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2014年04月

阿妻靖史「あなたの恋愛がうまくいかない本当の理由」

 恋愛本には表面的なテクニックを語ったものが多いのですが、阿妻靖史著「あなたの恋愛がうまくいかない本当の理由」は、心理学的にとても深い洞察が、誰にでも分かるような易しい日本語で説かれていて、しかも自分でできる深いセラピーも教えてくれる名著だと思います。その上、590円(+消費税)と破格です。

 この本の内容を簡単に要約してお伝えしたいと思います。

 恋愛がうまく行かない人を、(1)被害者意識が強い『依存タイプ』、(2)尽しすぎる『自己犠牲タイプ』、(3)相手に頼れない『自立タイプ』の3種類に分けて、その特徴と心理的原因について書いてあります。

 阿妻氏は、「仮面とシャドウ」という心理構造を説明し、私たちは人と接するとき、いろんな仮面をかぶるけれど、中には常につけていて外せなくなった「呪いの仮面」があると言います。

 それは、その人が完全に同一化してしまって、被っていることすら気づけなくなっている仮面で、元々は自分を守るためにつけたものです。

 『依存タイプ』は『かわいそうな人』、『自己犠牲タイプ』は『いい人』、『自立タイプ』は『できる人』という「呪いの仮面」を脱げなくなっていると言います。

 つまり、『依存タイプ』は自分のニーズを相手に満たしてもらおうと甘えてしまい、叶わないと怒り出して関係を壊してしまう。『自己犠牲タイプ』は本当の自分を出せずに我慢し過ぎてしまうので、別の意味で相手が重たくなります。そして密かに相手に不満を抱えてしまいます。『自立タイプ』は相手に甘えることを自分に禁止していて、何でも自分でやってしまうので、ダメ男を引き寄せます。

 そして、「呪いの仮面」を脱ぐことで、3タイプの人の恋愛はより満足できるものへと変化していくと言います。 

 それには、自分のシャドウに向き合い、蓋をしてきた未完了の感情を浄化するというプロセスを経ます。そのやり方も詳しく書かれています。 

 ここに書かれている原理は、恋愛だけでなく、親子関係を含め、あらゆる人間関係に生じる感情的問題を解く鍵となるものです。

 心より推薦いたします。


推薦図書

阿妻靖史『あなたの恋愛がうまくいかない本当の理由』(マイナビ)


参考ウェブページ

http://www.556health.com/archives/2011/08/50510.html
(阿妻靖史氏による恋愛と精神的成熟度についての解説)

 

人間関係の問題から成長するために

 私たちの多くは、心の中に触れられたくない弱点をもっています。そこに触れない人とは付き合いやすいのですが、触れる人がいると心が乱れます。

 英語には、"push one's buttons" という表現がありますが、「その人のボタンを押す」とは、「その人の心の弱点に触れる」ことを意味します。 

 相手が自分のボタンを押した場合、私たちは相手を攻撃したり、落ち込んだりしがちですが、その時に相手を責める代わりに、自分の弱点を克服する方向に進めると、大きく成長できます。

 特に、恋人関係、夫婦関係などの親密な関係では、自分が相手のボタンを押したり、相手に自分のボタンを押されたりということが多くなる傾向にあります。心が近い人であればこそ、自分の中に見たくないもの、感じたくないものから逃げることが難しくなり、自分の課題にイヤでも向き合わなくてはならないように出来ています。

 つまり、親しい人間関係というのは、自分の成長課題を最も刺激する関係なわけです。自分の中に抱えている心の傷を最も刺激するのは、このような親しい人だということになります。

 ということは、親しい人との間の心乱される体験を、自分の癒しや成長につなげることができれば、その人との関係に大いに意味があったということでもあるわけです。

 次にご紹介するポール・フェリーニの「プロセス」とは、相手が自分のボタンを押してきたために、苦しくなったら、自分の問題は自分のものとして自覚しながら、相手とコミュニケーションをとる方法です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ポール・フェリーニの「プロセス」

(1)自分は何を怖れているのかと問う

 怒りや傷ついたという感情を含め、あらゆるマイナス感情の根底には怖れがあります。

(2)自分を犠牲者だと捉えていないか吟味する

 相手が自分の意志に反して、私たちを傷つけることができると信じているはずです。そして、自分が相手からの影響に対して無力であると信じて怯えているのです。どのような無力を抱えた犠牲者だと自分のことを思っているのかを発見することです。

(3)怖れと犠牲者感覚が自分の問題であるという意識をもって、適切な場合には相手に伝える

  たとえば、「あなたが電話してくれなかったとき、私の中には見捨てられるのではという怖れが生じてきた。あなたに電話をしてくれることを強く求めるとき、私はあなたに特定の行動によって愛してもらうことを強要している。そのとき、私は自分を弱くて無力な存在だと感じてしまっている」と相手に自分の気持ちを伝えつつ、それが自分の課題であることを表明して、相手にもそのように理解してもらうわけです。

 このように自分の内面を表明するとき、相手には返事をしてもらわず、ただ聞いてくれるように頼みます。アドバイスが欲しいのでもなく、解決してほしいのでもなく、責めているわけでもない。ただ、自分の中で起きていることは、こういうことなのだ、ということを受け取ってくれるだけでいいのだ、と予め伝えておくのです。

(4)相手が正確に聞いてくれたか、受け取ってくれたか確認する

(5)表明した内容について、相手がどのように感じているか尋ねる(自分への評価・裁き、相手の自己防衛ではなく、それ以外の感情を聞きたいと伝える)

(6)相手の言うことを、裁かず、中断せず、最後までじっくりと受け取って聞く。そして、自分はこのように聞いた、受け取ったということを伝える。

 お互いを深く聞き合う空間が一緒に創れたことを感謝し合う。具体的に何かを解決することは、まだしない。ただ、お互いの気持ちを聞き合うだけの時間にする。

 さらに別の感情が出てきたり、洞察が得られたりして、分かち合いたくなったら、またこのような機会を創るという合意をする。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 フェリーニは、人間関係の問題がこじれるのは、自分の問題と相手の問題を混同することによると言っています。

 相手が電話をくれなかったことで、現状を知りたいという欲求が満たされずに困ったなら、電話をしてほしいと依頼することには正当性があります。しかし、怒って命令することには問題があります。それは、こちらの欲求を満たしてくれるかどうかは、相手に選択権があるからです。こちらの欲求を相手が満たしてくれることは当たり前ではありません。満たして欲しいと表現することは構いませんが、満たしてもらわないとダメと表現することには問題があるのです。

