菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2014年03月

もっと表現したい状態は何か

 意識の中で体験している「状態」と、表現している「状態」は同じです。

 意識の中で「いらいら」していたら、「いらいら」を表現しています。

 意識の中で「平安」なら、「平安」を表現しています。

 意識の中で体験していることを、発信していないということはあり得ません。 

 さて、皆さんがもっと表現したい「状態」は何でしょうか。自分の内側で体験し、発信したい「状態」は何でしょうか。

 私たちの意識は、思い描いたものが心の中で即座に体験される、という性質をもっています。

 怖い体験を想像すると、意識の中では本当に起こっているかのように、リアルに体験され、恐怖を味わいます。

 また、楽しい体験を想像すると、同じように、楽しさをリアルに味わいます。

 このように、意識の中で想像する、という行為は、創造行為に他なりません。そして、これをずっと続けていくと、魂の望みと合致したものは、外の現実にまでなっていきます。魂の望みと合致しないものは、妄想で終わります。

 さて、次に10の「状態」をご紹介します。これらは、すべての「状態」を網羅しているわけではありません。この記事のために、私がインスピレーションで考えついたものです。

 この中で、「これがほしい」とハートで感じるものを1つ選んでください。そして、3ヶ月とか一定の期間、その「状態」を毎日、数分でもいいので、想像してからだ中で感じるようにします。

 そうすると、塩が足りなかった料理に塩が入って美味しくなるように、楽しさが足りなかった生活に楽しさが入って幸せになるように、その「状態」が自分の生活に入ることで、自分の魂が喜んでいるのがわかるでしょう。

 あなたが、「これがほしい」と感じるものは、今あなたの魂が飢えているもの。その栄養をあげるのは、まずは想像力なのです。

 10の「状態」とは・・・

1.Autonomy・・・自分で考え、自分の道を歩んでいる
2.Openness・・・生きることに対して、ハートが開いている
3.Spontaneity・・・感じたとおりに歌い踊り笑い泣く
4.Simplicity・・・自分にとって本当に大事な少しのことを抱きしめている
5.Accpetance・・・過去にも他人にも自分にも文句がなく受容している
6.Self-Love・・・自分に必要なものをあげるのは楽しい
7.Peace・・・外の世界で何が起きても、乱されることのない安らぎが支えている
8.Empathy・・・いろんなものを受け止めて感じて一緒にいる
9.Patience・・・あらゆることが成就するのを信頼している
10.Honesty・・・怖いときに怖いと言い、イヤなときにイヤだと言い、嬉しいときに嬉しいと言う
 

強さとは弱さを抱きとめること

 強い人とは弱さのない人ではありません。自分の弱さをしっかり認め、抱きとめることができる人のことです。私にはこういう弱さがあると言える人は強い。弱さをぽろっと出せる人は強いのです。

 本当に弱い人は、自分の弱さにおろおろし認めません。弱さにパニックになり隠し通します。弱くないのだと言って強がるのです。弱さを抱きとめることができません。 

 私は子供のころ一度だけ妹をいじめたことがあります。後でものすごく後悔しました。何でそんなことをしたんだろうと後から考えてみると、むしゃくしゃしていたんだと思うんです。そして、どうしてむしゃくしゃしていたのかというと、親とか学校とかからいろいろ強制されたり評価されたりしてイヤな思いをしたから、そしてそれをどうにもできないで無力感をもっていたのだと思います。 

 「僕はこんなにたくさん分からないことをさせられて辛いよ」「怖いという気持ちに寄り添ってもらえなくて辛いよ」と意識化できる成熟度が幼い私にはありませんでした。だから訳もわからずむしゃくしゃする。そして、妹が私の言うとおりにしないと、めらめらと怒りが湧いて来る。そしていじめてしまったのだと思うのです。

 いじめる人は、強い人ではありません。自分の不安や混乱などが意識化できずに、むしゃくしゃしていて、いじめることで自分のパワーを感じてすっきりしたいのです。無力感の苦しみを解消するために、誰かの上に立ちたいのです。

