菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2014年05月

「抑制型」vs.「非抑制型」

 人間を観察していますと、「抑制型」の人と「非抑制型」の人がいるようです。もちろん、これは白か黒かという二者択一の話ではなく、どちらが優性かということだろうと思います。中間の人もいるでしょう。

 「抑制型」というのは、同じ刺激に対して強く反応する「高反応」であるため、比較的低い刺激の環境を心地よいと感じます。大勢のパーティーより、少人数の親密な会話を楽しみます。「内向的」と言っても同じことです。

 「非抑制型」というのは、同じ刺激に対してそれほど強い反応をしない「低反応」であるため、比較的高い刺激の環境を心地よいと感じます。大勢のパーティーなどを好みます。高い活動レベルが好きです。「外向的」と言っても同じです。

 ここからは、私の個人的観察を述べたいと思います。

 「抑制型」は交感神経が優位で、「非抑制型」は副交感神経が優位だと言われています。これはどういうことかと言いますと、「抑制型」は同じ刺激に対して緊張しやすく、「非抑制型」はリラックスしていられるということです。

 たとえば、何か怖いことが起きたとき、「非抑制型」は「きゃ〜っ!」と大声で叫ぶことができますが、私のような「抑制型」は怖いと体が凍ってしまって、むしろ声が出なくなります。つまり絶句して沈黙してしまいます。だから、怖くないのかなと勘違いされやすいです。

 お酒を飲むと、ぱあっと顔が赤くなる人がいるかと思うと、顔に出ない人、あるいは青くなってしまう人がいます。赤くなるということは、血管が膨張している、つまり副交感神経が優位になっているということですが、私などはかなり飲まないと赤くなりません。つまり、お酒を飲んでもある程度緊張し続けているわけです。

 それから、辛いものを食べるのが好きな人がいます。私などは、少しでも辛いと、からだから大量の汗が出てきます。スパイスに敏感なので、激辛のものなど食べられません。マイルドな味が最も心地よいと感じます。激辛を楽しめる人は、それだけ刺激が強くても大丈夫だということですので、体がタフだということです。別の言い方をすると、「低反応」だということです。

 私たちにはすべて、自分にとって心地よい刺激の度合いというものがあり、それが低い人もいれば高い人もいます。敏感な人と鈍感な人が一緒に住んでいるのがこの世界だということです。

 「高反応」(敏感さ・繊細さ)には長所もあれば短所もある。また「低反応」(鈍感さ・タフさ)にも両方あります。 

 親子関係、夫婦関係、友人関係において、この両者の違いが理解され尊重されると素晴らしいと思います。

 「非抑制型」の典型というと、私は千原せいじさんを思い出します。私はテレビで彼を見るのが結構好きなのですが、それは自分とは真逆だから興味深いのだと思います。

 たとえば、彼はアフリカへ何度も行って、見知らぬ人にも堂々と話しかけ、ある意味図々しく色んな事を頼んだりするし、見知らぬ環境でもすっと入っていてあまりストレスを感じていないように見えます。あのタフさは驚嘆に値します!

 私が同じことをしようとしたら、ものすごく気を遣います。それから、アフリカの見知らぬ環境にいるだけで、かなり疲労するだろうと思います。変化の大きさから、心地よい以上の刺激レベルにすぐに達してしまって、たくさんの休養を必要とするでしょう。 

 変化の大きさに対応したり、見知らぬ環境で自分を主張したりと言った面では、「低反応」で「外向的」な人のほうが対処能力は高くなります。私が苦手とするところです。

 しかし、反対に、千原せいじさんは、私のやっている仕事はできないだろうと思います。何時間も屋内で人の内面に向き合って、悩みを聞いて共感し、その解決策を一緒に考えるというような作業は、耐え難いと感じるでしょう。「そんなもん、こうすればええんちゃうか」と解決策を出してお終いにしてしまいたい衝動に駆られるだろうと思います。