 また、相手が電話をくれなかったことで刺激された、見捨てられる怖れは、相手に全く責任のないこちら側のトラウマ感情です。自分にはこういう感情の問題がある、課題があるということを相手に知らせておくことで、こちらの成長課題に理解を示してもらったり、支援してもらうことができるのは、正直に自分の問題を所有したときです。

 見捨てられる怖れという未解決の課題にどう取り組むかは、意識の浄化方法として別の記事で取り上げています。これは、相手とは関係のないところで、自分に取り組む作業になります。

心に寄り添うための条件

 「相手の心に寄り添う」というとき、相手が「ああ、この人は私のことを分かってくれた」と感じてもらえるように聞くことを指します。

 私は「心に寄り添う」ためには3つの条件があると思っています。1つ目は、相手への肯定的な関心があること。2つ目は、相手の自由意志への尊重があること。3つ目は、相手と心を通わせたいと思っていること。

 反対に、聞く側の動機が、相手を非難することであったり、相手の意志を尊重せずにこちらの思い通りの結論に導こうとすることであったり、相手と心を通わせたいなどという気持ちが全くない場合には、どれだけ上手なテクニックを駆使して耳を傾けたとしても、相手は「ああ、この人は私のことを分かってくれた」とは感じられないでしょう。 

 つまり、「心に寄り添う」ためには、肯定的関心、尊重、心のつながりが必要なのです。非難、支配、心の断絶のいずれかがあれば、寄り添うことはできません。

 3つの条件が整っていれば、何も言わなくても、ただ黙っていっしょにいるだけでも、分かり合えているような心地よさがあります。言葉は何もないけれども、手を握っているだけ。でも、そこに3つの条件さえあれば、心が伝わるのです。

 私を大事に思ってくれ、理解しようと心を開いてくれているこの人がここにいる、という実感によって、言葉や行動がなくても、心は満ち足りるのです。

 非難、支配、心の断絶があることに気づいたら、まずはそれを解決して、寄り添えるための条件を、内的にまず整えることから始めるとよいでしょう。
 

自分の強さと弱さを抱きとめる

 どんな人の中にも強さと弱さがあります。そして、両方を抱きとめて生きることができると、私たちはまん丸な心でいられます。しかし、どちらかを捨てて生きようとすることで、自分らしく生きられなくなってしまいます。

 私たちは親に対して全くの無力で依存的な赤ちゃんとして人生をスタートします。全くの弱い存在です。その弱さを親が抱きとめてくれ、守ってくれ、必要なものを与えてくれれば、徐々に強さを育んでいくことができます。

 しかし、親も不完全ですから、私たちは子供のとき、親に満たしてもらえない辛さを味わうことになります。親の強さに負けて、傷つくという体験をするわけです。すると、私たちにとって親は脅威となります。親はなくてはならない必要な存在だけれども、同時に必要なものを与えてくれない怖い存在でもあるのです。 

 そういうときに、私たちがどう反応するかによって、自分の中の強さと弱さのバランスが変わってきます。

 たとえば、親が自分に無関心であった。こちらを大事な存在として扱ってくれず、親は身勝手に自分のことだけを考えていた。こちらの甘えを聞いてくれない。すると、私の中に弱さがあると辛くて生きていけないので、弱さを抑圧します。

 私は甘える必要などない存在なのだ、愛される必要などない存在なのだ、理解される必要などない存在なのだ、と思うことで生きようとします。

 すると、弱さを否定して、強さだけを誇張していくようになります。つまり、他者に対して支配的、暴力的、搾取的、非共感的な人格が形成されます。

 この人は、親に自分の弱さに対して共感してもらえなかった環境に適応しなくてはなりませんでしたので、「他者は自分の弱さに無関心である」「私も他者の弱さに無関心である」という世界観の中で生きていくわけです。

弱さに対して優しさを示されなかった子供は
弱さを抑圧して強さだけで生きようとする
すると他者の弱さに無頓着な大人になる 

 反対に、親が子供である私に多大な要求がある場合、つまり子供が一定のあり方であることを強要することで親自身を満たそうとする場合、親は子に対して無関心ではなく、過干渉となります。「こうしなさい」「ああしなさい」「医者になるのよ」「塾へ行きなさい」「お母さんができなかったピアノをあなたは習うのよ」とコントロールすることで、親自身の欲求を満たす道具として子供を使うわけです。

 こういう環境で子供が生き延びるためには、親を喜ばせる人になり切ろうとします。自己不在の迎合型人間が出来上がるのです。

 この子は、自分の強さを抑圧して、弱さだけで生きています。この場合の強さというのは、「僕はこうしたいんだよ」「僕はこう思うんだよ」「僕はこう感じているんだよ」と主張することです。それは、許されない環境なわけです。そうすると、自分のことは自分で考えるとか、自分のことは自分で決めるという、本来すべての子供に備わった強さを否定して抑圧することによって、この子は生き延びようとするわけです。

 自己不在になるということは、「他者は自分の強さを否定し、弱くあることを望んでいる」「私は自分の強さを否定し、相手の望みに叶うことで認めてもらう」という世界観の中で生きることを意味します。

強さを否定された子供は
強さを抑圧して弱さだけで生きようとする
すると他者の強さに歯向かえない大人になる

 このように「無関心」(子供が何を望んでいるのかを理解したいと思って近づくことがないこと)と、「支配」(親の思い通りにしようとすることで、子供の尊厳と自由を認めないこと)という2つの要素によって、子供は自分の強さか弱さのいずれかを抑圧して、不完全な人格発達を遂げてしまうことになります。

 私たちが大人になったときに、自分の育てられ方を吟味して、自分が抑圧してきたのがどちらなのかに気づくと、自己実現に向けて大きく前進することができます。そして、幼少期に欠けていたものを、意識的に補ってあげるわけです。

 自分は身勝手であり、周囲に甘えて好きなように振る舞う癖がある。自分のことを主張するのはできるが、周囲の気持ちを聞いたり受け止めたりということが足りないと気づいて、何とか違う方向に成長したいと思う人がいたとすれば、「自分は弱さを抑圧してきたんだ」と認識するところから出発するのです。

 つまり、この人の無意識には、弱さが埋もれているのです。親に関心を払ってもらえなかった辛さとか、理解されなかった辛さとか、自分が感じないようにしてきた感情がそこにあるのです。その蓋をとって、自分の中の柔らかい感情と向き合って、感じる作業をするのです。

 その痛みに共感でき、涙が流せたら、この人は他者の痛みがわかる人間に成長していけるわけです。

 自分の中の弱さを感じられていないから、他者の弱さに対しても鈍感なのです。弱さを抱きとめるだけの度量が育っていないから、強がるのです。人を搾取できるのです。

 それに対して、周囲に迎合して、人を喜ばせることばかりしてしまい、自分を主張できないというタイプの人が成長するには、自分の中に埋もれている強さ、幼少期に抑圧した強さを掘り起こさなくてはなりません。