 いじめる人がいじめを通して自分の心理的問題を解決するのではなくて、きちんと不安や混乱に向き合えるためには、その人のむしゃくしゃの根底にある気持ちに共感をもって心の耳を向けられる人が周囲にいなくてはなりません。

 自分の弱さを言語化できない子供は、気づいてほしくていじめたり万引きしたりしますが、その行為を叱るだけではダメです。それをせざるを得なかった子供の気持ちを理解し、言語化することを手伝ってあげることが最も大事です。

 弱さを自分で抱きとめられない人が強く優しい人間になっていくには、誰かが代わりにその人の弱さを受け止めてあげることで、「自分というものはこうやって聞いてあげるんだよ。自分というものはこうやって愛してあげるんだよ」と模範を示してあげなくてはならないのです。

 その人が必要としているのは処罰ではないのです。理解と導きなのです。

 強さとは受け止める力であり包容力なのです。優しさなのです。優しくない人は相手を叩きます。処罰します。


出会うすべては自分の一部 その3

 私はもう長い間、自分のハートが喜ぶことをすることと、マイナス反応を解放することの2つのことを毎日の生活で行っています。

 自分の内面でのちょっとしたエネルギーの変化にも気づく訓練を行ってきましたので、何かに出会って嬉しく感じたり、誰かにあって緊張を感じたりすると、わかります。

 今日ある喫茶店でケーキを注文したのですが、ケーキがテーブルに運ばれたとき、ケーキがちょっと小さいのではないかと不安になっている自分に気づきました。静寂の中でこの心理反応を眺めてみて気づいたことは、「自分だけごまかされているのではないか」「自分だけ損させられているのではないか」という怖れが生じていることでした。

 一瞬可笑しくなりましたが、このマイナス反応を手放す作業をしました。

 実際にはケーキはおそらく小さかったわけではないのですが、ケーキが私の中で癒されたがっている怖れの投影先として働いてくれたのです。

 こんな感じで、町を歩いていて、自分の中に怖れなどの反応が生じると、それをクリアするという癖がついてしまいました。そうすると、すっきりできるからです。

 感じるのは、もちろんマイナスのことばかりではありません。クリアすればするほど、プラスのものへの感受性も高まるので、実際にはいろんな人の中の愛や美しさや正直さなどを感じる方が多いのです。

 たとえば、喫茶店に座っていて、小さな子供が入って来ると、その子の無邪気な喜びの波動がす〜っと私のからだに入ってきて、深い喜びに満たされます。

 店員さんの美しさや親切心、内装の品の良さや心地よさ、お客さんの楽しさなどと対話しているかのようです。

 無邪気な子供に触れて、私自身の中にそのような無邪気な部分が活性化されて体験されるのです。ですから、無邪気な子供の波動は、私の中にある無邪気な子供を覚醒させてくれます。 

 店員さんの美しさや親切心を感じている私にも、美しさと親切心があり、それが活性化されます。

 店員さんの資質を感じて称えるとき、私自身の中にある同じ資質を喜び称えているのです。そうすると、美しさや親切心を発信している人も受け取っている人も、ともに豊かになります。きちんと感じることで、称えることで、喜ぶことで、その波動がお互いの中で強化されるからです。

 さて、ここからは政治における感情を、波動の世界から見てみましょう。

 私は以前、いろいろな問題が官僚のせいだと思って、官僚とか役人・役所に怒りをもっていました。しかし、今は違います。

 福島の原発について、あるいは沖縄の基地について、政府や官僚などに怒りを感じている人は、自分の無意識の問題を彼らに投影してしまっています。そして、自分の本当の問題を解決する代わりに、国の問題に感情移入しているのだ、ということに気づきません。 