 私は彼が容易に耐えられることでも耐えられない代わりに、彼が容易に耐えられないことを私は耐えられるのです。

 私は刺激の強いところでは疲労して楽しめない。彼のような人は刺激の強い環境で強い。その代わり、刺激の弱いところでは彼は退屈してしまう。私は刺激の弱いところでも、その妙を楽しむことができる。ちょっとしたスパイスでも楽しむことができるのです。

 ですから、どちらが良いということではありません。それぞれが、お互いに持っていないものを持っていることによって、補い合う関係であるということです。

 どの動物にも「抑制型」と「非抑制型」があると言います。魚でも、網が降ろされるとパッと入っていくものもあれば、用心して慎重に待っているものもあるそうです。生き残り、繁栄するためには、両方が必要なのだろうと思います。

「内向的」もよし「外向的」もよし

 5月5日のテレフォン人生相談で、双子のお子さんをもつ母親が、「内向的」な方の子について心配されていました。

 この母親には、「外向的」で元気な子が好ましくて、「内向的」な子は問題だという捉え方がありましたが、回答者の説明を聞いて、「内向的」な子は「内向的」なままでよいのだと納得されたようでした。 

 「内向的」な子は、芯の強い子になっていくという良さがある、という解説に感銘を受けました。また、親が「外向的」と「内向的」の両方を認めていれば問題にはならないけれど、一方をダメだと思っていると、その子には劣等感が生まれてしまうという指摘もありました。

 私は「内向的」な人間ですが、「内向的」なところを認めてくれない「外向的」な母に育てられたことが、大変辛かった体験をもっています。

 姪は「内向的」なのですが、小さい頃、私の母が何とか「外向的」にしようと働きかけたのを、私がやめさせたことがあります。私にとっての姪は、そのままで素晴らしい愛らしい存在でしたが、母がそう感じていないことは明らかでした。母から姪への否定を少しでも食い止めることができて良かったと思います。

 ユングは性格を16タイプに分類しましたが、「外向的」と「内向的」は半々です。そして、「内向的」な人間というものがちゃんと認められています。「内向的」な人には、「外向的」な人とは違う資質があり、それは世の中にとっても有益なものなのだろうと思います。

 心理学者のジェローム・ケーガンも、幼児の研究で、刺激に対して「高反応」のタイプと「低反応」のタイプがいると言っています。敏感な「高反応」のタイプは、大きくなると「内向的」(慎重で思慮深い)になり、「低反応」のタイプは、大きくなると「外向的」(大らかで自信家)になるという結果になったそうです。

 「高反応」と「低反応」の違いは、扁桃体が刺激に対して興奮しやすいかしにくいかで決まるものらしいです。「高反応」、つまり扁桃体が興奮しやすい人は、敏感な体質だということです。ですから、「低反応」の人よりも、変化や刺激の多い環境で自分をさらけ出して生きることが難しい。その代わり、少人数と深く親密な関わりができたり、心理の機微にも敏感であったり、深く物事を考えることができたりという長所もあるわけです。

 「内向的」な人たちが劣等感をもたずに、「外向的」な人とは違う生き方をすることで、「内向的」な人ならではの貢献ができると幸せですね。


推薦ウェブページ

スーザン・ケイン、TED トーク『内向的な人が秘めている力』
http://digitalcast.jp/v/12275/


推薦図書

スーザン・ケイン『内向型人間の時代』(講談社)
 

失敗や苦悩や不幸からプラスが生まれる

 ひとつだけ人に伝えたいことがあるとすれば、それは何だろう?