 きちんと親に反抗するということを、大人になった今しなくてはなりません。

 5歳のときには怖くてできなかった。親の言う通りにしなくてはとても生きてはいけなかった。でも、親のしたことに対して本当はイヤだった。本当は自分の気持ちを尊重してほしかった。本当はああしたくなかったのだ、こうしたくなかったのだ、ということを数十年経った今でもいいのです、きちんと表現し尽くすことです。親が死んでいても構いません。ひとりで表現すればいいのです。ちゃんと埋もれている気持ちを出してあげること、認めてあげることが大事なのです。

 言いたかったけど言えなかったことを口に出してあげると、言えなかった辛さが涙となって出てくると同時に、自分を表現することの気持ちよさが復活してきます。埋もれていた生命力が息を吹き返します。無力感で元気がなかった心身に、新たな生命力が湧き出てきます。これが本当の強さなのです。

抑圧してきた強さか弱さを掘り起こす
他者への共感や自己主張のパワーを取り戻す
すると自己分断から自己統合へ向かう
そして自己実現へと進める

 昔生き残るために捨てた自分と再会した人は、強さと弱さの両方を抱きとめ、まん丸の自分として自己実現できます。

 まん丸の自分になれた人は、自分のすべてを認められているから、自分にも他者にも優しい。そして、正直である。また、自分を偽らずにちゃんと主張できる。相手を否定せずに。

 強さと弱さを抱きとめた人は、強さの恵みと弱さの恵みの両方を知っているし味わっている。強いだけの人生には親密さがない。弱いだけの人生では成長と拡大のワクワク感がない。

 強さと弱さの両方あってこその人生ではないでしょうか。 
 

自己充足的理想と自己疎外的理想

 自分が追い求める理想像には、自己充足的なものと自己疎外的なものの2種類あります。言い換えると、自分の本心を開発するものと阻害するものです。

 自己充足的理想は自己実現につながり、自己疎外的理想は不幸につながります。ですから、自分が掲げている理想がどちらなのかを吟味することはとても大事です。 

 たとえば、私が十代のときに掲げた「英語をマスターして外国人と意思疎通ができるようになる」という理想像は、私の本心に合致していましたので、自己充足的理想でした。そして、それが実現することで自分の幸福が拡大したのです。

 しかし、「スポーツができて女にモテなくてはならない」という理想像をもっていたことがありますが、これはどれだけ努力しても叶いませんでした。それは、私の本心とずれていたからです。この自己疎外的理想は、私を苦しめはしましたが、自分らしく生きることを助けませんでした。むしろ、自分を見失う方向へと向かってしまいました。

 自己疎外的理想というのは、あるがままの素の自分を理解し、認めていないところから出発した、白鳥がアヒルになろうとしているような理想です。劣等感の源です。

 あるがままの自分はダメで、あの人のようであれば自分を受け入れられる、という類いの理想です。これでは、自分からどんどん離れてしまって、自分を見失うわけです。

 しかし、何事も経験価値のあることで、自己疎外的理想を追って挫折することで、本当の自分が見えて来るのですから、無駄だとは言えません。

 自己疎外的理想に気づいたら、自己充足的理想にシフトすればよいだけのことです。
 

自己実現的要求と依存的要求

 自分が相手に「こうしてほしい」「こうあってほしい」と要求するとき、その要求には自己実現的なものと依存的なものの2種類あります。

 自己実現的要求というのは、自分が自分らしく生きるために必要なことを相手に求めることを指し、心理的に健康な人によってされる正当な行為です。

 それに対して、依存的要求というのは、本来自分で解決して満たすべきものを相手に満たしてもらおうと甘えることを指し、心理的に不健康な人によってされる不当な行為です。

 子供がステレオをうるさく鳴らしているため、親が眠れないとすれば、子供の行為は親にとって「迷惑」であるとはっきり言えます。ですから、子供にステレオを止めるように要求することは、自己実現的要求です。

 子供にステレオを止めるように要求できない親がいたとすれば、これは親に心理的問題があることを示しています。

 子供が選んだ職業に文句があり、親の望む職業に変えさせようとするなら、この要求は依存的です。親が期待するものと異なる職業を子供が選択することを、親にとっての迷惑だと捉えること自体は、親の精神的未成熟を示しています。

 子供に職業を自由に選ばせることができる親は、心理的に成熟しています。親の自己実現と、子供の自己実現をきちんと分けて捉えることができています。しかし、親の思う通りの職業につかせようと支配せずにはいられない親は、子供が一定のあり方をすることを強く求めています。「子供にこうあってもらわねば、私が気持ち悪い」という依存的要求をもっているわけです。この親は、子供に一定のあり方を強要することで、自分の感情を満たそうとしているという点で、子供に心理的に依存していると言えます。

 依存心が強い人ほど、相手に対する要求が多いです。自立している人は、相手を支配しなくても、満ち足りています。自分の人生を歩み、自分の自己実現を生きているから、子供にも自分で自分の道を切り開いていってほしいと心底思えます。
 

他罰的依存と自罰的依存

 心理的依存には他罰的なものと自罰的なものの2種類あります。

 他罰的依存とは、いじめ、搾取、DV、支配、強要などによって、相手から自分の欲しいものを無理やりに奪い取り、自分を満たそうとする甘えです。相手を破壊する甘えです。この人にとっては、大事にしたい相手というものが不在で、自分のことしか頭にありません。つまり、幼児の自己中心性から脱却できていない人です。

 自罰的依存とは、服従、迎合、相手に尽すこと、いじめられることなどによって、他罰的依存者から好かれることで、自分の価値を感じたいという甘えです。自己不在であり、自分を破壊してしまう甘えです。この人にとっては、大事にしたい自分というものがありません。相手を満たすことしか頭にありません。つまり、幼児の無力性と親への完全依存から脱却できていない人です。

 他罰的依存の強い人と、自罰的依存の強い人は、しばしばペアになります。他罰的依存者に依存されることを、自罰的依存者は求めてしまうのですが、これを「共依存」といいます。

 他罰的な人は、搾取する相手を必要とし、自罰的な人は、無私に仕える相手を必要としています。この2種類の人は、共に自分の幼少期の痛みからの反動形成によって生き続けています。どちらも自己実現ができていません。

 他罰的依存も自罰的依存も、いつか破滅するときがやってきます。他罰的依存の人は、周りから人がいなくなります。本当に親しい人、信頼できる人がいなくなります。人間関係が壊れていきます。そして、何か変わらなくてはならないという気づきに至ります。

