菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

世界中どこからでも、カウンセリングを受けられます。面談(金沢市)・電話・スカイプ・FaceTime 対応。

2014年08月

物事に与える意味によって影響される

 私たちは知らず知らずのうちに、人や物に意味を与えています。「これはなくてはならないもの」「これは素晴らしい人」「これは値打ちの高い性質」など。

 そして、その人や物を見るとき、自分が与えた意味を味わうのですが、その意味がその人や物から来るように感じています。本当は自分が与えた意味なのに、人や物から意味がやってくるように感じてしまうわけで、ここに錯覚が起きています。

 たとえば、A大学に絶対に行きたいと頑張っていた人が、どうしても合格しない。そして絶望する。そのときに、この人がA大学に自分の理想を投影していたことに気づいたとしたらどうでしょう。「A大学だけが、私のやりたいことを与えてくれる理想の場所だ」という風に意味づけしていたことに気づいて、「そう思う必然性はないかもしれない」と思い直すと、希望が出てきたりします。

 恋愛でも、相手を理想化しがちです。「この人こそ私を幸せにしてくれる人」などという意味づけをして、この人を通して自分の欲している理想を手に入れようとします。

 そして、その人と別れることになると、意味を失うかのような体験をします。

 私たちの多くは、相手や物事に投影している意味に無自覚なため、本来自分の中にある意味が、自分から取り去られてしまうかのように錯覚してしまうのです。

 意味というのは形のないエッセンスです。それは特定の形に縛られないものです。

 たとえば、愛というものは、特定の人から得なくても、いろんなところに存在しています。生命のあるところに愛があります。ところが私たちは特定の形の愛を求めてこだわります。だから、欲しい愛が手に入らないという体験をします。

 同じものを見ても、2人として同じ体験をしません。それぞれが違う意味を見ています。自分が投影したものを見ているからです。

 どういう意味を与えるかということにおいて、私たちひとりひとりは自由な選択ができます。

 幸せを選びたいなら、幸せになるような意味づけをすることができます。平安を選びたいなら、平安になるような意味づけをすることができます。

 出来事や物事や人そのものに意味があらかじめあるのではありません。

 私たちは主観的に選択したものを体験するのです。

 ですから、自分の中で起きている映画が苦しいものであるならば、主体的に選択し直すことができます。

 怒りに満ちている人は、知らず知らずのうちに怒るような意味づけをすることが習慣化してしまっているだけです。

 恐怖に満ちている人は、同様に、恐怖を煽るような意味づけをすることが習慣化してしまっているだけです。

 私は元々、恐怖や怒りが結構心にあった人間です。ちょっとしたことで心配になるし、ちょっとしたことでイライラしていました。

 それは出来事や他人のせいではないのだ、自分に選ぶパワーがあるのだと気づいてから、恐怖や怒りが出るたびに、相手のせいにせず、自分のマインドを癒し、教育していきました。

 それには、自分のマインドの反応を観察する時間を何百時間も費やしました。

 「はは〜ん、私のマインドはこういう状況でこういう反応をする癖があるなあ」ということが客観的に見えてくると、次にそれは無意識に自分が選んだことなのだから、選び直せるということも見えてきました。

 恐怖や怒りの反応が、無知に根づいていることが見えました。ありのままを見ているのではなくて、誇大妄想をしていたり、無邪気な思い違いをしていたり、決めつけていたり、つまり真実の目で見ていないことがだんだん分かりました。

 こうやって、自分が無自覚でしていた意味づけや反応に客観的な自覚が入ると、はじめて意味を意識的に選べるようになったというわけです。

 私たち人間の中には、幼子のような無邪気な無知があり、大人から見ればとんでもないと思えるようなことを信じ切ってしまっています。ですから、無知から智慧へ向けての道のりを少しずつ歩むためには、自分の中の「真実ではない見方」を少しずつ知って、変えていく作業が必要です。

 無知な心に気づいて、そこに光を入れて育てていくのは、自分にしかできない作業なのです。

 無意識でやっていたことが意識化されるという過程は、楽しいものです。マインドをよく知って、マスターし、犠牲者ではなく自分が主(あるじ)だという感覚が増してくるからです。

