③では、Joe氏の教えを基にして「善と悪」について考察いたします。

「悪人として相手と接する」という Joe氏が説く基本態度

 
モラハラをするような人は「悪い人」です。自分の問題に目を向けたくないものだから他人を攻撃して安易な方法で優越感に浸っている人は「悪質な人」です。

 こういう「悪い人」の餌食になってしまう人の特徴として「いい人」にこだわり過ぎているという点があります。悪人が話しかけてきた時でさえ、「人が話しかけているのだから心を開いて聞くべきだ」とか「無視するべきでない」と考えて「きちんとした対応」をしようとするのが「過度な善人」なのです。「話せばきっと分かり合える」などと夢見ている「ナイーブな善人」です。

 Joe氏は「悪人としての振る舞いをせよ」とは言っていません。「心の中だけ悪人になれ」と言っています。その意味は、相手に対して無関心で冷たい心で接するということです。普通の善人と付き合うならそんなことをする必要はありません。そもそも「悪人」と付き合っているということ自体、異常なことです。

 異常な人との異常な関係から離れられないのですから、普通の接し方をしていてはいけません。心の中だけで悪人のようになる必要があるのは、それが相手の攻撃を減らし自分の身を守るからです。

 私たち人間には善と悪があり、善に傾いた人は一般的に「善人」、悪に傾いた人は一般的に「悪人」と呼ばれます。しかし、誰も100%善でも100%悪でもない。善と悪は表裏一体のようなものです。

 つまり、ホリスティックな人間でいるためには、悪の部分を完全になくしてはいけないのだろうと思います。ただ、悪人の悪の用い方と、善人の悪の用い方は大きく違っているのです。

 例えば、私は人を恨んだとしてもその人を殺したりはしません。自分の気を晴らすためとか、自分の利益だけを考えて人命を奪うということはしないのです。それは根本的に私は善意で生きているからだと言えます。

 しかし、そういう私でも、犯罪者が愛する人に危害を加えようとする場面に出喰わし、愛する人を助けるには加害者を殺す以外にないとなれば、迷わずそいつを殺す気持ちは持ち合わせています。愛する人を守るために、危害を加えようとする者を殺す覚悟を持っているのです。極めて限定的な状況でしかあり得ない話ではありますが、私も状況次第で「殺人者」になる覚悟があります。これは私が自分の中の「悪」の力を必要に応じて用いる用意があることを示しているのです。

 さて、私と違って心根から悪人の人は、もっと自己中心的な目的のためにこの「悪」の力を平気で用います。金をよこせと言って脅したり、言うことを聞かない人を処刑したりできるのです。

 いじめられる人の特徴として、「悪」をあまりにも持っていない点があります。「悪い人」になることを恐怖し拒絶し過ぎているが故に、悪人に悩まされる状況から自分を救えないのです。

 「悪」を捨て過ぎて「善」だけになってしまうのは、人間にとって大きな過ちだと思います。時と場合によって「悪い人」になれる能力を温存しておかねば、悪人に太刀打ちできません。

 よって、Joe氏の「冷たい悪人の心になる」という訓練は非常に的を射たものだと思います。

 愛する能力や意思、理解する能力や意思を持たない悪人に対して、「お願いだから分かって」としがみついている被害者の姿は、申し訳ないけれども、ある角度から見れば滑稽ですらあるのです。

 この相手が冷酷で自分のことしか考えておらず、自分に温かな関心などないということがなぜ分からないのか。なぜそこまで愚かなのか。それは、「いい人」というイメージにあまりにも固執してきたため、あるがままの現実が見えなくなっているからだと思います。

 人間は決して「悪」を見抜く目を失ってはダメです。「悪」を見た時「悪」だと分からねばなりません。そのためには、自分の中に「悪」を持ち続けていなくてはならないのです。「悪」を自分の中から追放してしまったら、「悪」に出会った時、それが「悪」だと気づけません。なので足元をすくわれます。

 いいですか? 悪人のようになり悪いことをせよと言うのではありません。悪人のようであれる能力は温存していなくてはならない。そして時と場合によって適切に「悪」を用いて自分の身を守ったりする必要があるのです。

 愛する人の命を救うためなら殺す用意があると先ほど言いました。他にも、私は付き合いたくない人から手紙が来たりメールが来たりしても「返事をしません」。これは自分の中に「善人」しかいなければ罪悪感を感じてしまうことです。「せっかく相手は手紙をよこしたのだから、返事をするのが礼儀じゃないか」と常識的な善人はみな考えます。ところが、善人の愚かなところは、これを「相手が誰か」を考えず全員に当てはめようとすることです。

 確かに私がその人に返事をしなければ、その人はがっかりするかもしれません。期待を裏切られて傷つくかもしれません。でも、私はその人と付き合いたくないのですから、付き合いたくないというメッセージはどっちみち伝えねばならないのです。それなら「返事をしない」ことでそれを伝えてよいと考えられます。

 私は返事をしない時、ちょっとだけ「悪い人」になるわけです。自分の中に「善人」しかいなければ苦しみますが、「悪人」もいるので自分のこの行動を仕方ないものとして受け入れられます。

 受けたくない電話を馬鹿丁寧に受けて、忍耐を超えた時間まで付き合ってあげる人は愚かです。「悪い人」になりたくないので、無理して自分を偽って、自分を裏切って、相手に嫌々奉仕してしまいます。この人は、ちょびっとだけ「悪人」になることを自分に許すことができれば楽になるのです。「もう聞きたくない」と思っていいのです。「それ以上聞かない」と決めて伝えていいのです。冷たく対応してもいいのです。

 そのように行動しても、根本的に「相手を傷つける動機でしていることではない」ので、セーフだと言えます。悪人の行為とは質的に異なるのです。あくまで「善人が用いる範囲での悪」を逸脱していません。

 「いい人」に拘ることによって自分を不自由にすることは愚かです。悪人から傷つけられる余地を残すからです。なので、いじめられる被害者は、「悪」を適切に用いる練習を重ねることが重要だと思います。

 Joe氏が教えている「モラハラ対処法」は、悪質な相手に対して「悪」をまったく持たないため「愚かな善人」として舐められている人に対し、心の中にちょっとだけ「悪」の部分を育みなさいと指導するものだと私は見ています。加害者が攻撃欲をなくしていくのは、被害者が「悪」を用いて「不気味な雰囲気」を出せるようになるからであり、もはや加害者が「悪」を用いていじめても、怯えて面白おかしい反応をしなくなるだけの「凄み」を身につけたからです。

 「善しか知らない人」は、麻薬捜査官や刑事にはなれません。悪人の心理が分からないので混乱するだけだからです。悪人と対峙して正義を為すには、為す側に悪人を理解し立ち向かうことを可能にするだけの悪人気質を持っている必要があります。だから、警察官の中には、どっちがヤクザでどっちが警官か分からないようなオヤジがいるんです。ただ警官と犯罪者の違いは、悪の力を「何のために用いるか」という目的意識であり動機だと言えます。

 善を為すためには少々の悪が体現できなくてはならないのです。善だけに縛られると善は為せません。

〜〜3回シリーズ完結〜〜

推薦図書