 自罰的依存の人は、生きる気力がなくなっていきます。自分のエネルギーを相手に吸い取られるままの年月を過ごしたからです。そして、何か変わらなくてはならないという気づきに至ります。

 この精神的危機はとても重要なものです。

 依存を乗り越えて、自己実現に向かって人生の舵を切るのです。
 

事実に対する解釈に気づく

 コンシャスネスワーク(意識に対する熟達)において、初心者と中級者を分ける1つの事柄は、事実に対する解釈にどれだけ気づいているかです。

 私たちが苦しむとき、事実によって苦しんでいるのではなく、事実に対する解釈によって苦しんでいることがあります。その場合、事実と解釈が混同されている場合が多いので、まずはこの2つを区別する必要があります。

 実は、外の世界で起きている出来事は中立で、そこに私たちは意味づけをしています。この意味づけはひとりひとりが選択できるものであり、その意味づけによってその出来事への心理的反応が決定されます。

 出来事への解釈が、心理的反応を決定するわけですが、私たちが苦しむか苦しまないかは、心理的反応によって決まるのです。

 心理的反応は自動的に起きてくるように感じられるかもしれません。しかし、究極的には私たちひとりひとりは、自分自身の心理的反応を選択できる能力をもっています。

 私たちは自分の心理的反応の創造主です。つまり、不安になっているとき、私たちは不安という反応を創造している主体です。

 しかし、多くの人は自分がどのように不安を創造しているかに気づかないため、自分の創造物によって縛られてしまいます。別の選択をする術がわかりません。

 ですから、意識というものに熟達するために重要な学びの1つは、解釈を選んでいるのが自分であることに気づくことと、苦しまないような解釈を選べるようになることなのです。 

 解釈とは、思考の次元の話です。ですから、解釈を選ぶとは、思考を選ぶことです。私たちは、自分の思考を選ぶことで、心理状態を選ぶことができるということです。

 今日ここでご紹介するのは、最も大事な基礎です。それは、事実と解釈とを区別するという作業です。

 今苦しいと思っていることを1つ選んでください。そして、まず「苦しみの原因となっている事実は何か?」と問うてください。

 すると、「夫が私に暴力を振るう」とか「リストラされた」とか「私は自立できていない」などという答えが浮かんでくるかもしれません。

 その場合、「夫が私に暴力を振るう」が原因で、苦しみという結果が生じていると捉えたり、「リストラされた」が原因で、苦しみという結果が生じていると捉えたりすると、今ここでのマイナス心理を解くことはできません。

 「夫が私に暴力を振るう」という捉え方自体も解釈である可能性がありますが、ここでは基本的事実として受け入れることにします。つまり、「夫が私に実際に暴力を振るっている」と仮定しますと、この事実に対してどのような反応をしているかが大事なわけです。

 「夫が私に暴力を振るう」という事実に対して、「もう私を大事にできない男とは別れよう。これは私にとっていい教訓になった。これを契機に、自分をもっと大事にする生き方をしよう」と考える人がいたとしたら、この思考を選ぶことで、この人には心理的苦悩はもう存在しません。

 それに対して「夫が私に暴力を振るう」という事実に対して、「この男とこれからもずっとやっていかなくてはならない」とか「また殴られたらどうしよう」などと考える人は、自分の幸せや自由に対抗するような解釈や思想を選ぶことによって、自分を苦しい心理状態にしているわけです。

 紙の左側に「夫が私に暴力を振るう」という事実を書き、右側にその解釈を書くことをお勧めします。その際、解釈を見つけ出す方法は、次の質問を自分にすることです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1.《事実》をどのような意味として私は感じているだろうか?すべてリストアップします。

たとえば、「リストラされた」。ということは、「私はダメ人間ということである」「私は敗北したということである」「私は信頼される人材ではなかったということである」「これからの人生は暗いということである」など。

2.
《事実》に対して、どのような感情をもっているだろうか?すべてリストアップします。

たとえば、「リストラされた」に対して、挫折感、絶望感、自己否定感、恐怖、不安、怒りなど。

3.2番で明らかになった感情ひとつひとつについて、そこにある解釈を発見します。

たとえば、「不安」を見ていくと、「これから収入が得られないのではないか」という解釈が発見されました。

「怒り」を見ていくと、「会社は私を裏切った」という解釈が発見されました。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 さて、次は自分がしている解釈が自分の苦しみの原因となっていることに気づくことです。

 たとえば、「これから収入が得られないのではないか」という解釈によって不安が生じているのであって、リストラされた事実が不安を生んでいるのではありません。

 そして、最後のステップは、マイナスの心理状態を生んでいる解釈を、プラスの心理状態を生む解釈へと選び直すという作業です。

 たとえば、「これから収入が得られないのではないか」という解釈は、「これからも収入が得られたら嬉しいな」という解釈に変えるのです。「得られない」と考えるのではなく、「得られたらいいな」と考えるだけでも、結果として生まれる感情は全く違います。

 ここに、私たちの創造主としての自由と責任があるのです。つまり、私たちは自分が選んだ思考によって、感情を生んでいることに気づき、自分の心理状態の責任を発揮するようにすることが大事なのです。

 健康に悪いものを食べるのも、良いものを食べるのも、選択の自由があるように、心理的健康に悪い思考を考えるのも、良い思考を考えるのも、選択の自由があるということです。

 自分をハッピーにできる解釈(思考)を意識的に選ぶことによって、中立である事実に対して、建設的に、充足的に関わっていくことができるのです。

 それ自体がマイナスの意味であるという出来事は存在しません。私たちがマイナスだと捉えることで、マイナスであるように体験されてしまうだけです。プラスだと捉えると、プラスであるように体験されます。私たちは現実をどのように体験するかという領域において、自由と責任をもっているのです。
 

怒りを理解する

 もしも、自分が怒りから自由になれない、あるいは相手が怒りから自由になれないなら、怒りの原因を探っていく作業が役立つかもしれません。

 怒りはいくつかの仕組みを通って、最後に現れて来るもので、その前にはいろいろな要素があります。そして、怒りを生んでいるものに気づくことで、怒りを別のものに変えることができる、というお話をしたいと思います。 

怒りは「満たされない欲求」に「攻撃する思考」が加わってできあがります

 怒っているということは、尊重されたいのにされない、平等に扱われたいのに扱われない、理解されたいのに理解されない、協力してほしいのにしてもらえないなど、何らかの欲求が満たされていないということです。