 そう、自分が感じていることは自分が選べるというのはすごいことではありませんか。

 何が起きても、それを受け入れて、自分を大事に育てていく方向で意味づけしていくと決めて生きるのは、とてもパワーが湧いてくるものです。

 好き好んで自己否定をわざわざ選ばなくてもいいのです。

 何があっても自己否定する必要はありません。自己否定はそれを選ぶ人だけが体験するのです。

 苦しい体験が生じたら、それを受け入れて、プラスの意味をそこで見いだしてみましょう。

 それは確かに自分に喜びや救いや平安をもたらしてくれます。そう、自分が選んで自分に贈ってあげたのです。

 体験したくない意味を選ぶのではなく、体験したい意味を選びましょう。
 

愛の源泉

 世の中の多くの人は、神様の愛を味わったことがないと思っているようです。本当は「いのち」そのものが神様なのですけれどね。私の言う「神様」というのは、宇宙の意識のことです。自分の中に感じられる存在としての愛や智恵というものは、この神様から流れ入ってくるもので、私たちは皆神様のいのちの一部だと思うんです。

 「神様」ということばがお好きでなければ、「愛の源泉」が自分の中にあるという言い方でも同じことです。その源泉に意識を向け続ければ、自分の中に愛や智恵が湧いてくるのがわかるでしょう。

 信仰は最終的には何を信じるというより、体験的に何を知り何を行うかということだと思います。自分は何者であるかということを頭で知るというより、体験的に知っていく、これが本来の信仰の道ではないかと思います。

 私のところに来るクライアントの多くは、自分が神様とか宇宙の愛と繋がっていると思っていないようです。神の無条件の愛や仏の無条件の慈悲をからだで味わっている人は、自分がそういう大きな存在の一部であると知っていますし、それに委ねたり、相談したり、慰められたり、導かれたりという日々の交流をもっています。

 私はキリスト教の一神教的な精神的世界も仏教の無や空や慈悲の精神的世界も両方好きな人間ですし、どちらかでなくてはならないとは思いません。その人に合った信仰でいいと思います。しかし、私は無条件の愛の存在としての神様という捉え方にとても惹かれますし、私の体験と一致しています。

 自分が辛かったり寂しかったり悲しかったりする時に、私は心を静め、内側に意識を向けて、無条件の愛と繋がって対話をします。からだの中に温かい愛と平安が流れ入ってきます。愛の存在に包まれ、涙が出ます。これによって私は地上で生きていく中で溜まっていく痛みを溶かしてもらいます。そしてまた、翌日には他の人たちの悩みに耳を傾けることができます。

 カウンセリングにおいて、私は時々魂や神様の話をします。なぜかと言いますと、大きな枠組みで捉えますと、人間の日々の苦悩は、無条件の愛と自分が離れ離れになっているという思いから来ていることが多いからです。つまり、自分が無条件に愛され大事に思われている存在であるということ、自分はその無条件の愛に繋がる存在であるということに目覚めれば、日々の苦悩をどのように受け止めたらいいのかという精神的な中心軸ができるのです。自分は神様の子であり、一時的に学びと奉仕のために人間という形をとってここに生きているということが分かってくると、自分が特別に価値のない存在だとか、私はダメな人間だとか、愛するに値しない人間だなどという、愛から離れた誤解を手放して、日々の課題に向き合うために必要な理解と力を、自分の中の源泉に求めることができるようになるのです。

 「神様と対話する」と言っても、さっぱりどうやっていいか分からないと思う人は多いでしょう。神様を怖い存在だと捉えていたり、自分が神様と話すほど価値のある存在だと思えないなど、神様と心を通わせるのを邪魔する考え方を取り払うことが最も大事です。後は、純粋な子供が親に話しかけるように意識を向けるだけでいいのです。愛する子供が親に話すのに、資格などいるはずがありません。誰でも素直な心で臨めば、心を通じさせることができます。通じさせたいと意志をもつだけでいいのです。

 神様はひとりひとりを我が子として知り尽していらっしゃいますから、あなたを怖がらせるような声で話したり、仰々しい姿で現れることはありません。必ずひとりひとりが受け取りやすい方法でコミュニケートなさいます。ほとんどの場合私などは、ことばで語られるというよりは、温かい気持ちが流れてくるだけのことが多いです。何となくそこにいて下さるのがわかります。