 親への怒りに気づいていないクライアントがカウンセラーに怒りをぶつけるのと同じからくりで、自分の無意識に抱えた問題に気づかない多くの国民が、政府や官僚を叩きたい衝動に駆られます。

 そこから自己成長していくためには、政府や官僚への不満や怒りは、自分の中の何を見せてくれているのかと問うと、自分をより深く理解し、癒していけるでしょう。

 たとえば、官僚を見ていると、「自分の身を守ることばかり考えて皆のためになることを行動に移さない」ことに腹が立つなら、自分の中にも「保身する傾向」があって認めていないことを意味しています。

 国民の大多数が、官僚を見ても腹が立たないレベルにまで自分自身を引き上げられたら、その国民の意識が、全く違った政府や官僚を作り出す時代になっていると思います。

 つまり、政府や官僚を叩くとき、その人は自分自身を批判しているのです。

 政府や官僚に問題がないのではありません。自分の問題とダブらない限り、政府や官僚の問題に対してはクリアな意識でバランスのとれた感情状態でいられるのです。

 多くの政治的スローガンは、個人的問題の置き換えなので、注意が必要です。国を変え、国を癒そうとする前に、本人が自分を癒すことが大事です。

 多くの人は、自分を癒さずに、息子を癒そうとしたり、妻を癒そうとしたり、親を癒そうとします。家族や国にとって最も利益になるのは、自分が自分をまず癒すことです。

 夫が暴力的である妻が、夫をカウンセリングに連れて行こうとする代わりに、自分自身が暴力の課題に取り組み、自分を癒せば、この妻は暴力を超えた波動へと上がります。すると、暴力的な夫への怖れや怒りはなくなり、理解と慈愛を示せるようになります。相手を失った夫は、自分も暴力を超えた波動へと上がって、新しく進化した妻とそこで出会うか、波動を上げることを拒絶して妻の人生から去っていくかします。いずれにせよ、妻は自分が暴力というテーマの課題をクリアすることで、夫を新しい波動へと誘うことができるのですが、自分がまだ課題をクリアしていないところに留まりながら、夫だけ変えようとしてもうまくいかないのです。

 暴力を振るう人と振るわれる人は、等しくその体験に関わっており、等しくその体験を必要としています。互いの束縛から解き放たれるためには、相手を変えるのではなく、自分がその学びを必要としないレベルに上がることが大事です。つまり、自分が変わることなのです。

ドラマ「僕のいた時間」

 私はこのドラマが好きで毎週見ています。父は優秀な医師。長男の拓人は ALS という難病にかかり、常に自分が達成できる目標を設定して懸命に生きている。次男の陸人は両親の期待に沿って医学部に入学するが、不登校になる。

 何とか大学に戻らせようとする母に対して、陸人はある日「僕の人生から出ていってください」と言う。それを聞いた母は大きなショックを受け、それまでの自分の生き方を振り返る。

 気に入られる嫁になろうとして、自分を殺して生きてきたことに気づいた母は、次男に夫婦の期待を押し付けるのをやめよう、次男に自分らしく生きてほしいと思うようになる。そして、夫に理解を求めることで、次男を守り、自ら変わっていく。

 陸人は両親の期待に沿うことで気に入られようとしてきた生き方を脱して、本当にやりたいことを見つける。大好きな恐竜研究だ。両親に頭を下げて、別の大学に入り直したいので学費を出してほしいと頼む。そして、両親は応援しようと決心する。 

 このドラマは、今の日本人がともに学んでいる重要な課題を提示しています。それは、「周囲の期待に沿うのではなく、自分の気持ちに忠実に生きる」ということです。

 陸人は両親の被害者のように映るかもしれませんが、そうではありません。この家族は全員が等しく、同じ課題にいっしょに取り組んでいるのです。

 相手の気持ちに関心をもたずに期待だけをかける側の人間も、そのように期待されて自分らしく生きられないで苦しむ側の人間も、どちらも同じ課題を抱えている仲間なのです。片方が加害者で、もう片方が被害者なのではありません。