 また、自分の欲求を満たしてくれない相手に怒りを感じるとき、相手を攻撃する思考をもっています。たとえば、相手はバカだ、相手は自己中心的だ、相手は無礼者だなどです。 

 私たちの中に満たされない欲求があり、それを満たそうとして、相手を攻撃するような思考を使うとき、怒りになるわけです。

 ですから、なかなか自由になれない怒りがあるならば、自分は何を欲しているのかをまず理解し、それから相手をどのように攻撃するような思考をもっているかを理解すれば、自己認識が深まります。

 見えていなかった心の中が見えるということは、これまで無意識だったため縛られていたものに対して、新しい選択ができる自由が生まれるということなのです。

 つまり、自分が欲しいものが分からなかったけれど、今はっきりと理解できた。また、その欲しいものを得るために使っていた手段に自覚がなかったけれど、今自覚した。得たいものを得るために、この手段を使いたいかどうか、吟味できる状態になったという訳です。

 欲求と思考という2つの要素を認識するだけで、怒りが解けていく場合は、これで十分です。これでも怒りが解けない場合のために、さらに細かく探求する方法については後半でお話しします。

先生に M 大学を勧められたことで怒っている高校生の A くん

 高校生の A くんは、担任の先生に怒っています。「お前は M 大学に行ったらいいんじゃないか」と言われたのがイヤでした。それからずっと先生にムカついていて、気持ちが晴れません。

 どういう欲求が満たされていないのかと自問すると、「自分の気持ちを尊重してほしかった」と出てきました。そう、A くんは、先生の言い方が、自分の意志を尊重してくれていないように感じていたのです。

 次に、自分が先生をどのように捉えているかと自問すると、「先生は自分の都合のいいようにしか考えていない」と出ました。「自分の都合しか考えていない」先生に対して、攻撃的な思考をもつことで、自分の欲求を満たそうとしていることが見えてきました。

 攻撃的な思考が意識化された瞬間、怒りは悲しみに変わりました。尊重されていないという気持ちが、悲しみとして現れてきたのです。

 怒りは二次的感情だと言われます。つまり、満たされない一次的感情があって、それを満たそうとして攻撃に出るときに生まれるのが怒りだということです。一次的感情は悲しみや不安や自己否定感や絶望感などで、怒りよりも深いところにあります。この一次的感情に触れることによって、心理的解決に近づいているのです。

最初の状態:先生に対するどうしようもない怒り
次の状態:自分は自分の意志を尊重してほしかったのだという気づき
先生は先生の都合しか考えていないと思って攻撃しているのだという気づき 
次の状態:自分の意志を尊重されない悲しみに触れている 

相手にしてほしいこととその妥当性を吟味する

 A くんは先生の言動に対して不満を感じています。その不満に対して、どのように対処したらいいのかを吟味していきます。 

 まず、先生にはどのようにしてほしかったかを問います。先生がどのような言動をしたら、自分は満たされていたかを吟味することで、自己認識を深めるのです。

 すると、「A くんは A くんの考えがあるだろうから、あくまで私の意見だけれど、M 大学がいいんじゃないかと思う」と言ってくれたら、満足だったという答えが出ました。

 では次に、先生に自分の気持ちを伝えることで、自分の欲求が満たせるような関係へと改善していきたいかと自問します。

 答えはイエスでした。そこで、何をどのように伝えたらいいかを考えます。 

 先生の言動に対してどう感じたか、どうしてほしかったのか、それは自分にはどのような欲求があるからなのかをプラスのことばで表現します。このときに、先生を攻撃する思考や怒りを使わないことが重要です。

 「先生はこの前、『お前は M 大学に行ったらいいんじゃないか』と僕に言いましたが、そのとき、僕は自分の意志を尊重されていない感じがして悲しかったです。『お前にはお前の考えがあるだろうから、これはあくまでも先生の意見だけど』と言ってくれていたら、先生の意見として気持ちよく受け取ることができたと思います。」と伝えるのです。

 さて、このように伝えることで、先生が理解してくれれば、問題は解決します。しかし、先生によっては、「私はあなたの意志を尊重していないわけではないよ」と反論してくるかもしれません。「そういう風に捉えるお前がおかしい」と非難してくる先生も世の中にはいます。

 つまり、相手がこちらの要求に応えてくれない場合があるということです。その場合には、自分が相手に期待していることを吟味することで、自分のほうが変わることで成長するという選択肢があります。相手への依存を手放して、自分が一回り大きくなるのです。

 つまり、この先生が A くんの意志を尊重できない人だった場合を考えてみましょう。現実には起こり得ることです。

 そうすると、A くんの中にある「自分の意志を尊重されたい」という欲求は正当なものですが、それを先生に満たしてもらわなくてはならないと期待するから苦しくなるのだと気づくことが大事です。そして、「では、そういう自分は自分の意志を果たして尊重していたか」と問うのです。

 「先生がどう言おうと、僕は僕の望み通りに志望校を選択すればいいんだ」という気持ちがしっかりしていれば、先生が支配的に推薦してきても、自分の主張を自分で支えている限りには、問題にはなりません。

 自分の意志を尊重する責任を、自分で背負うという決断をすれば、相手からの尊重に依存することから自分を解き放つことができます。この覚悟によって、怒りは消滅します。

怒りは相手への期待が叶わないとき、求め続けるから起こる

 怒りとは、相手に満たしてほしいものがあり、それを相手に求めるから起きています。相手にそれを求め続けることが妥当なのかを考えることも、ときには必要です。

 相手に求めるべきでないことを求めることで、自分を苦しめている場合もあるからです。 

 自己認識を深めるには、「自分は相手にどうしてほしいのか」と問うて、相手に何を期待しているのかを明確にすることが役立ちます。

 「夫に私の話をもっと聞いてほしい」「でもどれだけ頼んでも聞いてくれない」ということであれば、「夫はなぜ私の話を聞こうとしないのか」という原因を理解できるように考えてみることもひとつです。

 私は妻として、もっと心の触れ合う関係を求めているけれど、夫は気が進まないようだ。この夫を理解して、受け入れられるかどうか。受け入れられないなら辛いですよね。

相手が変わらないときに辛いなら、自分に未解決の問題がある

 相手が変わってくれれば自分の欲求は満たせるのだから、相手に変化を求める。しかし、相手は変わらない。こういう場合、辛い原因が、自分の中にあることを疑ってみることは、ときに大切なことです。 

 自分と心の触れ合いを持とうとしない夫を前にして、妻である自分にはどんな感情が浮上してくるか。

 そこには、心の古い傷があるのかもしれません。自分の親ともつながることができなかったという痛みが癒されたがっているのかもしれません。

 周囲の人間が自分の思い通りにならずに苦しくなるときには、ほぼ確実に、自分の中に癒されるべきものがあります。

 ここまで気づいた人は、深層心理と向き合って、心の重荷を解決していく作業をすることが大事です。これまでずっと蓋をしてきたものに、きちんと向き合って、対処することが求められているのです。
 