 愛の神様はとても粋な方だと思います。本当は宇宙のすべてを司って、あらゆるものの背後でいのちを支えていらっしゃるにも関わらず、縁の下の力持ちのように、姿を見せて威張ることをなさいません。自分が存在せず、私たちひとりひとりの人間が自分たちだけの力で物事を成し遂げているかのように思わせて下さいます。そして子供である私たちひとりひとりがその存在に自発的に気づき、喜んでくれるのをただ待っておられます。

 これを書いている最中も、私の全身は神様からの愛で温かく包まれ、目には感謝の涙が出ています。

 私は幸いにも自分のいのちの源泉、愛の源泉である神様の存在を知ることができ、神様と交流しながら、また導かれならが人生を送ることができるようになりました。この幸せをまだ知らない多くの兄弟姉妹たちにも知って欲しいと思っています。あなた方ひとりひとりは、無条件の愛を親として生まれた、この上ない価値のある、また魂として永遠のいのちをもった素晴らしい存在です。その真実に気づくことで、この世での滞在が一段と意義深いものとなることは間違いのないことでしょう。

(これは2012年1月に掲載した記事の復刻版です。)

罪悪感のからくり

 罪悪感は人間の心を最も暗く重たくするものの1つです。

 そして、罪悪感は健康な心と幸せな人生にとって全く不要なものです。

 持っていたほうがよい罪悪感などというものは1つもありません。

 罪悪感が見つかったら、すべて手放してしまえばよいのです。

 では、どうして多くの人間は罪悪感を持ち続けるのでしょうか。

 それは、罪悪感を持ち続けることを無意識ながら選んでいるからです。

 罪悪感をもつことは苦しいのに、なぜ選んでしまうかというと、罪悪感をもつことがもたないよりも良いと信じているからなのです。

 つまり、罪悪感をもつことで、何かを得られると信じているわけです。それは、罪悪感をもつことで許されるということかもしれません。

 つまり、自分を責め、叩き、罵倒し、裁くことで、自分は許されるのだと信じているなら、許しを得るために罪悪感をもつというのは理にかなっています。 

 もう1つの可能性として、罪悪感を捨てたら、また同じ過ちを繰り返してしまうのではないか、また苦しい目に遭ってしまうのではないかと怖れている場合も考えられます。

 つまり、危険を避けるため、苦しみを避けるために罪悪感を握りしめているわけです。

 ところが、ここにパラドックス(矛盾)があります。

 許しを得たいので罪悪感をもつのも、苦しみを避けるために罪悪感をもつのも、うまくいかないのです。

 罪悪感をもつことで得られるものは、実は罪悪感を手放すことで得られるのであり、罪悪感をもつことで避けられるものは、実は罪悪感を手放すことで避けられるのです。

 つまり、罪悪感というのは、「俺にお前の10万円を預ければ、泥棒に盗まれなくて済むぞ」と泥棒に言われて、10万円を預けてしまうようなもので、泥棒が届けてくれると約束しているものは、決して届けてはくれないのです。

 この人を信じて10万円を渡してしまうのは無知のせいです。この人が10万円を私から奪いたくて言っていることを見抜く知恵があれば、騙されて苦しむことはありません。

 同様に、罪悪感を信じてしまうのも無知からであり、その正体を知らないからなのです。

 罪悪感をもつことによって、許しも安全も得られず、それらに対して逆に抵抗しています。

 罪悪感がもたらすのは、苦しみ以外の何ものでもありません。

 その事実に気づいたとき、罪悪感の正体を見抜いたことになります。そして、罪悪感を信じ込み、そこに自己投影をして、苦しみの体験を創造し続けるサイクルから自分を解き放つことができるわけです。

 罪悪感から自由になりたいなら、ひとつひとつの罪悪感を持ち続けることで何が得られると信じているのかを吟味し、実際に得られているのかしっかり見極めましょう。

 何の役にも立たないと悟ったら、罪悪感という1つの現象の言うことに、もう耳を傾けることはなくなります。

 真実の目で罪悪感を正しく見たのです。
 

現実と妄想

 私たち人間は現実をそのまま生きているのではなく、現実をイメージ化して、そのイメージを体験しています。

 つまりマインドによって編集されたものを現実だと思って体験するのです。

 この意味において、私たちは自分の体験を創造していると言うわけです。

 私はバイロン・ケイティのワークや論理療法などを学んだとき、精神的苦悩は人間の心が創り出しているものだと分かりました。

 同じ現実が起きても、それについて苦しむか苦しまないかということにおいて、人間には大きな選択の自由があるのですが、その自由を行使できるためには、心がどのようにして苦悩を創り出すかというメカニズムに気づくことが必要です。