 この中の誰から変わってもいいのです。気づいた人から変わることで、残りの人たちをそこへ導くことができます。縛られるのも学び、気づくのも学び、自由になるのも学びなら、相手の自由のために関わることも学びです。この4つの体験を通して、1つのレッスンを完全に習得するのです。

 皆さんの家族はどうですか。何か自分の家系にマイナスの行動パターンがあって苦しんできましたか。それは、よく見ると、する側もされる側も等しく学んでいることとは言えませんか。

同じ課題に関わる家族たち、仲間たちのうち
最初に気づいた人から変わっていけばいい
他の人を変えようとする前に、自分が学び切る
そしてそれを超えた波動になる
他の人があなたの模範に後からついていけるように
自分が変わる前に相手を変えようとしないこと
相手にイライラするなら、変わらなくてはならないのはまず自分
 

出会うすべては自分の一部 その2

 私たちは人や物を体験するとき、その人や物のあるがままに触れていると思いがちですが、実は自分の体験したいものを体験しているのです。

 英語に次のような表現があります。

We experience others, not as they are, but as we are. 

私たちは他者を他者の有り様として体験するのではなく、
自分の有り様として体験するのである。

 あなたは、人によってあなたに対する反応が真逆であるような経験をしたことがありませんか?

 たとえば、あなたをとても自立心の旺盛な人だと捉える友達がいたかと思うと、あなたを甘えん坊だと捉える友達もいるとか。

 あなたを優しい人だと感じている知人がいたかと思うと、あなたをとても厳しい人だと感じている知人もいたりする。

 あなたは同じ人間なのに、人によって体験する「あなた」は違っている。

 これはなぜかと言うと、
人は自分にとって気になるものを意識するからなのです。

 たとえば、A さんと B さんと C さんが D さんという人と集まったとしましょう。

 D さんが去った後で、3人が D さんの印象を話し合ったら、A さんは 「D さんは美人だったね」と容姿について語り、B さんは「D さんは育ちの良い人そうだった」と立ち振る舞いについて語り、C さんは「D さんは人見知りで心を閉じているように見えた」と内面の心理について語りました。

 こういう具合に、3人が同時に同じ人に遭ったとしても、それぞれ自分の注意が行くところは違うわけです。自分の関心のある事柄、気になる事柄に意識はズームインするのです。

 A さんはその人の容姿が美しいかそうでないかということを意識している。そういうテーマに関心がある。B さんはその人の育ちがいいとか悪いとかいうことが気になる。ひょっとすると、自分の育ちが悪いという思いがあるのかもしれない。C さんはその人の心が開いているとか閉じているということが気になる。今自分が心を開きたいという思いを強くしているのかもしれない。

 つまり、自分の関心に沿って、相手を見ているという意味では、
自分が体験する相手は、主観的なものであり、それは自分の意識の反映だと言えるのです。

自分が体験する相手は相手そのものではない
自分の意識というスクリーンに映った相手である
自分のスクリーンに映った相手は自分の内面のある部分である
相手をどう体験しているかを見れば
自分について理解を深められるのだ

物に見る自分の反映

  「その1」では主に他人に投影された自分の意識についてお話ししましたので、今回は物に投影された自分の意識を扱いたいと思います。

 プラスの意味でもマイナスの意味でも「気になる物」は、自分の意識の中で特別な意味をもっています。

 私は以前「盆栽」を見ると腹が立っていました。人間の都合で枝葉を切り取られ、小さな器に束縛された「盆栽」を見ると、自分をあるがままに認めてくれない日本という狭い社会への憤りを感じていたのです。

 このことを意識化し、日本社会への自分の気持ちを理解したり癒したりしていくと、「盆栽」は怒りの対象ではなくなりました。そして、今では「盆栽」を見てキレイだなと思えている自分がいます。