自分には苦にならないこと

 私は、その人の才能って、他の人には苦になるけれど、本人には苦にならないものだと思っています。

 他の人にとってはイヤだと感じることでも、それに向いている人にとっては喜びなのです。それが、その人の本性からくる才能だと思います。

 ということは、自分の才能を発見するひとつの方法は、他の人が嫌がることで、自分には苦にならないことを探すことなのです。

 ところが、自分にとって苦にならないことというのは、自分と違う人と出会うまで、分からないこともあります。というのは、苦にならない本人にとっては、自分ができることは当たり前であり、何とも思っていない可能性があるからです。

 たとえば、私は車を運転するのが好きですが、車を運転するのがイヤな人に出会って初めて、「へえ、車を運転するのが好きだというのは、当たり前のことじゃないんだ」と気づかされました。 

 あと、私は子供のころから外国人と話がしたくてしたくてうずうずしていたんです。英語がしゃべられるようになって、いろんな国の人と話ができる将来を想像しただけでワクワクしていたわけです。でも、外国人と話したいなんてちっとも思っていない人も世の中にいるんだということに気づきました。これも自分の発見になったわけです。

 反対に、他の人にとっては苦ではないけれども、私にとっては苦だということもたくさんあります。私はとても病院では働けないし、コックさんにもなれないし、ヘアスタイリストにもなれないし、肉体労働もイヤです。向いていません。だから、こういうことを苦にせずできる人たちは、すごいなあと思うのです。

 私が今している心理カウンセラーという仕事は、これまで私がやってきたどの仕事よりも自分に向いていると感じています。多くの人にとって、他人の悩みを何時間も聞き続けるということは、苦痛なのだろうと思います。ところが、私には苦にならないのです。

 心理学を学ぶのも、心理療法をいろいろと学ぶのも、カウンセラーとしての腕を上げていく作業も、自分には苦になりません。やり甲斐があります。

 他の人にとっては苦だけれど、あなたにとって苦にならないものとは、何ですか?

 それはきっと、当たり前のものではないと思います。

 

自分を受け止める包容力

 心理的に成熟するとは、自分を受け止める包容力が育つということではないかと思います。

 自分は何ら価値のないダメな存在だと捉えている人は、自分を受け止められていません。心理的に未成熟です。

 自分に自信がなく、「自分が誰々のようだったらなあ」と空想するような状態であれば、まだ成熟していません。 

 成熟とは、変えることのできない自分のあるがままを受け止めて、そのプラス面を発揮できるように自分を導いていけることではないでしょうか。自分のもっているものを嘆いている段階では、自分の宝は持ち腐れです。

 「醜いアヒルの子」なのです。

 自分を受け止めるには、自分の良さを知り理解しなくてはなりません。自分が自分の最善の理解者になれていないなら、他者から理解され承認されることを強迫的に求めます。

 自分で自分を認められないので、その仕事を誰かにやってもらおうとする。これが甘えであり依存です。

 そう、未成熟とは、自分の幸せを他者に依存することです。成熟するにつれて、心理的に自立していきます。心理的自立とは、人のせいにしないということです。

 人から愛を求める前に、自分は自分を愛しているのかを問うことです。

 人から理解されようとする前に、自分は自分を理解しているのかを問うことです。

 人から守られようとする前に、自分は自分を守っているのかを問うことです。

 人から援助されようとする前に、自分は自分を助けているのかを問うことです。

 自分を受け止める包容力を養った人は、相手を受け止めることもできます。

 自分を受け止められずに、相手に受け止めてもらうことを求める人は、相手を受け止める度量がありません。自分は未熟のままで留まりながら、保護され続けようとします。成長することを拒んでいる、か弱い善人として生きようとしているのです。

 あるいは、自分の未成熟さや弱さを認めず、強がって攻撃的に生きる人もまた、成長に失敗します。周囲を自分の好みに合わせてコントロールしようとすることで、自分を満たそうとするのですが、これは相手への敵意なので、周囲から嫌がられます。

 強がっている人、虚勢を張る人は、抑圧された不安を抱えています。この不安に向き合わなくては、この人は成長できません。自分を包容できていない部分があり、そこから目を背けている限りは、自己中心性を脱却することができないわけです。

 私たちの多くは、両親から得られなかった愛によって生じた苦しみを抑圧しています。苦しんだ子供のころの自分を受け止める包容力をもつことで、両親から得られなかった愛を自分自身で与えることができます。

 このプロセスを経た人は、幼少期の環境が許さなかった心の健全な育成を、大人になってから取り戻すことができます。

 子供のころ抑えつけるしかできなかった自分を救い出すことによって、大きく成長することができるのです。

 苦しんだ子供のころの自分を救い出す作業を終えた人は、自分に対しても相手に対しても、以前にまして優しくなることができます。心が癒され、成長したのです。
 

「心の姿勢」は常に選べる

 私たちはどんな状況にあっても、どのような姿勢で臨むかということは完全に自由です。

 どんなに苦しい状況にあっても、どんなに混乱していたとしても、その状況に対してどんな「心の姿勢」をもって臨むか、ということは誰にも強制されません。自分だけが選べるのです。

 たとえば、職場の上司が私に嫌がらせをしてきた。どうしようか。

 上司を恨んで、苦しませてやる機会だと捉えれば、「復讐の姿勢」で臨みます。

 嫌がらせをやめてもらうように主張し、上司本人が聞く耳を持たない場合には、さらにトップへ訴えることで、自分が必要としている「人として尊重されること」を実現できる機会だと捉えれば、「改善の姿勢」で臨みます。

 自分が必要としている行動がとれずに、泣き寝入りをしてしまうなら、「被害者の姿勢」で耐えることを選択しています。

 マイナスの「心の姿勢」を選ぶ習慣の強い人は、その「姿勢」を自分で選んでいるということに気づいていないことが多いものです。他の選択肢があるということを知らないのです。

 「被害者の姿勢」に慣れている人は、様々な状況で同じような「姿勢」をとってしまいます。

 「復讐の姿勢」に慣れている人は、その「姿勢」を無意識でとってしまいます。 

 「姿勢」を選択するとは、「意図」を明確にするということでもあります。

 つまり、この状況で、「何を目的地と設定して動くのか?」ということです。

 目指すのは復讐なのか、何もしなくてよい安全なのか、解決することでより拡大した幸せを手にすることなのか。この「意図」は、他のいかなる条件にも頼らずに、決定することのできるものです。