 さて、マインドにはいくつかの特徴があります。

 1つには、マインドは何かを理解しよう、把握しようとして、自分なりの枠組みを作るものだという特徴があります。そして、その枠組みは社会から学んだ規範や価値観だったり、過去の体験から導き出した結論だったりします。

 2つ目に、マインドは過去のデータで現在を測ろうとするという特徴があります。既知(知っているもの)を当てはめて、未知(まだ知らないもの)を理解しようとします。

 たとえば、初めて会う人が、一瞬知っている人に見えることがあります。それはマインドが犯した誤認なのですが、誤認した瞬間、その知人と出会ったかのような感情反応が起きます。

 すぐにその知人とは別人だと分かれば、妄想はほんの一瞬で終わりますが、こういった妄想の中には何年も続くものもあります。

 「好かれなくてはならない」という思いは、多くの人が患っている妄想です。

 本当は好かれなくても、たいして問題は生じないのですが、この妄想を信じている人にとって、好かれることは死活問題だと感じられてしまいます。

 「好かれなくてはならない」というのは「イメージ」に過ぎません。そして現実にはそんなことはないのですが、この「イメージ」を信じている人がたくさん集まると、そのような体験をし合うという現象が起きてきます。

 「イメージ」はバーチャルリアリティで、人の内面に生まれるものです。ところが、そこに「自己投影」をすることで、外の世界の現実にさえなっていきます。

 このようにして、「女性は男性のエスコートなしに外出していけない」という社会が実際に存在したり、「男子は生まれたらすぐに割礼をするのが当たり前」という世界も現出しています。

 私たちは皆、幼いうぶなマインドから出発します。未熟なマインドは、見るもの聞くもの何でも信じてしまいます。「お前は馬鹿だ」言われれば信じてしまいます。「女性は男性に従うものなのよ」と言われれば信じてしまいます。

 人類の集合的意識には、数えきれないほどの「イメージ」があります。そして、無批判に受けとってしまう段階から、自覚をもって選ぶ段階へと成長していきます。

 私たち人間はとてもパワフルな存在であり、自分が自己投影した如何なるイメージでも、即座にリアルなものとして体験されてしまいます。たとえば、「私は価値のない存在だ」というイメージに自己投影した瞬間、重たい絶望感が結果として生じてきます。

 何に自己投影するか、そしてその結果を体験するか、ということは、本人のみが決定できることです。

 すべての人間は、その内面において、自分が選んだイメージに従って主観的体験を創造している生き物です。

 自分の中が地獄なら、地獄を選んでいるということです。そして、イヤなら、地獄でないものを「イメージ」するよう選び直せばよいのです。

 苦悩から解放されるためには、ネガティブ妄想への自己投影がストップし、妄想が妄想だと認識できるだけで十分です。苦悩しているときには、妄想が妄想だと認識できていません。妄想が真実だと思い込むという、陶酔状態にあります。

 あらゆる概念とイメージはすべて妄想です。真実ではありません。真実とは概念やイメージを超えたところにあります。概念やイメージは、真実を指し示したりする中間物ではありますが、真実そのものではありません。