 このように自問して出てきた答えは、「失敗や苦悩や不幸からプラスが生まれるんだよ」ということでした。

 そう、悩み苦しみは永遠には続きません。そして、それがあったからこそ生まれる智慧や愛というものがあります。プラスの意味に転換されない失敗や苦悩や不幸というものはないのです。

 そして、私がやっているカウンセリングという仕事は、まさに、クライアントひとりひとりが自分の失敗や苦悩や不幸をプラスに転換する作業を手伝うことだと思っています。 

 マイナスをプラスに転ずる方法を実践して見せることが、私の仕事の大切な部分です。

 エジソンは999回の失敗の後、1000回目に電球を作ることに成功したと言われます。999回の失敗は、「このようにしても良い電球はできない」という999通りのレシピを知り尽くすために有益でした。「このようにしてはうまくいかない」という膨大な体験の蓄積があったからこそ、「このようにすればうまくいく」が手に入ったのです。

 ですから、あらゆる失敗は、そこから学んで前に進めばいいのです。前に進めなくなるほど、失敗を自己否定に結びつけるという「失敗」をしなければ、前に進めるのです。自己否定も「失敗」の1つです。

 私もいろいろな自己否定を体験し、その後、自己否定をしなくてもいいように徐々に変わっていきました。自己否定をたくさん経験したから、自己否定をしなくてもよい智慧が手に入ったのです。ですから、自己否定の苦しみを知っていることは、大変役に立っています。自己否定を経験したことがない自分であれば、自己否定に苦しむクライアントの力にはなれないでしょう。

 では、苦悩はどうでしょうか。

 人に暴言を吐かれたり、笑われたり、誤解されたり、うまく自己主張ができなかったりして苦悩したことが私にもたくさんあります。では、そういう体験は起こらなかったほうがよかったかというと、そうではありません。

 そのように扱われる辛さを知っているからこそ、どうやったらそのような辛さを乗り越えられるのかを一生懸命に考えました。暴力を使う人の心理を理解したり、自己主張ができない恐怖心を理解したりして、もっと自分が心地よく生きるためには、どうすればいいのか、どのように考え方をもっていけばいいのか、自分をどう理解してあげたらいいのか、ということについて多くの洞察を得ることができました。

 そして、徐々に苦悩から自分を救うことができました。この体験があるからこそ、同じことで苦しむ人の支援ができるわけです。問題を抱えたこの世に住みながら、少しでも良いところにするために、自分の経験が生きています。苦悩に倒れそうになりながらも、乗り越えて、苦悩に応えられる人に少しずつ成長してきました。

 苦悩に向き合い、乗り越えようとしている人、まさに智慧と愛を深めんとして自分に取り組んでいる人に寄り添って支援することは、私の深い喜びです。長年のマイナスの心をプラスに転ずる神聖な作業をされるひとりひとりを見ていると、深い感動があります。私の生に与えられた深い意義を感じます。

 私にとって一時期は、「バイセクシュアルであること」「エネルギーに敏感であること」「内向的であること」などは不幸だと思われました。自分が「ヘテロセクシュアル」だったらなあ。自分がもっと「タフ」だったらなあ。自分がもっと「外向的な人間」だったらなあ。などと、運命を嘆きました。

 しかし、運命を嘆いていると苦しいだけでした。自分のあるがままを否定するというのも、ひとつの失敗でしたが、乗り越えられない失敗ではありませんでした。自分を受け入れて、理解する作業をひとつひとつ積み重ねました。

 そうすると、「バイセクシュアルであること」「エネルギーに敏感であること」「内向的であること」の良さに気づくようになりました。そういう自分でいいのだ、そういう自分でいるのもなかなかいいものだ、と思うようになったのです。

 運命を受け入れると、不幸が不幸でなくなりました。「バイセクシュアル」だからこそできることがあるし、生きられる人生がある。「エネルギーに敏感」だからこそできることがあるし、生きられる人生がある。「内向的である」からこそできることがあるし、生きられる人生がある、と分かりました。