 ここに、ひとりひとりの自由意志があります。

 つまり、「復讐」や「被害者であること」を選ぼうと決めた人には、周囲の人間がお節介を焼いても、幸せになるための学びへと導くことができません。その人の意志にはそれだけの重みがあります。逆に言えば、幸せを選ぶか選ばないかは、最終的にはその人に委ねられているのです。

 私はカウンセリングにおいて、「意図」(つまり「姿勢」)を明確にしてもらうことを大事にしています。

 上司に嫌がらせをされているという状況にあるクライアントであれば、「あなたはこのような状況にあって、カウンセリングから何を望みますか?カウンセリングが成功した暁には、どうなっていることを目標として設定しますか?」と尋ねるのです。

 目的地がはっきりしなければ、カウンセラーは目的地へと導くことはできません。勉強したくない生徒に勉強させることができないように、状況から学びたくないクライアントに、学ばせることはできないのです。

 カウンセリングを申し込む人の中には、問題を解決したいという意志がなく、ただ愚痴を言ってガス抜きをしたいだけ、という方もいます。ただ話を聞いてもらうことで、注意を向けてほしい、ただそれだけのために来られます。そうすると、何度カウンセリングを受けても、状況は改善されないということが起こります。

 ですから、「心の姿勢」を問うことにしています。

 「心の姿勢」を明確にできない人は、このように対峙されることで、自分の中に「被害者であり続けたい」という無意識の気持ちがあることに気づいたり、「怒りを手放したら、自分が無くなってしまう」という無意識の恐怖があることに気づいたりできることがあります。

 長らく解決しない状況にいらっしゃる方は、「自分は本当に何を望んでいるのか?」「何を目指して解決していきたいと思っているのか?」と自問して、目指すゴールを本心から決めることをお勧めします。

 そこへ到達できるかどうかは考えなくてもいい。どのようにして辿り着けるのかという方法は考えなくてもいい。その前に、何を目指したいのか、という1つのことだけをはっきりとさせる。このことが、全てを方向付けます。

 この1点をあやふやにしたままでは、全てのことが方向を失います。それはちょうど、目指す港を決めないで太平洋の真ん中で座礁しているようなものです。助けようがありません。

 クライアントが「私はサンフランシスコへ行きたい」と言うから、カウンセラーはサンフランシスコを目指して寄り添って支援できます。

 クライアントが「私は神戸へ行きたい」と言うから、カウンセラーは神戸を目指して寄り添って支援できます。

 でも、クライアントに行き先がなければ、カウンセラーは支援することができません。行き先を明確にすることのお手伝いから始めなくてはならないのです。

 カウンセラーはクライアントに代わって、意志を働かせることはできません。意志の働きは、クライアントが自分で決めなくてはならないのです。

プラス思考の長所と短所

 物事をマイナスに捉えずに、できるだけプラスを見るようにするというのは、一般的に言って素晴らしいことです。

 失敗したときに、「僕はダメな人間なんだ」などと悲観的に捉えずに、「ここから学んで次に繋げていけるさ」と楽観的に見ることができれば、それだけで気持ちが楽になって前に進めます。

 マイナス思考に陥りやすい人が、プラス思考を心がけることは、自分らしく幸せに生きるためには大切なことであり、大賛成です。 

 しかし、プラス思考には短所もあり、どんな場合にでもプラス思考が役立つわけではありません。

 そこで、ここからは、プラス思考がどういう場合に有効で、どういう場合には別の方法が必要なのか、というお話をしたいと思います。

 まず、私たちの意識は、「意識」と「無意識」から成っていることを理解する必要があります。別のことばで言えば、「顕在意識」と「潜在意識」です。「表に出ている意識」と「裏に隠れている意識」という意味です。

 ここでは、「顕在意識」と「潜在意識」という言い方で統一することにします。

 「プラス思考」をしようと私たちが思うとき、「顕在意識」をプラス化します。そして、それが「潜在意識」の欲求に調和しているとき、その「プラス思考」は有効です。なぜなら、意識の奥からの流れを実現するような形で、表の意識が協力しているからです。

 あらゆる人は、「潜在意識」の根底では、自分らしい人生を成就したいと思っています。そして、「失敗したから僕はダメな人間だ」と思うよりも、「次に繋げればいいさ」と思うほうが、「潜在意識」の望みに合致しているので、心地よいと感じるし、また前に進めるのです。

 このように、「潜在意識」と「顕在意識」が調和しているなら、「プラス思考」は有効だと言えます。

 問題は、「潜在意識」に苦しみのパターンがあり、それを乗り越えるためには、そのマイナスが表に出てくることを許されなくてはならない場合です。

 たとえば、「潜在意識」に自己否定のパターンが根深くあるような場合、「顕在意識」で一生懸命「自己肯定」しようとしても、結局は「潜在意識」の自己否定のパターンが変わらないために、表面的に心地よくなっているだけに終わる場合があるのです。

 つまり、「潜在意識」のマイナスを抑圧するような形で「プラス思考」を使うと、マイナスが浄化されることを妨げてしまうのです。

 ですから、「潜在意識」が浄化を必要としている場合には、いったん奥から出てくるマイナスの気持ちを全部吐き出してあげることがとても大切です。「プラス思考」によって、マイナスが出ないようにすると、治るものも治らなくなってしまいます。

 「潜在意識」を抑え込むために「プラス思考」を使うなら、「潜在意識」と「顕在意識」は調和していません。分裂してしまっているのです。ですから、その「プラス思考」はしっくり来ないはずです。

 「プラス思考」がしっくり来る場合には、心の底からその「プラス思考」を喜べるはずです。無理がないと感じます。

 本当は寂しいのに、表面上は明るく振る舞っている人がいますよね。この人のように、表面だけ「プラス思考」にしようと意志力を使っているだけの場合には、ちぐはぐな感じがあるのです。

 「プラス思考」にしようと努力するけれど、どうしてもマイナスに戻ってしまうという場合には、「潜在意識」が浄化される必要があるのではないかと問うてみることをお勧めします。
 

好き嫌いと愛はどう違うか

 私は愛というものを知りたいと思っている生徒です。愛を知り尽くしたわけではありません。ただ、愛に興味があり、わかりたいと思っています。

 私たちは「何か(誰か)が好きだ」と感じるとき、「愛している」と言うのですが、「好きだ」と「愛している」はイコールなのでしょうか。

 「好き嫌い」と「愛」とは実際どんなことなのか、ご一緒に考えてみたいと思います。

「好き嫌い」とは自分の欲求に合う合わない

 「好きな食べ物」はその人の味覚に合うもので、「嫌いな食べ物」は合わないものです。

 「好きな映画」はその人の趣味に合うもので、「嫌いな映画」は合わないものです。

 そして、「好きな人」というのも、自分の何らかの欲求に合う人のことであり、「嫌いな人」とは、合わない人を指すのです。

 つまり、「好き嫌い」とは、「自分が何を欲しているか」に関わっています。自分側のことなのですね。

 私たちは「好きな食べ物」に引かれ、「好きな映画」に引かれ、「好きな人」に引かれますが、それは「自分を満たしてあげるため」なのです。そして、これは「自分への愛」だと言えます。