 言語もそうです。「犬」ということばは「犬」そのものではありません。「犬」ということばには現実はないのです。「イメージ」であり妄想であり想像の産物です。

 同様に、自分を規定する評価や意見やイメージのどれをとっても、真実ではなく、偽りのストーリーにしか過ぎません。

 真実とはマインドが理解するしない、把握するしないに全く関わらず、頑然とそこに実在しているものです。解釈や評価を必要としていません。

 私たちひとりひとりの存在も、真実と同じです。

 あらゆる自己概念は妄想であり、現実ではありません。自己概念が、自己体験を規定するだけです。

 「ダメ人間」だと信じたら、そのような内的体験が生まれ、「素晴らしいアーティスト」だと信じたら、そのような内的体験が生まれるだけです。 

 妄想への陶酔状態から覚醒することを、スピリチュアル・アウェイクニング(霊的目覚め)と言います。

 概念や思考を超えた実在を知ったのです。
 

感情を直接体験する

 心の健康のために大事なことの1つは、自分の感情を拒絶せず、許すことです。

 どんな感情であれ、感じるままに委ねることです。

 ところが、私たちの多くは、一部の感情に蓋をして、感じないようにして生きています。

 蓋をするとか、感じないようにするということは、感情を拒絶しているということです。

 そして、感情を拒絶するとは、自分を否定しているようなものです。自分の中に感じないようにしているものが多い人ほど、あるがままの自分を拒絶しています。

 拒絶された感情はどうなるかというと、意識の奥底に溜まっていきます。なくなるわけではありません。

 拒絶された古い感情は、ちゃんと受け入れてあげるまで、その人を苦しめ続けます。

 私は自分の中の拒絶された感情にひとつひとつ向き合う過程で、感情を直接体験することを覚えました。直接体験するとは、思考を介さず、そのものに触れることを指します。

 私たちは感情が湧いたとき、それを何とかしたいと思って、あれこれと頭を使って考えてしまうことがあります。ところが、思考を使えば使うほど、感じることのスイッチは切れてしまいます。

 ですから、感情的な苦しみがあるときには、まずはその感情についてあれこれ考えたり反応したりするのではなく、純粋にその感情をからだの中に感じるようにします。

 感情を直接体験するということは、からだに意識を向けることでもあります。感情を体験するのはからだの中でです。感情は概念とは違います。からだの感覚(センセーション)として体験できます。

 ということは、感情を直接体験するとは、実際には、からだの感覚(センセーション)を体験することへの抵抗を捨てることとイコールです。

 思考せず、ただ生じてくるままの感情やからだの感覚を直接体験するということは、からだの奥深くにある意識(無意識)から浮き上がってくるものが何であれ、それを受け入れている状態です。

 あるがままと戦うのを止めて、すべてこの瞬間を受け入れている状態なのです。

 これは、概念としての自分を受け入れるのとは違って、この瞬間の自分のあるがままへの抵抗を捨てて、受け入れている状態とも言えます。

 そうすると、必要なことが自然と起こってきます。

 そのときに、癒される準備が整っている感情は、蓋を外して表に出てきます。

 拒絶したものを癒すためには、そのまま味わうだけでいいのです。

 さて、感情がややこしいのは、信念(ビリーフ)と絡まっているものの場合、感情のエネルギーを直接体験することに加えて、信念を手放す作業も必要だという点です。

 信念というのはフィーリングとか感覚(センセーション)ではなく、思考です。そして、思考を信じ込んでしまっている場合には、感じるだけでは解決できません。その思考に気づいて打破しなくてはなりません。

 感情には純粋な感情(つまりハートの欲求に根ざしたもの)と思考が混ざったものがあります。

 たとえば、愛する人が亡くなって感じる深い悲しみなどは、純粋な感情であり、これは感じることを完全に許してあげれば、時間とともに自然に癒されていくものです。 

 愛する人と別れるときに自然に生じてくるこういった感情は、ただ体験することに身を委ねることができれば、何も問題は生じません。

 ただ、同じ状況で、「この人は亡くなるべきではなかった」とか「この人がいなくなるのは耐えられない」とか「この人が死ぬのは若すぎた」などと思考して動揺するような場合、これらは純粋な感情ではなく、拒絶的思考をすることでその人が生じさせている感情になります。

 自然に発生する純粋な悲しみに加えて、「人工的な」感情をこの人の心が生み出しているわけです。そして、この信念に基づいた感情というものは、その考え方に気づいて手放すまで、なくなりません。純粋な感情と違って、信念に基づいた感情は、時間とともに癒えることはありません。 

 ということで、信念が生んでいる感情を癒したい場合には、まず信念に気づくこと。そして、その信念を論駁するという過程が必要となります。 

 心を癒すという作業は、思考を介さずに直接体験するという部分と、苦しみを生んでいる信念に気づいて手放すという部分の、どちらが今必要なのかを見極めながら進めていくわけです。

 感情というものは体験することが大事であり、体験することによって満たされていきます。それに対して、思考というものは吟味することが大事であり、吟味することによって取捨選択していくものです。

 
アクセスカウンター

    アクセスして頂いたページ数(PV)です。

    QRコード
    QRコード