 この問題をクリアする前の自分は、「盆栽」を見ていたのではなくて、「盆栽」を通して「社会から枝葉を切り取られたように感じていた自分」を体験していたのです。 

 ブランド品を競って買い揃える人などは、「社会から賞賛され価値を認められている自分」を高級品に投影しているのかもしれません。こういう場合、自分が求めているものが物ではなくて、自分が自信を感じることのできる自己実現なのだと悟ることができれば、そして、その道を実現していければ、だんだんと物への依存は減っていくでしょう。ブランド品を持ち続けても全く問題はありませんが、それなしでは生きられないという人から、あってもなくても自信が自分の中にある人へ変わっていけるということです。 

 ブランド品は、憧れの先輩のように、自分の中にその資質を養うことができたら、投影を少しずつ減らすことができるものなのです。 

自分の外にあるものは体験できない

 あらゆる人間関係の悩みを解決する鍵がここにあります。自分を悩ませるように感じている相手は、実は相手そのものではなく、自分の意識の部分なのです。

 たとえば、自分に暴力を振るう夫に悩まされる女性がいたとしましょう。この女性にとって、暴力を振るう夫は自分ではなく、自分の外にいる別の存在であり、自分の安全を脅かしていると感じられるでしょう。

 これが常識的世界での説明です。

 しかし、波動の世界の真実から言えば、「自分に暴力を振るう自分」と「暴力を振るわれる自分」という2つの存在が、女性の中にあって、この夫との体験を作り出しているのです。

 この女性の意識の中で「暴力」ということが1つの重要なテーマなのです。そして、夫の行動は、妻の意識の中に、彼女自身が気づくべきものを刺激しているのです。

 幼少期に厳格な父親に対して本心を言えず、自分を押し殺してきた自分に向き合うことが求められているのかもしれません。

 失敗した自分をひどく裁いて苦しめた過去が夫として再現されているのかもしれません。

 「自分を押し殺してきた自分」「自分をひどく裁いた自分」こそ、「自分に暴力を振るう自分」に他なりません。

 また、「夫に暴力を振るわれて困っている自分」は、「自分を押し殺すと決めたことで、言いたいことが言えずに困っている自分」「自分を裁くことで、自分を肯定したり尊重したりしたいのにできないで困っている自分」の再現なのです。

 ここに気づいて、この2人の自分との間でのエネルギーを調和させることができたら、この人はもう暴力を振るう夫を必要としなくなります。そして、自然に夫の暴力がなくなるか、この夫と別れるかします。

 何をやっても夫の暴力から逃げられないときには、癒されるべきものが癒されずに残っていることを表しているに過ぎません。

 暴力的な夫を体験しているなら、しなくてはならない理由が必ずあります。そして、その理由はポジティブなものです。自分を解放し癒し、新たなステージへ行けるように、というポジティブな理由です。

 苦しい経験は、苦しめるためだけに起こるのではなく、必ずその苦しみを超えた新しいところへと導くために起こるのです。

 私たちが住んでいるこの宇宙は、愛の原理で動いており、不必要に人を苦しめることはないのです。

 癒す必要のあるものに気づくために、古い痛みを浮上させるべく、起こるのです。

すべて起こることにはプラスの意味がある
絶望する理由はない
私たちはいつでも自由と幸福に向けて導かれている
 

出会うすべては自分の一部 その1

 私たちは出会うすべての人や物を通して何かを感じますが、ポジティブであれネガティブであれ、強く何かを感じるときには、自分の内面のある部分に焦点が当たっていて、それに気づくことを促されています。

 からだに不調があるとき、そこに痛みや収縮感覚が生じることで、意識を集めます。同様に、こころに癒されるべきものがあるとき、ネガティブな心理状態が生じてきますが、私たちの大部分は自分の中の微妙なエネルギーに対して敏感さを養っていないため、他の人や物への投影を通して気づかされるという仕組みが作動します。