嫌う子供を受け入れた心理学者

 アメリカのある心理学者の再婚相手は、子供を連れた女性でした。そして、その子供たちの中には、自分を嫌って、どうしても父親と子供という関係になれなかった者もいて、それが大きな学びになったと書いています。

 この心理学者は、自分を嫌うその子を変えようとせず、そのままで受け入れることにしたそうです。そして、それがこの子供に与えられる自分からの愛だと悟ったと言っています。

 私はこのことを読んで、感銘を受けました。それまでの私は、愛があるなら、お互いに仲良くなるべきだと信じていました。子供が自分を嫌っているなら、それを解決して、心を開いてもらうように働きかける。自分が子供を嫌いなら、それに取り組むのが愛だと思っていました。

 しかし、現実には、私たち人間には好き嫌いがあり、どうしても相手を好きになれない場合だってあります。そして、それを受け入れずに、「あらゆる人を好きでなければならない」「あらゆる人から好かれなくてはならない」という理想を掲げて、それに満たない自分や相手を裁いて、苦しんでしまう傾向にあります。

 この心理学者も、この子供が自分を好きであってくれ、自分を慕ってくれたら、それはそれで嬉しかったことと思います。それに比べたら、嫌われて、慕われないという経験は、嬉しくはないでしょう。でも、彼は好き嫌いを超えて、あるがままの相手を愛したのです。

 そう、相手を愛するとは、好き嫌いを超えて、あるがままの相手を大事にしたいという気持ちではないかと思います。自分を好きになることができない相手を、そのまま理解して受け止めようと思う。相手に好かれることを要求せずに、そのまま委ねている。そのままで心地よくあってほしいと願う。これは愛だなあと思いました。

「愛」とは「大事にしたい」という気持ち

 「好き」というのは、自分の欲求に合うから求めているということ。たとえば、「美人が好き」というのは、「美人と一緒にいると、自分の美の欲求とか、性の欲求などが満たされるから、自分が心地よい」ということ。だから、「美人と一緒にいたい」と思う。これは、自分を満たすため。

 これは相手への愛ではありませんよね。自分を大事にしているのです。自分を大事にしていけないのではありません。相手を大事にすることとは別だということを言いたいのです。

 相手の女性を愛するということは、この女性の幸せを大事にしたい、この人の気持ちや夢や人生や存在を大事にしたい、ということです。この人が満たされることを願う気持ちです。 

 そうすると、自分が好きだと感じる女性に自分が近寄って、一緒にいたいと伝えたときに、相手が断るとしましょう。相手の欲求には、自分が合わないと判断されたということです。

 相手は自分を好きではない。ということは、自分は相手の欲求を満たさないということです。自分はこの人には嫌われたわけです。このときに、怒ってしまうなら、自分は相手に不可能を要求しています。自分は「オクラ」だけど、相手は「オクラ」は嫌いで「キュウリ」が好きだ。「僕を食べてくれませんか?」と尋ねたら、「私はオクラは嫌いなの」と言われただけです。私は「オクラ」が好きな人を探せばいいだけなのに、この人に「オクラ」を好きであることを強要してもうまくいきません。

 相手への愛がもしあるなら、この人には自分ではダメなのだということを受け入れて、相手が満たされることを願う。そうすれば、自分の望みは叶わなかったけれども、温かい気持ちになります。相手の幸せを願う気持ちがあるなら、それこそが愛です。

 自分が好きだと感じる相手を、相手の気持ちを考慮せずに、ストーカーのように追いかける人がいます。この人には相手への愛はありません。自分が可愛いだけです。執着しているだけです。

 ストーカーがやっていることは「欲しい、欲しい、欲しい」と叫んでいることです。「あなたを大事にしたい」ではありませんよね。

 「欲しい」が「好き」ということ。「大事にしたい」が「愛」です。

何かを愛するためには、好きである必要はない

 私たちは好きでない人や物に対しても、その存在を認め、自分の能力の限り理解し、その幸せを願うことはできます。

 たとえば、私にはどうしても楽しめない A というジャンルの音楽があります。好きになれないのです。でも、A を好きな人は日本にたくさんいます。ですから、A がテレビで流れると、私はチャンネルを変えますが、他の人にとってこの音楽が多くの喜びをもたらしてくれていることを知っていますので、その存在価値を認めています。

 私は聞かないようにしていますが、そこから私が離れることで、好きな人たちがそれによって幸せを感じていることを、遠くから見守っています。

 ということで、私が A という音楽が好きではないと言うとき、A を憎悪しているのとは違うわけです。私なりに A を愛している、尊重しているのだと思っています。

 愛して尊重しているからこそ、私は A から離れているのです。お互いに邪魔にならないように生きているのです。

 「A なんて聞くのはおかしいよ」などと言って、自己防衛をしようとは思いません。「A は私の求めるものとは違うので、私に合わないだけだ」と理解しているのです。

 別れた恋人同士や夫婦同士であっても、お互いの欲求に満たない部分があったことを理解して、相手の幸せを願っているなら、そこには執着ではない愛が生きています。

 そして、愛というのは、物理的に一緒にいるかいないか、ということとは必ずしも一致しません。心の中の問題なのです。
 
心が満たされると相手を大事にできる

 自分の欲求が満たされていて、心が満足している人には、心理的に余裕があります。そうすると、満たされた心は優しいので、相手を大事にできます。

 自分への愛が満たされている人は、相手を愛することができる。つまり、自分を大事にできているから心が満たされている人は、相手を大事にできる余裕があるということです。

 自分の欲求が満たされていなくて、心が満足していない人は、相手に対して「欲しい、欲しい、欲しい」のスタンスだけで関わります。「好き、好き、好き」の一方通行です。「恨み」や「妬み」や「甘え」という形で表されることもあります。

 情緒的成熟度が高い人は、自分に正直に生き、自分を満たせているので、相手をも大事にできます。それに対して、情緒的未成熟な人は、まだ自分が満たされていませんから、相手から一方的に求めるのです。

 自分が満たされていない人は、自分を満たせるようになることが大事です。そうすると、自分の愛が自然に周囲へ広がっていきます。
 
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