一切しない。これだけです。

 相手に有益だと思ったことはする。害があると思ったことはしない。

 また、自分に対しても愛で接する。つまり、自分に負担が重すぎることや、やりたいと思えないことは断ってあげるということです。

 簡単に言ってしまうと、「自分と相手の双方に有益なことだけをする」ということになります。

 これを、あらゆる人間関係に応用すると、「自分と相手の双方に有益な関わりだけをする」ということです。

 有益なことが何もできないなら、何もしない。

 これが私が考える愛に基づいた根本原理です。

 意図さえあれば、どんな人でもできるということがお分かりいただけたでしょうか。