「情報伝達」か「動揺」か

 親のない孤児をテレビで見たときに、強い感情反応が生じるなら、「親のない孤児」というテーマがこの人にとって何か重要なことだと分かります。 

 前世を含めた過去に、似たような経験を全くしていない人には、強い反応は生じません。特に強い共感もなければ、動揺もありません。 

 似たような経験をした人で、すでに癒されている人には、強い共感と慈愛が生じます。その孤児の幸せを祈る気持ちになります。

 そして、似たような経験をした人で、それがまだ癒されていない人の場合、動揺が生じてきます。気持ち悪くなるのです。見ていられないほど苦しくなってきます。この子を捨てた親に怒りを感じたり、この子に哀れみを感じたりします。

 この3番目の場合は、動揺を感じているこの人自身が癒しを必要としています。テレビに映った孤児は、癒されることを待っている自分自身の一部なのです。

 自分自身に課題があるかどうかは、相手に感じることが純粋な「情報伝達」なのか「動揺」なのかで分かります。

 相手が悲しんでいるとき、自分に動揺がなく、「ああ、この人は悲しいんだな」と分かるなら、それは純粋な「情報伝達」です。

 それに対して、相手が悲しんでいることに触れて、自分が動揺するなら、この人の悲しみは自分の中の未解決の課題を指し示してくれているのです。 

人間関係を通して自分に向き合っている

 このように、出会う人や物に対して自分が感じることは、自分の一部を照らしてくれる光です。親子関係や恋愛関係や職場の人間関係などによって体験する動揺は、癒されることを待っている自分の一部との出会いです。

「捨てられる傷」を癒した私

 私には最近ようやく癒すことができた「捨てられる傷」というものがあります。癒す前の私は、友達からメールの返事が来ないと傷つき、目を見た相手がちょっと視線を逸らしただけで不安になり、彼女と別れるときにもパニックになりました。

 こういう反応が自分の中に生じることを長らく観察していた私は、「捨てられる傷」がうずく度に、癒していきました。

 私の深層心理には、前世で村八分に遭った経験や、霊能者として迫害に遭った経験がありました。また肉体先祖の系譜には、犯していない罪によって投獄された経験もありました。

 こういった過去のエネルギーが癒されずに残っていたので、私は理由もわからず、社会に対する不信感や恐怖を抱えていたのでした。「どうせお前たちはまた私を捨てるんだろ!?」というエネルギーを私は無意識に発信していたのす。

 今は以前のような症状に悩まされることはなくなりました。そして、「私に返事をくれなかった人」「目線を逸らした人」「私のもとを去った彼女」と私との関係というものは、私を村八分にした村人と私、私を迫害した為政者たちと私、冤罪によって投獄した為政者たちと私の先祖との関係の再現だったわけです。

 このように、私たちの魂は、過去に解決できなかった持ち越した課題を乗り越えるべく、未解決のエネルギーを再浮上させるような人生の状況というものを作っていきます。 

 ですから、このメカニズムを理解するなら、あらゆる動揺を引き起こす人や物との出会いは、魂の癒しのために用いることができるのです。

「憧れ」や「尊敬」の対象となる人や物はこれから開いていく新しい自分

 今度は逆に、強いプラスの感情を感じる対象についてです。その人といるとワクワクするとか、憧れるとか、尊敬するなど、良い意味で気になる存在というのは、自分がこれからなっていく新しい自分なのです。

 たとえば、自分の中に強さを育みたいという魂の願いがある人は、強い人に憧れるし、そういう人が目につきます。気になります。 

 こういう場合、憧れや尊敬で終わらせずに、「自分の中に育んでいきたい資質なのだ」と自覚して、その方向に歩んでいくことが大事です。

 そういう自分が出たがっていなければ、そういう人は気になりませんから、「気になるなら自分にもなれる」と思ってください。

 私は今なぜか明石家さんまさんが気になって憧れているんです。

 どうしてだろうと考えてみると、私はもっともっと自分を楽しみ、相手を楽しみ、いろんな多様な人とハートを開いて交流して笑える人になりたいと思っていることに気づくのです。