 これらの経験から私が学んだことは、失敗や苦悩や不幸というものは、すべてプラスに転ずることのできる宝であるということです。

 苦しいのは、プラスに転ずることがまだできていない状態であることを意味するに過ぎません。もがくことによって、何とかプラスに転ずる道を探しているのです。

 プラスに転ずることができずにもがくという過程が、時には何十年とかかることがあります。たとえば、私は母を25年間恨んでいました。しかし、それにもちゃんと終わりが来ました。乗り越えるときが来ました。

 永遠に続く失敗や苦悩や不幸はありません。これは何という恵みでしょうか。 

 ただ、何十年もかかったのは、取り組み方を知らなかったからでした。取り組み方を教えてくれる人に出会うまでに25年かかったということです。

 取り組み方をちゃんと学べば、時間はもっと短縮できるでしょう。
 

「外発的報酬」vs.「内発的報酬」

 単純作業の仕事については、賃金など「外発的報酬」の条件が上がったほうがやる気が出て、成果も出るのに対して、創造性を必要とする仕事については、「外発的報酬」で釣ると返ってやる気が失せて、成果は下がると言います。

 つまり、「飴とムチ」によって労働者に働く意欲を湧かせるという方策は、単純作業にしか通用せず、現在の大部分の職業における成果のためには、「内発的報酬」が最も必要だということです。

 「内発的報酬」というのは、その本人の中に「それを成し遂げたいという動機があって、それが達成されること自体に喜びと満足があること」を指します。

 私たちは本当にやりたいと自ら思っていることをやっているとき、「内発的報酬」に従って動いています。それに対して、本当はやりたくないことだけど、それをやることでお金や名誉や承認が得られるからやっているという場合、「外発的報酬」を求めているということです。

 「外発的報酬」を動機にしている場合、その活動自体に喜びを感じているわけではありません。それをすることで得られる報酬は、外からやってきます。それに対して、「内発的報酬」を動機にしている場合、その活動自体に喜びを感じていて、それができることによって満たされる心が自分にあるということです。

 古い世界秩序の中では、仕事というものはやりたくないことを我慢してやって、その代わりに賃金をもらう。だから、趣味とか余暇は別に必要であって、そこでは楽しみを追求できる、という二分された生活様式があります。

 ところが、これからの新しい世界秩序の中では、現在ほんの一部の人しか実現していないような生活様式が主流になってくるだろうと思います。つまり、仕事を含めて、あらゆることを「内発的報酬」を求めて行うように生きているという人が多数派になる世界へと移行していくだろうということです。

 天外伺朗氏が言うように、「内発的報酬」に従って生きるということは、意識の深いところで動いている「大河の流れ」(私風に言えば宇宙の進化の動き)からのシグナルに素直に沿って生きることになるので、道がどんどん開けてくるし、宇宙の意志と協力体制のもとで、いろいろなことが実現できてくると思うのです。

 「外発的報酬」に従って生きるというのは、人間の自我のレベルであれこれと思考してゴール設定をしているに過ぎないので、それによって得られる満足というものは、頭の満足でしかありません。心が満ち足りないわけです。

 頭は常識とか周囲の期待とか文化によって規定された考え方などに縛られていますので、そのイメージに合わせて生きることしかできません。「どうするべきか」と問うて生きることからは、心の満足は得られません。しかし、喜びに従って生きると、瞬間瞬間に本当にすべきことになぜか導かれていくわけです。後で振り返ると、「ああ、そういうことになっていたんだ」と見えることがありますが、その時には分からない。理由はさっぱり分からないけれども、感情に突き上がってくる衝動に素直に生きることによって、大きな流れに乗って、いろんな道が開けてくるわけです。

 こういう生き方ができるためには、常識から外れていても勇気をもって、ハートに従って一歩を踏み出すという行動を積み重ねて、宇宙と協同関係をしっかりと体感していく必要があります。

 自己実現をしたいと思う人は、「内発的報酬」を動機としてあらゆることをするんだと決断する必要があります。
 

参考図書

天外伺朗「運命の法則ーー『幸運の女神』と付き合うための15章」(飛鳥新社) 
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