 私はお笑い芸人になりたいわけではないし、有名人になりたいわけでもないけれども、彼に対して私が感じる感情というものは、私がこれからなっていきたい自分を表しているんです。そして、彼の中に未来の自分を見てワクワクしているんです。 

カウンセラーとクライアントの間に生じる転移と逆転移

 カウンセラーとしての訓練を受けると、クライアントは自分の課題をカウンセラーに投影してくることがあると習います。これを「転移」といいます。

 たとえば、クライアントが父親への怒りをまだ処理していない女性だとすると、カウンセリングをしていくうちに、カウンセラーと父親がダブってきて、カウンセラーに怒りをぶつけたくなったりするんです。

 こういうときに、カウンセラーに自覚があれば、「ああ、この人は今私に父親を見ているんだな」「私との関係を使って父親との問題を解決しようとしているんだな」と理解して、そのプロセスを支援できるわけです。

 しかし、カウンセラーにも癒されていない課題があったりします。私が母親に愛されなかったという傷をまだ抱えているとすると、女性のクライアントが私のことを好いてくれているかが気になったりします。クライアントに私の母を見てしまうのです。これを「逆転移」といいます。

 「逆転移」に気づけないカウンセラーは、クライアントと恋愛関係になってしまったりするので要注意です。 

魔法の質問

  皆さんが現在の人間関係において「動揺」や「憧れ」を体験する相手は誰ですか。強い反応を示す相手は誰ですか。

 そういった体験を自分の癒しと成長につなげていきたいなら、この「魔法の質問」を使ってみてください。

この人(or 状況)は私の中の何を見せてくれているのだろう?

 つまり、強い反応を生じさせる原因を外に見るのではなく、自分の中に見る習慣をつけるということです。

 喫茶店の店員の接し方に腹が立ったら、「この店員の態度は、私の中の何を見せてくれているのだろう?」と問う。

 テレビに出た人気タレントに憧れを感じたら、「このタレントは、私の中の何を見せてくれているのだろう?」と問う。

 恋人に怒りを感じたら、「彼(女)は、私の中の何を見せてくれているのだろう?」と問う。 

 このようにして、人間関係において感じる自分の反応のうち、困惑するものがあれば、自分を掘り下げてもっとよく知るよい機会にできると、皆さんの幸せと自由は必ず拡大していきます。
 

付き合いたい人の条件を明確にする

 私はある日ラジオで人生相談を聞いていました。電話をかけてきた方は女性で、夫からセックスを強制させられることについて悩んでいました。

 その女性が吐いた次のひと言を聞いたとき、私の目から涙が出てきました。 

 「夫が無理やりセックスを強要してきたら、断ってもいいんですよね?」

 この人は、強制セックスを断ってもいいのかどうかということさえ、分からない状態だったのです。

 私の中では、「そんなもん、断っていいに決まってるやないか!!」ということなのですが、そんなことさえ分からないこの人は、どんなに辛いだろうと思うと、涙が出てきたのです。

 この女性が、そんなことさえ分からなくなったのには、過去にいろいろな原因があったことと思いますが、ここでは深入りしないこととしましょう。 

 自分の中で「自分にセックスを強要してくるようなやつとは、付き合う必要はないし、絶対にお断りだ」と明確になっていれば、そういう男性に対してどう対応すればいいかなどと悩まないのです。

 ですから、今日お話ししたいのは、あなたの付き合いたい人(これは恋人・伴侶などに限らず、友人・知人関係でもOKです)に求める条件とは何かを、自分の中で明確にするということです。

 これがはっきりしていないと、対応が決められないのです。

 「全ての人と付き合わなくてはならない」という思い込みがあるなら、これは機能不全に陥る原因になりますので、まず吟味しましょう。

 自分に敵意を持っていて、殺したいという人がいたら、付き合わないでしょう。自分に対してストーカー行為をする人がいたら、たいていは付き合わないでしょう。

 どんな人でも、「このラインを超えたら付き合えない」という境界線があるのが正常なのです。ないかのように考えるのは、正直ではないし、幸福になるのを妨げる危険さえあります。

 ですから、「こういう人とは付き合えない」「こういう人なら付き合える」という自分が本当に思える条件というものを、正直にことばにしてみることは、自分を理解する上でも、自分の幸福のために行動を決めるためにも、たいへん有益なことなのです。

 そして、次に、その条件に合わないにも関わらず、付き合い続けている人がいないか吟味してみます。そして、それはなぜなのか。本当はどうしたいのかを本心と相談します。そして、自分の幸福のために、行動を変えていくのです。

 私たちには、自分のことを思って行動してくれる人だけと付き合う権利と自由があります。こちらのことはどうでもいいと思っている自分勝手な人と付き合う必要はありません。

 付き合う人をきちんと選びましょう。

 まずいレストランに通わなくてよいように、気に入らない洋服を買わなくていいように、付き合いたくない人とは付き合わなくていいのです。

 「みんなと仲良く」という刷り込みは間違っていますので、手放しましょう。
 

「大きな和」と「小さな和」

 私は日本人が「協調性」「協調性」ということばを使うのを聞いていると、「小さな和」だなと思うことがたびたびあります。

 あるテレビ番組で、先輩が明らかに間違った答えをしているのに、後輩が「はい、その通りです」と先輩の顔を立てるという場面がありました。誰から見ても、この後輩が先輩の面子のためにうそをついていることは明らかでした。皆笑っているのです。

 このように、「上の者の顔を立てる」という物事のやり方は、全体の進化に寄与しない、破壊的な癖だと私は思っています。日本社会の欠点の1つです。 

 「それは違うと思います」と後輩が言えれば、先輩はそこで学べます。全体のためには利益になります。しかし、そこで先輩のエゴを守る選択をすることで、全体としては小さく収まってしまうのです。

 これを「小さな和」と私は呼びたいと思います。

 「そんなことを言ったって、違うと指摘したら怒り出す先輩もいるんだよな」と反論したい人もいるでしょう。先輩が怒り出すことの、何が怖いのでしょうか。自分の立場を失うことでしょうか。

 こういうときに、真実を曲げて、相手のエゴに合わせようとするから、物事が発展しないのです。

 自分が仕えているのは、果たして何なのか。先輩と自分との間の関係性だけに軸があるのか、この関係性はより大きな目的のために仕えるものなのか。自分は何の目的のために、この関係性を保っているのか。こういうことが問題となってきます。

 先輩の間違いを指摘しない後輩ばかりいると、機嫌取りの文化が発展していきます。

 先輩の間違いを後輩が指摘したら、先輩としてはそれをきちんと考慮して、適切なら受け取って判断するというのが当たり前になれば、そういう器の人間が先輩として当然だという文化が育ちます。

 それは、顔を立てるという文化よりも、もっともっと「大きな和」なのです。

 親の期待通りの道を選ばず、自分が本当にしたいことをする子供が出てきたら、「小さな和」ではなく「大きな和」が可能になります。

 親が子供の人生をコントロールすることの愚かさを学ぶ機会となるのですから。

 親の期待に沿わず、子供が自分のハートを優先すれば、世の中には「大きな和」が育ちます。子供は親の持ち物ではなく、自分自身で生き方を決めるのが当たり前という、尊重の文化が育つ方が、全体の安寧にとっては調和的なのです。

 この日本には、「小さな和」を大事に大事にして、自分を傷つけている人が大勢います。

 「大きな和」は、周囲の人間がどう思うという次元とは無関係で、自分と宇宙との直接の繋がりから、ハートに現れてくる真実です。

 自己実現を果たすには、この自分の生命に脈打つ「大きな和」の波に乗ることが最も大事だと思っています。
 
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